編集部ブログ作品

2017年2月27日 21:52

アイスクリームの呪い

 妻の麻巳美は頭が悪い。どれくらいかというと、「頭のよくなる水」を買ってきてしまうくらいだ。

「ねえ、月哉さん。今日ね、公園にね」と麻巳美はガラスのリボンのついた小さな瓶を目の前にかざす。

「移動式の水屋さんが来たの。ほら、よく代官山あたりにあるエスプレッソコーヒーを出すワゴン車みたいに。おしゃれなお兄さんと、その妹がね、いろんな水を売っているの」

 僕はため息をつく。どうしてこんなに頭が悪い女の子を妻にしてしまったんだろう。それには訳がある。僕が昔飼っていた猫の白が原因だ。

 ある日、三輪車に乗って白が動物園から帰ってきた。

「これひろたー」と白は女の子を片腕に抱いていった。

「拾ったじゃないでしょ、白」僕は呆れて白をみた。白はチンチラシルバーだ。銀色、といってもいいけど、なんだか薄汚れたモップみたいな色をしている。

「白、君はまた動物園で林檎を使って猿釣りをしてたんでしょう? そして今日、その女の子が釣れて仕方なく連れてきたんでしょう」

「あー」白はうめいた。困った時、白は哲学者のように目を閉じて、うめく。しかし今日の白は目をぱっちり開けて僕に問いかける。

「飼っていい?」

 白は女の子を僕に突き出す。問いかける、というより、宣言に近い。白は繰り返す。

「これ、飼っていい?」

 僕は白と女の子をみつめた。

「この子の名前はなんていうの」

「麻巳美」

「白がつけたの?」

 白はそれには答えなかった。ただ頑固にこういった。

「これ、飼っていい? 白が面倒みる」

金色の瞳で白は僕をじっとみる。虹彩は緑。神秘的な白の瞳。

「最後まで白が面倒みるから」

 そう、白はいった。白はその約束を守った。その日から幾つ季節が過ぎただろう。ある冬の夜のことだった。凍えるような寒さの中、満天の星がちかちかと矢のように降っていた。夜中の動物病院から帰る道、白は籠の中から僕に声をかけた。

「ごめん。もうすぐ白、死ぬんだ」

「うん」と僕は頷く。

「白、最後まで面倒みたよ」

「うん」

 星の瞬く音がきこえた。寂しい白の心の声がきこえた。遠く大陸から来た冬の風が吹く。僕の頬を切るようになぶっていく。

「あとは、頼むよ」

 それが白の最期の言葉だった。

 そんな訳で麻巳美は僕の妻になった。白に動物園で拾われたせいなのか、それとも単に生まれつきなのか、どうにも麻巳美は頭が悪い。白が生きていた頃はいつも白と寝てばかりいた。でもそれは眠っている麻巳美がやすらかな夢をみているか、白が優しく、そして強い意志で見守っていたことを、僕はしっている。

 ところで頭のよくなる水、というのはどういうものなのか。

 それは透明で、一見したところ、ただの水だ。知らないひとがみれば香水のアトマイザーだと思うだろう。けれど匂いはない。

「どうやったらその水で頭がよくなるの」と僕は麻巳美に尋ねる。

「持ってるだけでいいのよ」と麻巳美はテーブルの上にジャガイモのスープを置く。麻巳美の作るご飯はおいしい。

「いろいろ役に立つようにしとくよ」と生きている時、白はいっていた。頭は悪いけれど、麻巳美には細やかなところがある。白の授けたものが。

「水を持っているだけで、どうして頭がよくなることが自分でわかるの?」

「詩を書いてみようかと思って」

 今度はミモザサラダをテーブルに置いて麻巳美はいう。マヨネーズも麻巳美の手作りだ。

「詩?」

「心が動くの。眠っていたり、目が覚めたり、散歩をして空をみあげたり、そんな時にふっとね。でもSNSじゃだめ。なにか形にしたい。宙に途切れてしまうのはいやなの」

「それが頭がよくなること?」

「ねえ月哉さん。私ね、白に拾われる前の記憶ってないの。何処から来たのか、何処で生まれたのか、私は誰なのか、わからないの。でもわからないってこわい。もし私がカニバリズムの末裔だとしたら?」

 僕は今まさに口に入れようとしていた香ばしい匂いのするタンドリーチキンを皿に戻した。

「つまり、不可視のことなの。私の出生はね」

「誰だって自分の出生の瞬間は覚えていないよ」と僕はいう。「三島由紀夫のいうこともあやしい。記憶が生まれるのは普通はそうだな、3歳以降じゃない? 写真や親や周りのひとのいったことで記憶は捏造されることもあるよ」

「でも過去は存在しているでしょ? 私にはないの。なんにも。だから物語を書くことでそれを埋めようと思って」

 確かに麻巳美のことはよくわからない。一緒に暮らしてずいぶん経つけど、見た目はほとんど変わっていない。麻巳美のことは白しか知らない。麻巳美のいうように、カニバリズムをしていない、という保証はない。どんな美しいことも、どんな酷いことも、慈愛も戦争もひとが行うのだ。

「どんな詩を書くの? 君はなにをどうひとに伝えるの?」

「そうだなあ」

 麻巳美は椅子にすわって両肘をつく。

「アイスクリームのことかな」

「アイスクリーム?」

「そう。アイスクリームの呪いについて」

 いつも僕においしいものをつくってくれる麻巳美だが、彼女は殆どアイスクリームしか口にしない。この街では有名なフルーツを砕いてヨーグルトで和えたアイスクリームや、季節ごとにフレーバーの変わるハーゲンダッツ。コンビニエンスストアで売っているしろくま。青い色の棒つきキャンディ。つまりアイスであればそれでいい。一日中、麻巳美はアイスクリームを食べている。冷蔵庫にはぎっしりアイスクリームが詰まっている。

「確かに君にはアイスクリームの呪いがかけられているかもしれないね」

 夕食を終え、リビングのソファでテレビを眺めながら僕はいった。麻巳美はキッチンでコーヒーを煎れている。

「このままアイスクリームを食べているときっと私は真冬の続く遠い世界にいってしまうことになるのよ」

 麻巳美はコーヒーを置くと僕のとなりにすわった。

「それは白のいる世界ってこと?」

「そうね。白に逢いたいし」

 僕はすこしあわてる。麻巳美がいなくなるのは困る。

「じゃあ、アイスクリームの呪いをとけばいい。詩を書いてもいいし、曲を作って踊ってもいい。僕はハモニカを吹けるし、楽譜も読める」

 麻巳美はにっこり笑う。長い黒髪が肩からすべり落ちる。

「詩を書いてみる」と彼女はいう。

 そして彼女は詩人になった。本も出版したし、時折朗読会にもいく。でもたいていはキッチンで僕のために料理をつくっている。アイスクリームを食べながら。冷たくなった手を大きな湯気からたちのぼる湯気が温める。アイスクリームの呪いはゆっくりととけてゆく。

 白。

 僕に麻巳美を贈ってくれてありがとう。

 君がいなくなっても、君を忘れない。

 僕の友達は君だけだし、白の大切な宝物は麻巳美だね。だから白、僕と君はいつでもひとつだ。君は僕に忘れてしまった子ども時代をくれたんだ。それはいつでも春のように暖かく、柔らかい。僕と君はいつもそばにいる。

 空のはてに君を想うよ。

 僕がいつかそこにいくまで、麻巳美と手をとって君に逢いにいくまで、いつまでも君は動物園で猿を釣って遊んでいられるように、僕は祈ってる。信じている。

 またね。白。