編集部ブログ昼の最前線
本日は『ひぐらし』の校了作業をしつつ、新書のゲラを読みつつ、西田幾多郎の写真を探しまわっていた。
今日一日、これだけ西田幾多郎の写真をさまざまな面から吟味した男は日本できっと私だけであろう。もし、私を凌駕することを自負する方がいらっしゃったら、ぜひとも名乗り出ていただきたい。
「西田幾多郎の写真をよく吟味した男」の称号を謹んで譲りたいと思うからである。
そんな称号、いらんわい。
さて、人間は大体に於いて前を向いて歩いているものであるから、立ち止まって休憩したり、或いは道に迷っていない限り、過去のことを頻繁に思い出すようなことは余りない。
かく言う私も、今のところ恐らく匍匐前進で先に進んでいるようなので、あまり進んで過去を振り返ることはない。
しかし、過日北杜夫氏が亡くなり、最近は氏の著作をぼちぼち読み返していて、否応なく嘗ての自分を振り返ることにもなっている。
喩えば『どくとるマンボウ青春記』の中の繰り返し読んだ一節を今一度読み返すと、学ランで丸坊主だった中学生の自分を思い出してしまい、懐かしいとともに非常にいたたまれない、消え去ってしまいたいような気分になるのである。
けれども、私のようなつまらない人間であっても、過去を振り返るとなにがしかの得るものがある。
たとえば、北さんの本には難しい言葉も随分出てきたが、面白いと思って読めばきちんと意味も調べるし、分からないながらも読むのだということ。「鬱勃たるパトスをもって」とか、なんとなく面白くて覚えたが、当時は全く意味を分かっていなかった。
これはある意味で素読にも通じるし、日々の仕事の中で「これは読者は分からないだろう」などという傲慢を戒めることにもなるだろう。
また、中二的な精神状態になる以前、謙虚な心持ちで読んだものは随分自分の血肉になったようにも思う。
とまあこのように考えて得た知見を元に、これからもう一度西田幾多郎先生の講演を読み直そうと思っている。
この講演録は、星海社新書の12月刊『世界一退屈な授業』の一部なのであるが、謙虚に過去の人が語ることを聴いていると、なかなかに得るところが大きいのである。
この本は事によると非常に退屈であるかもしれないが、くみ出そうと思えば尽きぬ井戸のようにさまざまな広がりを見せる魔法の書でもある。
他の語り手は、内村鑑三・新渡戸稲造・福沢諭吉・柳田國男の諸氏。いずれも名だたる人物であるが、「ずいぶん昔の、なんか偉そうなおっさん(或いはジジイ)」と思うことも可能である。
が、ここでの心の持ちよう、これが肝要。
お年寄りの話であるから、謙虚に聞くに限るのである。
すべての書は虚心坦懐に、しかして本書は、より虚心坦懐に。
そういう本であります。
12月を待たれたい。