編集部ブログ作品

2017年8月28日 17:29

病としての戦争・隠喩としての病

 私は夫と離婚して、中国籍の少女と再婚することになった。

 彼女の漆黒の異国風に結った長い髪、深い緑の瞳に出逢った時、それは私をとめられない運命にひきずりこんだ。

 少女がこれから私達の住む場所も引っ越しの手配もしてくれるというので、私は今まで勤めていた中学に(私は英語の教師だった)挨拶に行き、そのままタクシーで少女の指定した引っ越し先へと向かった。

 西友の近くの一戸建て、と聞いていたので西友の前で停めて下さいとタクシーの乗務員に伝えるが、聞こえなかったのか、タクシーはどんどん前に進む。

 違います、西友です。戻って下さい。

 私の言葉に「ここは一方通行だから戻れません」と乗務員は言う。仕方なく私は荒野でタクシーを降りる。

「一万円です」と乗務員は言う。メーターを見ると、千五百円だ。

 私は二千円だけ出す。逃げるように駐輪場に停めてあった自転車を盗み、乗り走り出す。遠くに西友の赤い字が見える。引っ越したらここで毎日買い物をするのだ。こんな風に自転車に乗って、あの美しい少女に食事を作るのだ、と私は夢想する。

 指定された場所まですいぶんかかった。西友からこんなに離れているなんて、毎日の買い物は大変だろう。

 以前は徒歩五分のところにスーパーがあった。少しだけ、離婚を悔やんだ。

 少女の選んだ新居はコンクリート造りの二階建ての一軒家だった。

 私はその前に自転車を止める。その脇をジープが音を立ててすべり込んでくる。

 軍服を着た白人や黒人達が大きくて黒い機関銃を持って、建物に入っていく。機関銃の持つ、生理的な嫌悪感に私の頭は困惑する。

 ここは私と少女の家よ。何故軍人が勝手に出入りしているの?

「戦争がはじまったのよ」

 真っ赤な服に身を包んだ少女が現れる。湖の底のような深い色の目が私を見ている。

「この国は占領されたの。だから多少のことは我慢しなければいけないわ」

 私は私の胸くらいまでしか身長のない少女をみつめる。陶器のように白い肌。ふっくらしたくちびる。しなやかな裸足。青い花の香り。私の運命を狂わせたこの美しい少女。

「それより荷物は運んでおいたわ。一階は軍の会議室になるから、私達は二階で暮らしましょう」

「だってキッチンも冷蔵庫もバスルームも一階にあるんでしょう? 私達はどうやって生活をしていくの?」

「占領下に置いて、生活の水準を標準並みに保つのはそんなに易しくないわ。軍の人となかよくなって、みなに食事を振る舞って、その隙にこっそり食べればいいのよ」

「そんなみじめな生活......

「それより二階に行きましょう。あなたの大切にしていたものは全部運んだから」

 私達はむっと熱くにおう軍服の波をくぐるように二階へと向かう。そこには私が二十年かけてコレクションした本が床一杯に積んである。セリーヌ、レヴィ=ストロース、ドストエフスキー、ランボー、イエイツ......

 一万冊もの本で床は見えない。軍服を着た傭兵が本を軍靴で踏んで歩く。

「これじゃあ、寝ることすらできない。服は? 着替えはどうするの? どうしてこの家を選んだの? なにもおけないわ」

「家のせいじゃないのよ。病のように突然襲った戦争のせいよ。私達は犠牲になるべくさしだされたのよ。この国をめがけて、全世界がいっせいに核弾頭のボタンを押すことを決めたことによって、世界中の紛争や宗教問題が解決したの。あなたが選んだのよ」

「私が? 何故? どういうこと?」

「私が世界平和大使に任命されて、それをあなたが受け取ったから」

「私はただの英語教師よ。ただの主婦よ」

「国連のスーパーコンピュータが占星術であなたを選んだの。生まれた西暦、国、時間、性別、場所、健康状態。頭の先から足の爪まで選び抜かれたのよ、あなたは。でもあなたが私を受けとらなければ、この戦争は始まらなかった。だからこの戦争という病はあなたが自分でひきよせたのよ」

 少女はそう言って、私の手をそっと自分の頬によせる。その冷たい感触に私はふるえる。

「主人のもとに帰るわ」

 私は携帯電話をバッグから取りだし、ボタンを押すが、なにも聞こえない。

「ご主人はきっと今頃、もう半島よ。多くの人がそこに向かったから。でももしかしたら殺されたかもね」

 軍人達がぬるいビールのプルトップをあける。アルコールのにおいが充満してゆく。

「私達もいただきましょうよ。あなたは戦争という死に至る病におちてしまったのだから」

 少女の言葉に私は軍人が手渡したビールに口をつける。いつもはお酒なんて絶対のまないのに。液体が喉から胃に落ちて、身体がゆっくりとほてってゆく。

 死に至る病。

 私は少女と出逢った時にそれに罹ってしまったのだ。