編集部ブログ作品

2016年8月 8日 17:00

はじまりの島

 はじめはその島で生まれた最後の女の子だった。島はもう五十人にも満たず、3・11の後、島全体が活断層の上にあることが確認されたため、島中の者達は最後にこの島で生まれる子になるだろうと、赤ん坊が生まれたら島の外にでようと決めていた。

 はじめが生まれた時、父親はこの子が島の最後の子どもになるから末(すえ)、とつけようと思ったが、母親は父に内緒ではじめという名前を役場に届けた。

 はじめが生まれて、島中の住民は親戚や知り合いのつてをたどって島の外にでた。はじめは北海道の海の近くの街へやってきた。五歳年上のいとこの僕も一緒だった。僕とはじめは本当の兄妹のように仲がよかった。

 はじめが十四歳になった頃、僕ははじめのうつくしさに最初に気づいた。地元の高専に通っていた僕は頭がよかったので、東京の大学に進学するようまわりから勧められていたが、はじめから離れたくなくて市役所の職員になった。

「市役所の職員の仕事っておもしろい? 学」

 高校生になったはじめが日曜の午後、海を眺めながら僕にきいた。ちなみに学というのが僕の名前だ。だからきっと頭もよかったのだろう。

「働くのは生活のためだから特におもしろくなくてもかまわない」と僕はこたえた。

「学には夢はないの?」

「夢ぐらいある」

 僕の夢ははじめを妻にすることだった。子どもの頃、はしゃいで、手をつなぎ、時には身体毎ふれあったりもしたけれど、いつの頃からか、僕ははじめの指すらもふれていない。折れそうに細いはじめの身体を僕の長い腕で思い切り抱きしめるのがささやかな僕の夢だ。

「どんな夢?」

「秘密」

 はじめは不満そうな顔になる。

「そういうの、よくないよ」

 はじめはいう。

「あたしと学の間に秘密とか、あるのって、よくない」

「じゃあはじめの夢はなんだよ」

「あのねえっ、あたしはね。詩人になるの」

「詩人?」

「生まれた島に戻ってね。誰もいない、でもまだ住めそうな家をみつけて、暖炉に火を熾してごはんをつくって、太陽の光で起きて、月の影で詩を書いて暮らすの。持っていくものはコーヒーと煙草だけ。いいでしょ、そういうの」

「ばかだな」

 僕はあきれかえる。

「もうとっくに廃墟だよ。あの島は」

「ちがうもん。あたしのなかであの島はあたしを待ってるの。だってあたしははじめだから。あたしがもう一度あの島をはじめるの」

 制服のポケットからはじめは煙草とライターを取り出す。スターバックスのコーヒーと一緒に煙草を吸うのが一番好きな瞬間、とはじめはいつもいう。

 僕の父は肺がんではやく亡くなって、今は叔父の家にやっかいになっている身だから、はじめに煙草を吸うのをやめてほしいと思う。けれどマニキュアもしていないのに珊瑚みたいにきれいな爪をしたはじめの指にはさまれたシガレットはシックで、その吸い口が濡れているのをみるのは楽しい。

「この間ね、椰子の実をママが買ってきたの」

 はじめはいう。

「かたくてね。きりで穴をあけてストローでなかみを吸った。なんでだろう、すごく懐かしくて、胸が苦しくて、あの島に帰りたくて」

 僕ははじめの横顔をみる。潮風の香りを感じる。でもあの島とはすこし違う。ここは磯のにおいが強過ぎる。僕たちがいたあの島では、夏になるとオリーヴの翡翠色の実が実り、釣り船は夜になると仄かな明かりを灯して漁にでる。大人しかいない夏祭り。冬でも寒くない島。もう戻れない僕達の子ども時代。

「連れていってあげようか」

 考えなしに僕はいう。はじめの顔がぱっと輝く。

「ほんと? ほんとなの、学」

 僕は曖昧に頷く。

「はじめが高校卒業して、おれたち結婚式あげて、おれ市役所やめて、島に戻って、おれ、漁するから、おまえ、家でメシ作りながら、詩でもなんでも書けよ」

 僕はまだ十九歳で、それが精一杯のプロポーズだった。はじめはがばっと僕に抱きついた。

「うれしい! 島に戻れる!」

 折れそうに華奢だと思っていたはじめの身体の体温が妙に温かく、柔らかかった。煙草の香りがした。スモークされたチップの匂いだ。


 それが僕の第二の秘密になった。

 はじめは十七歳の時、風邪をこじらせてあっけなく死んだ。さよならもいわずに、逝ってしまった。

 はじめ。

 その名前の通り、おまえはきっと何処かでなにかをはじめているだろう。

 煙草を吸い、コーヒーをいれ、月の下で詩を吟じるのだろう。

 僕はあいかわらず市役所につとめ、頭がいいので一番早く課長になったりして、そしてきっと上司のすすめで何処かの誰かと結婚して、子どもが生まれて、いまはやりの訳のわからないキラキラネームつけた子どもを日曜日に遊園地に連れていったりするのだろう。

 島にはもう帰らない。

 だってもう島には君がいないから。

 オリーヴの実がたわわに風に揺れても、それはこぼれて落ちてゆくだけなのだ。