編集部ブログ作品
2016年6月13日 09:21
ヴェネツィア
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
揺れる。揺れる。空に浮かんでいるようだ。 僕は目をあける。真っ青な空に瞬くような星が見える。
ちゃぷん、と水の音がする。頭の上をアーチ型の橋が流れてゆく。
「目がさめた?」
鈴のような声がした。ちりん、と、涼しげな、声。
「ここは……?」
僕は起きあがる。
「ヴェネツィア」
ほほえむ気配がした。
「ヴェネツィア? あ……」
その声はD組の谷川紗夜(たにがわ さや)だった。
僕は赤くなる。
だって僕は谷川紗夜に恋をしているからだ。もちろん片思いだった。いつもバスで一緒になる、彼女。いつも文庫本を読んでいる彼女。本はクンデラだったり、マルケスだったり、サリンジャーだったりした。あまりにも僕が読んでいる本と同じような本を読む彼女の、凛とした横顔を、僕は気づかれないように、遠くからみつめていた。
青い程黒い、大きな目が、好きだった。その瞳が僕をみつめている。
「ずっと目を醒まさないから、星を数えるのも飽きてきたところ」
「ここはどこ?」
「だからヴェネツィアだっていったじゃない。舟に乗って水辺を流れていくのよ。聞こえるでしょう? 水の音が」
谷川紗夜と僕は口をきいたことがない。クラスも違う。何故彼女はこんなに親しげに僕に話しかけるのだろう?
「ねえ、千野くん、ヴェネツィアには空から星が降るのね」
谷川紗夜はそっと掌を宙に浮かべる。その掌に星が落ちる。その星を彼女はそっと果実のようなくちびるに差し込む。
「冷たい……」
「ねえ、どうして?」
僕は制服を着たままの彼女にたずねる。
「どうして僕達はヴェネツィアにいるの?」
彼女が薄くほほえむ。僕にほほえみかける。そんな瞬間を何度夢見たことだろう。
「わかるでしょう?」
舟は水辺を流れていく。微かな音楽が聞こえる。ヴァイオリンの音色。それは満ち足りた水に豊かに響く。
「私、千野くんと水辺に来たかった。ふたりだけで。本当よ。ずっと千野くんを見ていた。本当よ……」
谷川紗夜の真っ直ぐな黒い髪が揺れる。風は甘く、夜を漂う。
僕は夢を見ているのか?
きっとそうだ。谷川紗夜がこんなこというわけがない。だって彼女はとても目立つ女の子で、彼女に憧れている男子は多かった。よく屋上や渡り廊下の外れで告白をされては、誰のことも断っていた。僕なんか、相手にされるわけがなかった。
「夢だ」
僕は口にした。
「谷川さんがそんなこというわけない」
「どうして?」
「だって……」
「千野くんの気持ち、きかせて」
真っ直ぐな目で紗夜が僕をみつめた。僕は思わず目を逸らす。
「きかせてよ。女の子から、こんなこと言ってるって、わかってる?」
また星がひとつ落ちた。僕は紗夜をみつめた。
「……ずっと谷川さんのことが好きだった。遠くから、いつもみつめていた」
紗夜が優しくほほえんだ。
「うん。わたしも好きだった……」
波の音とヴァイオリンの音色が優しくとけあった。
もうわかったかもしれないけれど、谷川紗夜は死んだ。
僕と紗夜の乗っているバスが事故を起こし、僕は三ヶ月後に奇跡的に目を醒まし、紗夜はそのあと五年間、目を醒ますことなく逝ってしまった。彼女の持っていた携帯電話には僕の写真が一枚、残されていた。
今、僕はヴェネツィアにいる。あの夢のように、水辺は豊かで、舟はゆっくりと流れる。
眠っている彼女の耳許で、僕は何度も彼女に好きだと告げた。ヴァイオリンの音色も聴かせた。でもすべては遅かった。
その時、掌に星が落ちた。
冷たかった。
あの水辺で彼女が言ったように。