編集部ブログお知らせ
こんばんは、平林です。
『大坂将星伝』の試し読み、上巻の最終章に相当する第六回が更新されております。
毛利父子は国持ち大名となり、太郎兵衛には縁談が……。
ラストシーンでは、中巻で最高にかっこいい姿を見せてくれる石田三成も登場しています。
毛利勝永の少年期が終わり、戦国時代も最末期に突入していきます……。
続きは是非、中巻でお確かめ下さい。
さて、本日は、勝永の一族・家臣たちについてご紹介したいと思います。
近世に武家として残らなかった毛利家は、大名家が持っている分限帳のような資料がありません。
ですので、色んな資料から細かく拾っていく必要があります。
以下、僕がこまごまと拾い集めた、主な一族と家臣をご紹介致しましょう。
(『大坂将星伝』登場武将には※をつけました)
■一族
毛利権兵衛吉雄※
吉成の弟、九州国分語は岩石城主となり、一万石を領する。
関ヶ原後は小早川秀秋に仕えるものの、小早川家断絶後の消息は不明。
毛利久八吉次
吉雄の子か孫で、肥後加藤家に仕えていた。加藤家改易後に山内家に仕える。
杉助左衛門が「毛利豊前守殿一巻」の録上にあたり取材した。
この家系から幕末に活躍した毛利吉盛が出る。
毛利九左衛門※
一族で、香春岳城主をつとめる。伏見城攻めで討死。
毛利吉近※
勝永の弟で、関ヶ原後は山内家に仕え、家老として二千国を食んだと言われる。
慶長年間の後半に改易され、以降浅野家に仕えたとも、勝永とともに大坂城に入ったとも。
毛利式部勝家※
勝永の嫡男。母は竜造寺政家の娘。
勝永に同行して大坂城に入り、勝永とともに秀頼に殉じて自刃。
毛利太郎兵衛※
勝永の次男。大坂の陣の際は、勝永の妾とともに土佐に残る。
大坂の陣後、京都所司代・板倉勝重のもとで斬首されたという。
■家臣
宮田甚之丞安則※
生国は豊前だが、本貫地は美濃。
勝永の家臣の中でも家老格とされ、勝永の従弟、或いは大野治房の親類とも。
大坂夏の陣で奮戦した後、勝永の兜や旗印を託されて戦場を離脱、戦後は松平信綱に仕えて川越藩士となった。
禄高は400石、用人をつとめた。子孫は代々、松平家で繁栄した。
賀古庄右衛門※
もとの名を長井九兵衛。いつ頃からの家臣かは不明。
宮田甚之丞と共に大坂の陣で奮戦し、勝永の城内撤退にまで付き従った。
戦後、一旦徳川義直が召し抱えるが、病のため再び牢人となる。
子孫は医者となり、明治にはこの家系から賀古鶴所が出て、我が国に耳鼻咽喉科を導入した。
杉五郎兵衛俊重
大内氏旧臣の、豊前守護代杉氏系か。
吉成父子の土佐配流後、山内家に仕えた。
寛文年間まで生存していたと思われる。
杉助左衛門※
五郎兵衛俊重の子。
寛文5年、毛利旧臣たちに取材し「毛利豊前守殿一巻」を著す。
子孫はその後も土佐藩士として幕末に至る。
大黒茂左衛門
土佐藩士。長宗我部庶流の大黒氏か。
杉助左衛門が「毛利豊前守殿一巻」の録上にあたり取材した人物で、
毛利久八吉次と併記して勝永の家臣筋に当たる、と述べている。
寛文年間まで生存していたと思われる。
志和利喜
土佐の国衆で長宗我部元親に服属した志和勘助の次男。
一族が元親によって粛清された際に難を逃れ、のち勝永とともに大坂城に入る。
陣後は山内家に仕え、この家系は土佐藩士として続いた。
鳥飼覚兵衛長正
筑前の出身か。毛利家旧臣で、関ヶ原後に山内家に仕える。
子孫は土佐藩士として存続した。
山田四郎兵衛
毛利家旧臣で、関ヶ原後に山内家に仕えて400石を賜る。
子孫は土佐藩士として存続した。
以上、ざっくりとご紹介しました。
信頼度が低い資料も含まれているので、履歴などについてはなお存疑ですが……。
しかし、とにかく驚くのが、山内家が何でもかんでも雇っているところ。
家臣が足りなかったのか懐が深かったのか……。
そして、現在では知名度の低い勝永ですが、
その麾下で勇敢に戦った者たちは、きちんと仕官できている、という事実。
つまり、徳川方の大名家から見て、「あの毛利隊で奮戦した侍大将なら、数百石出しても欲しい!」という状況があったんですね。
現在は「もっと評価されるべき」と言われていますが、
当時は「ちゃんと評価されていた」わけで、うん、良かった良かった……。
というわけで、今回はここまで。
次回は何を書こうかな〜。
下巻もどうぞ宜しくです!