編集部ブログ作品
2016年6月20日 17:38
片思いの月
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
汐吏(しおり)は十七歳になった時、ある病に罹った。それは命にかかわる病ではなかったが、これからの汐吏に影のようにずっとついてまわるものだった。汐吏はこれから先の長い人生をその病とともに生きてゆくのだ。
そして同時に、汐吏は恋をした。それは教室の端の席にすわるクラスメイトの男の子だった。
汐吏はいつもその男の子をみつめていたが、言葉をかわすこともなく、卒業を迎えた。彼は街をでて東京にいってしまった。きっともう彼と逢うことはないだろうな、と卒業証書を紺のブレザーの胸に抱き、学生服の彼の背中を黙って長い間ただ遠くから汐吏は眺めるだけだった。
大学生活にうまくなじめなかった汐吏は、ひとり図書室でノートをまとめながら、高校の時の片思いの彼のことをいつも思っていた。汐吏が小説とも散文ともつかないものを書き始めたのは、そのいいだせなかった想いを言葉にしたかったからかもしれない。
おおきな湖のある街に汐吏は暮らしていた。おとなしく、友だちも少ない汐吏はよくその湖を眺めながら、パソコンに言葉を打ち込み、これからの人生をどう生きていけばいいんだろう、と茫漠とした気持ちになった。病はよくも悪くもならないが、やはりそれを思うと心に寂しい風が吹くのを感じずにはいられなかった。小説家になれたら、と湖によせる波を眺めてふと心に思うけれど、汐吏はこの街から遠くにでることを思い描くことができなかった。私はずっとこの街にいる。冬になると、冷たい風が雪を凍えて散らすこのちいさな街が汐吏のすべてだった。
ある冬の寒い夕暮れのことだった。ダッフルコートを着て、また湖にきていた汐吏は不意に名前を呼ばれておどろいて振り返った。高校時代、ずっと片思いを続けていたクラスメイトがそこにいた。
「ごめん。びっくりした?」
彼の声を、英語の授業の朗読じゃなくきくのは初めてのような気がして、汐吏は微かに頷いた。
「二年ぶり? 変わらないから、すぐわかった」
彼はいった。柔らかな、春の陽射しのような声だった。
「どうしたの?」
「うん。大学、ちょっと休むことにしたんだ」
「あの……」
病気なの? と訊こうとして、汐吏はその話題にふれてほしくない自分に気づいて口ごもった。
「この湖、こんなに青かったかな」
彼は遠く、眩しいものをみるように目を細めて湖を遠く臨んだ。
「冬はね。青が濃くなって、藍色になるの。でも夏がくると空を映して、淡い水色に染まる」
「君、まるで読んでいるように話すんだね」
汐吏は少し赤くなる。話すことが得意ではなかった。
「そうか。君、いつも本を読んでいたでしょう? だからかな」
彼が私をみていたの? 汐吏の頬がますます赤く燃えた。
「僕の勘違いじゃなきゃいいけど、君、僕をよくみていなかった?」
汐吏は首を振る。逃げ出したい、と思う。でも身体が動かない。冬の風が冷たい。
「話しかけてくれたらいいのにって思ってたけど、いま思えば僕が話しかければよかったんだよね」
汐吏は彼をみつめる。気がつくと、彼は汐吏の隣に腰をおろした。
「でも、あの頃、勇気がなかったんだ」
それは私、と汐吏は思う。話しかけたかったのは、私。
「東京は……」
汐吏はちいさく呟く。
「楽しい?」
「こことおなじだよ」
「違うよ」汐吏はいう。
「私、東京、いけない。こわいもの。この街からでるの」
「僕は高校の頃、こわいことなんかなかったんだけどね」
「今は?」
「うん?」
「今は、こわいこと、あるの?」 「そうだなあ……」
彼は湖に小石を投げる。湖面に輪が広がる。
「東京は夜もずっと明るいんだ。昼間のようではないけどね。ぼうっと空があわくオレンジに光って、月が星座がみえないんだ。それが、こわいかな」
「夜をみに、この街に戻ってきたの?」
彼は汐吏の顔をじっとみた。
「そうだね。君は思ったとおりのことをいうね。君ならなにか答えをくれると思っていた。高校の頃から」
それは告白のようで、汐吏の胸の鼓動は高まる。
「いつまでこの街にいるの?」
「夜が昼より短くなるまで、かな」
「また、逢える?」
「君、僕に逢いたい?」
汐吏は口ごもる。やっぱりいえない。汐吏は未だ咲いていない青い花だ。
「また、君にいわせようとしちゃったね。僕が君に逢いにくるよ。君はいつもこの湖にいるの?」
「学校が終われば」
「熱いコーヒーをふたつ、買ってくる」
彼はにっこりと陽だまりのように笑う。こんな表情をするんだ、と汐吏は思う。目が、優しい。口許が永遠のように綻ぶ。横顔だけを、あの頃の汐吏はみていた。だから今、汐吏は初めて彼をみた気がした。
翌日、約束通り彼は紙コップに入ったコーヒーを持って、汐吏の許に来る。熱いコーヒーはミルクも砂糖も抜きで、汐吏はすこし苦手だったが、それでも温もりは掌からゆっくりと汐吏の身体中に伝わる。
コーヒーは何度も手渡され、汐吏はその味に慣れてくる。彼との会話も、すこしずつスムーズに流れ出す。
「月がきれいだな」
闇のなかにぽっかり浮かんだ満月をみあげながら、夜のなか彼はいう。
「この月がみたかったんだ」
「帰ってくればいいのに」
汐吏はいう。彼が振り向く。
「この街に、帰ってくればいいのに。ずっとずっと月は湖の上に昇るから」
彼の手がそっと汐吏の髪にふれる。大きな掌が静かに汐吏のちいさな頭の天辺を撫でる。その温もり。
「帰りたいなあ」彼はいう。
「でも……」悲しい予感におびえる小鳥のように汐吏の声はふるえる。
「帰ってはこれないのね?」
「うん。春になる頃にはね」
「好き」
ずっといえなかった言葉を汐吏はようやくいま、咲いたばかりの花束をさしだすようにいう。
「ずっと好きだった」
「まいったな」彼は微笑む。
「また、先にいわせちゃった。僕がいおうと思ってたのに」
「私をおいていくの?」
彼は黙って汐吏をみつめる。真剣な瞳。月が映って、湖面のように青く光る。
「ごめん」
彼はいう。それが答え。汐吏は涙をこらえる。泣いてはだめ。困らせては、だめ。ずっと病を抱えていた汐吏は、泣くことを自分に禁じていた。自分を哀れむのを、禁じていた。
「君に逢えてよかった。君は僕の夜に沈む月だよ」
それが最後だった。
大学を卒業した頃、汐吏は彼が二年前に死んだことを風の便りにきいた。夏の真昼、事故にあって、病院のベッドの上で、たくさんの管につながれて半年間意識不明のまま、冬の終わりの真夜中に眠るように死んだと、きいた。
あの永遠のような夜。一緒にみあげた月。柔らかな陽射しのような微笑み。
そのことを、汐吏は誰にも話せなかった。病がひとつふえただけ、と汐吏は思った。ずっと抱えていこう。重くて苦しいけれど、ほんのすこし甘かったあのコーヒーの香りのように。