編集部ブログ作品
2016年9月12日 17:00
ヘイト
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
「あきら」というのが彼女の名前だった。彼女はその名前が気に入っていなかった。おまけに彼女は中学にはいって20センチも背が伸びた。かわいらしいチェックのスカートから伸びた長い足を彼女はもてあましていた。髪は短く、肩幅はひろく、胸はまったくといっていい程ふくらみをもたなかった。つまり彼女は全然年頃の女の子らしくなかった。
教室を見回し、彼女と同年代の女の子をみつめては、彼女はため息をついた。
私はこの子たちと同じ種類ではないかもしれない、と彼女は考えた。きっと生まれる時、神様が身体と魂のいれかたを間違えたんだ。だってこんなにアンバランスなのはおかしい。手足が長くても、彼女は特にスポーツが得意な訳でもなかった。声は低く、吃音があった。
そしてあきらには友だちがいなかった。彼女は無口な上に、言葉の使い方をよく知らなかった。クラスに誰ひとり友だちがいないことも、あきらのコンプレックスを強くさせた。
私、何処にも居場所がない、と彼女は思った。
私のいるべき場所は何処だろう?
退屈な授業の合間に窓からみあげる空は、何処につながっているんだろう、と彼女は思う。何処かに私がいくべき本来の場所があるのだろうか、とも思った。だとしたら、そこへいきたい。ここは私の場所じゃない。中学生なんかもういやだ。制服はきらい。皆とおそろいの服を着た私は本当の私じゃない。私にはもっと似合う服がある。似合う場所がある。スカートから伸びた足が恥ずかしかった。襟元で風に揺れる短い髪がうとましかった。なにもかもきらい。何処か遠くへいきたい。
十四歳の彼女は祈るように、六月の青く澄んだ空をみあげていた。
ある放課後のことだった。鞄を肩からさげて家に帰る途中、彼女は「希望人形」と書かれた露店の手書きの看板を目にした。その大きな公園には近所のひとがよく自分で作ったものを売ったり、似顔絵を描いたりしていたので、その露店が特に不自然なものではなかった。
「この人形に希望の言葉を呼びかけると願いがかないます」と看板の下にちいさな文字が書かれていた。何気なくあきらが立ち止まると、年齢のよくわからない、そして男性か女性かもよくわからない奇妙なひとがあきらに話しかけた。
「お嬢さん。旅にでたいんじゃんじゃないかい」
「旅?」
「そうさ。いまいる場所から遠い場所に」
あきらははっとした。いつも教室で思っていたことをいいあてられた気がした。そのひとは続ける。
「この人形に祈ればいい。これは希望人形だよ。願いがかなう。ほら、三百円だよ。それだけで何処へだって好きな場所にいけるよ」
そのひとが差し出したのは猫の肉球の形をしたぬいぐるみのようなものだった。
「それが希望人形なんですか」とあきらはきいた。
「そうとも。願いをかけるといい」
なんとなくそれを押し付けられ、三百円ならまあいいか、とあきらはお金をだした。
さてどうしょう、とベッドの上に膝を立ててすわりながら、あきらは猫の肉球のぬいぐるみを眺めた。「希望人形」か、とあきらは思う。どんな願いをかけてみようか。でもこんなのインチキかもしれないな……。
夏の始まりだった。夜は涯もなく無限に広がっていた。月は形を変えず、いつまでもあきらの頭の上にあった。樹々は緑に萌え、そのむせかえる匂いが息を詰まらせた。あきらはベッドに崩れ落ちる。私を何処か遠くに連れていってほしい、と思う。
でも誰に?
そして何処にいこうとしているんだろう?
何処に私にふさわしい場所があるんだろう?
そんな時、ノックもせず兄があきらの部屋に入ってきた。
「英語の辞書、あきらが持ってったんだろ? 使うから返してくれよ」
背の高いあきらの兄の名前は淳。その名前はあきらにはうらやましかった。兄の名前の方が女らしいと思った。両親は何故兄と私の名前を取り替えて名付けてくれなかったんだろう。
「部屋にはいってこないで」とあきらは素っ気なくいった。
「ほしいものがあるなら夕食の時にいって。廊下にだしておくから」
「なんで? みられて困るものでもあるの?」
「そうじゃないけど……」
あきらからみる兄は人生をうまく泳いでいるようにみえた。成績もよく評判のいい高校に入り、ガールフレンドもいる。よく友だちを連れてきて、長い時間騒いでいる。父や母もあきらより兄を大事にしているように思う。
「あきら、今度、デートしないか?」
「え? 誰と?」
あきらは驚いて兄をみる。あきらはデートどころかクラスの男の子ともろくに口をきいたことがない。兄は続ける。
「おれと彼女と、おれの友だち。友だちが彼女ほしいっていうから、あきらはどうかなと思って」
きっと淳の妹ならかわいいと思っているんだ、とあきらは思い、整った顔立ちの兄の横顔を睨んだ。淳はなにもわかっていない。淳があきらを連れてデートにいった時、相手があきらをみてどんな反応をするのか、兄は想像できない。きっと相手はびっくりするだろう。素直でかわいい中学生を期待していたのに、背ばかり大きい割になにもかもが不格好で、愛想もない、色の浅黒い冴えない子が兄の背に隠れているなんて。そして彼女をみた彼は落胆する。もしかしたらそれを笑い話にして友だちに吹聴するかもしれない。そんなこともわからないなんて。
淳が憎い、とあきらは思った。こいつが憎い。淳は敵だ。
その途端、ふっとあきらは楽になった。
いままでのあきらは形のない不安に苦しめられていた。でもそれはいま、目の前にいる兄になった。現実に憎むものをみつけると、その不安な感情はあっけない程かんたんにほどけた。もしかしたらこれが私の「希望」なのかもしれない、とあきらは思った。
ひとを憎むこと。
それはたやすい。あっという間に自分が楽になる。誰かを「下」にみればいい、とあきらは気づく。淳は「下」だ。
でもどうして?
それはあきらを傷つけるから。
そうだ、それでいい。
私を傷つけるものを、私はこれからずっと憎んでいくのだ。誰かに罪を名付け、そして罰を願う。それだけでいい。
兄を部屋から追い出し、あきらはテレビをつける。パソコンを起動する。携帯電話を手にする。
そしてあきらは片端から憎むものをみつける。人々が潜在的に憎んでいるものを、あきらはかんたんにみつけることができる。そしてそれらが本当に憎むべきものであるのか疑うこともせず、片っ端からそれら穢す言葉をサイトにアップする。
そうしていると、あきらはもう世界の涯までいったような気持ちになれた。
あの「希望人形」が私にこんな気持ちをくれたんだ、とあきらは思う。
もうここはあの狭くて、いたたまれなかった場所ではない。私は何処にもいかなくていい。ただ憎めばいい。
そう、あきらは知らなかった。
あきらが持っていたもの、あきらの不安や、痛い程の心のふるえは思春期という二度のめぐりこない感性の研ぎすまされた、そして未来の扉がひらく、ほんのすこしの時間であることを。
この場所からでたい。
遠くにいきたい。
その気持ちが真っすぐに形になった時、ひとは成熟への道を歩き始めることができる。
その時間をあきらはひとを憎むことで費やすことになった。それはあきらの心を萎えさせて、ゆっくりと殺していくことと同じだった。あきらは不安とひきかえに自分を失った自分の心を殺したのだ。それはイノセントと呼ばれるちいさくて微かな心の灯だ。それは誰の心にもかつてあったものだ。けれどイノセントの灯は淡く、柔らかく、かんたんに消えてしまう。そして一度消失してしまえばもう二度と輝くことはない。永遠に、喪われ、元には戻らない。一度折った鶴がもう一枚のまっさらな紙に戻れないように。
それからのあきらの人生を私は語りたくない。私もあきらとおなじような人生を歩んだからだ。彼女は長い人生をなにも発見ことなく、なにも語ることなく、なにも生みだすこともなくすごしていくだろう。私とおなじように。
そんな人生に意味があるのだろうか。
人生に意味なんて必要ない、とあきらはいうだろう。生きているだけで、「下」を探すだけでいいとあきらはいうだろう。
でもね、あきら。
あなたはちゃんと持っていたんだよ。
遠くにいけるはずのちいさくて大切な心の灯を。そしてかつて私にもそれはあった。でも私は私という容れ物を大きくすることにつかれた。そしてあきら、あなたと同じくひとを憎んで人生を終えた。心の灯を自ら消した。心の明かりを灯したまま人生と歩くこと。それにはとても大きな代償がそなわっているから。それから逃げ出したくて、「希望人形」に憎むことを教えてもらって、私はなにもかも失ったんだ。
さよなら、あきら。
あなたも希望人形に心を売ってしまった。
あなたの人生を私はもういらない。
あなたは死んだよ。
さよなら。