編集部ブログ作品

2017年3月27日 16:22

夜の旅

 時折、眠れない夜がある。夜に閉じ込められそうになる。そんな時はただ窓辺で空をみあげている。夜空がやがて銀色になり、明るい日差しが東の空に浮かぶ。そうして朝がくる。だいじょうぶ、今日がはじまる。昨日とおなじように。きっと明日もおなじように。僕は安心して、眠りにつける。 

 生まれた瞬間の記憶があるという小説を読んだことがあった。けれど僕は最初の記憶なんかないといってもいい。母親に写真を指差されて、「ほら、さっちゃんはこんな風だったのよ」といわれて、そうか僕は保育園の時、こんな服を着ていたのか、と思うだけだ。

 僕はほとんどなにも覚えられない。勉強もそうだし、ひとの名前や顔もそうだ。だから友だちだってひとりもいない。特別いじめられている訳でもないけど、話しかけられることもない。

 僕の名前は満潮福也(みしお さちや)という。県立高校に通う16歳だ。背の高さも体重も偏差値もごく標準で、目立つタイプではない。僕は想う。僕は自分というものがわかっていない。世界だってしらない。でも自分をわかっている16歳がどれぐらいいるのだろう? 自分をわかっている61歳がどれほどいるのだろう? 誰もしらない。きっとしらない。 

 七つの時に神隠しにあったの、と初めて逢った時、彼女は僕にいった。庭の柘榴を食べた時にね。白い猫が現れて、私を誘うように歩き出した。真昼の白い月が浮かんでいる道をずっとずっと歩いていた。柘榴の実は赤くて、私のワンピースも赤くて、ただ月は白くてね。道は遥かに青かった。私は眩暈にすこし酔ったようになって、神社の祠のすみにしゃがみこんだ。ふと顔をあげると、星が矢のように降ってきた。青い空と白い月を縫うように、きらきらと眩しく。それはとてもきれいだった。私はいつまでも空をみあげて、雨のように降り続く星をみていた。誰かが私の肩をそっと抱いた。大きな、温かな感触に私は身を委ねて、いつのまにか眠りに落ちた。 

「それが神隠し?」と僕は彼女にきいた。彼女は短く切りそろえた、すこしくせのある髪を揺らして、「うん」と頷いた。

「気がついたらね、一週間経ってたの」

「一週間?」

「そう。星をみて、眠りに落ちて、家に戻ったら、みんながびっくりして。警察のひともいて、母は泣きはらした顔をしていて」

 彼女の名前は藤村小鳥。僕と小鳥は塾で知り合った。といっても同じ授業を受けていた訳ではない。ある日、僕のすわった机の上に鉛筆でこんな風に書いてあった。

「神隠しの話をききたいひとはいませんか?」

 僕はすこし考えた。教室には制服の違う生徒が並んでいた。授業が終わったあと、僕はそこに鉛筆でラインの連絡先を書いた。

「福也くんは忘れたいことがあるの?」

 小鳥はその名前の通り小さくて、薄紅色をしている。僕たちは日曜の午後、約束もなく出逢い、なんとなくそのままスターバックスのカウンターにふたり並んでコーヒーを飲んでいた。

「忘れたいというより、僕はなにも憶えられないんだ」

「それってほんとうは忘れたいからじゃない?」

 小鳥はイチゴ入りの紅茶を飲んでいた。甘い果実の香りが淡いくちびるからこぼれた。

「私と思い出を作ってみない?」

「思い出?」

 僕は顔をあげて小鳥をみた。彼女は薄くほほえんでいる。秘密めいた瞳で。

「そう。旅に出ようよ。誰にも内緒で」

 僕と小鳥はまだ高校生だ。海と山に囲まれた地方都市に住んでいる。東京の大学に行きたくて、塾に通っているけれど、僕は殆どこの土地から出たことがない。

「旅って、何処へ?」

「福也くんの行きたいところ」

「お金はどうするの?」

「神隠しにあってから、まわりの大人のひとたちがどういう訳かよくお小遣いをくれるようになったの。時には知らないひとから手紙とお金をいただいたり。だから私、結構貯金あるの。一週間くらいなら、福也くんの好きなところに行けると思う」

 僕と小鳥はつきあっている訳ではない。でもふたりとも他人に興味がないところが似ていた。思春期のさなかにいる僕たちはそれだけでひとつになることができた。僕に性の芽生えがなかったとはいわないが、それを特定の異性に結びつけることはまだなかった。僕は幼かった。

 それよりなにより僕は遠くにいきたかった。

 自分じゃないなにかになりたかった。

 でも他人にはなりたくなかった。

 小鳥もきっと僕と同じ気持ちなんだろうと思った。だから僕は小鳥と最終便の電車に乗ったのだ。片道切符を手にして。

 窓からみえる夜空は青く、広く、星が瞬いていた。

「いいのかなあ......

「うん?」

「誰にもなにもいわなかったぞ」

「うん」

「これでよかったのかなあ」

「福也くんはさあ......

 小鳥は僕の手をぎゅっとつかんだ。

「きっとなにかをみつけるよ」

 僕の胸がひとつ音をたてた。ああ、小鳥は確かに神隠しにあったのだ。こんな子はきっと連れていかれる。夢に誘うのが上手な小鳥。夜空は無限に広がっている。僕たちは空に昇ってゆく。もうきっと生まれた場所には還れないないだろう。

 それでもいい。

 隣には小鳥がいる。

 夜の彼方まで、彼女といこう。

 もう戻れない場所までいこう。

 僕たちは神隠しにあう。

 星が矢のように降っている。

 ふたりで手をつないだまま、遠い世界に旅にでる。もう朝はこない。でもいいんだ。夜が僕を呼んでいる。

 さようなら。僕のいた小さな世界。

 さようなら。愛しみ、育んでくれたひと。

 さようなら。

 さようなら。