編集部ブログ作品
2016年9月 5日 17:00
風のイケニエ
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
幼い頃私は木が揺れて風が起こるのだと思っていた。強い北風に凍える真冬、私は風に揺れる枯れた枝をながめ、ため息をついた。
ああ、木がなかったら私はこんなに凍えることはなかったのに。
ああ、木がなかったら、きっと冬もこないのに。
「まおみちゃんはどうしていつも怒っているの」
征ちゃんは私の顔を覗き込んでそういった。征ちゃんと私は三軒隣の幼なじみで、小学校への登下校もいつも一緒だった。
「怒ってるんじゃない。風が吹くと、頭が痛くなるの。特に今日みたいにうんと冷えていると」
「頭の、どの辺り?」
「ここ」私はこめかみを指差す。征ちゃんがそっとそこに指をふれた。ふっとこめかみのあたりが温かくなった。
「痛い?」
「うん」と私はこたえ、すぐそばの征ちゃんの顔をみつめた。その頃、私達はまだたったの十歳で、性差というものはほとんどなかった。それでも男の子の征ちゃんに両手で顔をはさまれると、どうしてか頬が熱くなった。
「木のせいだよ」と私は目を伏せていった。
「木のせい?」と征ちゃんは問い返した。
「うん。だって木があるから風が起こるでしょう? 風が吹くと頭が痛くなる。割れるみたいな音がする」
「お皿を落としたような音? ガラスに石が当たったような音?」
意外なことを征ちゃんがいったので、私はびっくりして顔をあげた。
「征ちゃん、いろんなことを考えるんだね」
「まおみちゃんのことだからだよ」
それはきっと私が最初に受けた告白だったのだと思う。まだ幼くて、なにもしらなかったけれど、征ちゃんは私のことが好きなんだ、ということははっきりわかった。それが何処にもつながっていなくても、私の心はこめかみとともにほのかに赤く染まった。
私と征ちゃんはずっとお互いの瞳をみつめあっていた。ただそれだけで、よかった。
「風がまおみちゃんの頭を痛くするなら、木を全部切ってしまえばいいんだ」
ある日、学校の帰り道、征ちゃんはそういった。私達の住んでいる場所は大きな池を囲む公園のすぐそばで、池のまわりにはぐるりとたくさんの木が立ち並んでいた。そのすべての木が風を起こしているんなら、と征ちゃんはいった。僕たちは革命を起こすべきではないかと。
「革命?」と私はいった。
「革命って、なに?」
「古いしきたりや間違った制度を否定して、新しい世界を拓くことだよ」と征ちゃんはいった。彼は勉強ができた。よく本も読んでいた。
「フランスで革命が起きたときは王様が殺されたんだよ。そして民主主義政権になった。でもソビエトでは逆さ。スターリンが政権を執ると独裁政治になった。ロシアの暗黒時代だよ。まあ、プーチンがいいという訳でもないけど」
まるで小学生ではないような言い方と、そのために公園の木を切るということの意味がつながらず、私はとまどった。
「どうやって木を切るの? 斧とかで?」
私は児童館で読んだ本を思い起こしていってみた。
「魔法を使うんだよ」と征ちゃんはいった。
「魔法?」
「そう。世界から木を消す魔法だ」
「そんなものがあるの?」
「まおみちゃん、今日、夜になったらこっそり家をでてこれる?」
征ちゃんがそっと私の顔を覗き込むようにみた。私はすこし赤くなる。
「何時頃?」
「真夜中。2時頃に」
「そんなに遅くまで起きていられるかなあ」
「帰ったらすぐに寝ちゃえばいい。2時に起きるように目覚ましをかけてね」
「お母さんに変に思われない?」
「風邪気味だからはやく寝るっていえばいい。ねえまおみちゃん。なにより君を困らす風の原因を断ちにいくんだから細かいことは気にしなくていいんだよ」
征ちゃんは私をじっとみつめていった。その真摯な瞳の光と、真夜中に家を抜け出して、征ちゃんと逢う約束をするという、今まで経験したことのないことをするのだ、というときめきのような想いに胸の鼓動が高まるのを感じた。
「うん。わかった」と私はいった。
そしてその夜、私は征ちゃんと魔法を執り行うという目的を胸に、家を抜け出したのだ。
真夜中の公園は、街灯の明かりがぼんやりと池を深い碧に染めていた。風は強く吹き、私の頭は痛んだ。でも今夜、征ちゃんが魔法ですべての木を消してくれる。もう風は吹くことなく、冬は去り、暖かい春が訪れる。
真夜中に征ちゃんと手をつなぎ、歩いていること。いつもの帰り道とおなじはずなのに、月が頭の真上にぽっかり浮かんでいると、なんだか特別な気がした。夜の魔法だ、と私は思った。そしてはっとして征ちゃんをみた。
「え? 征ちゃん、魔法ってどうやってつかうの?」
「イケニエを捧げるんだ」
「イケニエ?」
「そう。昔は雨が降らないときとかに呪術をつかって雨をよんだりしたんだよ」
征ちゃんはいつものように私の知らない知識を持ち出した。きっと難しい本にそのことが書いてあったのだろう、と私は思った。
「この池をのぼっていけば、一番先に大きな川の流れの源流につくでしょう? そこでイケニエを捧げて、祈るんだ。風がこの世界から消えますようにって」
それも本に書いてあったのかな、と思いながらも、征ちゃんがそういうなら、きっとそうなんだ、と私はにぎった汗ですこし湿った手に意識を集中させていた。風は音をたてて鳴り、身体はふるえ、身も凍える寒さなのに、それを私は忘れていた。
私達は夜を歩き、川の水が最初に流れる場所についた。私ははっと思った。
「ねえ、征ちゃん。イケニエって、なんのこと?」
「僕だよ」
私の手から指をほどいて征ちゃんはいった。
「まおみちゃん。君のために僕はイケニエになるよ」
そういうと、征ちゃんは柵を乗り越え、深い水のなかへと入っていった。
「征ちゃん?」
「まおみちゃんはきてはだめ!」
強い口調で征ちゃんはいった。
「ずっと君を守るよ。誓うよ。遠くから君をずっとみている。君のために僕は僕を喪うことなんて、ちっともこわくない」
「征ちゃん……」
さっくまでつないでいた手がまた暖かい。私は水に膝まで浸かっている征ちゃんの後を追おうとした。
「行かないで、征ちゃん」
征ちゃんはゆっくりと微笑んだ。水に沈みながら、征ちゃんはささやく。
「まおみちゃん、君は光のなかを歩いて」
ゆっくりと征ちゃんは遠ざかってゆく。これは夢? と私は思う。深く青い闇。銀色の月。沈んでゆく征ちゃん。そして記憶は途絶えた……。
それから私の記憶は二十歳になるまで失われた。そう、あの夜から、ふと気づくと、私は二十歳になっていた。
といっても私は病院にいたとかいう訳ではない。両親に何気なく尋ねても、私はごく普通に中学から高校、そして大学生になり、友だちもいる、特に変わったところはないあたりまえの私だった。
どうして私の記憶が失われたのか。それとも記憶をしないであの夜から今日までを過ごしていたのか、それはわからない。
征ちゃんは、と母に尋ねると、母はすこし気の毒そうに、ああ、あの行方不明の子ね、といった。まおみ、仲が良かったから、ずいぶん落ち込んでいたものね。探しにいくと夜中に起きて泣くあなたをなだめるのに、ずいぶん苦労したわ。
大人になった私はもう木が風を起こすことはないことを知っていた。風が起きるのは太陽の光で地球の大気が循環するからだ。
でも、だったら何故征ちゃんはイケニエにならなければいけなかったんだろう?
私のために征ちゃんは死んだ。もう二度と逢えない……。私は子どものように泣いた。泣きじゃくった。お風呂に閉じこもり、声を出して。
その時、きこえたのだ。確かに征ちゃんの声が。
まおみちゃん。光のなかを歩いて。
私は思い出す。最期の征ちゃんの綺麗な瞳。私にきてはだめ、と告げた、彼。私のためにイケニエになることを、選んだ、彼。
そう、優しい、あどけない征ちゃんの声が、いまでも耳に残っている。風が残す、冷たい痛みのように。