編集部ブログ作品
2017年9月11日 22:11
真夏に降る雪を連れていく その2
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
高架をくぐると渋谷の駅前にでる。JRをはじめ無数の鉄道が乗り入れ、そのまわりには大きな百貨店や映画館、プラネタリウムが連なる巨大な街。スクランブル交差点には電光掲示板がちかちかと点滅している。そのなかで踊るかわいらしい少女たち。けれどなにかが僕の頭をノックする。奇妙だ。なにかおかしい。息苦しくなる程の違和感を僕は憶える。何故?
「そこを左」
雪の声が僕の耳許にふわりと届く。僕はハンドルを切る。
信号が青に変わる。その瞬間、僕はあっと声を漏らす。先刻の違和感の原因を僕は「発見」する。
渋谷は無人なのだ。
僕は記憶をたどる。「教室」からでると雪がいた。けれどそれから僕は誰をみただろう? 誰もいない教室。誰もいない高速道路。誰もいない渋谷。
「ここからまっすぐ」
雪の導きで、僕たちはバイクで道玄坂を昇っていく。ラブホテルが並んでいる道に雪は僕を連れてゆく。
「ついたよ。ここ。停まって」
雪は道を折れてすぐのラブホテルの前で僕に声をかける。銀のプレートに黒いインクで<ホテル・カフカ>と綴られている。ラブホテルにしてはけばけばしくなく、どちらかといえばシックだった。品のいいビジネスホテルのような佇まいだ。それでも僕は戸惑った。雪は清潔な瞳をしている。バイクから降りた雪はリュックから磁気カードを取り出すと、オートロックのボタンを押し、カードを差し込んだ。
「柊くん、きて」
雪が僕を呼ぶ。真夏の太陽が眩しくて、雪の表情が読めない。
微かな金属音を残して僕の後ろでドアが閉まった。意外におおきなロビーがあり、香りのよい花が青磁の花瓶に活けられていた。雪はフロントに歩み寄った。そこにはひとがいた。雪以外の人間を、目覚めてから初めてみる。それは僕たちのかわらない高校生の少女だった。ただ雪と違うのは、彼女がとてもゴージャスなことだった。長い髪は銀河のように緩やかに流れ、シルクのブラウスの首許には金のネックレスがのぞき、そして爪は深紅のネイルに染められている。雪はかわいらしいが、その少女は美形、といっていい程端正な顔立ちをしていた。
「ああ、雪。そちらの方が例の<彼>?」
彼女は興味深そうに僕をじっとみつめた。長い睫毛に黒いアイラインがなまめかしい。その視線を遮るように雪が「キーをちょうだい」と彼女にいう。彼女は古風な金色のキーを雪に渡す。
「701号室でいい? 最上階だし、広いわよ」
彼女はにっこりほほえむ。花がひらいたような艶やかな笑みだ。雪は無言でエレベーターに向かう。すこしためらいながら、僕は雪のあとに続く。訳がわからない。誰もいない街。雪。<ホテル・カフカ>。ゴージャスなフロント係。
部屋にはいって僕はすこし驚く。部屋は半円形で窓からは渋谷の街どころか東京タワーや新宿の高層ビルまでみることができた。豪華な部屋だった。中央に置かれた天蓋つきベッドにソファセット。テーブルの上には冷えたウェルカムシャンパンまである。
「汗かいたでしょ? シャワー浴びる?」
タイル張りの浴室から雪の声がする。
「なんで? これからセックスでもするの?」
湯気のあがる浴室からでてきた雪のほほが赤く上気する。
「柊くんはそんなこというんだね......」
顔を赤らめたまま雪はソファにすわる。ソファはカッシーナだ。
「あなた、本当に潮崎柊くんなの?」
「本当にって、どういう意味?」
僕はすこしいらっとする。雪がわからなかった。彼女は初対面の男とホテルにくるような少女なのか。清潔そうな白い肌と清い月のような瞳の雪の内側は穢れているのだろうか、と僕は思う。そんな雪を傷つけたくなる。
「君は人違いでもしたんじゃないの? 僕は確かに潮崎柊だけど、君の探している潮崎柊じゃないかもしれない。君の探しびとは、君のしらない何処かの教室でまだ眠っているのかもしれない。君は間違えたんだ。僕が本当の潮崎柊で、君が探している誰かとは違うんだよ」
「あなたが本物の潮崎柊だっていう証明はできるの?」
「証明?」
雪はじっと僕をみつめる。その顔はうさぎのようにあどけない。
「あなたが持っている記憶をひとつでもいい。私に話して。どんな家で生まれて、どんな子ども時代を過ごし、どんな十六年間を送ったか、そのひとつの物語を私に語って」
僕は口を開きかけた。その途端、僕は気づくことになる。僕に記憶がないことに。僕のなかは暗い宇宙だった。ただひとつの星のない、暗い闇だった。僕は動揺する。掌をぐっと握り、そこになにもないことを知る。教室。誰もいない教室。真夏。静かな廊下。蝉の声が響く昇降口。空っぽのロッカー。無人の渋谷。現実のようでリアルじゃない。心臓の鼓動が大きくなる。
「僕は......」
言葉が出てこない。僕は雪をみつめる。
「君は、誰だ? 何故僕のもとにあらわれた?」
雪はふっと表情をやわらげる。八月の底がすうっと透明になる。
「私も、柊くん、あなたとおなじなの」
雪は僕にソファにすわるようにと手招きする。僕は黙ってソファに沈む。雪は続ける。
「私も、なにも記憶がないの。今から九ヶ月前、クリスマスの前の寒い日に、教室で目が覚めた。校門をくぐって外にでた」
さらっと揺れるひたいの髪を掬い、雪は制服のポケットから生徒手帳を取り出した。
「あなたもきっと持っているでしょう? この生徒手帳に名前と誕生日が書いてあった。だから私は真砂雪と名乗っているけど、でもそれが本当の私の名前かはわからない。記憶がないから」
ほのかな橙色の絨毯の上で雪は黒いローファーを脱ぐ。白い靴下に包まれたちいさな足が貝殻のようだ。
「だから潮崎柊くん、あなたが目覚める日を、あなたの十七歳の誕生日を待っていたの。あなたが<解放>され、目覚め、眠っていた教室から抜け出して東京の街に生まれる日を」
「記憶がないはずなのに、何故僕のことを君は知っているの?」
「あなた、有名人だから......」
「僕が?」
雪はスマートフォンをとりだす。「潮崎柊」とタイプすると、ページがひらいた。
<十四歳、少年>
<詔宜(みことのり)>
<実名報道の是非>
<少年の消失>
<彼は何処に消えた? ------謎を追う>
幾つかの文字が次々に浮かび上がる。その時、大きな音とともに扉が開いて、見知らぬ男が部屋に入ってきた。
「束瑳(つかさ)......? どうしたの?」
束瑳と呼ばれた男を僕はみつめる。日に焼けて背が高く、すべらかな筋肉が全身を覆っている。黒いライダース・ジャケットにデニム、そしてブーツというスタイルはまるで格闘家のようだった。彼は僕をみてにこっと笑った。意外に感じのいい笑顔だった。
「潮崎柊、だよな。雪から君のことはきいてる。でも君はまだなにもわからないだろう?」
「ええ......」僕は慎重に頷く。
「本当のことをいえばおれたちだってわからないことだらけなんだ。おれが目覚めたのは十ヶ月近く前になるけど......」
その声に誘われたように不意に激しい雨が降り出した。窓の外の空は墨色に染まり、時折きらりと雷鳴が光る。昼間の晴天が嘘のような激しい雨が窓を打つ。困惑している僕に彼はまた笑顔を向ける。
「ああ、おれは大谷束瑳(おおたに つかさ)。おれは沙織(さおり)に迎えられたんだ」
束瑳という男の影から先刻ロビーにいたゴージャスな彼女があらわれた。長い髪に端正な顔をした、大人びた彼女。くちびるは赤く、身体にぴったりとはりつくニットの胸元は豊かに盛り上がっている。短いスカートからのびた優美な足許にはクリスチャン・ルブタンのハイヒールが光っている。
「迎えられた?」僕はきく。「さっきから君たちはなにを話しているの? 目覚めたってどういうこと? 君たちは誰?」
束瑳はおや、という顔をする。
「雪はなにも話していないのか?」
雪は束瑳に向かって首を振る。束瑳は頷いて、窓辺によった。
「この時期は夕立が多いな」
「空気が冷えていいわ。夜になると月がきれいにみえるし、ね」
ゴージャスな彼女がいう。束瑳はその彼女の腰に逞しい腕をまわす。
「雨がやんだら街にでよう。雪、おまえが待ち望んでいた潮崎柊が目覚めたんだしな」
「それに来週は私の十八回目のバースディよ」
沙織の言葉に雪はおびえた目をした。
「そう......。来週なのね。沙織......」
沙織は雪に近づくと、そっと雪のほほを撫でた。
「うん。もうすぐなんだ」
睫毛をふるわせて沙織は雪のほほに軽くキスをした。雪は沙織の身体に腕を巻きつけた。
「......じゃあ、沙織の十七歳のためにたくさんの星を探しにいこう。渋谷にだってきっと星は落ちているから」
続く