編集部ブログお知らせ
こんばんは、平林です。
校了に向けて佳境の『大坂将星伝(下)』の作業に伴い、ある資料を発見しました。
学界にきちんと紹介されたことがないものかもしれないので、
下巻を校了したら専門家の方に聞いてみようと思います。
さて、本日は試し読みの第3回が更新されております。
秀吉による九州征伐にあたり、太郎兵衛は父・吉成とともに四国に渡ります。
土佐一国を治めるのは、長宗我部元親。
四国を統一寸前まで切り取った、偉大な武将です。
太郎兵衛は元親や、その息子たちと出会い、また成長していきます……。
というわけで、本日はブログも長宗我部篇。
(ついに、何を書こうとしていたか思い出しました)
さて、試し読みとは時系列が前後しますが、長宗我部氏は近世に大名として残ることはできませんでした。
そのため、家伝の資料が散逸しており、なかなか調べるのも難渋します。
特に今回困ったのが、「名前」です。
この時代の武将の名前は、色々と複雑です。
我々は平林緑萌とか仁木英之とか、名字+名前でシンプルに構成されていますが、
『大坂将星伝』に出て来るような武将たちはそうではありません。
毛利豊前守勝永(太郎兵衛)しかり、石田治部少輔三成(佐吉)しかり。
ざっくりいい加減に説明すると以下のような感じです。
名字 これは我々と同じ。
姓 いわゆる、藤原とか源とか平とかそういう氏素性の氏に当たるもの。
長宗我部は秦氏、秀吉の豊臣というのも姓ですね。
仮名 下に出てくる受領名などを用いた、便宜上の呼び名(まあ、通称ですね)。
「〜左衛門」「〜兵衛」などもこの部類です。
片倉家の「小十郎」など、代々継承することも。
幼名 元服以前に用いる名乗り。
徳川家の竹千代など、嫡男はこれを名乗る、と決まっている場合も。
官途名 中央の官職名。例えば石田三成の治部少輔や、真田信繁の左衛門佐など。
受領名 国司の官職名。信長の上総介や、毛利勝永の豊前守など。
往々にして自称のことがあります。
諱 我々の下の名前に相当します。信長、秀吉、家康といったやつですね。
「忌み名」であり、失礼に当たるので普段はあまり呼ばれません。
というわけで、例えば『大坂将星伝』でも地の文では「真田信繁」と諱で呼んでいるけれど、
勝永は会話文では「源次郎さん」と通称で呼びかけていたりするわけです。
下巻までを通じて、勝永が後藤又兵衛を「基次」と呼ぶことも一度もありません。
小説なので、別に呼んでもいいんですが、雰囲気作りですね。
で、長宗我部さんで問題になったのが、
国親・元親・信親・盛親の名前に関する情報が錯綜していてわからない、
ということです。
諱については、国親以降「親」を通字としており、ひとまず問題ありません。
問題があるのは、幼名と仮名です。
まず、元親のお父さんの長宗我部国親。
幼名は「千雄丸」となっています。
次に、長宗我部元親。
彼の幼名は「弥三郎」と伝わります。
ここまではまあいいとして、次が問題です。
で、嫡男の長宗我部信親。
幼名が「千雄丸」、仮名が「弥三郎」。
この時点で「?」となるわけですが、続けていきます。
四男で元親の後を継ぐ長宗我部盛親。
幼名が「千熊丸」。
……おかしい。
どうおかしいかご説明しますと、
長宗我部元親は、自分の幼名を、仮名として嫡男に名乗らせていることになるのです。
これは管見の限り類例を知りません。
また、国親と信親は「千雄丸」という幼名を共通して使っており、
盛親の「千熊丸」も併せて考えると、元親だけ「千×丸」という幼名でないのはかなり不自然です。
資料がないので確定したことはいえないのですが、
①元親の幼名に関する情報が間違っている
②信親の仮名云々が間違っている
のどちらかではないかな、と思います。
合理的に考えるなら、長宗我部家の嫡男は、
幼名「千雄丸」→仮名「弥三郎」→官途名もしくは受領名、
と改名をしていくのだが、国親の仮名、元親の幼名に関する情報が抜け落ちたり誤ったりしていたため、
信親の仮名「弥三郎」が不自然に思える、というところではないでしょうか。
つまり、実際は元親も幼名は「千雄丸」で、仮名は「弥三郎」。
記録には残っていませんが、国親も仮名で「弥三郎」を名乗っていた可能性がありますね。
というわけで、随分ややこしい議論になりましたが、これにて一件落着!!
──ではなく、長宗我部盛親についても問題が……!
長くなったので、続きは次回ということで。
今週発売の『大坂将星伝(中)』もどうぞよろしくお願い致します!