編集部ブログ作品
2017年8月15日 23:03
桜の実が熟するころ
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
私が目をあけると、金髪に青い目をした、天使みたいな男の子が銀の鳥籠をもってそばにたっていた。
ここは警備の厳しい個室病棟で、扉の前には侵入者を厳しくチェックする機能もある。だから親族や、患者に許された親しいひとたち以外のひとが病棟にはいってくるのはできないはずだった。
「こんにちは、マダム」と男の子は綺麗なボーイソプラノの声でいった。
「あなたは天使なの?」と私は聞く。「私はもう死んでしまったのかしら?」
「いいえマダム。あなたはまだ生きています。だってこの世界でやりたいことがまだおありでしょう。そのお役にたつように、これをお持ちしました」彼は手に持った銀の鳥籠を私のベッドの足許に置いた。鳥籠のなかには金のカナリアが一羽、やはり綺麗な声でさえずっていた。
「ごきげんよう、マダム」
気がつくと男の子の姿はなかった。夢をみていたのかしら、とも思ったが、銀の鳥籠には金のカナリアがいた。私がひとつ、瞬きをする間に、カナリアは掌に乗るぐらいのちいさな女の子に変わっていた。
「おかげんいかが? マダム」女の子は白い歯をみせてにこっと微笑んだ。
「私はトリコ。マダムの願いをかなえにきたの」
私はしわだらけの手をそっと女の子にさしだした。
「私の願いを?」
「そうです、マダム」
「じゃあ病気を治してくださるの?」
「ごめんなさい。マダムもご承知の通り、マダムの命の灯はこの季節が終わるころには消えてしまうでしょう。それは私にもどうしようもできないの」
「じゃあ、どんな願いをかなえてくださるの?」
「マダム」
女の子はそっと私の耳許によった。甘い、果実の香りがした。少女の香りだ。かつて私もこんな匂いを発したころがあったのだろうか。それはもう遠すぎて、思い出すこともあやうい。
「悲しいことですが、マダムもまわりの方々はマダムがはやく逝去されることを願っています。それはマダムもよくご存知のことと存じます」
私はため息をつく。「そうね」と。
子どもの頃に戦争を終えた私は、自分の腕だけで、洋服をつくる仕事をしていた。デザインをし、布を買い、パターンを起こし、ミシンで縫い、アイロンをかけた。全行程を自分一人でやった。時代は高度成長期、ひとびとは戦後から抜け出し、消費することを覚え始めていた。幸運なことに、私のつくる洋服は文字通り飛ぶように売れた。70年代に大きな資本の下にはいり、そしてバブルがきた。DCブランドブームが起こり、私の会社の資本金の額も、私個人の通帳の記載額も、驚く程増えていった。
私は生涯独身だったが、子どもがふたりいた。男の子と女の子で、それぞれもう子どももいる。でもふたりとも、なにかに真剣に打ち込んで、才能を磨いていくというようなタイプではなかった。私の会社の肩書きだけの職に就き、ただお金を使うだけの生活をしていた。そのふたりと、私の親族は、多分みな、私が死に、そして私名義になっている資産をどう分けるかで、毎日口論を繰り返していた。
「私の子どもの頃は......」と私はささやいた。
「なにもモノがなかったから、いろんな想像をしたものよ。花の色を紙に浸して色紙をつくって人形の服にしたりしてね。でもいまは誰もが皆、ぽかんと口をあけてただなにかが降ってくるのを待っているだけみたいにみえるわ。未開の海辺に住むひとが金銀財宝を載せた船が彼方からやってくるカーゴカルトを信じているように。私はそういうひとがとても嫌いなの」
「わかります。マダム」
女の子は柔らかく微笑んだ。ついっと窓の外に顔を向けた。
「みてください、マダム」
彼女の視線の先には散りかけの桜の枝があった。
「この桜、実がなるんです。ご存知ですか?」
「さあ......」
彼女はくすっと笑う。さらっとした黒い短い髪が揺れる。
「マダムがご存知ないのも当然です。実が赤くなった途端、何処からか鳥の大群がやってきて、一粒残さず実をついばんでしまうんです。だから私、桜の実、熟する予報士の資格を持ってるんです。ほら気象庁のひとが神社の桜が幾つ綻んだら開花とする、というニュースをご覧になったことがあるでしょう? あんな感じです」
「それはなにかの役にたつのかしら?」
女の子はきゅっとくちびるを噛む。赤いワンピースがさらさらと風に流れる。
「私、いつも鳥に負けてしまうの。だって鳥たちはまるで蝗のように大空を黒く染めて襲ってくるから」
「くやしいのね」
「それはマダムも同じでしょう?」
「え?」
「赤い実を鳥の群れが襲う前に、もぎとってしまいましょう」
「あなたはなにをいっているの?」
「つまり、ですね」女の子はかわいくこほん、と咳をした。
「マダムの持っているものを、私が受け取ります。そして世界中の困ったひとたちに配って回ります。マダムが命がけでしてきたことを、ただで手に入れようとしているひとには、マダムの育てた赤い実を分けてあげることはないんです」
女の子はあくまでもかわいらしい声でそういった。でもいわれてみればその通りだ。私に死期が近づいてもう余命いくばくもないというのに、息子も娘も顔もださない。ただお金のことを、弁護士を通して頼んでくるのみだ。
「殺すんですよ、マダム」
涼しげな瞳をして、女の子はいった。
「なにもマダムが先にいなくなることはないんです。順番なんて、どうとでもなります。マダムの赤い実を守るために、私がマダムの代わりに手を赤く染めます。そのために私はここにきたんです。そしてそれはマダム、あなたの望みでもあったんです。そうでしょう?」
そうだ。私は夢にみていなかったか? 金色の天使の夢。望みをかなえてくれる神様。
「私はね、マダム。まだ赤くなる前の実を持っています。それは童話にでてくる林檎の実とおなじ。わかりますか?」
「白雪姫にその実を......、ということかしら?」
女の子は一瞬、鋭い目で私をみた。そして、すぐに表情をほどいた。
「そうです。誰にもわかりません。金色のカナリアがマダムのご家族のスープ鍋にちいさな実をいれただけなんて。そしてその結果がマダムの希望だとしても、マダムは呼吸器につながれていています。マダムを疑うひとはいません。これは完全犯罪です」
少女は小首を傾げた。とても愛らしい。私の実の娘よりも、彼女はとてもかわいらしかった。私は目を閉じた。瞳の奥で私にこれまで訪れた出来事が通り過ぎていった。そう、私の人生はもう終わりに近づいている。私はいう。「ねえ、カナリアさん。私はとても疲れているの。誰かを恨んで死んでいくのはいやだわ。私が死んだ後、私のお金がどうなろうと、もう私にはどうでもいいの」
少女は私の耳許にそっと寄った。そして薄紅色のはかない声でささやいた。
「マダム。お願いがあります。この桜です」
少女は窓を指差した。
「この桜の赤い実をおなかいっぱい食べたいんです。マダムのちからでこの桜の木を私にプレゼントしてください。その代償に私はマダムの願いをかなえます」
私はちいさな、本当にちいさな女の子をみた。この女の子は桜の実が食べたいのだ。けれど彼女の望みはかなわず、他の鳥たちにその実を奪われて、夜の青い月の下で、彼女はさめざめと泣いているのだ。その光景が目に浮かんで、それは不意に私の胸を打った。掌にはいる程のかわいらしい少女。それは私に失われた幼い自分が再び舞い戻ってきた感覚を呼び起こした。私が成功するために手放した、ひとつ、ひとつのちいさな宝石(ルビ・いし)を思った。それはもう永遠に失われたのだ。私は初めて自分にこれから訪れる死というものの存在を感じた。それは暗い闇であり、眩い光でもあった。それは指でさわって感じ取れるものだった。
「カナリアさん」私はいった。「あなたに海に浮かぶちいさな島をひとつ、あげる。そこには赤い実のなる桜の木があるの。海岸沿いに緑の冠のように連なっている......。その代わりにね、私を死なせてほしいの」
「マダム......」
「私、ずっとひとりだったわ。誰も私を愛さなかったし、私も誰も愛さなかった。だからいま、ひとりなのは、私の罪。それを購うために、私に死をちょうだいな、カナリアさん」
「マダムにはまだ時間が......」
「いいの。もうひとりはいやだわ。眠りたい。お願い。その熟していない実を私のなかへ......」
女の子は真っ赤なワンピースのポケットからちいさな淡い色の実を取り出した。私はそれを受け取り、掌でころがした。
「死ぬより生きるってつらいのね。これまでは気がつかなかったけど。誰もそばにいない人生には疲れたわ。あなたはいつまでその姿のままなの?」
「きっと永久に」
「そう......」
私は淡い色の実を口にする。いつのまにか現れた金髪の男の子が私のそばに立って、私の手を取る。
「いきましょうか、マダム」
やはり彼は天使だったのね。そう思いながら私はゆっくりと私の身体から抜け出す。ベッドに眠っている私がみえる。
さよなら。
さよなら。
もう逢えない私。
たわわに赤い実がなった桜の樹々のそばを抜けて、私は天へと昇っていった。
さようなら、私の人生と、呟く声だけが耳に指に髪に響いていた。