編集部ブログ作品
2016年12月 5日 20:27
革命
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
彼女は革命を夢みている。秋風が黄金色に染めた木の葉がはらはらと舞い散る。彼女は茶色のローファーで、死んでゆく草の葉を踏んでいく。
「ここにはもう、いたくないなあ。でも遠くにいきたいのとも違うの。ここにいたままで、世界が変わるといいのに。夏が過ぎ去って、夕闇が長い影を連れて落ちてくるように。なにもかも、急激に変化すればいいのに」
「汐吏(しおり)、ちゃんと受験勉強してるのか」と僕はきく。
「このあいだの模試の結果、僕知ってるんだぜ。あれじゃあ、汐吏の第一志望は月より遠いよ」
「私は月に行きたいんじゃない。ただ革命をまっているの」
僕は汐吏に気づかれないように、そっとため息をつく。汐吏と出逢って17年。僕たちは兄妹のようにいつも一緒だ。汐吏と一緒にご飯を食べ、宿題をし、昼寝をする。汐吏には双子の兄がいる。生まれて3ヶ月の時、汐吏の兄は突発的な病に襲われる。そしてそれから汐吏の兄は成長を止められてしまう。汐吏の兄は他のひとの手を借りずには生きていけない。汐吏の母親は汐吏の兄にかかりきりになる。汐吏の面倒を見られなくなる。汐吏は遠い親戚で、でも隣に住んでいる僕の家にいることが多い。いつだって妹のような、姉のような、友だちのような、他人のような、そして恋人のような汐吏。
最近、僕の母が亡くなったので、夕食は汐吏と僕でつくる。汐吏は料理がヘタなので、僕が作ってもいいのだが、汐吏は覚束ない手つきで包丁を持つ。
「来たるべき革命にそなえて」といい、キュウリを刻み、トマトも刻み、ミョウガを刻む。サラダはこれだけ。味つけは醤油と檸檬。カルディで買ったパクチースープの素を少し。僕はご飯を炊き、かぼちゃの味噌汁を作り、魚を焼く。豆腐をパックから出し、納豆をテーブルに載せる。
「今日が革命前夜になるかもしれない」と彼女はいう。夜毎、夜毎、必ず、繰り返す。
「ねえ、今、誰か来たよ」と彼女はいう。
「ほら、扉の開く音」
僕は耳を澄ます。風の音しかしない。
「ロベスピエールが来たのかもしれない」と不意に彼女はいう。
「ロベスピエール?」
「テルミドールの反動で失脚した彼の霊が蘇ったのかも」
「汐吏、はやく飯食って明日の予習しなよ。来年、受験するんだろ」
「ねえ、私の頭をみて」
僕の言葉は彼女の少し上をとおっていく。汐吏は僕の頬のそばに身体を寄せる。汐吏の髪は、甘い、水蜜桃の香りがする。汐吏はいう。
「よく見て。頭の天辺。ねえ、私、つむじが二つあるでしょう?」
さらっとした黒い綺麗な髪のなか、銀河のようなつむじが確かに二つある。
「つむじが二つあるのは、一度死んで、もう一回生まれかわった徴(しるし)なんだって。しってた?」
僕は汐吏の兄のことを思う。彼の命は何度も尽きかけた。彼女の両親や、医師たちや、まわりの大勢のひとたちにたすけられ、彼は命をつないでいる。彼女の兄は死を抱えている。そんな双子の兄を持つ、汐吏。
「私が死んだあと、もう一度生まれ変わる時に、ふたつにわかれちゃったのかもしれない」うつむいたまま、汐吏は言葉を落とす。コップについた水滴がテーブルにこぼれる。
「私だったのかもしれない」
僕は汐吏の指にそっと手を添える。白い珊瑚のような指。生きている。彼女の兄も同じ指で、生きている。
明日、革命が起きて、世界がすべて、がらりと音を立てて変化する。でもそれは悲しい景色かもしれない。悲劇かもしれない。誰かが死ぬのかもしれない。革命には危険がともなう。
それでも汐吏は願うのだ。
兄がその足で大地を踏むことを。言葉を発することを。「汐吏」と妹の名前を呼ぶことを。
テーブルの上の魚の眼は濁って、死んでいる。僕は身をほぐし、箸で口に入れる。咀嚼する。僕は死んだものを食べて、生きている。
仕方ない。仕方ないじゃないか。
僕たちは選べないのだ。
生まれてくる時代。場所。性別。両親。階層。才能。運。病。災害。やがて迎える死。
その一方でまた人生はすべてが選択だ。毎日、僕らは無自覚に選んでいる。選び続けるのが、生きていくということだ。
でも汐吏の兄は選べない。
汐吏は声を立てずに泣いている。汐吏の兄の死が近いことを、汐吏は識(し)っている。誰もが識っている。選べない。彼女にも。
「夜は明けるよ」と僕はなぐさめにならないことを言う。
「わかってる」と汐吏は言う。革命は明日も起きないことを、識っている。
それから三年、彼女の兄は生き続ける。そして二十歳になって、翌日に死を迎える。もう誰も泣かない。涙はあの秋の夕食れに汐吏の肩や髪に舞い散った木の葉のように、すべて降り注いでしまい、季節は終わったのだ。僕と汐吏はもう一緒に食事をすることはない。大学も別々になる。そして彼女は遠い国に行く。それからもう彼女と逢うことはない。長い間、彼女の笑顔をみない。時間だけが過ぎてゆく。
妹のような、姉のような、友だちのような、他人のような、恋人のような汐吏。
君はまだ夜の底にいるのか?
僕の声は永遠に届かないのか?
僕が革命を起こさなかったから、僕は汐吏を失った。
人生を選べない。
毎夜、昇る月をただ見上げることしかできないように。