編集部ブログ作品
2016年10月 5日 16:24
珊瑚
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
僕は十四歳だった。一年前も十四歳だったし、五年前もそうだった。そして多分一年後、あるいは五年後も十四歳であるはずだ。僕は永遠に十四歳であることを運命づけられていた。どうして僕にだけそんな運命が待ち受けていたのかはわからない。僕以外の人々は太古の昔と変わらず季節と共に年齢を重ね、事故にあったり、病気になったり、または自分から選んで死を迎えた。僕は政権が変わるのを何度もみた。革命もみた。歴史の春もみた。戦争だって経験した。<神>と呼ばれていたモノが<人間>になるのもみた。人間がモノのように死んでゆくのもみた。
そんな風に何度も十四回めの誕生日を迎えているとはいえ、僕の自我は成熟というものにまったく恵まれていなかった。僕はなりたての十四歳の同級生たちと同じように、すぐ赤くなったり、些細なことで傷ついたりした。それが僕が永遠の十四歳という証のせいなのか、それとも僕自身の持つ属性なのか、わからなかった。僕がわかっていたことはたったひとつだった。
僕は永遠に思春期なのだ。
重過ぎるナルシシズムと裏腹な楽観主義。現実はいつまで経っても僕に訪れない。だからその頃の僕は成熟という問題を棚上げにしてきた。永遠の十四歳にどんな成熟が期待される? 誰がそれを僕に求める? そして僕は孤独でもあった。
その頃の僕は全寮制の寄宿舎で暮らしていた。代わり映えのない毎日を、毎年繰り返していた。同じ授業を何度も繰り返しているのに、僕は成績が悪かった。僕は頭が悪かったのだ。この水に何グラムの塩をいれたら、何パーセントの食塩水に……、という問題が試験に出ても、僕は毎回白紙でテスト用紙を提出した。補習を受けても、何人もの教師が僕の目の前で問題をといてみせても、僕のテスト用紙はいつもほとんど白いままだった。学ぶという機能がないみたいに、僕の意識は茫漠としていた。それはやはり僕が思春期の渦中にいるから、としか思えなかった。
その頃、僕のクラスに転入生がやってきた。僕たちの通う学校はある特殊な私立の実験校なので、転入生がくるのはとてもめずらしかった。転入生は女の子で、僕の隣の席にすわった。
「はじめまして。よろしくね」と彼女は涼しい声でいった。ショートカットのさらっとした髪からいい匂いがした。細い指の先の爪はピンク色で初々しかった。でも彼女だってきっとすぐ喪われてしまう、と僕は思った。僕はそれを何度も何度もみた。皆、僕の隣を通り過ぎてゆくだけだ。風のように、はかなく。
けれど彼女はそっと僕にささやいた。
「私は君の仲間よ」と。
授業はもう始まっており、教科書を朗読する生徒の声がするなかを縫うように、彼女のひそやかな声だけが、郵便のように僕の心に届けられた。
「どういう意味?」と僕は彼女の口許に耳をよせて尋ねた。彼女はうっすらと微笑む。まるで子どものような白い歯がみえる。
「私もね、ずっと十四歳なの。あなたはもう百年も十四歳でしょう? でもね、きっと私の方が幾つもの季節をめぐってきたわ。私達はいわば天使ね」
ふふっと彼女はちいさく笑う。頬がほのかに薄紅色に染まる。その顔は清らかで、確かに天使のようだ。
「信じられないな」と僕はいった。
「僕とおなじ人間がいるなんて」
「どうして私がこの学校に転入してきたと思う? どうしてあなたの隣の席にいると思う?」
彼女は秘密を打ちあける、薄く閉じた瞳でいう。
「これもいわば<実験>なのよ。彼らのね」
「彼ら?」
「私達以外の大人よ」
彼女は瞳をおおきくひらいた。光彩が光を受けて、きらきらと輝いていた。
「私達より後に生まれて私達よりはやく死んでゆくひと達。大人たちはみんな、君と私の敵よ。そうでしょ?」
その言葉に僕は頷いた。そうだ。彼女は僕が初めてめぐりあったおなじ種類の人間だった。
僕たちは誰もいない音楽室で抱きあった。女の子を抱くのは初めてだった。何故なら僕は十四歳だから。でも彼女は僕を誘った。
「いいじゃない。私に興味あるでしょ?」
彼女は僕の手にそっと手をそえた。その手は暖かく、僕の手は彼女の細い指を口許にあて、キスをした。彼女は僕をうまく導いて、僕ははじめての経験にすっかり満足した。彼女のことを好きだと思った。僕は音楽室の椅子にすわり、彼女の弾くピアノの音をきいた。流れる波のようなノクターンだった。
「ねえ、私達、死んでみない?」
いつのまにかピアノの音がやみ、夕暮れが音楽室を青く染めるころ、彼女はいった。
「どうして?」
「私達が死んだら、宇宙がなくなるかもしれないじゃない」と彼女はいった。
「そうかな」という僕に彼女はいった。
「M理論ってしってる?」
「知らない」
「この宇宙は線じゃなく、円である、という考え方よ。ひとは死ぬことはなく、ただ同じ人生をずっと繰り返していくの。でもね、私達は死なない。ずっと十四歳のまま。だから私達には宇宙は線のようにみえる。過去から未来へと進んでいくようにみえる。でもそうじゃなかったら?」
「よくわからないな」と僕はいった。
「死んだことがないし、死ぬって考えたこともない。だってずっと十四歳だから」
「私達、きっと罪人なのよ」と彼女はいった。
「罪人?」
「時に絡めとられて、動けない」
「そうかもしれないな」と僕はいった。でも僕は頭が悪いので、彼女のいっていることがうまく理解できなかった。僕にはなにもかもわからないのだ。未来を思い描いたこともないし、過去を振り返ったこともない。でも永遠に生きている彼女は僕たちのことを「罪人」だという……。
「盗みをしたこともないし、薬もやってない。勿論ひとを殺したり、傷つけたこともない。その僕の何処に罪があるんだ?」と僕はいった。
「宇宙の法則に従っていないじゃない。それが罪よ」と彼女は雨のように寂しくいった。夜が訪れようとしていた。
「死ぬとしても、どうやって?」と僕はきいた。
「ここは全寮制の学校だ。首を吊ろうとしても、すぐに誰かにみつかってしまう」
「私ね。秘密の珊瑚をもっているの」
彼女は黒いワンピースの制服のポケットから、真っ赤な珊瑚を取り出した。
「これを飲めば、あなたは一瞬で死ぬことができる……」
「君は……」と僕はかすれた声でいった。
「僕を殺したいの?」
星の光とかすかな月が、窓の外に浮かび始めていた。樹々が黒いレースのシルエットになった。
「私をあげたでしょう?」と彼女は子どものような無邪気な声をあげた。
「君を私にちょううだい」
僕は彼女をじっとみた。夜がこんなに親密に感じられたことはなかった。僕は死について考えたことはなかった。誰かが僕に死を与えることが起きるなんて思ってもみなかった。
だから彼女が赤い珊瑚を持って、僕を死に誘うことが、まるで先刻、彼女がワンピースのぼたんをひとつひとつはずし、身体をひらいた時とおなじような誘惑を感じた。
「いいよ。僕を君にあげる」
暫く考えて、僕はいった。死の誘惑は甘かった。
「でもその後、宇宙はどうなるんだろう?」
「それを見届けたら、私も珊瑚を飲み込むわ」と彼女はいった。そしてにっこりと笑う。その微笑みは天使。天国からの使徒だ。
「うれしい。これまでみたこともないものがみえる。君が私に贈り物をくれる」
彼女は僕にそっとキスをする。温かな吐息がくすぐったい。
「あなたが好き」
「僕も君が好きだ」
「私達、愛を手にいれたのね。それって素敵」
彼女は僕に珊瑚を手渡す。僕は赤い珊瑚を口にする。それは口のなかでほろりととけて、僕の意識はあっというまに暗くなる。
「宇宙は消えるわ」
遠く、遙か遠く、彼女の声がする。
「この世界が終わる……」
それは僕の死のことなのか、それとも彼女の言葉通りなのかはわからない。
死は闇だった。
永遠の十四歳の僕は底のない闇に沈んでいく、ちいさな赤い珊瑚だった。