編集部ブログ作品
2017年8月 7日 21:18
夏至を過ぎて
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
気がつくと、いつも月をみあげている。夏の夜空は何処か薄淡く、透き通っている。大学にはいって東京にきてから、僕は人間の顔よりも月ばかりみているようになった。コンビニで花火とコーラを買い、公園にいく。東京にきて四ヶ月になる。でも月はおなじように輝いている。僕は輝いてないけどね、とベンチにすわり、僕は花火に火を点ける。三流大学に通う、背の低い、なんの取り柄のない僕はいつも独りだ。子どものころから友だちと名のつくひとができたこともない。寂しくないかといえば、僕は案外寂しくない。何故かというと僕はひとがきらいだからだ。そんな僕は勿論他人からもきらわれている。花火はきらきらと光る。真夏の夜は果てもない。ベンチに座った僕の足許で鳴き声がした。僕は暗がりのなかで目を凝らす。汚れたちゃとらの猫がしっぽをたてて枯れたあじさいの下から歩いてきた。
「なにもないよ」僕は猫にいう。猫はなあん、と鳴く。
「僕が悪いひとだったらどうするんだ? 君のおなかをナイフで切ってしまうかもしれないよ」
「ナイフもってるの?」
不意に、音もなく猫耳をつけた女の子が僕のいるベンチのとなりにちょこんと腰掛けていた。僕はびっくりしてコーラの缶をにぎりしめた。
「君、誰? なんで猫耳つけてるの? っていうかいつからいたの?」
「ずっといたよー。猫耳はねえ、かわいいかなって思って。あははー」
頭のおかしな子だったらいやだな、と思い僕は立ち上がろうとした。
「待って。花火まだ残ってるよ」
「よかったら君にあげるよ」
猫耳をつけた女の子はにっと笑った。白い八重歯がかわいいといえなくもない。
「ねえねえすわってよ。ひとりで花火しても楽しくないじゃん。まま、ここはひとつ。袖振り合うも多生の縁、とかいうじゃない」
女の子は僕のTシャツの裾をつかむとぐいっとベンチにすわらせた。
「それにさあ、私のこと憶えてない?」
僕はすこしこわくなった。猫耳はまるでホンモノのように風にひらひらとなびいている。
「私は君のことしってる。ずっと昔からね」
「悪いけど、僕は君のことしらない。もういくよ。いい?」
「だめだよ。だって私、ばけねこだよ。耳があるのがなによりの証拠なり。いうこときかないととりつくよ。悪いこと言わないから一緒に花火しよ」
走って逃げようか。でも猫耳は楽しそうに花火に火を点けた。細い両手で、ぐるぐると花火をまわしている。光のひまわりのような輝く輪が彼女の顔に映っていた。短いワンピースからとらじまのしっぽがみえた。コスプレにしては懲りすぎている。まるでホンモノみたいなしっぽだった。
「にゃってーにゃってーにゃってにゃってー」
猫耳はでたらめな歌を歌う。公園を行き交うひとが僕たちをみている。
「ねえ、頼むから歌わないで」
「じゃあ、ごはん食べさせてよ」
「え?」
「君んちにいくからさ。あ、私、好き嫌いないよ。なんでも食べるから。あー、おなか空いちゃった」
「僕、料理できないよ」
「焼きそばとかならつくれるでしょ? 駅前に終夜営業してるスーパーがあるから、そこで買い物していこうよ」
その言葉を食べてしまいたいくらい僕は途方に暮れていた。基本的に他人との接触を極力避けてきた僕だが、逆にそのせいであまりにも積極的な彼女の言葉にあらがうことができなかった。僕は彼女のいいなりに終夜営業しているスーパーにいき、野菜やら肉やらを買い込み、アパートに戻った。彼女は楽しそうに歌を歌いながら僕のワンルームの部屋を覗きこんだ。
「あ、窓から星の花がみえる」
しっぽをひまわりみたいにぐるぐるまわして、彼女は窓から身を乗り出した。
「ほら、ね。月に光って、きれいだね」
僕は普段窓なんか開けない。だからそこになにがあるのかそのときまで知らなかった。窓の外には星の形をした青い花が咲いていた。
「遠い空の匂いがするね」
にっとまた彼女が笑う。白い八重歯。揺れる猫耳。まわるしっぽ。オレンジ色のワンピース。にゃってーにゃってーにゃってにゃってー。おかしな歌。
でも僕はそんなことに気づかないふりをする。僕は誰も好きにならないし、誰にも興味を持たない。誰も僕の領域に踏みいれられたくない。
とにかく焼きそばだ。それを食べれば彼女は去って行くだろう。そして僕は独りになって、シーツにくるまれて眠るのだ。
焼きそばをちいさなテーブルに出す。猫耳が「かつおぶしかけて」というのでいわれるままふりかける。猫耳が焼きそばを食べるのを僕はみている。なにかが頭の奥の記憶を掠る。
「大きい魚はちいさな魚を食べるんだよ」
「君は君よりおおきな牛の肉を食べてるね」
「人間はまだ進化の途中なんだよ」
「え?」
「類人猿からホモサピエンスになって、そんなに時間が経ってないんだ。だから病気をしたり、突然死んだりしちゃうんだ。完成してないからね」
「ふうん」
「だから私みたいに猫耳としっぽのある女の子だっているんだよねー」
「それとこれとは違うんじゃないかな」
「じゃあ、私が誰なのか、わかった?」
焼きそばを食べ終わった猫耳はちいさなキッチンで皿を洗うと、僕のベッドに横たわった。
「ちょっとちょっとそんなところで寝たら困るよ」
「青い星の花、とってきて」
ベッドに横たわったまま猫耳はいう。
「青い星の花でベッドを埋め尽くして、一緒に眠ろう。歌を歌ってあげるよ」
よくみると猫耳の瞳は淡いハシバミ色で、ほんのり潤んで、夏の夜空のように果てがない。きらりと流れ星が散って、僕はなんとなく庭にでて、青い花を摘む。夏至を過ぎた夜は、それでも透明で、夏は遙かにたゆたう。部屋に戻って青い花をベッドに散らす。猫耳はうれしそうに手をのばす。
「隣にきて」
誘われるまま僕はベッドに横になる。懐かしい匂いに胸がきゅっと痛む。どうして?
にゃってーにゃってーにゃってにゃってー。
ちいさく猫耳は口ずさむ。睡魔がやわらかく僕を包む。他人なんかきらいなはずだったのに、温もりがいとおしい。こんな気持ちになったのは僕がまだ幼かったときのようだ。
「お母さん」と僕は呟く。どうしてそんな言葉が漏れたのかわからない。不意に悲しみが胸を衝く。冷たい月を飲み込んだように。お母さん、おいていかないで。寂しいよ。ねえ、お母さん。お母さん......。
傷つきたくなかった。だからもう誰も好きにならないと決めたんだ。
にゃってーにゃってーにゃってにゃってー。
夏至を過ぎたころ、ちゃとらの猫と青い花の下、いつまでも終わらない夏を待っていた。
忘れていた。忘れようとしていた。残された記憶。悲しい思い。伝えきれない気持ちを。
「だいじょうぶだよ。まだ進化の途中だから。それだけだよ」
進化の途中か。それなら僕は変わっていけるんだろうか。いつか他人を許せるんだろうか。僕を受け入れてくれるひとにめぐりあえるんだろうか。
にゃってーにゃってーにゃってにゃってー。
その声がやがて眠りの底に消える。朝の眩しい光に僕は目をさます。猫耳はいない。青い花は凋れている。猫耳が洗った白い皿がキッチンに残されている。
夏至を過ぎた夜、ちゃとらの猫と青い星の花の下で、帰ってこない母親をずっと待っていた夜を思い出す。
さよならをいいなさい、といわれるのがつらくて、ただちゃとらの猫を抱きしめていた。
さよならをいまならいえる。
そしてはじめよう。夏は終わらない。