編集部ブログ作品
2017年2月13日 16:06
海洋学者
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
「一年に一度、夏の朝、潮がひいて一本の道が現れる。その先に島が浮かび上がる。島には古くから続いている遊郭があるといわれている。でもその島に行って還ってきた者は誰もいない」
僕が彼から借りたノートを大学の図書館でコピーしていると、彼は一人言のように呟いた。
「そこが僕の生まれた島で、この話はずっと語り継がれているんだよ。僕はその島にいくんだ」
彼は物静かで、僕の他に友だちはいないようだった。何処となく風に吹かれる植物のような印象の男だった。
「行って還ってこられない島に?」
僕の言葉に彼は静かに頷いた。僕は笑った。きっと冗談をいっていると思ったからだ。途切れ途切れの会話から聞き取れた彼の夢は、海洋学者になることだった。
「だったら何故、経済学部なんかにきたんだ」と訊くと、彼はただ黙って目を逸らした。僕もそれ以上きかなかった。僕と彼は友だちといっても、教室で席が隣りあった時、少し世間話をする程度の仲だ。それ以上には彼と親しくはなかった。彼の話をきいていたのは、コピーをとらせてもらっている間、ずっと沈黙し続けているのも不自然かな、と思っただけだ。僕は怠惰な学生で、いつも彼のノートを借りていた。
季節が変わり、大学一年の夏休みが終わっても、彼は大学に戻らなかった。僕はいつのまにか、彼を忘れた。
大学を出て、銀行に入り、窓口の女の子と結婚して、女の子が続けてふたり生まれた。幸せだと思っていた。それなのに、四十歳を少し過ぎた頃、僕はSNSで知り合ったまだ二十歳の女の子に身も心も溺れ、彼女のために消費者金融に手をだした。年齢が僕の半分しかない女の子にいわれるままなんでも買って、なんでも与えた。ほしいといわれれば、月だって買っただろう。
消費者金融の取り立てが激しくなった。僕はとうとう銀行の帳簿を書き換え、そこから消費者金融に金を返した。でも利息でふくれあがった借金はなかなか返せず、僕は思い余って銀行から数千万も横領してしまった。ばれないわけはない。現実が降りてくると妻は離婚届を置いて娘二人と実家に帰った。僕はこわくて、取るものもとりあえず、家から逃げ出した。
何処か誰もいないところに行こう、そう思った時、植物のような大学の友人のことを思い出した。
あの幻想のような島の話。そうだ、あの島にいこう。
彼の故郷をなんとか思いだし、飛行機と電車とバスに乗った。逃げ出すんだ。それにしか僕は考えていなかった。
そして僕は今、その砂浜にいる。夜が明けると静かに潮が引いていき、一本の道が現れた。遠く霞んだ先に小さな島が見えた。彼の話の通りだった。現実と夢の境目がなくなっていた。貝殻や波に洗われ、すっかり丸くなったガラス片が転がる道を僕は歩いていった。島には小さな洞窟があった。暗い岩陰にいなくなった友人がいた。彼はいなくなった十九歳のままのようにみえた。僕は驚いた。時間は何処にいったんだ、と僕は思った。それとも何もかも夢で、僕はまだ大学生なのか。
彼は僕をみて、目を細めた。やはり植物のように、ゆらり、と薄い身体が揺れている。
「……僕を憶えている?」
僕は思い切って訊いてみた。彼は不思議そうに、でもゆっくりと頷いた。
「憶えているよ」
青年の声で彼は答えた。僕の声とは違う。僕だけが歳をとったんだ、と僕は思った。その時だ。
「誰かきたの」
幼い声に振り向くと、中学生くらいの少女が立っていた。僕は息を飲んだ。その少女は僕と同じ中学の子だった。言葉を交わしたことはないけれど、綺麗な子だったので、憶えていたのだ。僕はその時、彼女に一方通行の淡い恋心を抱いていた。でも、と僕は思った。あの子は高校に入学してすぐ急性白血病で亡くなったときいた。あれはただの噂? いや、彼女は確かに亡くなったーーー。
少女が静かに言う。
「あなた、まだ影があるわね。影がある人はここには来ちゃいけないのよ」
潮がいつのまにか満ちてきている。道は消えている。島が水没してゆく。
「還れないよ」と植物のような彼は言った。花を持たない青い草。匂い立つ夢はしずくは彼の隣にいる少女の方だ。
「この島にきて還ったものはいない」
あの頃と同じように彼は草の葉が揺らぐような囁き声を出した。
僕はこわくなった。ここにきてはいけなかったんだ、と思う。どうして彼はあの頃のままなんだろう? どうして彼女はここにいるんだろう。
「これいる?」
彼が差し出した物はキラリと光る、銀色のナイフだった。
「首を切って水に飛び込めば楽に死ねるよ。死ににきたんでしょう?」
「死にに来たんじゃない、僕はただ……」
いつのまにか水が膝まで上がってきている。引き潮に身体がぐらりと傾く。波は高く、低く、寄せては返す。
「ここは死んだ者しかこられないんだ。さあ、ナイフを持って。なんなら僕が刺してあげてもいいけど」
やさしく微笑む彼がこわくて、僕は身体を翻した。逃げよう。ここは僕の場所じゃない。
「もう戻れないよ。底に水流があるんだ。君の身体なんかあっけなく引き込まれる……」
その声を最後に僕は意識を失った。
意識を取り戻したのはそれから三十年経ってからだった。僕はすっかり老人になり、病院のベッドに寝ていた。意識を取り戻したのは奇跡だと医師は言った。
両親はすでに亡くなり、妻子の行方はしれない。僕が使い込みをするまで夢中になった二十歳の女の子はもう何処にもいない。
僕の人生はいったいなんだったんだろう、と時折僕は思う。あの島に残り、彼と死んだ少女と過ごすべきだったのだろうか。いや、それ以前に僕の人生の歯車は狂っていたのだ。
老人となった僕はまたあの砂浜に戻る。今度は還らない。静かに眠ろう。
そう思って僕は潮の引いていく砂浜をじっとみつめていた。