編集部ブログ作品

2016年7月18日 20:11

沈む

 少年はランドセルを茂みの中に放り出し、自身も灌木の内側に入り込む。

 そこは大きな公園の一角で、緑のなかはまわりからは死角になっている。少年はそこに横たわる。

 多分、今算数の時間だ、と少年は思う。

 少年は年度の初めに教科書をもらうと、それを読んだだけで、すべて理解することができた。家庭訪問の時、担任の女性教師が少年の知能の高さをため息まじりに語った。

 その話を聞いても少年の母は特に興味を持ったようではなかった。

 毎朝、少年が目覚めると、母親はもうすでに出勤しており、テーブルの上に朝食代、と五百円玉が一枚置いてあった。

 コンビニでサンドウィッチとコーヒー牛乳を買って、秋のはじまりの中で少年はうたたねをしていた。

「坊ん(ぼん)、俺もここにいていいか」

 不意に大人の男の声が聞こえた。少年は驚いて、身体を硬くした。

 逆光で、男の顔がよく見えない。色のあせたTシャツに、軍パンを履いている。

「サンドウィッチとコーヒー牛乳か、いいな、坊ん」

 うらやましげな男の声に、少年はサンドウィッチとコーヒー牛乳を男に差し出す。男は遠慮することもなく、がつがつと食べ始める。

「まともなもの、食ったの、久しぶりや。ありがとな、坊ん」

 少年は考える。僕は大声をあげて、助けを呼ぶべきだろうか。いや、おとなしくしていた方がいいだろう。

「このあたりは高台だ。坊んはここの生まれか」

 少年は頷く。

「ええなぁ。俺が子どものころ住んでたうちは低い土地にあってな。大雨が降ると、すぐ水がでた。父親はいなかった。母親もいつのまにかいなくなった。俺、頭悪い、ようおぼえとらん」

 変な言葉だ。話し方も少し奇妙だった。

「今、人を殺してきた」

 男の言葉に射されたように、少年はうつむいたまま、動けない。

「玉のような青い瞳の女の子だ。外国人と違う。ハーフでもない。日本人だ。 目の神経が……、なんていったかな、名前はおぼえとらんが難しい病気でな、それに罹ると目が青くなるんだ」

「なんで殺したの」

 それには答えず、男は微笑んだ。優しい目をしていた。

「見に来るか、坊ん」

 少年はランドセルを背負って、立ち上がった。淡く、細かな雨が降りはじめていた。

 

 公園のはずれに市民プールがある。柔らかな雨のなか、二人は金網を登り、中に入る。透明な水の中に白いワンピースを着た女の子が沈んでいる。

「な、目、青いやろ」

「でも片目しかないよ」

「俺が食べたん。剥いた葡萄のように綺麗だった」

 男は黙ったままだった。目を細めて、沈んでいる青い瞳の少女をみている。雨がぽつり、ぽつりと点のような跡を水面に残す。点は何重かの輪になって、澄んだ水の上にひろがってゆく。

「この水、透明やな……。俺の生まれた土地にあふれでる水はいつもぬかるんでいた。水が引いた後はどこもかしこも泥だらけだ。エリスはこんな澄んだ水の中に沈んで、幸せだと思うな」

「エリス?」

「そこで沈んでる子の名前だ。青い瞳のエリス。そんな小説、読んだことないか」

「ない。作り話なんかいらない」

「俺も読んだことはないんや。中学もろくに出てないしな。でもエリスは本が好きでな。兄さん、私、この物語の中の女の子みたいでしょ、といつもその本を胸に抱えていた」

「兄さん?」

「そうや。その子は妹や。血はつながってないけどな。私立の矯正施設で出逢った。一緒に脱走したんだ。手はつないだけど、あとは綺麗なもんだ。なんもしとらん」

「でも殺したじゃないか」

「……ああ、何でだろ……。俺、なんで大事な妹、殺してしまったんだろ……」

 少年は顔をあげて男を見る。

「僕も殺すの」

 男はぼんやりとした顔をする。

「なんでや。坊んは青い目しとらん。学校いきな。俺は暫くエリスを見てる」

「僕、警察にいくよ、おじさんは……」

 少年は次の言葉を飲み込む。

「かまわん。サンドウィッチとコーヒー牛乳、ありがとな」

 男は少女が浮かんでいるプールの水を掬う。

「あんなに水がでるの、こわかったのに、俺、大事な妹、水の中に閉じこめてしまった……。なんでだろ……」

 男の言葉に誘われるように雨が強くなる。夏の驟雨は音をともなって、激しく身体を打つ。少年は予言のようにいう。

「おじさんも水に沈むよ」

「……俺か」

「この雨、きっと増水してあふれる。おじさんは青い目食べたから水に沈むんだ。永遠に。僕にはわかる。おじさんが首まで水に浸かっているのが僕にはわかるんだ」

 男は悲しげに首を振る。

 少年は金網を降り、駆け出す。男は追ってこない。少年の目に雨の滴が入る。

 このままでは僕も水に沈む、と駈けながら少年は思う。僕は何処に行けばいい?

 何処にも行けない、あなたも沈むのよ、と青い片方だけの瞳の少女の声が何処かから聞こえる。それは呪いだ。

 少年は雨に身体をぐっしょりと濡らしながら、駈けてゆく。

 雨にとらわれた少年はもう無垢ではない。穢され、大人に近づいた、ごく普通の少年にすぎなかった。