編集部ブログ作品
2017年2月 6日 21:42
やさしい音楽
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
雨の中で私たちは立ち尽くす。突然の通り雨。日蔭も薄く、遠くに海の音がきこえる。でもそれはきっと空耳。寂しい心が呼んだ、雨雲。
放課後ひとりで歩いていた。気がついたら、道の先に彼がいる。落ち葉が散って、砕ける雨に流れてゆく。髪を短く切った彼は振り向いて、私をじっとみる。夢をみる夢みたい、と私は思う。沈黙。仕草を盗みみる、ちょっとした冒険が頬を熱くさせる。私はうつむく。彼のローファーが視界に入る。どちらからともなく近づく。涼しい風。影を踏む。よりそうように。そう、いつの間にか、一緒になった帰り道。金木犀の匂いがした。彼の肩が近くに、遠くに、と揺れ動く。駅は遠い。コンビニもない。桜並木が続く。もう仄暗い、秋の黄昏。でも道の端の草はまだ緑。雨に濡れて、きらきら光る。ああ、もう指がふれてしまう。真珠の粒に濡れた指。
言葉がでない。息もできない。
それは私の初めての恋だった。
遠くからいつも彼をみていた。放課後、グラウンドを走る彼を図書室の高い窓からみつめていた。それでいいと思っていた。それだけで嬉しかった。クラスは同じだけど、教室の中での距離は遠かった。私は窓際の一番後ろの席で、彼の後姿に心だけでそっと話しかけていた。いつもカバーをかけた本を手にしている彼。その本のタイトルはなんですか? そんな風に。でもその言葉すら口の端にだせない。淡い恋だった。
なのにどうしてだろう。
雨は天上から私たちに降りそそぎ、私たちは捉えられた使徒のようにみつめあって、たちつくす。
衣替えには早い季節。まだ夏服の、シャツが濡れるのが恥ずかしくて、逃げだしたいと思う。羽翼(つばさ)があれば、空に駆けてゆきたい。まだはやい。まだこわい。林檎の実が赤く熟すに頃は季節がかわってから。私は青い果実だ。
クラスメイトが通りかかって、傘をさしだしてくれればいいのに、と思う。この均衡を壊す出来事が訪れればいいのに、と思う。
なのにどうしてだろう。
雨の中はふたりきりの世界。
淡く、くすんで、柔らかい。
みつめあう瞳と瞳。彼の目は青い程黒くて、深い色をしている。髪は細く、水のしずくを落としてひたいを隠す。目だけが大きくみえて、そんな彼はすこし年下の男の子のようだ。
彼はくちびるを動かす。白い歯が波打ち際に残された貝殻みたいに綺麗だ。雨の音が壊れたラジオのように、彼の声を揺らしている。
彼の言葉がきこえない。私はただ、頷く。
緑を洗う白い雨の中、彼が私の名前を呼ぶ。はっきりときこえる。苗字ではなく、下の名前を彼は呼ぶ。最初は小さく。そしてゆっくりと、大切なもののように。
親がつけたキラキラネーム。きらいだったはずなのに。どうしてだろう? 甘くきこえる石楠花の花が心に満ちあふれる。白い、白い、石楠花の花。柔らかく、懐かしい。
彼がぎこちなく両手をのばす。野球部の彼の腕は思っていたより太くて、私の未発達な葦のような腕とあんまりにも違う。妙にはずかしい気持ちになる。その腕が私の肩を抱く。その瞬間、世界が私たちに振り向いた。私は彼の胸に抱きしめられる。雨は激しく、星のない夜を告げるように降り続く。星は銀河のカケラ。はじき飛ばされた光。地面は冠水して、靴の下が冷たい。ちいさな川のように流れる透明な水。
彼が私の耳許でささやく。私は気持ちを決める。
いいの。
これでいい。
これが私が望んだいたことだ、
初恋は実らないと思っていた。
秋の雨はやさしく私と彼の境界線を消し去る。彼と初めてのキスをする。それは私の初めてのキス。なんにも言葉を交わしていないのに、こんなに好きだと思う。何故? くちびるを離すと、彼も不安そうな顔をする。
ごめんね、と彼はいう。
ごめん。
そういった後、私をもっと強く抱きしめる。雨がふたりの身体をぴったりと結びつける。
制服じゃなければいいのに。
大人ならいいのに。
だって、このあと、ふたりはどうしたらいい?
私にはわからない。彼にだってわからない。ただ雨は降りそそいで、私たちは透明なひとつの水になって、流れてしまいそうになる。
列島の上には秋雨前線があり、この先一週間、雨は降り続けるでしょう。
私たちは七日間、雨のなかで抱きあっているんだろうか。
それでもいい。
それでもいいの。
永遠って言葉を信じていなかったけれど。そんな言葉は陳腐だと思っていたけれど。でもこの雨は愛しくて、彼の息は温かい。
それだけで、いい。
確かめたかった、と彼はいう。
気持ちを。
でも、わかった、という。
君は?
うん、と私はいう。
わかる。
雨がきれいだ、と彼はいう。空をみあげる。彼は桜の樹を指さす。雨が枝にからまってる。
そうね、まるでビーズの首飾りみたい、と私はいう。彼は微笑む。私に向かって。私だけの笑顔だ。
こんな気持ちは初めてだ、と彼はいう。
それは雨のこと? それともーーーー
私は忘れない。あの雨の日。それから彼と逢うときはいつも雨だった。世界が雨でも、私たちはだいじょうぶだった。信じていたから。肌は温かかったから。冬の日も、渚でも、森の奥でも、雨は降り続けた。私たちを白い羽翼で包むように。雨は天使だった。祝福の歌を歌っていた。なんてやさしい音楽だろう。
ふたり、並んでみつめた天窓に降る雨。ベッドの端の冬服。私は目を閉じて思い出す。高校の入学式。教室に入った時の窓にも雨が降っていた。窓辺に彼が立っていた。ほとばしるように咲く桜。
どうしてか、彼は印象的だった。私はひとめで彼にひかれた。こうなる運命だったんだ、と思う。
性に踏み出すことは、汚れていくことじゃない。
それははじめて手にする、壊れそうな愛だ。この世界に生まれ落ちるときに、神様がくれた、大切なもの。目にはみえないけれど、信じられるもの。守りたいものだ。
花びらを散らさないように、彼はやさしかった。白い鍵盤をたたくように、静かだった。私は自分の初恋を信じることができた。それは祈りのようにまばたきもしない。靴の下の地面が百億年前から続いていることが、目にはみえなくても真実であるように。
それはとても幸せなことだった。
だから私は忘れない。
目をあけて、秋が終わりを告げても、もう彼はこの世界にはいない。
もう逢うことはできない。
でも私にはいつも雨がみえる。傘はささない。冷たいしずくが肩に髪に届くのが、彼のいた確かな証だから。雨がプラネタリウムのように光のかけらを届けたから。
あれからどれぐらい月日が経っただろう。
私の家の庭には、彼とそっくりの青い程黒い目をした、野球が好きな子どもがいる。私と彼のたったひとつの果実。夢の果てに地上に落ちた瑞々しい香りのフルーツ。
それでいい。
それだけでいい。
雨がやんで、虹が消えても、夜が来るにはまだ少しある。暮れてゆく西の空をみていると、私の心にはまだやさしい音楽が鳴り響くのだ。