編集部ブログ作品

2016年6月27日 17:00

雨に濡れた天使

 東風の中に沈丁花の香りが響く。ふくらんだ木蓮の白い蕾。土の上に落ちている赤い椿の花。

 死が迫っているのに、彼女はそれらを愛しくみつめた。

 なんといっても彼女の背中には白く、大きな翼があった。彼女は自分で縫った青い青い服を着て、公園通りを歩いていた。白い翼はその青のなかで眩しく光っていた。

 夜明け前に昇り始めた銀色の月をみあげた。この月をみられるのも、もう少しだけと彼女は思う。

 彼女が生まれた日、産科医は彼女の背中をそっとさわった。

「なにか?」と母親になったばかりの女が尋ねると、医師は「いや、別に……」と言葉を濁した。母親は彼女を受け取った。肩甲骨の形になんとなく違和感を覚えた。成長するにつれて、それはいつのまにか彼女の翼になった。

「原因は不明ですが」医師はいいづらそうに告げた。「翼を授かって生まれた子どもは十七歳で死に至ります」

 そういわれたせいか、母親は彼女のことを碌にかわいがりもせず、世話もしなかった。彼女はほとんど学校にもいかずに育った。彼女の後に弟と妹がひとりずつ生まれたが、彼らには翼がなかった。母親は弟と妹を溺愛した。彼女のことをなるべく考えまいとするように。きっと彼女を喪うことをおそれていたのだと思うが、そのことで彼女の心がそこなわれることを感じ取れる程には彼女の母親は感受性の育ったタイプではなかった。

 彼女にもさすがに名前はあったが、誰も呼ばなかったので、彼女自身自分の名前を覚えていない程だった。

 ただ自由だけはあった。

 こんな風に夜明け前の公園の池のまわりを散歩する時が、彼女が幸せを感じる時だった。

「君の誕生日はいつなの?」

 不意に声をかけられた。振り向くと、やはり翼のある少年が立っていた。

「どうして?」と彼女はきいた。澄んだ青いリンドウのような声だった。

「明日は僕の十七回目の誕生日だから」

「ふうん……」彼女は小首をかしげた。「じゃあ、あなたは明日死ぬのね?」

 少年は白い歯をみせて笑った。翼がゆっくりと揺れた。

「まあ、そういうことになるね」

 優しい雨が降り出していた。少年が開いた透明なビニール傘に水滴が水玉模様を作っている。

「どんな気持ち?」

「なにが?」

「明日、死ぬって」

 少年はすこし困ったように彼女をみつめる。

「はっきりきくんだなぁ」

 少年の言葉に彼女は翼をひろげてみせた。そんな姿の彼女はまるで中世の宗教画の天使みたいだ。少年は目を細める。眩しいものをみるように。

「君の翼は綺麗だね」

「あなたの翼もみせて」

 少年も羽根をひろげた。それはすこし灰色がかって、付け根は青かった。

「あなたの翼、白くないのね」

「この数日だね、灰色になったのは」

「それが死の兆候かしら?」

「うん。きっとそうだね。十七歳になるってことは、僕と君にはそういう意味を持つんだね」

 少年は彼女の翼をそっと撫でながら生い立ちを語った。この奇妙な翼をもった存在を、どれだけ両親が嘆いたこと。大切にされたこと。けれど決して大勢のひとの境界にはいれなかったこと。

「でもたくさんの女の子と寝たよ。みんなこの翼をみたがって。天使とデートしてるつもりだったんじゃないかな」

「私とも寝たい?」

「どうして?」

「だって、翼のある子をみたの、自分以外にはいないんじゃない? 私達って、割にめずらしいもの」

 少年の顔から笑顔が消えた。

「怒ったの?」彼女が少年の顔を覗き込むと少年は口を歪めて無理に微笑んだ。

「うん。自分が特別だっていうこと、あまり考えたくなかったから」

「翼のあること?」

「まあね」

「でもそれも今夜で最後ね」

 少年はため息をついた。

「まあ、そういうことになるね」

「かわいそう」

 彼女は少年の濡れた髪を撫でた。淡い吐息のもれるくちびるにそっと花のようなくちびるを重ねた。

「私をあげるわ」

「もう女の子はいいんだ。だってどの子もおなじなんだ」

「私は違う。翼がある。そして私も死ぬの。あなたの後を追うように」

「僕の?」 

 少年はきょとんとした表情になる。

「僕についてきてくれる?」

「だってあなたは天使じゃない」

 彼女は笑って、少年の胸に顔をよせた。夜が明け、雨は静かに降り注いでいた。

 少年が息をひきとったのは夕暮れの近づく頃だった。春は名のみ、まだ風は冷たく、彼女は少年を抱いたまま、翼で彼を包んだ。雨はやみ、月が出ていた。

 この月が沈む頃、きっと私も死ぬ。天使は天使を抱きながら、旅立ちの朝がくることをしった。

 その時、彼女の瞳に一粒の涙がこぼれた。それまで彼女は泣いたことがなかった。自らの手で天使を抱いたこと。それが彼女の心に雨をもたらせた。

 この涙を真珠の首飾りにして、あなたにあげるね、と彼女はもう薄汚れ始めた灰色の翼に話しかけた。そっとその翼に顔を埋め、その時を待った。

 彼女の羽根が夜とともに青く沈んでいった。