編集部ブログ作品

2016年11月 7日 00:37

三ニャ家族

 僕たちは三ニャ家族だ。母親の百合とその娘、千沙。そして僕、はちわれ猫のニャの三人。父親はいない。だから三ニャ家族。百合は看護師で、千沙がまだちいさい頃からずっと働いている。千沙が幼い頃はまだ父親の勇也がいた。千沙は勇也の大きな手をまだ覚えている。でもいまは百合と千沙と僕の三ニャ家族だ。千沙はもう中学生だし、百合のために夕ご飯の支度ももうできる。もちろん、僕のごはんも用意してくれる。

「ニャ、今日はささみだよ」

 僕は千沙をみあげた。千沙が僕にごちそうをくれる時、それは千沙が僕に悩みを打ち明ける時だ。

「千沙はどうして友だちがいないのかな」

 千沙はちいさい頃事故にあって、すこし耳が聴こえにくい。右足もほんのちょっぴりひきずる。よくみないとわからないけど、千沙はそれをとても気にしている。でも千沙は賢くて、やさしいことを僕はしっている。

「今日、体育の時間、バスケットだったんだ。でもほら、千沙はあんまり速く動けないし、声も聴こえにくい。だからグループにはいれないんだ……

 僕は千沙の膝の上に前足をかける。千沙は僕の手を握る。僕は千沙の手に顔をすりよせる。千沙に僕がいるよ、と伝えたい。僕が千沙を大好きだって伝えたい。千沙のよいところはたくさんあるんだよっていいたい。でも僕は人間の言葉が話せない。

 千沙はそのことを百合にはいわない。百合は泣き言がきらいだからだ。

「いい? 千沙。お母さんの勤めている病院にいるちいさい子はね。みんないい子よ。どんなにつらい検査や治療があっても泣いたりしないわよ。そしてそれでも死んでしまったりするのよ。それにくらべて……」と百合の話は続くから。

 でも百合が千沙につらくあたっているのでは決してないことは、千沙だってしっている。父親がいない千沙が、強く、おおきく生きていけることを、百合は望んでいる。

「勇也が死んだ時」と百合はいう。「お母さんはね、勇也と千沙のために生きていこうって決めたの。再婚なんか絶対しない。千沙がおおきくなって、千沙にしかできない仕事をみつけるまで、お母さんは千沙のそばにいる」

 千沙は黙って頷く。でもやっぱり千沙はまだ中学生だ。百合のいう通りに気持ちを割り切れない。だから千沙は百合のいない時、僕にだけ悩みを打ち明けるのだ。僕は百合も千沙も好きだ。百合も千沙がいない時、僕にそっと話しかける。

「ニャ、きいて。私、千沙に厳しすぎるかな。千沙に友だちがいないの、やっぱり私がやさしくなくて、千沙が臆病になっているからなのかな……

 違うよ、百合。千沙がやさしいから、逆には千沙に友だちがいないんだよ、と僕は思う。誰かと一緒になって、誰かを攻撃する。千沙はそんなことに加わらない。いま学校では誰かが上だとか下だとか、そんなくだらない順位争いが盛んだけど、千沙はそれに全然興味ないんだ。だから千沙は遠巻きにされているだけなんだ。

 でもやっぱり百合にも僕の気持ちは伝わらない。百合と千沙が仲良くしてほしい。百合は千沙が大切で、千沙にそれをわかってほしい。千沙が愛されていると千沙に気づいてほしい。でも猫の僕になにができるだろう。

 

 僕が初めてこの家にきたのは、勇也が死んだ翌日だった。千沙はまだ幼くて、その意味がわからなかったが、百合が勇也の骨がはいった白い包みを持って、千沙に「千沙のお父さんはここにいるの」といったことは覚えている。百合は千沙の手をとって海岸にいき、砂のなった勇也を海に流した。百合も千沙も泣かなかった。その帰り道、ふたりは僕をみつけた。家に連れていき、温かいミルクをくれた。

「千沙、これからママと千沙、そしてこのニャで、私達は三ニャ家族になるのよ」と百合はいった。それから僕はこの家にいる。百合の涙も千沙の温もりも、僕は知っている。僕だけが、知っている。

 

 ある日、赤い郵便受けに白い封筒が一通はいっていた。

「羽瀬川千沙さま」と手紙に万年筆の青い文字が記されていた。その手紙を読んでから、千沙はずっと動揺していた。百合も千沙の変化に気づいたのか、千沙にさりげなく尋ねていたが、千沙の口は重く、百合の問いかけにただ首を振るだけだった。

「ねえ、ニャ」

 百合がまだ家に戻らないある日、いつものようにキッチンで夕ご飯の支度をしながら千沙は僕にいった。

「あのね、お兄さんから手紙がきたの」

「お兄さんっていっていいのかな……。私知らなかった、私にお兄さんがいたのね。お父さんのお葬式に誰もこなかったのは、お父さんにはお母さんの他に奥さんがいたからなのね」

 テレビでは千沙と同い年くらいのアイドルたちが楽しそうに歌を歌ったり、芸人としゃべったりしていた。その四角い世界と千沙はまるでかけ離れてみえた。

「お父さんとお母さんのあいだになにがあったのか、私にはわからない。でもお兄さんの手紙では、お兄さんのお母さんはつい最近亡くなって……、他に親戚のひともいないんだって。だからお兄さんには千沙がたったひとりの血のつながったひとなんだって」

 僕はなにもいえない。だって猫だから。僕はただ千沙の話をきくだけ。でも僕がなにもいわない方が千沙は安心して話せるみたいだった。

「千沙に逢いたいって……。ねえ、ニャ、どうしよう?」

 千沙の長い髪に僕は絡みつく。千沙は頭を振って、僕を遊ばせる。そんなことしか僕にはできなかった。千沙は薄く微笑んでいたが、その瞳は悲しげだった。悩んでいる千沙の心に身体が応えたように、翌日から千沙は寝込むようになった。

「だいじょうぶ? 千沙」

 体温計をみながら百合は千沙のひたいに冷たいタオルを置く。

「うん。ただの風邪だよ。心配しないで」

「でももう一週間も熱がさがらない。ねえ、お母さん、今日、仕事休もうか?」

「ううん。病院いったし、薬もあるし。寝ていれば治るから」

 千沙は百合の仕事を尊敬している。お母さんはひとのために働けてすごいな、と千沙は思っている。千沙の素直なところが僕は好きだ。

 なにかあったらすぐ電話して、といい残して、百合は仕事先の病院へと向かった。千沙は目を閉じた。僕も千沙の枕元で眠りに落ちた。

 冬だった。北風が色の醒めた葉を散らして西へと吹いていった。僕は目をあけた。千沙の姿がない。

 千沙、と僕はいう。でも声は「ニャ」というだけだ。千沙?

「ニャ」千沙の声がした。

「あそこ。裏庭の椿の樹の隣にお兄さんがいる」

 僕は窓辺に飛び乗る。千沙の熱い吐息を感じる。赤い椿の花は地面に落ちて、血の池のように沈んでいる。僕にはそこに誰もみえない。でも千沙はみえない兄の姿をみている。千沙はその透明な瞳で告げる。

「私を呼んでる……

 千沙、だめだ。君は夢をみている。椿の木は眩暈を呼ぶ。椿の花は血のように赤いから。花だけが地面にことりと落ちるから。千沙、目を覚まして。夢の箱庭は危険だ。

 でも僕の声はやはり千沙の耳には届かない。冬の日射しがさっと翳る。日食だ。外は闇に包まれる。千沙。裸足のまま庭にでてはだめだ。暗闇に閉じ込められてしまうよ。でも千沙の耳は遠く、浅瀬のように引き潮に巻き込まれてゆく。千沙。いってはだめだよ。僕はみえない腕で千沙を背後から抱きすくめる。千沙ははっと振り向く。僕の後ろの誰かをみる。

「お父さん?」千沙はいう。「お父さんなの?」

 そうだよ、千沙、と僕はいいたいけれど、声はだせない。でもいいたい。僕は勇也だ。猫だけど、君のお父さんだよ。ニャとして、拾われたはちわれの猫として、君たちをいつもみているんだ。

「お父さん。いつもそばにいてくれたの?」

 うん。百合と千沙、いつも君たちのそばに。

「お兄さんは?」

 僕は答えない。ただ千沙の手を舐める。帰ろう、というように。僕たちの家に。千沙は睫毛の先の光る涙をぬぐった。

「ねえ、千沙には聴こえるよ。お父さんの声」

 千沙はいう。

「へんだね。千沙は耳が悪いのに」

 千沙、と僕は千沙の名前を呼ぶ。僕がつけた名前。僕が千沙に残せたのは名前だけだ。千沙、帰ろう。

「千沙はお兄さんのところにいってはだめなのね?」

 うん。千沙。日食が終わるまで、庭にでないで。闇はこわいよ。君をさらっていくよ。

 千沙は僕を抱き上げ、家に戻る。

「お母さんならこたえてくれるかな」

 そうだね、千沙。百合はしっている。もう千沙に話してもいいころだと思うよ。僕と百合が出逢ったのは、僕の前の妻とのあいだに生まれた子どもが亡くなったばかりの頃だったこと。僕と前の妻は子どもを喪ったことで、お互いを責めて、ただ傷つけあって、自分ばかりが不幸だと思っていた。そんな時に百合が僕の前に現れて、僕の魂を救ってくれた。誰もが親子程年齢が離れた僕と百合が結婚するのをとめた。絶縁を言い渡された。僕も百合も孤独だった。たったふたりぼっちだった。友だちもいないし、家族もいない。でも千沙。君が生まれて、僕と百合は本当に幸せだったんだよ。あの頃をいまでも思い出す。大切で、温かい思い出。

 君と百合を残して死んでしまって、ごめんね。でも僕は猫のニャの目からいつも君たちをみている。見守ってる。千沙。君はひとりじゃない。僕たちは三ニャ家族だ。

 日食は終わり、明るい日射しが庭に戻った。もうそこには誰もいない。

 千沙、いつものようにごはんをつくって。そして百合と僕と千沙、三人で食べよう。繰り返し、繰り返し、平凡な毎日を送ろう。それが僕の望みだ。

 いつか君が大人になって、僕と百合が必要じゃなくなっても、僕はずっと百合と、千沙、君たちが大好きなことを、君はどうか忘れないで。

 柔らかいたんぽぽの綿毛を風が飛ばす、永遠の春の日がくるまで。