編集部ブログ作品

2016年8月29日 17:00

雨の眩暈

 蝉時雨が遠く、高く、響く。強い太陽の光で影が濃く染まる。陽炎がゆらゆらと揺れる。

 そして僕達はみたのだ。

 あの永遠の少女を。


 そっと手をのばして、緑の葉の上に横たわっている窓花(まどか)の額の髪をわけた。真昼。夏の光に照らされ、淡く汗をかいている肌。緑一面の草原の中で。風はない。睡気が酔う。

「さわらないでよ」

 そういいながら、窓花は動かない。僕は窓花を抱きしめたくなる。でもこの強い太陽の下で肌と肌をあわせるのはすこしためらう。

「こんな陽射しのなかにいても、窓花は白い肌のままだね」

 自分の気持ちをさとられたくなくて、僕はそっと呟く。

「白おばけっていわれてるの」

「え?」

「隣のクラスの子から。私、嫌われてるのよ」

 そんなことはない。窓花は綺麗な少女だった。真珠のような白い肌も、黒檀のような黒い瞳も、腰までのびたまっすぐな髪も、天使が窓花に与えた贈り物だった。

「だから私があの子達を殺したって、噂になっているのよね」

 窓花は飛んでいた蝶をしどけない仕種でそっと掌に包む。次の瞬間、表情のない瞳で窓花は黒いアゲハの羽根をむしる。

「ほら、こんな風に。私は残酷な女の子なのよ」

 一年前までの窓花はそうじゃなかった、と僕は思う。

 あの夏の日。

 鬱蒼と緑が繁るこの大きな谷の奥の浄化水槽のなかで、ひとりの少女が浮かんでいる姿をみてから、窓花は変わった。小学校最後の夏だった。この街では次々と少女が失踪する事件があいついだ。そしてそれは噂になり、また噂を呼んだ。

 誰があの子を殺したの? と窓花はいう。

 綺麗な女の子たちを。

 まだひらいていない花を摘んだのは誰?

 そんな窓花の心を僕はゆっくりとなぞる。  窓花は僕をみる。うっとりとした、遠い遥かな空を映した瞳で。僕に告白を告げるように。

「目がひらいていたわね、あの子」

 窓花の睫毛が揺れていた。そう、これは僕達だけの秘密だった。水に沈んでいたきれいな少女。もう、この世界にはいない、少女。

 立ち入り禁止のこの場所にだってたったふたりだけできた。塾にいくと嘘をついて。赤い柵をこえて。窓花は夢みるようにささやく。

「あの綺麗な子、微笑みだって浮かべていた。きっと今もあそこで生きている……」

 あの子は死んだよ、といおうとする僕のくちびるを封じるように、不意にあたりが暗くなった。積乱雲が黒い雨雲をつれてきた。水滴が一粒こぼれたかと思うと、あたりに一面にざあっと音を立てて雨が降り出した。

「濡れるよ、窓花」

 僕がさしのべた手を窓花ははらう。

「いいのよ。濡れましょう。夏の雨はすぐ何処かへいってしまうから」

 窓花は待っているのだ、と僕は気づく。あの少女達が雨に連れられてやってくるのを。

「あの時みた女の子は、私の生き別れの妹だと思うの」

 雨に濡れながら窓花は呟く。雨粒が頬からあごをつたって落ちる。白い制服のブラウスが透けてゆく。僕は目を逸らそうとして、でも逸らせない。この手に窓花を抱きしめられたら。窓花を僕のものにできたら。

 でも窓花はあの日、水に沈んだ少女に恋をしているのだ。

「私の家に、子どもの頃の写真がないの。母は火事があって焼けてしまったというけど、きっとそれは嘘ね……」

 窓花は濡れた靴を脱いで素足になる。

「ほら、だってやっぱりいる……」

 雨のなかをやはり長い髪の女の子が遠く、淡く、タチアオイの花のようにたおやかに咲いている。それはひとりの少女でもあり、幾人もの誰かでもある……。

「ここでいいわ。さよなら」

 窓花が僕にいう。素足のまま、立ち去ろうとする。僕はあわてて窓花の手をつかむ。

「君を一人ではいかせない。僕も……」

「だってあなたは男の子じゃない。死んだのはみんな女の子よ。それも、綺麗な子ばかりよ。あなたにははいれない……」

 窓花の声はアイスクリームのように甘く、そして冷たい。そのことが僕はくやしい。この美しい瞳をした少女がうらめしい。少女だけが持つ、儚く、切ない、夏の雨のような純真。それは僕には持てない。うつむいている僕に窓花はいう。

「キスしてあげるわ」

 僕は顔をあげる。僕の目の前に窓花がいた。

「そして傷をつけてあげる」

 雨に濡れた両手が僕の頬を包む。蜜のような陶酔。温かく、しめったくちびる。とろり、とふれあう歯と舌のさき。それはまるで水蜜桃。淡くとけて消えてゆく。

「気持ちいい?」

 僕の気持ちを占うように吐息をついて窓花がいう。微笑んでいる、綺麗で残酷な窓花。

「そうよね。これは呪いのキスだから」

「呪い?」

「そう。私がいなくなった後、あなたにふれた女の子はみんな水に沈む……。このキスにはそんな呪いがかかっているのよ」

「それが……、君の呪いなの?」

 彼女はすこし微笑む。白い真昼の月のような微笑み。

「そう。だって、甘かったでしょ? とけるようだったでしょ? 私もそんなキスをしたの。あの子と……」

 窓花の瞳がゆっくりと柔らかな花になり、雨に滲みてゆく。

「……何処にいくの?」

 僕はちいさくいう。

「何処にいくの? 窓花……」

 幾人もの少女達が雨の野辺を歩いていく。

 それは夏の日の逃げ水のように、揺らめいては離れてゆく。少女たちは歌を歌っている。耳の奥にずっと流れるメロディ。それは僕を眩暈に誘い、意識を遠くに運ぶ。

 気がつくと、広い草原に僕はひとりで横たわっていた。窓花は何処にもいない。

 僕は窓花を失ったのだ、と不意に覚る。窓花は僕の少年期を奪って、旅立ったのだ。

 果てしない永遠の水の底に。

 僕に呪いのキスを残して。

 これから僕はその呪いから逃れられることはないのだ。今度は僕がまだみぬ少女たちを、遠い世界へと旅立たせる、使者になるのだ。