編集部ブログ作品
2017年8月21日 19:18
他人薬
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
渋谷のセンター街で、他人になれる薬を買った。薬は青く小さく、銀のシートに十錠で二千円だった。値段が高いか安いかわからない。売っていたのは外国人で、酔ったような、ろれつのまわらない日本語で、「これ、他人薬ね」と言った。「服んだら、あなたは別世界の人になります」そういって外国人は去っていった。
他人薬ね、と私は思った。誰になるのかは私が決められるのだろうか?
もしそうなら、さて誰になろう?
そうだ、私が以前堕胎させた子になろう。
その当時、私は家庭を持っていたので、その女の子どもは堕胎せざるを得なかった。女は泣いて、私の許を去った。三年半もこっそりとつきあっていたのに、あっさりと別れられたので、私はそういうものか、とそれ以来不倫をすることはなかったのだが、私の不実に気づいたのか、それとも思春期をむかえた息子がその季節にありがちな大人になると忘れてしまうような理由なのか、とにかく荒れだした。家庭内暴力をくりかえしていたが、ついに放火騒ぎを起こし、家庭は揺らぎ、気がついたら一家離散になり、私はひとりになった。
アパートを借り、会社から毎日誰もいないその狭いアパートに戻るだけの日々だった。
その時に、他人薬の話を誰かからきいたのだ。
別世界の人間になれます、がうたい文句の他人薬。
私は自分に飽いていた。他人になるのもいいだろう。そんな気楽な気分で、その薬を買った。
コンビニエンスストアで買ったビールと焼きそばを食べてから、私はその薬を服んだ。数分待ってみたがなにもおこらなかった。なんだ、インチキだったのか。どうせ風邪薬かなんかだったろう。やはり二千円で他人になれるはずはない。
そう思って私は2DKの奥の寝室に向かった。
「起きて」
明るい朝の光のなかで、私は名前を呼ばれた。だが、本来の私の名とは違う。
「ほら起きて。学校に行く時間でしょう?」
私は起きあがり、私の名を呼んだ人を見た。顔はなく、つるりとのっぺらぼうだった。私は驚いた。これは他人薬のせいなのか? 私ものっぺらぼうなのだろうか? ベッドの横にあったピンクの縁取りの可愛い鏡を見た。そこには見たこともないような美少女が映っていた。他人薬とは自分だけが変わるのではなく、人生そのものまで他人になるのか、と私はおどろいた。
私はセーラー服を着せられた。スカートというものを履くのは初めてである。足の下から風が入ってくるようで落ち着かない。
「あなたは朝が弱いから困るわ。毎日服まで着せないといけないなんて。もう来年は受験でしょう? そろそろ塾にも行かないと......」
のっぺらぼうの女はかつて私が棄てた女であろうか。彼女も何処かで他人薬を手に入れて、のっぺらぼうになり、美少女の娘を授かったんだろうか。彼女の望みはそうだったのだろうか。
朝食を食べ、私は中学校へと向かった。始めていく道なのに、足が勝手に動く。歩いてくる生徒達は全員のっぺらぼうだった。私だけが顔を持っている。何人かの生徒から視線を感じた。それは私に顔があるせいか、私が美しい少女であるせいか、わからない。
さっきの女もそうであったが、のっぺらぼうなのに、お喋りをする。視線を飛ばす。一体どうなっているのだ、と一人の男子生徒の顔をみつめていると、のっぺらぼうのその顔の下の方が裂けるように開いた。
「他人薬を服んだんだろう」
その途端、全員が私を振り向いた。
のっぺらぼうの顔が、顔が、顔が私を目のない目でみつめている。私はまわりを囲まれた。
のっぺらぼう達は手をつないで歌い出した。
「かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ 出やる
うしろの正面だあれ」
振り向けなかった。私は走って教室から抜け出した。廊下を走る間も歌は聞こえる。廊下は長く、涯てがない。不意に私は転んだ。誰かに足首を掴まれた。
私を囲んでまた歌が始まる。
「かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ 出やる
うしろの正面だあれ」
仕方ない、振り向くと、そこには本来の私の顔があった。
囲んでいる者達を見ると、離散したはずの放火した長男や、妻、かつての愛人、そして虫のような胎児がいた。
皆薄笑いを浮かべて私をみている。
私は顔がかゆいことに気づいた。ぼりぼりと顔を搔いていると、ずるりと皮膚がむけた。目玉が飛び出した。
「お岩さんみたいだね」
誰かがいった。
「お岩さんというと、三歩後ろに、いるんだよ」
聞いたことのない、他人の声だ。
私の三歩後ろには誰がいるのか?
「誰がいたらいい?」
「誰がいい?」
「誰になりたい?」
「許に戻りたい?」
「じゃあ、死ななきゃね」
「そうだね。死ぬのがいいよ」
そうか、他人薬というものはこういうものなのか。自分以外の人生を歩むのは、予測がつかない。私はいま、誰なんだ?
「死ね」
誰かがいう。
「死ぬのが一番楽だよ」
「死んだら許に戻れるのか?」
「ばかだね。死んだら終わりだよ」
「他人薬を飲み続けるしかないんだ」
「死なないようにね」
「後ろにいるから」
めんどうだ。死ぬことに決めた。確かに生きていくより死んだ方が楽だ。そうだ、人生に未練はない。
それが他人薬が私に教えてくれたことだ。
「死んじゃだめだ」
放火した息子がいう。その声は風のように去ってゆく。
「死んじゃだめだ」
その息子を裏切ったのは私だ。私なのだ。私ははじめて失くしたものの切なさをしる。
他人薬。
二千円。
高いのか安いのか、あなた次第。