編集部ブログ作品
2016年6月 6日 12:00
スープ
- 作品 | 白倉由美の「死ぬ話」
その生き物はゆっくりと息絶えていった。
「赤ちゃん……」
彼女は出産の終わったばかりの青い顔でそっと呟いた。
「ただの生き物さ。赤ん坊じゃない。それに、もう死んだよ。生き物でもないよ」
それは血だらけのカーペットの上で、静かな茎のようにただ萎えていった。
死というものは、萎むものだな、と僕はそれを見ながら思った。
「これ、どうするの?」
「そうだな、ごみの日に出そうか?」
「いやよ、そんなの。私が生んだのよ。せめて大切に葬ってよ」
今さらそんな取り繕うようなことをしてもなあ、とは思ったが、勿論口には出さなかった。彼女は出産が終わったばかりだし、もともと、少しキレやすいのだ。言葉には気をつけないといけない。
「でもね、君がこの生き物を生んだことは誰も知らないし、葬儀屋に持っていって、どうにかしてくれないかとも言えないし、ね」
僕は努めて優しくいった。彼女の髪をそっと撫でて。
窓の外には大きな満月が見えた。きっと今夜は大潮だろう。波がその首筋を大きくもたげ、波打ち際に海水を低く押し寄せるだろう。その響きが聞こえたような気がした。
「こころなき うたのしらべは ひとふさのぶどうのごとき……。今の私達って、そんな感じなのかしら」
彼女は感傷的に呟いた。自分を憐れむのが好きなのも彼女の特徴のひとつだった。
僕は熱く絞ったタオルで血にまみれた彼女の下半身を拭った。タオルは何枚も赤く染まった。
「スープにしたらどうかしら」
不意に彼女は言った。
「冷蔵庫にはセロリもローリエもあるし、赤ん坊の肉は柔らかいし、骨は出汁になるし、そうよ、きっとおいしいスープができる。ねえ、スープを作りましょうよ。それが一番大切な葬り方だと思わない?」
僕は考えてみた。
確かに髪はほとんど生えていないし、爪は小さいから剥げばいい。電気のこぎりを使えば切断もそう難しくはない。なんていったって赤ん坊だ。たくましい軍人を切断するのとは違う。
「ほら、棚の中に大きな鍋があったじゃない。あれ、使えばいいんじゃない?」
「そうだな。それに早くどうにかしないと、腐るしね」
「やめてよ」
彼女は血のついたタオルを思い切り投げた。やはりキレやすい。
「わかったよ。大切にするから、キレないで。立てる? キッチンに行こう」
思ったように切断は簡単だった。僕の祖父は医師だったので、僕もその方面の才能はなくもないらしい。
せっかく入った大学もろくにいかないで、ひきこもりになって、おじいちゃん、ごめんね、と僕は心で亡き祖父にそっと謝った。
そんな僕から逃げるように父の転勤にともなって、父と母は家から出て行った。送金はあるので生活には困らない。ネットを使えば、買い物にも行かなくていい。
赤ん坊のスープはことことと音を立てて煮えてゆく。香草のせいか、意外といい香りがする。
「カレー粉いれたらどうだろうね」
「そんなことしたらせっかくの赤ちゃんの香りを楽しめないでしょ。塩だけで味付けすればいいのよ。おいしい岩塩、あったじゃない」
僕達はできあがったスープを銀の皿に取り分けて、匙で掬う。肉片が喉を通る。柔らかい。
「ねえ、これが一番正しい方法よね。だって、この赤ん坊は私達のなかに還るんだもんね」
「そういえば、そうだね」
「私とお兄ちゃんの赤ん坊……。生まれたのが間違いなのよ」
「そもそも僕達の関係が間違いなんじゃないかな」
「お兄ちゃんのバカ!」
キレやすい彼女は銀の匙を投げた。
「私達、愛しあってるのよ。間違いなんかじゃない。そうでしょう?」
彼女が初めて涙をこぼした。僕はじっと妹をみつめた。
「そうだね。僕たちは愛しあっている。だから、間違いなんてないんだ」
「スープ、全部飲もうね」
「うん」
僕達は黙ってスープを啜る。それが僕達の葬送儀礼なのだった。