編集部ブログ作品
2017年5月29日 14:04
夏に沈む
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
少年はランドセルを茂みの中に放り出し、自身も灌木の内側に入り込む。
そこは大きな公園の一角で、まわりからは死角になっている。少年はそこに横たわる。
多分、今算数の時間だ。でも少年は年度の初めに教科書をもらうと、それを読んだだけで、すべて理解することができた。家庭訪問の時、担任の女教師が少年の知能の高さをため息まじりに語った。
その話を聞いても少年の母は特に興味を持ったようではなかった。
毎朝、少年が目覚めると、母親はもうすでに出勤しており、テーブルの上に朝食代、と五百円玉が一枚置いてあった。少年に父親はいなかった。逃げてきたのよ、とある夜、酔った母がいった。ひどい男だった。今は刑務所にいる。
なにをしたの? と問うても、つまらないこと、としか母はいわなかった。
コンビニでサンドウィッチとコーヒー牛乳を買って、秋のはじまりの中で少年はうたたねをしていた。
「坊ん(ぼん)、俺もここにいていいか」
不意に大人の男の声が聞こえた。少年は驚いて、身体を硬くした。
逆光で、男の顔がよく見えない。色のあせたTシャツに、軍パンを履いている。
「サンドウィッチとコーヒー牛乳か、いいな、坊ん」
うらやましげな男の声に、少年はサンドウィッチとコーヒー牛乳を男に差し出す。男は遠慮することもなく、がつがつと食べ始める。
「まともなもの、食ったの、久しぶりや。ありがとな、坊ん」
少年は考える。僕は大声をあげて、助けを呼ぶべきだろうか。いや、おとなしくしていた方がいいだろう。
「このあたりは高台だ。坊んはここの生まれか」
少年はあいまいに頷く。
「ええなぁ。俺の住んでたうちは低い土地だった。大雨が降ると、すぐ水がでた。父親はいなかった。母親もいつのまにかいなくなった。俺、頭悪い、ようおぼえとらん」
変な言葉だ。話し方も少し奇妙だった。
「今、人を殺してきた」
男の言葉に射されたように、少年はうつむいたまま、動けない。もしかしたら、この男は僕のお父さんなんだろうか? 男は少年がいるのを気にしているのか、していないのか、茫漠とした瞳で話し続ける。
「玉のような青い瞳の女の子だ。外国人と違う。ハーフでもない。日本人だ。神経ほうがしゅ......、なんていったかな、そんな病気で、目が青くなるんだ」
「なんで殺したの」
それには答えず、男は微笑んだ。優しい目をしていた。人殺しでも、いいか、と少年は思う。ひとを殺して、どうしていけないんだ?
「死体、見に来るか、坊ん」
少年はランドセルを背負って、立ち上がった。少年は欲望を憶えた。死体がみたかった。
公園のはずれに市民プールがある。二人は金網を登り、中に入る。透明な水の中に白いワンピースを着た女の子が沈んでいる。
「な、目、青いやろ」
「でも片目しかないよ」
「俺が食べたん。剥いた葡萄のように綺麗だった」
少年は剥いた葡萄を想像する。瑞々しくて、甘い。男は黙ったままだった。目を細めて、沈んでいる青い瞳の少女を見ている。
「この水、透明やな......。俺のとこにでる水はいつもぬかるんで、水が引いた後はどこもかしこも泥だらけだ。エリスはこんな澄んだ水の中に沈んで、幸せだと思うな」
「エリス?」
「そこで沈んでる子の名前だ。青い瞳のエリス。そんな小説、読んだことないか」
「ない。作り話なんかいらない」
「俺も読んだことはないんや。中学もろくに出てないしな。でもエリスは本が好きでな。兄さん、私、この物語の中の女の子みたいでしょ、といつもその本を胸に抱えていた」
「兄さん?」
「そうや。その子は妹や。血はつながってないけどな。私立の矯正施設で出逢った。一緒に脱走したんだ。手はつないだけど、あとは綺麗なもんだ。なんもしとらん」
「でも殺したじゃないか」
「......ああ、何でだろ......。俺、なんで大事な妹、殺してしまったんだろ......」
少年は顔をあげて男を見る。
「僕も殺すの」
男はぼんやりとした顔をする。
「なんでや。坊んは青い目しとらん。学校いきな。俺は暫くエリスを見てる」
「僕、警察にいくよ、おじさんは......」
少年は次の言葉を飲み込む。おじさんは僕のお父さんなの?
「かまわん。サンドウィッチとコーヒー牛乳、ありがとな」
男は少女が浮かんでいるプールの水を掬う。
「あんなに水がでるの、こわかったのに、俺、大事な妹、水の中に閉じこめてしまった......。なんでだろ......」
男の言葉に誘われるように雨が降り出す。
「おじさんも水に沈むよ」
「......俺か」
「この雨、きっと増水してあふれる。おじさんは青い目食べたから水に沈むんだ。永遠に。僕にはわかる。おじさんが首まで水に浸かってるのが僕にはわかるんだ」
男は悲しげに首を振る。
少年は金網を降り、駆け出す。男は追ってこない。雨が強くなる。少年の目に雨の滴が入る。
このままでは僕も水に沈む、と駈けながら少年は思う。僕は何処に行けばいい?
何処にも行けない、あなたも沈むのよ、と青い片方だけの瞳の少女の声が何処かから聞こえる。それは呪いだ。
少年は雨に身体をぐっしょりと濡らしながら、駈けてゆく。