編集部ブログお知らせ
2017年6月26日 20:08
旅と旅との君と僕
「散歩、しませんか? 30分、五千円。一時間、八千円です」
そういいながらチラシを配るチェックのスカートにリボンの少女を僕はみつめている。制服に似せた服装。肩までの髪に白いほほ。いつかみていた朝焼けの眩しい光のようなあの横顔に僕はまた逢えた。ひとり、電車を乗り継ぎ、はじめてきた東京で。大勢のひとの群れ。山のように続くビル街。けれどそこに揺れる木々はない。風だけが強く流れて消えてゆく。春の始まり。
「風俗じゃありません。ファミレスとか連れていってください」
細く高い声。その音色はあの頃とまったく変わってない。雑踏のなかでもひときわ響く鈴の音のような声に、数人の男性がふりむく。けれど彼女の清らかなほほえみをみると、決まり悪そうに顔を紅潮させ、去ってゆく。冬のあいだは雪で黒い地面が白く染まる僕たちの谷間で一番うつくしい少女だった、彼女。僕がそう思っているだけかもしれないけれど。僕にとってはそうだけれど。
ネイビーとグレイのチェックのスカートは短く、僕は彼女の膝から上の素肌を初めてみる。彼女の通っていた女子校の制服は白い襟のついた黒い清楚なワンピースだった。スカート丈は長く、細い小枝のような足は黒いタイツに包まれていた。
どうしよう、と僕は思う。
でも考えなくても、わかっていた。彼女に逢うためにここにきたんだ。生まれてから一度も出たことのない谷間から。ネットの奥を探り、SNSを追い、たどりついた、この街。ようやくみつけた、彼女。僕の旅の果ては、ここだ。
「あの......」
流れるひとの波にさからうように彼女に近づく。心臓の鼓動を感じる。勇気を振り絞って、僕は彼女に声をかける。
「はい。三十分ですか? 一時間ですか?」
笑顔で振り向いた、彼女の顔がさっと歪む。僕は彼女にとってみたくない過去の遺物だ。走り去ろうとする腕を反射的に僕はつかむ。
「やめて。大声をだすわよ」
「そうなったら困るのは君の方でしょう? まだ未成年なのに、みんなに黙って家をでて」
僕はすこしためらって、でも思い切っていう。「こんな......、JKビジネスみたいなことに身を染めて......」
彼女のほほが赤らむ。一瞬、彼女はうつむき、濡れたくちびるを噛む。僕の視線に彼女は顔をあげる。挑むような瞳がそこにあった。
「私の生き方は私が決める。そうでしょ? 誰にもなにもいわれたくない。だいたいあなた、どういうつもりでここまできたの」
彼女にみつめられ、僕はうろたえる。そんな僕達の動きに気づいたのか、背の高い男が僕達を遠くからみつめている。彼女は反射的に笑顔を作り、大きな声でその男に向かっていう。
「なんでもありませーん。お客さんです。三十分、散歩、いってきます」
彼女は僕の手をにぎって歩き出す。思っていたより、ずっと温かな手。薬指の指輪が柔らかく僕の指にくいこむ。彼女に手をにぎってもらえることを、僕はどれぐらい望んでいただろうか。谷間に響く彼女の弾くショパンの音色。笑い声。ひめやかなその足音にさえ心をときめかせていたあの頃。その彼女の手が僕の手を握っている。夢みたいだけど、でも夢じゃない。そして何故か、悲しい。それはきっと彼女から匂う冬の谷間の空気のせいだ。東京にいても、彼女からは僕たちの谷間の、雪の匂いがした。死のにおいがした。僕たちはまだ谷間にいた。
人通りを抜け、ビルのなかにぽつりと開いた公園のベンチに僕達はすわる。彼女は僕の手をふりほどいて、ポケットから煙草をだすと、火を点ける。
「で、何の用?」
僕はうつむく。ベンチのそばに桜の木がある。白い花が咲き綻んでいる。谷間には林檎の花が咲く。五月の谷間は白く、清く染まる。それは彼女の白いほほに重なった。僕は重い口を開く。
「......僕が言いたいことを君はわかっていると思うけどな」
「帰らないわよ、私」
彼女の赤いくちびるから紫煙が漂った。ため息のように。
「一年の半分が雪で埋まる谷間の景色をもう二度とみたくないの。空は灰色で、湿気が肌にからみついて、身体が土地に沈み込んでいってしまうような場所には、もう帰りたくない」
「東京に雪は降らないの?」
「降るけど、積もらない。すぐ水にとけるから」
「煙草なんか。君らしくないな」
春はまだ浅い。桜は散ることもなく、僕の頭上で光を浴びている。暖かい東京の春。僕たちの谷間の春は遅い。けれども春はやがて訪れる。僕のうえにも、彼女のうえにも、誰の許にも平等に。そのことを、彼女に思い出してほしくて、僕は彼女の細い指からそっと煙草を抜き取る。彼女は怒ったように、おおきな瞳をきらりと光らせる。
「私らしくって、なに? あなた、私のなにをしっているの? 谷間の人間ってみんな自分たちがおなじ祖先から生まれたって、未だに信じているのね。そういうのが、私、もういやになって家をでたの。だからもう谷間には帰らない。私をしらないひとたちの街にいたいの。繰り返される輪廻の輪から、逃れたいの」
「君のお母さんが倒れたとしても?」
僕の言葉に彼女の指がぴくりと動いた。その手にもう一度ふれたい、と思っても、僕には勇気がなかった。彼女はずっと僕の憧れだった。遠い空に煌めく、遊星のひとつだった。
「君のお姉さんが自殺して......、その喪があけない間に君が短い手紙を残して谷間をでていって......。ひとりになった君のお母さんをみているのは、僕たち谷間の人間にはつらかった」
彼女はもう一度煙草を箱からだし、人差し指でくちびるに差し込んだ。でも火を点けることはなく、地面に落とすと靴の先で踏んで土に埋めた。その靴はワンストラップの学校指定の靴だ。
「在処(ありす)がいけないのよ」
少し声を落として、彼女はいった。切なげに閉じた睫毛が眩しい。在処というのは死んだ彼女の姉の名前だ。
「在処のあんな姿、みたくなかった......。それまでの在処は私の理想だった。夢だった。谷間に降り注ぐ白い雪の結晶だった。でも私が発見した時の在処はもう違うものになっていた......」
僕は葬儀のときの彼女の姿を思い出す。叫びのように降り続く吹雪に耐える、華奢な身体。少女の身体。大人になる、ほんのすこしのあいだだけの、儚く、仄かなうつくしい光。僕たちの谷間に伝わる民間信仰の形で執り行われる葬儀は冬雨(とうう)のように肌に冷たい。
「私が在処をみつけたの」
春の風は甘く、彼女の髪をなびかせる。制服に似せた服は、もう彼女には似合わなくなりかけている。大人の時計が一歩、また一歩と彼女に近づいている。
「あの日、玄関をあけたとき、蝙蝠がすっと通り抜けた。思わず声をあげたけれど、どうしてか私の声は響かなかった。深い沈黙が家を覆っていた。在処、と私は姉を呼んだ。その日在処は風邪で学校を休んでいた。持病のある母は定期検診で海辺の病院にいっていた。だから天井の梁からロープで吊されている在処を最初にみたのは私。ロープをほどいたのも私。服を綺麗に整えたのも私。汚れた顔をタオルでぬぐったのも私。すこしお化粧もした。だって母にはみせられないもの。部屋も元通りにした。いえない穢れで満ちた部屋だった。それからあの顔が頭から離れないの。だからあの谷間には帰れない。帰りたくても、もう私には戻れないの。この手は在処の血にまみれているんだもの」
「在処がいなくなってから、谷間から消える人達がふえていった」
まだ雪の残る谷間を出て東京にくる旅のなかで思っていたことを彼女に告げる。そのことがなかったら、きっと僕は一生谷間をでることがなかったと思う。僕は東京がこわかった。遠い場所がこわかった。僕はみえないロープにしがみつくようなおぼろげない気持ちでいう。
「本当にね、神隠しのようにどんどんひとが消えていくんだ。何処にいったのか、誰もしらない。雪がやんで、ぽっかりと満月のでた翌日、誰もいない布団を家族はみつける。それっきり、その部屋には誰も戻らない。だから君ひとりでも、無事に帰れば、他のひとたちも無事に谷間に帰ってくるような気がするんだ。頼むよ。せめて君だけでも谷間に戻って。僕たちの一族が滅んでしまう」
自分の由緒を記憶していない僕たち谷間の人間にとって、その外側は異国だ。彼女に「異人」になってほしくはなかった。それは彼女が姉の在処と同じ場所にいってしまうことと同じだった。けれど彼女は僕をみて、初めて柔らかな表情をみせた。
「私の人生は私のものなの。還れない。ごめんね」
僕はその言葉にあわてて鞄のなかから古いカメラと、それで撮った一葉の写真を取り出した。それは僕の宝物だった。
「ねえ、これをみて」
そこには彼女と彼女のお姉さんがよりそって微笑んでいる姿が映っていた。幸せをそのまま映したような写真だった。
「君が在処に感じていた感情と同じものを僕たちは君たちに抱いていた。君が戻らないと、きっと谷間に春はこない。お願いだ。僕と一緒に電車に乗ろう。旅を終わりにしてください」
彼女は写真をじっとみつめている。指先が赤く塗られていた。それは血の色のようだった。彼女はふっと吐息をつく。
「だめよ。私はもっと長い旅にでなくてはいけないから」
「どうして」
僕はせきこむようにいう。天地寥廓たる冬の夜に置き去りにされたような気持ちになる。けれど彼女は春のほほえみでいう。
「だって、ほら、あなたにはみえない? 在処の首にロープの跡があるのが」
「え?」
「きいたことがある。あなたの家に伝わるそのカメラには幽霊が映るって。iPhoneで写真を撮ることが普通なのに、あなたはいまでもその古いカメラを使って私たちを撮っていた。そしてもうこの頃から在処は深雪(みゆき)の谷間で死ぬことを運命づけられていたのね......」
彼女の瞳から涙が一筋零れた。夕暮れの赤い色に染まって、それは紅葉した葉のように美しかった。
「帰れないわ......。あなたにだってわかるでしょう? あの谷間には呪縛の呪いがかかっているの。あの谷間の少女はみな死すべき運命にあるの」
僕は僕のカメラをじっとみつめた。そのカメラを誰からもらったのか思い出そうとしたが、思い出せなかった。気がついた時からそのカメラは僕の腕のなかにあった。僕はそのカメラでたくさんの少女を撮った......。
「ねえ、私の写真を撮って。きっとそこに私の運命が記されているから」
涙を拭って彼女はいった。
「さよなら」
そういった彼女に僕は思わずシャッターを切った。僕と彼女はそれから言葉を交わすことなく別々の道へと歩いた。振り向くと、もう彼女はいなかった。
僕のカメラになにが映っているのか、僕はしらない。それは現像されないまま、カメラごと深い川底に捨てられたからだ。彼女の運命を知りたくなかった。谷間に桜が咲く頃、ひとが消えることはなくなった。彼女のいったとおりカメラが消えると、ひとは消えなくなった。
彼女は僕達の前に二度と現れることはなく、いまだに谷間のものには音沙汰もない。
もし生きていたら、いまは幾つになるだろう。谷間に季節が繰り返し、雨や雪や桜が何度も舞った。僕も大人になった。僕は暗き冥府まで、彼女がいっていないことを願うばかりだ。