編集部ブログ作品

2017年7月18日 14:40

春夏秋冬

 彼らの妹の真夏がいなくなったのは、今から一年前の夏のことだった。月のない暗い夜、お祭りのあとで街はひっそりと静まりかえっていたのを、彼らは憶えている。長兄の名前は冬也(とうや)、次兄の名前は春也(しゅんや)といった。彼らは今から四十年程前に東京の郊外に建てられたニュータウンに両親と住んでいる。そして彼らの一家は他の家族から孤立していた。まず彼らの家族以外の住人は彼らと世代が違った。兄妹の両親はまだ四十代だが、ニュータウンに住んでいる、たいていの家族の平均年齢はもう七十歳をこえていた。彼ら以外の住民がこのニュータウンに一斉に越してきたころ、住人らはまだ若かった。次々と子どもを生み、週末は集まってバーベキューや花火を楽しみ、勾配の激しい坂を苦もなく歩いていた。住民がいなくなりだしたのは、何年前からだろうか。初期に入植したある者は年齢を重ねるにつれ坂道がきついと別の街に移ったり、ある者は介護をしてくれる施設に入所した。生まれた子ども達は大人になるとニュータウンを離れた。そして時が流れた。彼らのように十代の兄妹はもうこのニュータウンには少数派となっていた。兄妹には生まれてすぐに里子にだされた弟がいた。名前を秋也という。両親はある宗教団体に帰属しており、その規律で妊娠中絶は禁止されていた。そして四人の子どもが生まれた訳だが、両親の収入では四人目の子どもの成育は難しかった。冬也たちは必死に秋也を守ろうとしたが、子どもの抵抗などたかがしれている。秋也はいつのまにか彼らの生活から消えた。そこで残された兄妹三人には共通のある疑惑を抱えることになった。実は自分たちそのものが彼らの両親の実子ではないのかもしれない、と。我々の両親の宗教団体は、なんらかの使命を担っていて、その任務のために秋也がさしだされたのではないか。僕たちもなにかに送り込まれるための傭兵ではないのか。深夜アニメのストーリーのようだったが、それは兄妹を思いの外わくわくさせた。自分たちは特別な存在なんだと感じることができた。

 真夏がいなくなっても、両親は混乱したそぶりをみせなかった。日曜には<礼拝>にいき、週が明けると朝早くから電車に乗り、冬也と春也は自分たちで朝食と弁当を作って学校にいった。

「真夏は今年で十四歳になる」十七歳になる冬也は春也にいった。

「もう大人だ。帰れるなら自分で帰ってきてもいいころだ。でも帰ってこないね」

 まだ生きているのだろうか、という言葉を春也は飲み込む。父も母も、真夏のことは口にしない。秋也の時のように、真夏の不在にもなれているようだ。でも冬也と春也には違う。真夏は彼らの掌のなかで彼らを呼んでいる、一羽の小鳥だった。真夏はうつくしい少女だった。一見するとまるで東欧のちいさな国の小公子のような、中性的な魅力にあふれていた。栗色の短い髪。白く肌理こまかい肌。細く長い葦のような手足。虹彩が緑がかったうつくしい瞳。花のようなくちびる。語りきれない。

「僕たちで真夏を探しに行かないか」

 冬也の言葉に春也は戸惑う。まだ明るい初夏の夕暮れ。テレビでは野球中継を流している。テーブルの上に並べた赤や緑の瑞々しい野菜をみながら春也はいう。

「何処へ?」

「考えたんだけど」冬也はリモコンでチャンネルを変える。そこでは違うチームがやはり野球をしている。冬也はコカコーラ・ゼロを飲む。大人のふりをしてビールを飲んだり、煙草を吸ったりはしない。冬也は逸脱を好まない。そんなことをしなくても、おのれの人生のレールは決して順調に敷かれていないことを、彼はしっていた。

「真夏がいなくても父さんや母さんは動揺していない。きっと真夏のいる場所をしっているんだ。彼らが隠している秘密を探ろう。そして僕たち兄妹だけで暮らせる場所にいこう」

 春也は冬也をみた。

「冬也は」と春也はいった。「父さんや母さんがきらいなのかい?」

「なにもかもさ」と冬也はいった。「中途半端なこの土地も、学校も、自分自身も」

 線香花火のようにふたりの心に灯った明かりが燃え上がったのは、秋也からの手紙をみつけたときだった。

「冬也兄さん、春也兄さん。僕は秋也です。真夏から兄さんたちのことをききました。そうです。僕と真夏は一緒に暮らしています。僕を育ててくれていたお父さんとお母さんが亡くなって二年が経ちました。僕はお父さんの弟のおじさんに引き取られて岬のはずれの大きな家に住んでいます。兄さんたちも僕のところに来ませんか? 兄妹四人で暮らしたいです。真夏はおじさんの青い瞳に夢中です。おじさんの瞳はきれいです。兄さんたち、みにきてください」

 青い瞳? 冬也と春也は顔をみあわせた。けれど冬也と春也の心は手紙の封を切った瞬間から決まっていた。彼らは夜更けに家を抜け出した。もう二度と帰らないつもりで、両親のカード数枚を手にして。

 懐古趣味的な装飾を施された鏡を覗きこみながら、真夏は考えていた。一年前の祭の夜のことだ。赤いアサガオの模様の浴衣を着て、赤い金魚を持った真夏の腕を不意に掴んだ男がいた。

「金魚、食べさせて」と男はいった。「その代わり、私の目をあげよう」

 真夏は男の目をみつめた。サファイアのような、澄んだ青い瞳がそこにあった。

「目を?」真夏は笑い出しそうになった。「あなたの目にはそんなに価値があるの?」

「とてもおいしいんだよ」と男はいった。「アイスクリームのようにね。君は夢中になるはずさ」そういうなり男はその長くて優美な指を眼窩にいれ、くるりと眼球を取り出した。義眼だった。真夏は濡れてきらきら光っている青い球体をじっとみつめた。

「舐めてごらん」男はいった。「すごく甘いよ。とびきりいい匂いだよ。君にだけあげる、私の宝物」

「どうして私に?」

「君を誘拐したいからさ。私の青い瞳に君を夢中にさせて、私のいいなりになるように」

男は真夏の掌に青い義眼を載せると、真夏の手から赤い金魚がはいっている水袋のひもをすっと指に絡めた。

「さあ、一緒に」

 男の口のなかに赤い金魚が放り込まれ、真夏は青い義眼をそっと舐めた。途端に真夏の目の前がきらきらと虹色に光った。アセチレンの匂いと遠くからきこえる祭り囃子の音が、耳許で大きく鳴り響いた。青い義眼は甘く、陶酔する美酒のように真夏の身体の奥に染みこんだ。

「おいしいかい?」

「うん」

「私に連れて行ってほしいかい?」

「うん」

 こうして真夏は男の言葉通り青い瞳に夢中になり、やすやすと彼方へ誘拐されたのだった。

 秋也は幼い頃から自分が養子であることに気がついていた。秋也は自分を透明な容器のように感じていた。その器に誰かがなにかを放りいれ、それはぬるぬるしたものにかわり、時間が経ち器が乾くと水で洗われて、また誰かになにかをいれられる。両親の笑顔をそのまま信用することができなかったのは、そんな感覚に囚われていたせいかもしれなかった。そんな時かれは岬の天辺の大きな展望台のような家に暮らしているおじの家にいった。彼のおじは彼を膝に載せて耳許にささやいた。

「秋也の髪は絹のようだね。肌は水蜜桃。指先は白いくちなしの花。あのね、私はね、うつくしい子どもが好きなんだよ」

 おじは青い義眼で秋也をみつめた。秋也は性的に侵されていた訳ではない。けれどおじの柔らかな声は確かに彼の透明な器をいつも濡らした。

「君みたいな子どもがまだ何処か遠くにいるんだよ。君と血がつながったうつくしい子どもがね」

 その言葉に秋也は強い郷愁を覚えた。砂漠で雨が降ってきたように、乾いた心にしみこんでいく。

「いつか私が探してあげるからね。秋也と、まだみていない兄妹みんなでこのうちで暮らそうね。私はハーメルンの笛吹きだから。笛のかわりにほら、このきれいな青い瞳を持っている」

 おじの名前は森(しん)。それは秋也に暗い木々が影を落とす、藪ばかりの湿った道をイメージさせた。しかし森は砂漠の上に高く昇る太陽だった。森が秋也に約束した通りに真夏を連れてきたのは、村がダムに沈んだ夏の終わりのことだった。窓辺に凭れてヴァイオリンを弾く森の音色を耳にしながら、秋也は静かに眠り続ける真夏をみた。僕には兄妹がいる。森の言葉が現実になったのを、秋也は悟った。

 ハーメルンの笛吹きは岬の隠れ家へと兄妹を呼び寄せる。森の青い義眼を舐めた真夏は静かに眠っていた。天井の高い大きな部屋の真ん中に置かれた白いシーツのかかったベッドに。岬に夜が訪れると森は真夏に腕枕をするように横たわり、秋也を呼んだ。

「おいで秋也。一緒に真夏の寝顔をみよう。君のようにきれいな子だよ」

 森は真夏のはじける果実のように透き通ったほほにそっとふれた。秋也は招かれるままベッドの隅に立った。「ほら」と森はシーツの端を軽く空ける。ふたりのあいだに潜り込んで、真夏の温かな体温を感じると、秋也は気分がよくなった。夜が深くなり、親密に彼らに寄り添った。

「君にはあとふたり兄がいる」ささやくように甘い声音で森は秋也の髪を撫でた。

「私の言うとおりに君は手紙を書くといい。きっとふたりもここにくるよ。みんなで暮らそう。なにも心配することはない。なんなら学校だっていかなくていい。ずっと私が君たちを大事にしてあげる」

 森のいったとおりに冬也と春也が岬のはずれのある家にたどりついたのは、月のきれいな大潮の夜だった。秋也の耳の奥に激しい波の音が響いた。

 さてここでようやく語り手である僕の登場である。僕は七宮柾嗣。職業は私立探偵だ。四人の子どもが行方不明になった両親が、その行方を探すことを僕に依頼したのだ。兄妹が思っていたよりも両親は彼らのことを愛していない訳ではなかった。彼らは警察をあまり信用していなかった。両親は兄妹を探すため、最初はある宗教団体に調査を依頼していたのだが、それがどういう訳かまわりまわって彼らは僕の探偵事務所のドアを叩くことになった。結果をいうとそれは正解だ。僕は有能な私立探偵なので、彼らの失った兄妹のことをここまで調べ上げられた。あとはどうやって兄妹を連れ戻すかということだ。僕は森という人物に思いを馳せた。両親はそんな親戚などいないといった。森が兄妹に騙った話は嘘である。魅惑的な青い義眼の彼は危険だと僕の本能がささやいた。森はその魔術的なちからで春夏秋冬の名前を持つ兄妹を集めた。彼がどのような目的を持っているのか、僕はまずそれを探ろうと思った。

 森は目覚めるとまず義眼を空っぽの片方の眼窩にいれる。それが彼の朝の始まりである。キングサイズのベッドに横たわるうつくしい兄妹たちをみつめて、彼は微笑む。光のはいる大理石のキッチンで彼はリコッタチーズのパンケーキを焼く。クリームを泡立て、フルーツを添える。兄妹はこの夢のような朝食に夢中だ。子どもなんて、と森は思う。好きなだけ子どもでいていいといわれれば、それで満足なんだ。怠けたり、甘えたり、みたくないものから目を逸らせたり、逃げる場所があれば、それでいい。岬の上の彼の家で、兄妹たちは確かにくつろいでいた。もう学校や家に帰らなくていい。一日中眠っていてもいいし、気が向けば夜の海辺を歩いてもいい。季節は初夏。涼しい風と眩い光。青春のただなかにいる彼らにとってそれは永遠に続く日々だった。

 そんなうたかたの日々は泡のように去り、終わりは訪れることを僕はしっていた。僕はそのための使者として岬のはずれを訪れる。季節はかならず変わるのだ。その機会を狙うのだ。月のうつくしい夜、ひとりで海岸を歩いていた真夏に声をかけた。このチャンスは僕が探していたものだ。何日も彼らのまわりに目を配らせ、真夏がひとりでいる時を待っていたのだ。僕はひとの心に入り込む隙をみつけることができた。

「ねえ、アイスクリームを買い過ぎちゃったんだ。家は遠いし、すこし食べてくれない? とけそうなんだよ。困っているんだ」

 真夏は僕の自転車の荷台に置いてあるクーラーボックスを覗きこんだ。子どもというものはアイスクリームに弱い。それは子どもにかけられたアイスクリームの呪いである。真夏の目が僕の誘惑にきらりと光った。

「チョコミントとストロベリーショートケーキはある?」

「勿論。マシュマロナッツやブルーベリーチーズもよかったら」

 ようするに僕は森と同じ手段で彼女に近づいたのだ。真夏はクーラーボックスと僕を代わる代わるにみつめた。

「こんなにたくさんのアイスクリームをみたのはじめてよ。もしかしてあなたはアイスクリームマンなの?」

 気怠い夏の夜、自転車の荷台にアイスクリームのいっぱいつまったクーラーボックスを盛って鈴を鳴らしている僕は確かにアイスクリームマンだった。真夏はチョコミントとベリーベリーのアイスクリームを選ぶと紅い舌でさぐるように舐めた。花が綻ぶような笑顔に僕ははっとする。青春時代がふとよみがえる。真夏は夢に誘う能力を持つ、不思議な少女だった。

「明日も来る? アイスクリームマン」

 幾つも幾つもアイスクリームを舐めながら、真夏は陶酔した瞳で僕にいう。

「みんな連れてくる。兄と弟。私たち、とても仲がいいの。たくさんのアイスクリームをみんなにわけてあげたい。ねえ、いい?」

「君たちだけなら、いいよ」

「え?」

「僕のアイスクリームはね、大人は食べちゃいけない禁断のアイスクリームなんだ。君はそれを秘密にできる? 君たち以外、誰にも食べてはだめなんだ。それでいい?」

 真夏はアイスクリームの甘さを喉で確かめるように子猫のような声で笑った。

「うん、わかったよ。アイスクリームマン」

 こうして僕もハーメルンの笛吹きになる。

 兄妹たちが自分の知らない秘密を隠していることに森は気づきはじめていた。目くばせやくすくすわらい、ベッドのなかでのくすぐりあい。子どもっていうのは、と森は思う。なんて散漫ですこしもじっとしていられないのだろう。新しい刺激に弱い。心はまだ新しく、感じやすい。

 甘い物でつるのはもう終わりにしよう。森は静かに冷蔵庫を閉めた。

「月では夜が十四日も続くんだ」

 ある晩、森は大きなモニターで野球の試合をみている兄妹に話しかけた。広いダイニングキッチンで夕食のためのローストビーフを森がナイフでゆっくり切り分けると、グレイビーソースの匂いが少し開かれた窓から外へと流れる。

「月の夜は暗いよ。君たちを見下ろしている月が怖くないかい? あまり夜を好きにならない方がいい」

 森の握ったナイフが月明かりにきらりと光る。

「僕は夜がどれ程長く続いてもかまわないな」冬也はいった。「それが夏であればね」

 春也は森の切り分ける赤い肉を指でつまんで、口にいれた。「夏の夜なら終わらなくてもいい。赤い星が光り、月は遙かな真珠のように海の底で揺れる」春也の身体の奥に森のつくった料理が流れ込む。兄妹たちはもう何度も森の料理を食べた。身体の表面に薄く脂肪がつき、肌はてらてらと光った。

「そうか」森はテーブルをセッティングする。「だったら私が君たちを月に連れてしまおうかな」森はいった。「月はチーズでできているしね」

 彼は切り分けたチーズにハチミツをかけた。ナッツとレーズンをのせた穴のあいたチーズ。それはこの家にきてから子ども達の好物になった。森は料理が得意だった。兄妹が食べたことのないものを次々にこしらえ、彼らは好奇心いっぱいにそれを口にした。だから兄妹は疑いもしなかった。森がチーズにかけるハチミツに毒を混ぜたことを。野球を観ながら兄妹はコカコーラ・ゼロとローストビーフとチーズを食べた。それからベッドにいって眠った。もう目を覚ますこともなく。

「アイスクリームマン」

 疲れ切ったように髪を乱して僕の前に真夏が現れたのは真夜中も過ぎ、明け方近くになった頃だった。僕は海岸で煙草を吸いながらウォッカを飲んでいた。

「やあ。今夜はこないのかと思っていたよ」

「兄さんたちが死んだ」真夏の瞳孔はひらいて、フラッシュをたいたように赤くなっていた。

「え?」

「森が毒を盛ったの。ハチミツに練り込んであったのよ。私は食べなかった。森が眠り込むのを確かめて、逃げてきたの」

 僕は両腕をひろげた。真夏は僕の胸に飛び込んできた。その華奢な身体は細かく震えていた。暫くすると真夏は静かに泣き始めた。涙がほほを伝い、僕のTシャツの胸に温かく染みこんだ。僕は真夏の短く、さらさらとした髪を撫でた。次第に真夏はしゃくりあげた。叫ぶように真夏はいった。

「青い瞳を舐めた私のせい。さらわれたかった。遠い場所にいきたかった。兄さんたちもそうだと思っていた。でも私が導いたのは死への旅だった」

「君はどうやって毒から逃れたの?」

 真夏は僕の身体に伸ばした手にちからをこめた。嗚咽をこらえて、真夏はちいさくいった。

「私、今日、月のものだったの。月の日にはね、甘いものが食べられなくなる。どうして一年前のあの日、私は青い義眼を舐めたんだろう。あの日も月の日だったのに、私は青い義眼を舐めた。甘いものは食べられないはずだったのに」

「きっと月が呼んでいたんだ」僕はいった。

「そうして君たちは遠くに来てしまった」

 真夏は僕の目を覗きこんだ。

「どうすればいい?」

「帰ろう。君だけでも」

「もう兄さんたちがいない」

 真夏のうつくしい瞳から涙がこぼれた。

「私が死に連れ去った」

「君のせいじゃないよ」

「違う。私のせいよ。私の望みが大きすぎたの」

 夏の夜はてもなく夜を紡ぎ出す。そこにはあらゆる魔物が踊り、思春期の子ども達を暗い闇へと誘惑している。それは甘い蜜だ。アイスクリームのように、彼らはとけだしてしまう。

「この罪は私の胸には重すぎる」

 涙に埋もれて真夏はいう。

「そうだね」僕は静かに真夏のほほの涙を拭う。

「真夏」

 僕は彼女にまぶたにそっとくちづけをする。

「君の呪いをといてあげる」

「アイスクリームマン?」

「僕が三つ唱えたら君は眠りに落ちる。そしてもとの場所に戻っている。もう君の兄弟はいないけれど、君にはまだ未来がある。さあ、いこう」

「何処へ?」

「だいじょうぶ。帰るんだ」

 真夏の手からちからが抜ける。満ち潮の波音が激しく僕の耳に届く。月は銀色に輝き、僕たちをみおろしていた。

 そして真夏だけ両親の許に戻ったが、マスコミはこのスキャンダルを放っておかなかった。彼女の住んでいたニュータウンにうわさは黒く大きな巨人のように彼女たちを覆った。家族は転居を余儀なくされた。

「私だけ施設にいくことになったの」

 最後に逢った時、真夏はいった。

「本当は私が里子にだされるはずだった。でも兄さんたちが絶対に私を手放さなかったんだって。でもそのことがあって、秋也の時に両親はかなり早くから手を回したみたい。最初に私が里子にだされていれば、こんなことにはならなかったかもね」

 季節は変わり、もうアイスクリームの販売も終了だ。真夏は薄手のコートを着ていた。もともと華奢な身体の真夏だったが、彼女はやつれきって、そしてすこし大人になっていた。

「いつかまた海岸にアイスクリームを持っていくよ」

 僕の言葉に真夏はほほえんだ。

「もうアイスクリームは食べないわ」

 彼女は伸びた髪を秋風に揺らした。

「甘い魔物から遠く離れた場所にいく」

 僕は真夏にふれようとしたが、もう大人に近づいて彼女はあの夏の日とは違ってみえた。

「さよなら。アイスクリームマン。いつか何処かの海岸に月が昇っても、きっと私はもうあのときの私じゃない」

 真夏が去ったあと、僕はふと甘いアイスクリームの匂いが僕を包んでいることを感じた。それは遠く去って行った夏の日の香りだった。