編集部ブログ作品

2016年10月17日 15:16

幸せの青い鳥

「一晩、泊めてください」

 チャイムが鳴り、ドアをあけると、知らない、三つ編みをした中校生くらいの女の子がいて、そういった。

 ここは神奈川の海の近くの、でも結構な山奥で、近くには雑木林なんかある一軒家だ。あたりにはコンビニひとつなく、夜になれば真っ暗になるし、あぶない。こんな時間に一人暮らしの僕の家に女の子が訪れるなんて信じられなかった。

 時刻はもう12時近くだ。

 女の子は青い鳥がはいった鳥かごを提げていた。

「雪が降ってきそうだし、これ以上寒くなると、この鳥、死んじゃいます」

 僕はすごく困った。僕は売れない漫画家で、もうすぐ三十歳になるけど、女の子と話したことすらほとんどない。もしこれが手のこんだいたずらだったらどうしよう? 

 僕は考えた。女の子を部屋にいれた途端、女の子が警察に通報して、「拉致された」といったら?  

 交番に連れて行こうかな? 

 だけど交番についた途端、やっぱり「無理矢理連れてこられた」といったら? 

 そうならない可能性は何処にもない。僕は用心深い性格なのだ。

 でもこの寒いなか、この幼い女の子を追い返すのもなんだかかわいそうな気もした。ようするに僕は優柔不断で、いつもひとになにかをおしつけられたり、つけこまれたあげく知らん顔されたりする、ばかな人間なのだ。

 僕はこわいひとなんだよ、といおうかと思っていると、女の子は僕の後ろをみて、いった。

「夕ご飯をつくっているの?」

 ちいさなキッチンから匂いが流れてきたのだろう。僕が頷くと、女の子はいった。

「なにをつくっているか、あててあげる。鳥と蕪のおかゆでしょ。わたし、しろいものが好き。おなかが空いているの。食べてもいい?」

 小鳥を提げているのに鶏肉を食べたがるなんて、と思いながら、僕はなんとなく身体をよけた。女の子は白い靴をぬいで、部屋のなかへはいっていく。女の子はキッチンに立ち、冷蔵庫をのぞく。今日、一週間分の買い物をしたばかりなので、冷蔵庫にはみっちり食材が詰まっている。

 白いもの、白いもの、といいながら女の子は大根をおろして、豆腐ときのこの白和えをさっ、さっとつくった。

「おかゆもよい頃です。いただきましょう」

 なんだか鼻がすーすーする、と思うと、その女の子から薄荷の匂いがすることに気づいた。

「ひとり旅こそ仄かなれ 空ははるばる身はうつつ……。いいですねえ」

 女の子は床に置いたちいさなテーブルの前にちょこんとすわり、手をあわせて軽くおじぎをした。そして青い鳥に話しかけながら、白い米をスプーンで口に運ぶ。その自然な動作に僕はなんとなくもうこの子が何処の誰でもいいや、という気分になっていた。女の子はゆっくりと、お椀に息を吹きかけて、白いおかゆを食べている。僕は自分では気づかぬまま、スケッチブックをだして、その女の子の横顔を鉛筆で描いていた。

 誰かに似ている、と僕は思った。

 僕が捨てた誰か。

 僕が失った、誰か。

 それは子どもの頃飼っていた白い猫だろうか。それとも庭に咲いていた白い木蓮の花だろうか。いじめられて泣いていた時、白いリボンを胸に結って声をかけてくれた女の先生だろうか。

「どうしてあんなに泣いたんですか」

 白いお米をスプーンで口に運びながら、女の子が静かにいう。僕は顔をあげた。

「泣いた?」

「そう。あなたが泣いたことを私は知っています。なにが悲しかったの? 月がかくれてみえないから? ……でも雪が降るでしょう? あたりは白く染まるでしょう?」

 その声はまるで僕がいままで失ったもののすべてから届くような色を、帯びていた。

「君は幸せの青い小鳥なの?」

 女の子は食べ終わった鶏の小骨を紅いくちびるからそっとひきだす。

「ううん。わたしはね、死んだ天使なの。ここに死体があるから、取りにきたのよ。死体をひとつ天国に送るとね、神様が林檎の樹に数を書き込んで、千になると生まれ変われるの」

 女の子は僕が漫画を描いている板を載せた下にある、大きなトランクを指し示していった。

「あそこにね。あるでしょう? あなたのお姉さんがいるでしょう?」

 僕は鉛筆を握る手に力をこめた。何処からか吹いてきた風にめくられたスケッチブック。それは姉さんの絵で一杯だった。青白い頬の姉さん。眠っている姉さん。窓の外に横顔を向けている姉さん。僕の髪を撫でる姉さん。

たくさんの懐かしい姉さんが僕をみていた。

 僕は狼狽した。どうしてこの子は知っているんだ?

 そうだ、トランクの中には、死んだ姉さんが眠っている。僕が殺めた、大事な姉さんが眠っている。女の子は悲しげな瞳で僕をみつめている。僕はうつむく。トランクをみたくなかった。女の子はそっと立ち上がって、僕のそばにすわった。肩にふれた手が温かかった。それはまるで姉さんの温もりのようだった。僕はいう。

「だって……、だって姉さんは生まれた時から耳も目も不自由で、身体も動かせなくて……、ひとりではなにもできなくて……

 僕の瞳から涙がこぼれて落ちた。キッチンからはまだ温かな匂いがした。僕は涙をぬぐった。でもあふえる嗚咽は止まらない。

「父さんも母さんも、僕達を捨てて、僕は……、僕はひとりで、姉さんになにもできなくて……、それが、それがつらくて、でも……

「でも笑顔は優しかったでしょう?」

 女の子の表情が緩んだ。

「春の夜の雨の音のようだったでしょう?」

 青い鳥が籠のなかで澄んだ声を響かせた。悲しい音色に胸が痛くなる。

「うん……、僕は……

 しぼりだすように僕はいった。

「姉さんが好きだった」

「私もよ」

 女の子が姉さんになった。僕は姉さんの声を初めて聞いた。

「あなたのことがとても好き。忘れないでね、姉さんがいたこと。いつもそばにいること」

「姉さん……

 僕は姉さんの手をそっとにぎった。細くて、折れそうな姉さんの指。僕は最期にその爪に淡い色を差したことを思い出す。まるで生きているようなきれいな真珠色の爪だった。

「許してくれる?」

 姉さんはやさしく微笑み、僕の頬に口づけた。甘く、ほのかな温もりが懐かしかった。姉さんとキスをしたことはないのに、どうしてか、いつかみた虹のような思い出が生まれた。

「許してくれるの?」

「好きよ。私のたったひとりの弟だもの。大好きよ。これからも、ずっと、ずっと」

 僕の涙が止まるのをみると、姉さんは立ち上がって、そっとドアから出て行った。

 

 気がつくと、僕はひとりだった。女の子はいないし、トランクは消えていた。スケッチブックだけが残された。でもテーブルの上は食べ残しの骨のはいった皿があった。

 残された鳥かごの青い鳥が鳴いた。

 朝がきたのだ。