編集部ブログ昼の最前線
好きな清涼菓子はミンティア!
って書こうとしてホームページ見たら「47人のMINTIA GIRLS」とか出てきた。
思わず奈良県のMINTIA GIRLをチェックしてしまった平林ございます。
さて、年も明けて大分経ってしまいました。
ぼやぼやしていると賞味期限切れになってしまうので、そろそろ年末の取材の話をしたためようと思います。
昨年末の12月29日、仁木英之さんと大坂夏の陣の古戦場跡をめぐる取材に行ってきました。
一昨年から仁木さんと暖めている企画なのですが、ついに本格始動、ということで寒風吹きすさぶ大阪城公園で待ち合わせ。
そして、仁木さんの運転する車で、一路藤井寺市へ。
作家さんである仁木さんの運転する車の助手席に編集者が乗って、一路藤井寺市へ。
(大事なことなので二回言いました)
藤井寺に着いた我々、まずは毛利勝永が陣を張ったであろう津堂城山古墳に登り、その後に後藤又兵衛基次戦死の地・小松山(現在は玉手山)へ。
この光景、思わず二人で走り出してしまうほど息を呑みました。
これは東を向いていますので、ここに登った又兵衛には、押し寄せてくる徳川方の軍勢が手に取るように見えたでしょう。
又兵衛はここで2,800人という寡兵で20,000余の徳川勢を相手に8時間戦い、討ち死にします。
又兵衛はん、漢やで……。
その次に向かったのは、大坂夏の陣の最終決戦である天王寺・岡山の戦いで徳川秀忠が本陣を置いた付近。
細いながらも川が何本か流れており、それを上手く利用した陣の構築をしていた様子が分かりました。
しかも、大坂城からここを攻めるには、長駆して二本の川を渡る必要があり、一本目を渡ったところに加藤嘉明と黒田長政が待ち受けるという段取りの良さ。
が、どうやって迂回したのか大野治房がこの本陣まで攻め寄せ、秀忠勢を一次壊乱させます。
秀忠はん、情けないで……。
他にもいくつかの史跡を巡り、最後に訪れたのが一心寺。
この付近も激戦地になり、真田幸村は一心寺すぐ横の安居神社境内で討ち取られたと言われていますし、一心寺には夏の陣で討ち死にした武士たちの墓が多数あります。
その中で最も知られているのがこちら。
本多忠勝の子・忠朝の墓です。
今は酒封じの神様になっていますが、豊臣方最強の武将・毛利勝永に最初に討ち取られた大名首が忠朝さんです。
毛利勝永は獅子奮迅の活躍をして自軍に数倍する敵を撃破、真田幸村の家康本陣突撃をサポートします(これが立川文庫で真田十勇士の活躍にされたため、勝永さんは知名度が低い)。
家康本陣に突撃した幸村勢が家康に迫りつつも壊滅した後、追撃してくる徳川勢を撃退しつつ大坂城まで撤退、秀頼を介錯して自刃します。
勝永はん、まじ超人やで……。
というわけで、寒波の中歩き回った一日でしたが、非常に充実した取材でありました。
今はもさもさと資料を収集中であります。