編集部ブログ作品

2017年7月24日 17:21

猿として死す

 高村光太郎が好きだった。中学生のときに「裸形」という詩を読んでから、僕は「妻をうしなう」ということに憧れを抱いた。智恵子のように芸術肌の、精神的にすこし繊細なタイプの女の子が僕の理想になった。その妻をうしなう。それは甘い哀愁を僕に抱かせた。でもこのことは決して誰にもいわないでおこうと思っていた。さすがに少女趣味なのはわかっている。叙情的なのさ、と呟いてみても、なお悪い。けれど僕の詩作ノートを拾った上林がタイトルをみて笑わずにいった。

「妻をうしなう? これは郁架(ふみか)が書いたの?」

 僕はおどろいた。上林は野球部のエースで四番でキャプテンで、女の子にもててかっこいい。僕とは正反対の人間だ。学校で一番かわいい野球部のマネージャーの彼女がいる。そんな上林だったが、僕とは仲がよかった。タイプは全然違ったが、上林は何故か僕といるとリラックスするようだった。僕には上林以外にひとりも友だちがいなかった。上林はそんな僕にいつでもやさしかった。どうしてなのか、いまでもわからない。

「詩作をしているのか。ふうん......。郁架は本ばかり読んでいるしな」

 昼休み、誰もいない屋上の給水塔の影で、僕らは並んで生協で買ったパンとコーヒー牛乳を飲んでいる。上林は水筒にはいったプロティンを飲む。上林にとっては今日三回目の食事だ。彼の夢は野球選手になることだ。だから彼は身体を大きくするため、いつも食事を多くとる。彼はピッチャー用のグローブを片時も手放さず、大切に手入れしていた。一度僕はグローブを手にして、それが意外に重いことに僕は驚いた。僕は貧相なやせっぽちで非力だ。

「よくそんなものを、まるで手袋みたいに扱えるね」

 けれど彼にとってはそれが自然なことらしく、彼に僕の言葉は届かなかった。厳しい練習。短い距離を何度も反復するきついランニング。単調な筋肉トレーニング。怪我や疲労による痛み。そんなことにも彼は耐えていた。「妻をうしなう」なんて詩を書いてうっとりしている僕とは違う。上林とは家が近く母親同士が仲がよく、僕は子どもの頃からリトルリーグに所属している上林のチームの試合を観にいった。野球のルールすらよくわからない僕からみると、炎天下、汗びっしょりになって、しかも負けている試合でも、どうしてあんなに声をだして走っているのか、よくわからなかった。白いボールを投げて、打って、走る。それだけのことに何故それほど真剣になれるのかがわからなかった。けれどそれほど夢中になれるものを持っている上林がうらやましかったのも事実だ。上林は僕のノートをぱらぱらめくる。

「郁架は言葉が巧いな。詩人になるのか」

「まさか」

 僕はすこし赤くなった。さすがの僕もそこまで無垢ではなかった。

「なににもなりたくないよ」

「何故? おれたちはすぐ大人になるだろう」

 僕たちの通っている学校は野球部が有名だ。他県からわざわざ越境入学するものもいるし、野球部員は百人もいる。そのなかでスタメンでエースで四番の上林は「選ばれた者」だった。校庭には時折プロのスカウトの影があった。いま現在の行動が、彼の未来にはつながっている。僕とは全然違う世界に彼はいた。

「僕は大人にはならないんだ」

 上林は僕をみおろした。大きな黒い目が清く光っている。

「僕は猿として死すからね」

 僕の言葉に上林の目が柔らかくなった。僕になにか考えがあっての言葉だと勘違いしてくれたらしい。

「そうだね。郁架はいつか猿の森に帰るんだね」

 百人もの部員を従えるキャプテンは柔軟でもあった。昨日の雨の名残の水たまりに、青い空が流れるように映っていた。初夏のきらきら光る風の色だった。

「南朋(なお)」

 彼のかわいいガールフレンドが上林を呼んだ。上林は僕にノートを返すと立ち上がって腰を叩いて細かな土埃を落とした。

「じゃあな」彼は彼女と去って行った。階段を降りる足音がきこえる。女の子の透き通ったかすかな声もきこえる。

「あのひと、なんだか暗いね。勉強はできるみたいだけど、私、好きじゃない」

 そう、僕は嫌われ者だった。けれど僕はさしてそのことを気にしていなかった。僕はひと嫌いだった。自分の領域に他人が入り込むことがいやだった。上林はそんな僕を察して、うまく距離をとってくれた。そんなところも彼がチームスポーツに向いている優れた資質のひとつだった。

 昼食後の軽い眠気に僕はそっと目を閉じた。初夏の木々の緑眩しい午後の陽射しが眶に転がる。木漏れ日は太陽の光で丸くなるというのは本当だろうか、と僕はふと思う。校庭から歓声がきこえる。涼風がほほをなぶる。ゆっくりと眠りが僕を浸してゆく。乾いた空気が身体のなかを通っていく。眠り。浅い眠り。甘い眠り。空に落ちる眠り。

 砂を踏む感触に僕はすこしおどろく。コンクリートの屋上が、いつのまにか砂丘になっている。はあ、これは夢だな、と僕は思う。僕は空をみあげる。青い。砂丘は白く、はてもなく続いている。気がつくと上林の彼女が僕の隣を歩いている。長い髪の彼女は白いワンピースを着ている。くちびるも白く、白い菊の束を抱いている。

「上林は?」

 なにかいいわなかればと思い、僕は彼女にきく。考えてみればこの女の子の名前すらしらない。

「私のお葬式にでている」

 悲しげに睫毛を伏せて、彼女はいう。風が彼女のワンピースの裾をまるく帆船のようにはらむ。

「お葬式?」僕はおどろいていう。「君、死んだの?」

「そう、あれから五年後に。南朋はつてをたどって森の奥に住む願いを叶える猿を探した。かんたんだったわ。猿は彼の才能がほしかったから彼の願いをかなえることを惜しまなかった。そして私は死ぬことになった」

 長く続く砂丘。その渚のはては遙かな海を臨むようにひろがる。波の音が静かすぎて、まるで無声映画にはいったような気がする。彼女は砂の上にひとつ、またひとつと白い菊をそっと置く。徴(しるし)のように、証のように。

「猿?」僕はいう。「なに、それ」

「あなたの言葉よ。<僕は猿として死す>。南朋は自分の望みをかなえたかった。だから猿と取引したの。私をいけにえにしてね」

「上林の夢? プロ野球選手になること?」

「そう思ったでしょう? ちがうの。彼の夢を<妻をうしなう>こと。南朋はあなたのノートをみていらい、<妻をうしなう>ことを夢みるようになったの。私はそのために彼の妻になり、赤ちゃんを宿したの。そして今日、私は死ぬことになった」

「君はそれでいいの?」

「仕方ないわ。南朋が好きだもの。南朋の夢をかなえてあげたいもの」

 砂丘に僕の足跡だけが点々と続いていく。彼女は小鳥のように跡を残さない。それがすこし寂しい。彼女は白いワンピースのおなかの辺りをそっとさする。

「でも赤ちゃんは生みたかったな......。大好きなひとの子どもだもの。みてみたかった。抱きしめたかった。でも私の腕にあるのはこの白い菊の花束だけ......

 不意に空が暗くなった。黒い雨雲が近づいてくる。谺のような雷の音がきこえだす。砂丘に雨が降り注ぐ。

「もういかなくちゃ」

 彼女の髪にビーズのような水滴がまとっている。それはティアラのようにきらきらと光っている。悲しいほほえみの彼女を僕は呼び止める。

「まって、僕もいく。僕も猿として死すよ。だって僕の言葉の呪いが君を死の世界にむかわせるなら、僕が船の櫂を漕ぐよ」

 彼女はうつむく。岸辺に一艘の船が近づいてくる。彼女はその船をじっとみつめている。そしてぽつりという。

「私、あなたのこときらいだった」

「しっているよ」

「だって南朋は私よりあなたが好きなんだもの。だからあなたの呪いに閉じ込められた」

「閉じ込められたのならいっそ君、僕のなかにはいってみないか?」

「え?」

「君が死にゆくことがもう決まっているのなら、魂だけ僕の身体にはいればいい。僕の意識は死ぬ。君は僕として生きる」

「いったでしょう。あなたは嫌い。南朋の願うとおり、私は南朋の妻として死ぬの。さよなら」

 雨の粒がきらきらと波間に反射する。砂が黒く染まっていく。岸辺の船に彼女は乗り込む。波が揺れ、彼女の姿がゆっくりと霞み、沖に消えてゆく。

 僕は目をあける。

 誰もいない屋上。足許にあるノートにはただ、「猿として死す」と書かれている。その文字の他は白いまま、呪いはもうかけられてしまった。

 僕は背中になにかを背負っているのを感じる。それはきっと生まれなかった赤ん坊で、僕の背中の上でゆっくりと重さを増してゆく。