編集部ブログ作品

2017年6月19日 16:09

貝と人魚

 犬を連れて散歩をしていると、突然雨が降り出す。大きな雨粒は敷石道をあっというまに黒くまだらに染めてゆく。六月の真昼の雨は梅雨の合間の太陽に火照った身体を冷やす祝祭のようだ。

 降水確率20パーセントで降り出す雨。

 僕は犬を抱き上げ、ブルゾンのなかにしまう。生まれてからまだたった二ヶ月の子犬はおとなしく雨をみている。彼には雨ですらまだ新鮮なのだ。

 祝祭としての土砂降りの雨のなか、ひとりの少女が踊るような足取りで誰もいない公園通りを歩いてゆく。顎のラインで切りそろえられた細い髪。白いTシャツの濡れた半袖から透けるように覘いている小枝のような腕。ふくらんだリュックを背負った頼りない背中。無防備なくるぶし。履きつぶしたスニーカー。ダメージの入ったリーバイス501。両腕に何冊もの本を抱えている。僕は思わず彼女に声をかける。

「ねえ、君。どうして傘をささないの」

 女の子はゆっくりと振り返る。その仕種に僕ははっと息をのむ。言葉にならない言葉がアイスクリームのように風のなかに融けてゆく。女の子は雨に潤んだ瞳で僕をみる。

「傘?」

「君、ずぶ濡れだよ。髪も服もスニーカーも」

 女の子は肩をすくめる。灰色がかった瞳の色がめずらしい。チャーミングで、ミステリアスだ。

「傘、持ってない」

 それだけ、というように女の子はいう。いけない? と。でもいわれてみれば僕だって傘を持っていない。むせるような緑の匂いのなか、雨は強くなり、僕たちのほほや肩を打つ。

「雨は冷たいよ。君の身体を冷やす。君、肺炎になってしまうかもしれないよ」

「肺炎?」

 女の子は不思議そうに首を傾げる。そんな言葉は生まれて初めて耳にした、という表情で。

「君の髪も胸もTシャツもくるぶしもびしょ濡れだ。僕の家はすぐそこだ。僕の家にきて、シャワーを浴びて、身体を乾かしたらいい。おいで。よかったらサンドウィッチもごちそうするよ」

 僕は右手をさしだす。彼女はとまどうようにそっと身を引く。雨が僕たちの間を縫うように降る。銀色の糸が幾筋も流れている。その時、僕のブルゾンのなかにいた犬が顔をだす。沈黙から僕たちを助け出すように。彼女の顔がふっと綻ぶ。

「かわいい......

「うん。かわいいでしょう。まだ生まれて二ヶ月とちょっとなんだ」

「名前は?」

「まだない。でも君がつけてもいいよ。僕の部屋で髪を乾かしたあとで」

 彼女は濡れた髪を指で梳っている。くちびるを噛んで、なにかを考える瞳になる。犬がくうん、と声にならないため息を漏らす。彼女はためらいがちに僕に(それとも犬に?)手をのばす。それは沈みかかった船からさしだされたように儚くて、僕はその現実感のな

さにここちよい眩暈を憶える。雨は妙なる音を響かせながらアパートに向かう僕たちを見送る。

 僕の部屋は古いアパートの螺旋階段を昇り、最上階の廊下をずっと歩いた最後のつきあたりにある。青い扉を開けると、彼女はスニーカーで敷居の上を通り過ぎる。玄関を入ったところで彼女はすこし立ち止まる。雨で濡れた髪やシャツから水滴が落ちて、足許にちいさな水たまりができる。犬の顔が映っている。僕はそんな彼女にかまわず家のなかを歩いて回る。バスタブにお湯をため、清潔なタオルや着替えを用意する。そして立ち尽くしている彼女にそれを手渡す。

「バスルームにお湯がたまったよ。ミントの葉を散らしておいた。暖まってくるといいよ」

 彼女は決心したように濡れたスニーカーを抜いで、僕の部屋に入ってくる。白いフローリングに彼女の足跡がつく。微かにふるえている彼女をバスルームに閉じ込めて、僕はリビングの椅子のひとつに座る。それは教会用のアンティークの椅子で背に聖書が入れられるようにボックスがついている。僕はそこに差し入れられている外国の雑誌を読むともなく眺める。シャワーの音と雨の音が混ざって聞こえる。犬が足許でじゃれている。部屋のなかがいつもと違う匂いになる。マシュマロの淡い甘さのような、子どもの頃の夜店を連想させる懐かしい匂い。窓の外では雨が降っている。空気は灰色に煙って緑の葉を揺らす。

 気がつくと彼女が浴室から出てきて、僕の前に立っている。髪は濡れたまま。無防備さが彼女を幼くさせる。華奢な身体の線がはっきりわかる。なぜなら彼女はバスタオル以外なにも身につけていないから。僕は驚いた顔をみせないように注意深く立ち上がり、キッチンで彼女のために飲み物を用意する。彼女は濡れたTシャツやデニムを無造作に僕の部屋に幾つも点在している椅子の背にかける。どうしてだろう。僕は彼女がなんだかかわいそうになる。捨てられた子猫みたいだ。胸がきゅんと痛む。バスタオル一枚のまま、彼女はリュックから本を取り出し、眺めている。僕はキッチンでソーダにライムをぎゅっと搾る。柑橘類のさわやかな香りが広がる。

「本を読むのが好きなの?」

 ライムソーダを手渡しながら僕はいう。

「祖先を研究しているの」

「ふうん......

 僕はあまり考えずに曖昧な返事をする。ふと約束を思い出し、冷蔵庫からパンを取り出し、バターを塗り、チーズとキュウリのサンドウィッチを作る。京都のイノダコーヒでしか食べられないチーズサンドウィッチを再現する。僕はイノダコーヒのサンドウィッチが好きで、京都に行くと必ず食べる。アップルパイも好きだけど、キッチンに林檎はない。僕は彼女にサンドウィッチを差し出しながら言う。

「君は......、ずっと外国にでもいたの?」

「どうして?」

「なんだか君は遠い異国から流されてきた魚みたいだからさ」

「変なひと」

 彼女はサンドウィッチをぱくりと食べる。拾ってきた子猫が初めて手から食べてくれたかのように僕はうれしくなる。

「君の名前をまだ聞いてなかったな」

「流架(るか)」

 短く彼女はいう。長い睫毛。ライムソーダに添えたチェリーのように赤いくちびる。青い夢をみているような揺れる眼差し。僕の胸はまたきゅっと鳴る。犬がちいさく吠える。甘えるように、流架の手を舐める。

「その犬の名前をつけて」と僕はいう。

 流架は子犬を抱き上げて、じっと黒い目をみつめる。犬はおとなしく流架の目をみつめかえす。流架のくちびるがほどける。

「貝がいい」

「貝?」

「そう。海の底に眠っている、貝」

 僕は名前をつけられた子犬をみる。貝。でも彼にはきっとわからない。貝、と流架が呼びかける。貝は流架の腕のなかに入る。鼻先を流架の胸に押しつけて、くうんと甘えるように鳴く。

「困ったな」と僕はいう。

「貝をとられて?」

「うん。まあ、それもあるけど」

 テーブルの上の食べかけのチーズサンドウィッチとライムソーダ。すこし離れた場所の椅子に座る僕たち。僕は椅子から立ち上がり、

彼女に近づく。彼女は貝を抱いたまま、じっと僕の目をみる。その色の薄い瞳はなまめかしい音楽のように揺蕩う。 

「君が雨のなかにいたときに僕の心に芽生えたのは親切心だと思っていたけど、違うみたい」

 僕は椅子に座っている流架の手をそっととる。貝が腕からこぼれて床に降りる。足許に落ちているチーズの欠片を舐める。

「僕は流架、君に一目惚れをしたみたいなんだ。どうしよう?」

「ばかね。傷がつくだけよ」

 視線を逸らして流架はいう。さりげなく指を離す。彼女に僕の言葉と届いていないみたいだ。壁に掛けておいた時計の針が止まっていることに気づく。外は薄暗く、雨は降り続く。

「傷なんてつかないさ。僕は男だから」

「純真は失ってから、もうそこにないと気づくのよ」

 僕は傷について考える。僕にとってそれ程重要ではないように感じる。僕は他人のなかのなにかを見つけ出したい。なにかを探したい。僕は彼女を理解したい、と思う。なによりも、その場所からはじめたい。でもなにから?

 キッチンのテーブルの上を片付け、僕は冷蔵庫に残った野菜でスープを作る。彼女の服を乾燥機にいれる。彼女に僕のパジャマを渡す。パジャマに着かえた流架は僕の作ったスープを銀のスプーンでくちびるに運んでいる。もう何日もなにも口にしていないのかもしれないと心配になるほど、彼女はよく食べる。けれど可哀想になるほど、彼女は痩せている。そういえば流架は幾つなんだろう? 21にも12にもみえる。

「流架」と僕は名前を呼ぶ。彼女はうつむいたままだ。どんな質問をしたらいいのか、僕にはわからない。

「スープのお代わりは?」

 つまらないことだとわかっていても、僕は訊く。流架は顔をあげる。

「コーヒーがいい」

 僕は頷く。彼女のために何かできるのがうれしい。コーヒーの豆をミルで煎って、熱いお湯を注ぐ。

「ミルクやはちみつは?」

「好きにして」

 すこしためらって、それから思い切って僕は訊く。

「君のことも?」

「貝をくれたらね」

 流架はすこし微笑む。

「貝をあげるよ。他に、僕が持っているもので君が欲しいものは、なんだって」

「じゃあ、キスして。ヴァニラよりも甘い味の、キス」

 僕は流架を抱き寄せる。潮の香りがする。僕たちは床の上に倒れ込む。そのまわりを貝が走り回る。僕は流架のパジャマをゆっくりと脱がせる。その下の流架の身体はミルクのように白く、なめらかでいい匂いがする。この皮膚のしたにどんな思いが閉じ込められているのか。僕はみたい。さわりたい。感じたい。想像はやめよう。想像力は自己の孤立化と恐怖につながっている。楽しむんだ。流架の温かな肌にくちびるで赤い花を咲かせるんだ。高い天井の下の冷たい床の上で、僕たちは愛し合う。彼女の身体の奥に沈み込む、手探りで深い夜の底に降りる。目を瞑り、闇に溺れる。温かな肌。吐息。伝わる鼓動。眩暈。揺れる。揺れる。波のように。

 すべて終わり、沈黙の隙間に雨の音がする。そして僕は気づく。流架が息絶えていることに。どうして? 流架--------。僕は流架の動かない睫毛をみつめる。青醒めたほほをさする。爪も白くなった手足が床の上に投げ出されたまま、冷たい月のような生命を持たない、流架......

 僕は動揺する。ただ流架をみつめる。間違った場所で、間違ったドアを開いてしまった気持ちになる。ここは本来来るべき場所ではなかったという思いに囚われる。

 でもこの結末を僕は識っていたように思う。流架はあまりにも現実味がなかった。貝が流架の顔に顔を寄せる。貝。君は流架のものになったんだね。君は流架の死をわかっているのか。

 僕は息絶えた流架を車に乗せて、高速道路を走る。雨はまだ止まない。空には重い雲が重なって流れている。貝は窓から首を出したそうに遠くへ過ぎてゆく景色をみている。貝に時間という概念はあるのだろうか、と僕は思う。人間は経験と記憶でつくられる。刺激と想像力と思考で生きている。流架にはもう必要のないものだ。僕はコンラッドの言葉を思い出す。

--------「神のほんとうの住処は、もっとも近い陸地から少なくとも一千マイル離れたあらゆる場所から始まる」とし、そういう場所でなら、人間は自分のすべてを十全に発揮できるーーーーー。

 僕になにができる?

 僕はただ流架の遺体を車に乗せて海を目指しているだけだ。眠ったように後部座席に横たわっている流架。その身体の上を歩く貝。二ヶ月前にはこの世界に存在していなかった貝。そう思うと不思議な気がする。そしてつい数時間前までは生きていた流架。貝は僕のことを憶え、僕のいうことをきく。空高く投げたボールを追いかけて、それを口にくわえて戻ってくることもできる。流架はもう二度と走れない。やはり不思議だ。というか理不尽だ。不意に激しい感情の波が僕を襲う。それは月が潮の満ち引きをするように激しく僕を揺り動かす。僕はアクセルを踏み、幾台かの車を追い越す。ハイウエイを駆け抜ける。涙がほほを濡らし、これが涙か、と僕は思う。僕は泣いたことがなかった。傷をつけられたことがなかった。僕は幸福な人間だったのだ。

 海辺につき、僕は車を停める。流架を抱きかかえ、波打ち際へと歩く。貝が後ろから楽しそうについてくる。貝には初めての海。初めてのピクニック。白く泡で濁った波が足許を浸す。雨は細かな霧のようになり、風景をぼんやりと霞ませる。僕は腕のなかの流架をじっとみる。まるで眠っているように穏やかな顔をした流架。睫毛が揺れ、次の瞬間ぱっちりと目をあけ、「おはよう」と言葉を発するようなくちびる。それはヴィジョンに過ぎない。流架、君はここにいるけど、もう君はいないんだね。僕は流架の身体を抱きしめ、くちづけをする。そして寄せる波をオールで漕ぐように沖へと進む。足の下で砂が崩れる。波が僕の身体を包み込む、胸の高さまで水が及ぶ。もがくように波をかきわける。ゼリーのような青く透明な海水が僕の手からクリスマスの贈り物を受け取るように流架をさらってゆく。流架は人魚になる。流架にキスした時感じた、胸の痛みがこの海にある。ゆっくりと僕から離れ、海の彼方へと消えてゆく流架。僕は涙を拭う。葬儀は終わりだ。貝が待っている岸辺へと戻る。その時、目の端にきらりと銀色の背鰭が煌めく。これもヴィジョン? 貝が吠えている。僕は振り返り、流架が消えた方向に目を凝らす。

 人魚のような、流架。

 その言葉はメタファーだったはずなのに、今、僕の目の端を掠めた銀色の尾びれはなんだろう?

 僕は車に戻る。流架の持っていた本をつかむ。そこに答えがあるような気がする。それは海水魚と進化について書かれた書物だ。

「祖先を研究しているの」

 流架の吐息を含んだ言葉。僕が曖昧に聞き逃した言葉。どうしてあのとき僕はーーーー。そう思っても、もう遅い。未解決の問題が目の前にあった時、僕はいつもみないふりをしてきた。怖いからだ。僕がなにもしらないこと。世界がひろいこと。現実を理論化すること。そのどれもが僕を卑小な存在だと僕に知らしめるかのようで。僕は海の彼方をみつめる。

 彼女は本当に人魚だったのだろうか?

 気持ちを鎮めようと、僕は貝の温かな手触りを求める。

「貝?」

 僕は犬を呼ぶ。初めてのピクニックに喜んでいた貝。何度も砂浜で吠えていた貝。何処にいる?

 僕は車から離れ、貝を探す。名前を呼ぶ。僕の声にいつもしっぽを振りながら駈けてきた貝が、何処にもいない。

「貝。......貝?」

 僕は雨に濡れた黒い砂地のうえに、仄かな月の色をした、犬の寝姿に似た大きな貝をみつける。

「貝?」

 それは僕の声に応えるように、そっと殻をひろげる。そのなかにはきらきらと光る真珠がある。その真珠をそっと掌に載せると、それは輝く雨の水滴となり、僕と流架が出逢った場所へと引き戻す。そして僕は雨のなかにいる流架に声をかける。物語は繰り返され、僕は迷宮から抜け出せない。

 この呪いはなんだろう。結ばれない永劫の物語は月が呼んでいる潮の満ち引きのように、僕から離れることなく、僕は言葉を明瞭にする手段を持たない。僕は文字通りの文盲でないのにも関わらず、書かれた文化的遺産を解読する術を持たない。そもそも言葉で経験を明瞭な事実にすることすらできない。僕の無知がこの呪いをひきよせる。僕は何度も何度も流架と出逢い、何度も何度も流架を、愛を失う。雨に閉じ込められた夏の魔術は永遠に終わらないのだ。