編集部ブログ作品
2016年11月14日 17:22
読書猿
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
今日、彼女は下着をつけていない。そういう、やや奇妙な傾向が彼女の性格にはあった。怠惰で、よく忘れ物をしたり、食事をとらなかたりするし、その上、他人の話をきかない。
下着をつけずに学校にいき、何事もないような顔で授業を受ける。チェックのスカートの下に、彼女の秘密が手紙の封を切ったようにみえることを、誰も気がつかない。
制服の短いスカートを風が揺らす。けれども彼女はそんなことにまったく頓着しない。放課後になると、そのまま携帯電話を買い替えに街で一番大きな家電量販店に向かった。
色とりどりの携帯電話をひとつ、ひとつ手にとる。どれもいい。彼女は悩む。
手に取った青い携帯電話のボタンにふと指がふれる。
「ちいさい席」という文字がディスプレイに浮かんだ。
「あ、その携帯……」
彼女よりすこし幼い少年が彼女をみる。
「僕が……」
「買うの?」
少年はうつむく。頬が赤らんでいる。
「ううん。お姉さんに譲るよ」
これがほしかった訳じゃないんだけど、と思いながらも、彼女は少年に微笑む。彼女にとって、選択というのはなんの意味もないことだったからだ。
「ありがとう。私、これ、買うね」
「あ……、うん」
少年は顔をあげる。どこか異国の匂いのする面立ちをしている。ダブルなんだろうか。
「また、何処かで逢えるかな」
「そうね」といいながらも、レジに向かう彼女はもう少年のことなど忘れる。彼女は滅多に他人の顔を覚えない。クラスメイトの問いかけに答えないこともある。そんな彼女は教室で少し浮いているのだが、そのことすら彼女は気づかない。
でも私はもう気づいている。彼女が異国の匂いの少年に囚われたことを。少年が持つ、目に見えないドアの覗き穴の向こうにいるようになったことを。
少年は彼だけの秘密の覗き穴から、ずっと彼女をみつめ続けることだろう。
彼女が携帯電話を手にし、自分の家の部屋に入り、制服を脱ぐシチュエーションを。下着をつけてないので、スカートが落ちると簡単に下腹部があらわになったところを、少年は覗き穴からじっとみつめる。
彼女はクローゼットから黒い下着を取り出し、身につけた後、ベッドに横たわり、携帯電話をいじりはじめる。まだなにも設定していないのに、もう画像が現れる。そこには彼女の着替えの映像が映る。それは少年の視線だった。
誰かが自分をみつめている、とようやく彼女は気づく。妙に勘のいいところが彼女にはある。そしてその映像は自分で誤って撮影したのではないことは、彼女にもわかった。そこには淫靡な性の視線があった。
自分は覗き穴という箱のなかにいる、と彼女は思う。それは彼女にかけられた呪いだ。そこで彼女の行動はすべて観察される。彼女にはもうプライバシーはない。いつも視線が彼女をからめ、彼女は捕らえられた籠の鳥だ。
そう、生まれて初めて彼女は他人の視線を意識したのだった。下着をつけていなかった時さえ、彼女は無防備だった。そしてある意味では自由だった。けれどもう彼女は自由ではない。
どうしたらいいんだろう。
彼女が物事に真正面から向かうのは初めてだった。それまで彼女は考える、という経験をしたことがなかった。
ある日、学校に行く気にもならなかった彼女はいつもと反対方向の電車に乗り、気に入った景色の駅に降りるのを私はみた。足のむくまま、彼女は一軒の古本屋にはいった。初老の店主がラジオを聞きながら店番をしているようなちいさな店だ。彼女は書棚をみる。読んだことのない本ばかりだ。と、いっても彼女は端から読書などしたことはなかったのだが。
彼女は書棚にちょこんと収まっているちいさな猿をみつけた。猿は目を閉じて、じっとしている。
「あのお……」彼女は老店主に話しかける。
「この猿って、なんなんですか?」
「ああ、それはね」老店主はいう。「読書猿だよ」
「読書猿?」
「いまのひとはあんまり本を読まないでしょ。だからその猿が代わりに読んでくれるの。その猿が読んだ本はね、持ち主に宿主するの」
「ふうん……」
老店主の言葉は難しく、彼女にはよくわからなかったが、もはやプライバシーという、人間の尊厳を失った彼女はお守りの代わりに猿がほしくなった。
「この猿、幾らですか?」
「ああ、ええとね。三百円でいいや。私には必要がないし、持っていってもらえれば。手間のかからない猿だよ。ただ本を読ませればいい」
そうして彼女は猿を手にいれた。
彼女は家に戻ると服を全部脱ぎ、裸になった。どうせみられているのだ。最初から裸でいた方が彼女には楽だった。猿はきょろきょろと辺りをみまわした。彼女は鞄から教科書をだした。本らしきものを彼女はそれしか持っていなかった。猿は教科書を手にとると、脇目も振らずに文字を追っていた。
彼女は裸の胸を両手でもみしだいた。足を大きく開いた。覗き穴の向こうで、彼女をみている性にむけて。
自分は春を売っているのだ、と彼女は思った。眩しい十代の肢体を。彼女の所有者はもう彼女ではないのだから。せいぜい楽しめばいいのだ。彼女はゆっくりと自分を温めてから、深い部分に指を差し入れた。吐息がもれた。
そのせいか、猿がなにかをいっているのを彼女は暫く気づかなかった。
「この続き」猿はいった。「この続き」
猿は教科書を指でとんとんとたたいた。彼女はようやく猿をみた。猿は現代国語の教科書をひらひらと彼女にむけた。
「この続き」
そうか。この猿は読書猿なのだ。教科書にはたいてい小説のうちのほんの一章くらいしか載っていない。彼女はそれに全然構わなかったが、猿にはその続きが死ぬ程気になっているらしく、しきりに教科書を振り回す。
この猿を箱にいれてみようか、と彼女は思う。なにも自分だけが囚われていい訳じゃない。覗き穴の向こうになにもできないのであれば、猿にしてみよう。そう彼女は思った。
彼女は教科書をみた。
この小説なら、父親の本棚にあった、と思う。彼女は服を着ると、父親の部屋から本をとってきた。猿は嬉しそうにききっと鳴いた。彼女はカッターナイフで本からページを千切ると、一枚、猿に渡した。猿は紙をつかむ。食い入るように文字を読む。今度は彼女は部屋のドアを開け、もう一枚、ページを切る。そして段々と猿を部屋から玄関と導く。猿は飢えたように紙を求める。それ以外、なにも目にしない。マンションの廊下にでる。猿はついてくる。彼女はエレベーターのなかに本を置く。猿は喜んでエレベーターの中に入る。
誘い込みに成功した彼女は非常用ボタンを押し、猿をエレベーターの箱に捕らえる。
彼女は管理人室にしのびいって、電源をカッターナイフで切る。もうエレベーターは動かない。猿は死ぬまであの箱のなかにいるだろう。
そう思った時、彼女の身体にからみついていた視線が消えたのを、彼女は感じた。彼女は携帯電話をみた。そこからなにもかもが消去されていた。
猿を身代わりにすることで、彼女は解放されたのだ。彼女は喜びで、自分でも気づかずにちいさくステップを踏んだ。猿の微かな叫び声はその音に消され、本の海に溺れていくのを、彼女は感じた。