編集部ブログ作品
2017年7月31日 19:35
月の裏で逢いましょう
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
手にしたアイスクリームが溶けて、私の細い手首を甘く染めた。その日は八月に入ったばかりの暑い日だった。街を歩くひとたちの顔の影は濃く、見上げるビルの電光掲示板はこの夏の最高記録を記していた。そのせいだろうか、家に戻って鞄をあけてみるとみたことのないスマートフォンがはいっていた。
「また拾いもんしたな、月」双子の兄の陽がいった。
「月は昔からなんでも拾ってくるからな。金糸雀だの、水晶だの、蝉の抜け殻だの」
確かに私たちの住むマンションの部屋の片隅は、私が拾ってきた本当にたくさんの物であふれていた。拾った物を私は何故かもう一度棄てることができなかった。宇宙の流れのなかでそれらが私の許に迷い込んだ。そんな風に私は思ってしまうのだ。それは私の名前が月であるからかもしれない。地球の軌道にとらえられて、動けないから、逆になにかをひきつけてしまう。たとえば、そう、海の波を。
そしてその次の日から私のドッペルゲンガーが現れたのだった。私のなかのみえない引力がそれをひきつけたのだろう、よくあることだ、と最初は気にしていなかった。だが夏が終わるころ、黒目の部分が奇妙に薄い子どもの群れが、私が拾ったスマートフォンにGoogleストリートビューのメールを頻繁に送ってくるようになってから、すこし疎ましくなってきた。
メールの中で私のドッペルゲンガーはいわゆるJKビジネスをやっていたのだ。私とおなじまっすぐな髪、おなじ制服、おなじ手足をもつ「彼女」を舐めるような目でみつめる男たちと一緒にいる写真が添付されたメールが送られること。それは私をいやな気分にさせた。
それでも私は我慢したのだ。私はマイナスの感情をおさえる癖がついていた。それは兄の陽によってもたらされたものだ。
私はいつも双子の兄、陽と比べられた。成績。容姿。運動の出来不出来。素直さ。従順さ。
兄は完璧だった。彼はその名の通り、太陽なのだ。
「あれが双子の兄」と陽を指差すと、皆、驚いた。そして私の顔をじっくりみて、嘲笑するように「似てないね」といった。「本当に双子?」
仕方ない。私は月なのだから。誰にもみえない裏側に自分の気持ちを隠すことを、私は覚えた。
風が冷たくなったころ、送られてきたメールをみて、私は驚いた。そこには、私と陽が映っていた。正確にはそれは私ではない。私のドッペルゲンガーの「彼女」と陽だ。
「彼女」と陽は何処かの狭い部屋のベッドに横たわっていた。
陽は「彼女」にくちづけをする。
優雅に長く細い陽の指が、「彼女」のスカートをめくる。
陽の愛撫に「彼女」は恍惚の表情を浮かべる。
メールに添付された写真は陽が私に隠していた欲望の視線をさらしていた。
穢い、と私は思った。
私は穢された。
私はそれまで私の性に幾重にも頑丈な鎖を巻いていた。その嵐が私を傷つけないことを願っていた。海の波を引き寄せることがあっても、深い場所に眠っている真珠を起こさないように、大切に純潔を守ってきた。それがおなじ母親の胎内にいた兄の手で壊された。
私はふたりがひとつになっている写真を茫然とみつめていた。その時、なにかが頭を掠った。私は指で写真を拡大してみた。抱きあうふたりの身体のうえに、なにかいる。白く、ふわっとした綿毛のような、なにかが......。
スマートフォンの画面が突然ラインに変わった。
「二本足」と漫画のスピーチバルーンのような括弧のなかに文字が浮かんだ。
「誰?」と私は文字を返した。
「猫の髪にリボン」と文字が返ってきた。
そして画面はもとの陽と「彼女」に戻った。私はもう一度画面を拡大して、白いなにかをみた。それは二本足の猫だった。
文字通りに、と私は思った。ラインの文字通りに、この猫にリボンをつければ、なにもかも解決するのだろうか?
だとしてもこの猫は何処にいるのだろう?
陽と「彼女」の部屋、と私は思った。彼らが逢いびきをしている部屋にいけば、きっとこの猫がいるはず。そう思った私は真夜中、ぐっすり眠っている陽の部屋に忍び込む。そして陽のスマートフォンを手にする。パスワードはわかっている。「双子の月」だ。そしてページがひらく。このなかに陽はきっと「彼女」の情報を秘めているはずだ、と私は思う。私は写真をみる。そこにはたくさんの「彼女」のメモリーがある。
遠くで笑っている「彼女」。葉陰でうつむく「彼女」。木の下を歩く後ろ姿の「彼女」。穏やかな顔で眠っている「彼女」。
違う。
これは「彼女」じゃない。私だ。
「月」
いつのまにか陽は起き上がって、後ろから私を抱きしめた。
「いつ気づいた?」
陽は私の首に口許を寄せる。熱い吐息が伝わる。
「なにに?」
「おれがおまえを求めていることさ」
私ははっとする。
「陽。あなたが『彼女』をつくったの?」
「そうだよ。こうしておまえを抱きたくて」
「その代わりに『彼女』と寝たの?」
「おれはおまえと寝たんだよ」
陽の手がぎゅっと私の身体を抱く。私は身をよじってその腕から逃れる。
「陽は穢い。私を汚(けが)したのは陽なのね」
「きれいだよ、月」
美しい陽の瞳から透明な涙がこぼれた。
「おまえがほしいよ。生まれてからずっとそばにいた。おまえだけをみていた。でもおれたちは双子だ。結ばれない。だから......」
「許さない......」
私は机の上にあった鋏を手にする。
「私は消える。『彼女』ごと、この世界から消える」
「月!」
陽は私の手から鋏を奪おうとするが、その時はもう遅い。鋏は私の首筋に食い込み、真っ赤な血がほとばしでる。
「さよなら」
首から血を流したまま私は満月の輝く窓の側に立つ。
「さよなら、陽」
そして私はマンションの七階から飛び降りる。陽の叫び声がきこえる。
落下する間、短い夢を私はみる。
天使たちが私の身体を抱いて、夜空に輝く月の裏側に連れてゆく夢を。
そこで私は誰にも穢されることなく、ずっとずっと、無垢な子どもでいるのだ。
アイスクリームのような甘い香りが落ちてゆく私をそっと包んだ。