編集部ブログ作品
2017年4月11日 18:34
青い瞳の花束
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
小さな頃、私の片目は世界を見ることが出来なかった。
先天性の弱視で、治療のため見える方の目に黒い眼帯をつけられ、そのために私を取り巻く世界はいつもぼんやりと霧にかすんでいた。
私は幼稚園にいかなかったから、いつも庭の片隅で青い花をリボンで結んで幾つも小さな花束を作っていた。
青い色だけは何故か鮮明に映ったので、両親は庭の塀を青く塗ったり、私が使う食器や服も青いものをそろえてくれた。
ある日、私の庭に頬のふんわりした、同い年くらいの男の子が青い塀を乗り越えて入ってきた。その日、庭には私ひとりだった。幻影のように私は男の子をみつめた。その男の子からは伽羅の匂いがした。
男の子は何も言わず、私の手からそっと青い花束をつかみとった。ぼやけた視界の奥で私の心のしずくが静かに落ちるのを感じた。男の子は私が持っていたシャベルで地面に穴を掘り、青い花束を土に埋めた。アイスキャンディの棒を二本見つけて、十字にして埋めた花の上に立てた。
男の子は黒いネクタイを結び、黒い服を着ていた。私も彼もずっと黙ったままだった。でも初夏の涼しい、鮮やかな空気の中にいると、私は今まで感じたことのない充足感を憶えた。
霞んだ目でそっとみる男の子の柔らかそうな指、音をたてて流れ落ちそうな髪、そして男の子は私の片目に貼られた眼帯をみてもなにも言わなかった。私はこの眼帯のせいで、よく人に避けられることがあった。でも男の子は眼帯どころか、私のこともみてなかった。
「もう行かなくっちゃ」
入ってきた時は無言だったのに、妙にきっぱりとその子は言った。
「名前、なんていうの」
私が名前を言うと、男の子は「憶えておくよ」と言った。
塀の向こう側に黒い人影の塊が見えた。男の子は立ち上がって、おしりについた砂を手で弾くと、黒い人達の群れに沈み込んだ。
「それって初恋の話?」
はじめて男の子とセックスした後、ベッドの中で私は彼にその話をした。
私は十六歳で、もう目に眼帯をつけていなかった。
片目は軽い斜視だったが、よく見なければそれとわからない程、視力は回復していた。
彼は私の通う女子校の隣りにある男子校の生徒で、文化祭の時に初めて逢った。
私は茶道部だったので、茶室で緑の抹茶を点てていた。彼はお茶を飲んだ後、ひとり茶室に残った。私のセーラー服のリボンをそっと指で掴み、自分の名前は高宮鳴彦だ、といった。彼は私をみつめながら「一目で君を好きになった」と言った。
からかわれているのかな、と私は背の高い高宮鳴彦と名乗る男の子を見つめた。黒目がちの大きな瞳をしていた。真剣な目だった。頬が少し紅潮していた。
「コンタクトはしてますか」と私は言った。
高宮鳴彦は少し驚いた顔をした。
「いや、してないけど......。でも、君とつきあうのにそんな条件がいるの?」
私は首を振った。高宮鳴彦は驚くとまた目が大きくなった。睫毛も長い。
告白されたのは初めてではなかった。中学に進学する頃から、道で見知らぬ人に手紙を渡されたり、屋上に呼び出されたりもした。でも私は他人がこわかった。私の心はまだ満ちていない月だった。だけど高宮鳴彦の大きな目に、私の心は動いた。
「オレ、目はいいんだ。ずっと遠くまで見えるよ。君が教室から出てくるのを向かいの校舎越しに見えたから、追っかけてここまで来たんだ」
もう幼い頃よりずっとよくなっていたけれど、校舎の向かい側にいる、どれも同じ制服を着た人物を見分けられるなんて私には想像もつかなかった。
「......わかりました。おつきあいします」
私は少し微笑んで彼をみあげた。「ありがとう」と彼も笑顔をみせた。瑞々しい清い風が部屋をかけていった。彼は右手を差し出した。ためらいながら私が手を差し出すと、強く、それでいて壊さないようにと繊細に掌に包んだ。温かい手だった。
彼と初めてセックスをしたのは、それから一ヶ月後のことだった。
こわくはなかった。後悔もしていない。
高宮鳴彦の大きな瞳で、裸の私をみてもらいたかったのだ。
「私の身体、どこか歪んでない?」
私の問いに高宮鳴彦は顔をあげて「すごく綺麗な身体だよ。どうしてそんなこというの」と不思議そうに囁いた。
セックス自体はあっけないものだった。幼い頃世界が全て霧の中に包まれて、歩く時はじっと足許を見つめて、それから前をみて、転ばないように、何かにぶつからないように、といつも脅えていた気持ちに比べれば、ただ身を任せるだけでそれは終わるのだ。全然違う。特に快楽はなかったけれど、その分痛みもなかった。私の身体は、私の心とは別にすでに成熟していたのだ。眠ってしまった高宮鳴彦の背中に顔を埋めると、思いがけなく心がほどけた。それはセックスよりも私を強く動かした。ひとの温もり、肌のふれあい。初めてなのに、懐かしい。私は黙ってすこし泣いた。
共稼ぎで、殆ど両親のいない高宮鳴彦の家を出たのはもう黄昏が指先を染める時刻だった。送っていく、という彼にひとりで歩きたい、と私はいった。
自分に戻りたいの、という私の言葉の意味を彼はわかってくれた。家についたら電話して、と彼はいった。私は頷いた。
まるで虹の消えない雨上がりのような秋の空気のなかを私はひとりで歩いていた。木々の連なる道には何故か誰もいなかった。私は軽い目眩を感じながら、足許の小石を踏まないようにうつむいて影をみた。
だからひとりの男の子とすれちがったことに、気づかなかった。私を振り向かせたのは伽羅の匂いだった。夕暮れの淡い光のなか、彼もまた振り返って、私をみつめていた。
彼がゆっくりと私の名前を呼んだ。不思議なほど静かな気持ちで私は頷いた。
「行こう」と彼が言った。私は黙ったまま後ろをついていった。何故だろう。伽羅の香りは手紙のように心に文字を刻んだ。
鈴懸の樹に囲まれた黒い大きな門を彼は開けた。飛び石の先に古い日本家屋が薄く浮かんでいた。夜に目覚めるこうもりが飛んでいる。広い庭には名も知らぬ青い花が咲き乱れている。小さな池にはめだかが泳いでいた。
彼は母屋の方には入らず、大きな庭の隅に建てられた離れに向かった。
「父親が再婚した時、向こうの連れ子が女の子で僕と同い年だったんだ。それから僕の住む部屋は母屋から離れに移ったんだ」
微笑みの含んだ声で彼は言った。私は頷いたけれど、彼の父と、その妻となった義母の心に蒔かれた暗い種が、彼をそこなうことのないように、と彼にきこえない声で呟いた。
彼は私を茶室に通した。そこにはちゃんと茶器があった。みせて貰った器も有田焼の上品なものだった。
「お茶を点ててもいいですか?」
私の言葉に彼は頷いた。彼は高宮鳴彦とはちがう。私を苦しくさせる。でも彼に導かれるまま、私と彼はふたりきりでみつめあう。そんな視線に呼吸が速くなる。でもそれは恋ではない。私と彼は離ればなれで育ち、巡りあった兄と妹のようだった。
お湯が沸く、暫くの間、私達は一言も喋らなかった。障子の向こう側はぼんやりと暗くなっていた。夜が訪れようとしていた。
「あの日......」
点てたお茶を彼に差し出して、私は沈黙を破った。
「花束を埋めたあの日、お母さんが亡くなられたんですね」
彼は暫くの間黙っていた。綺麗な仕種でお茶を飲んだ。器を畳に戻すと、彼は目を細めて私の髪を見つめた。
「......君は今でも髪が長いんだね」
私は無意識に髪にふれた。それは私の胸の下まで届いていた。
「あの時、色とりどりの花に囲まれて、長い髪の女の子が青い花束を作っているのが見えた。まるで僕の死んでしまった母への追悼のように」
そこで彼は空虚に笑った。思い出を捨て去るように。伽羅の香りだけが私に届く。それは夢の続き。夜が底に沈むようにゆっくりと闇が深くなる。
「......そんなことはありえないのにね。君は花を摘んでいただけ。でも僕には特別な光景のように見えた。あの頃、君の目は青かったね」
私は顔をあげた。彼をみた。首に微かな痣があった。寂しさの証のように。私は初めて彼をみたような気持ちがした。私はいう。
「私の目が青かった?」
「うん、片方の目に黒い眼帯をして、開いた方の目は青かった。三月の夜更けのように静かな青だ。幼い君は青い花や家に守られるように佇んでいた。僕は青い瞳をした君の庭に死んでしまった母の魂を埋めようと思った」
私は彼がみたという幼い頃の自分の姿を思い浮かべる。
腰までの長い髪に、片方の目に黒い眼帯をし、もう片方の目は青い。陽当たりのいい庭で青い花を摘む......。
「来週にはもうこの家から出ていくんだ。親父の会社が倒産してね。母親と妹も出ていった。最後に君に逢えてよかった」
私は彼をじっと見つめた。
「ねぇ」
私はからからに乾いたくちびるを開いた。
「私の瞳はまだ青いの?」
「海の底よりも」
そうだ、私はまだあの庭にいる。何処にもいくことはできない。きっともう高宮鳴彦とも逢えない。あの肌の温もりが消えてゆく。落とした涙は戻らない。永遠に私はもう何処にもいくことはない。あの庭から出られない。
何故なら私はあの日、彼によって埋められた青い花束だからだ。