星海大戦
第一部 第五章 枷
元長柾木 Illustration/moz
元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。
第五章 枷
1
ルメルシェの認識のなかで、視覚や聴覚の刺激が平板化していった。目に見える司令室の光景は彩度を低下させ、スタッフたちの声は個性を失った。物理的な感覚の占める割合を減少させ、そのぶん意識を宇宙空間の方に多く振り分けられるようにしたのだ。
浅薄な機関長の愚行によって、計画に微妙な遅滞が生じてしまった。現在のような状況下で、これ以上時間も精神的リソースも浪費することはできない。可能なかぎり精細に戦況を把握するため、戦場そのものと精神が同化するほどの水準で意識浸潤を行う必要があった。
ルメルシェ自身が奮戦することによって、敵の攻撃目標を自艦から僚艦へと変更させる。包囲する敵が少しでも減少したなら、自身の行動の自由度は上がる。
――奮戦。情けないかぎりだ。
これはようするに努力するということのいいかえでしかなく、戦闘方針と称するほど具体的でも高尚なものでもない。それでもルメルシェの立場では選びうる最善手なのであり、甘受するしかなかった。
しかし真の問題は、そのことではなかった。
――俺はいい。だが、他の連中はどうか。
彼が試みようとしているのは、僚艦の艦長たちより自分の方が有能であることを前提としたものだ。自己の能力についての疑念はまったくなかったが、かといって味方がまったく無能であっても困るのだった。ある程度は同僚たちにも健闘してもらわなければならない。彼の企図において、何より大切なのは時間だった。その時間を稼いでもらわなければ、結局のところ共倒れになるほかない。死期を何分か先延ばしにするのが目的ではないのだ。
――おまえたちの健闘は、おまえたちが生き残るためにも必要なことだ。
なかばみずからに言い聞かせるようにして、ルメルシェは心中につぶやいた。罪悪感を糊塗する意図は、彼の意識のなかではなかった。
今や味方との連携はまったくとれない状態だから、行動を指示することもできない。結局のところ、刻苦奮励を期待する以外になかった。それがかなわなければ、すでに二隻の僚艦と乗員がそうなったのと同じように、残り四隻の艦とすべての乗員が、宇宙を漂うごみ屑となってデスハウリングに身をさらすしかないのだった。
ルメルシェは先刻から、徐々に艦の機動速度を上げていた。ときには一〇パーセント光速に迫る速度で、艦を駆る。巡航時で〇・五パーセント光速、戦闘時で五パーセント光速というのが航宙艦の標準的な速度であり、一〇パーセント光速というのは艦の強度からいって限界に近い速度だった。安全性をまったく無視しているといっていい。敵に撃破される寸前の自暴自棄の回避行動以外で、このような機動を行った前例はあまりないに違いない、とルメルシェも想像していた。
それは、たんに艦の強度だけの問題でもない。操艦者の精神にかかる負荷の面でも、平均的な艦長の耐えうる値を超えていた。
艦の速度が五パーセント光速を超えるあたりから、操艦者にとって外界認識が困難になる。
外界に存在するものが、明確な像を失いはじめていた。虚空のなかの無数の星々が、輝点ではなく揺れ動く線として感じられる。まるで視界が攪拌されたかのようだった。
ルメルシェは、周囲に悟られぬよう奥歯を強く嚙みあわせていた。冷や汗が肌に浮くのを感じる。
これがさらに進むと、自律神経に異状をきたし、眩暈や嘔吐感といった症状が現れることになる。航宙艦乗りによって、俗に「目が回る」と呼ばれる状態だ。意識浸潤の度合いを上げているほど、その症状が出る危険性は高い。
病をかかえているルメルシェにとっては、何重にも危ない橋を渡っているのだった。カプリツキー大尉が危惧するのが予測されたので、あらかじめ専用回線で心配無用という旨のメッセージを送っておく。
危険ではあったが、状況自体が危険であるのだから仕方がない。どのような方途をとるにせよ、綱渡りになるのには変わりがないのだ。
それよりも、ルメルシェには不満なことがあった。
「――反応が鈍重だ」
推進機関が、彼の意図したとおりに動いていなかった。彼の指示と実際の機動とのあいだに、齟齬と遅延があった。それはわずかなものではあったが、彼の精神をいらだたせるに足るものだった。
客観的にはまずまずといっていい機動を示していることを、ルメルシェは承知していた。しかし、それでは不満なのだった。
機関管制の能力が、以前よりも低下していた。以前というのは、機関長権限を副機関長であるセルカーク中佐に委譲する以前、である。
いらだちという感情はほとんど必然的にあの男へとつながっていく。
クラウディオ・チェルヴォ。
しかし、クラウディオに機関長権限をふたたび与えるつもりなど毛頭なかった。一瞬副機関長から自分へと機関管制を移すことも考えたが、すぐにその考えを打ち消した。そんなことをやっていては体がいくつあっても足りないし、だいたい横暴というものである。ルメルシェの信念に反する。
――余計なことをやってくれたものだ。
かならずしもクラウディオの能力を買っているというわけではないが、あの男のせいで行動計画に微妙にではあれ支障が出たことはたしかだ。
腹立たしいのはそれだけではない。
――一隻ずつ敵艦を沈めていけばそれで済むとでも思ったのか、愚か者。
今は、個の武勇で打破できるような状況ではないのだ。あの愚か者は、そのことがまるでわかっていない。これからやらなければならないのは向こう見ずな蛮行ではなく、全体状況がまるでつかめないなかで全体状況を動かす、というアクロバットだ。
そんな無理難題をやり抜くためには、徹底的に精緻な状況把握と動作が必要となる。操艦者の意図と寸分違わぬ行動が求められる。そんななかで、意思統一を乱すようなことは負の効果しかもたらさない。敵艦を一隻沈めた程度で悦に入っているなど、命令の不履行を脇に措いたとしても、状況判断能力として程度が低すぎて話にならない。
それでもルメルシェは、やれる、と信じていた。状況は困難をきわめる。行動を妨害する愚か者さえいる。
――やれる、それでもだ。やるしかない、との区別が難しいのだとしても。
ルメルシェはみずからに言い聞かせるように心中に独語した。
あとは一隻でも二隻でもいい。通信が困難な状況下で、ルメルシェの行動から意図を察して動いてくれれば。自分と同じ能力を発揮することは望まない。ただ、察しさえしてくれればそれでよい。個ではなく全体として動いてくれるならば、今からやろうとしていることは、容易ではないにせよ不可能ではないはずだ。
「そううまくいくといいですがね」
言ったのは、次席幕僚ハツィダキス少佐だった。方針そのものは、すでに主要なスタッフに伝えられている。
波形を処理しているため、その声はふだんにもまして平板に聞こえた。彼女のぞんざいともいえる口調は、無礼や諦念を表すものではなく上官の冷静さを確認するためのものだ。
「目安は、ざっと一時間。それだけもてばいい」
戦況と、艦体と、ルメルシェの精神と。一時間というのは宇宙空間での戦闘においてはけっして短い時間ではなかったが、しかしそれだけ耐えることができれば活路は見いだせる。あとは、味方と新造艦の強度と自分を信じるしかない。
ローラン・パルマードは副砲戦長の任を解かれた。
首席幕僚と航宙長を兼ねるバラージュ大佐からの短い通信によってそれを伝えられたとき、彼には憤りも驚きもなかった。
そんなものだろうな、と思っただけだ。最初から覚悟していたことだし、あとは後日再教育のたぐいを受けることになる程度だろうという打算が最初からあった。前例から考えても、免職されるところまではいかないだろう。みずからの技術を試すことと生き残りに貢献することの二つながらを果たすことができてその程度の報いで済むならば安いものだ、と考えていた。
彼はクラウディオと同じ程度には決まり事に関してルーズだったが、クラウディオのようにその場の思いつきで問題行動を起こすような人間ではなかった。前例等を勘案して、不利益と自己の欲求とを天秤にかけたうえで冷静にルール破りを行うというのが、彼の流儀だった。
だから予想の範囲内の報いを受けたところで、激しい感情は湧きあがってこないのだった。せいぜい思うのは、上官に小言を食らうのが少々恐ろしい、という程度のものだった。もっとも、それはそれで重大事ではあったが。彼の直接の上官であるベレニセ・カルタヘナ大佐という女性は、端的にいって恐い。理屈ではなく、単純に威圧感として。
副砲戦長の権限を失ったパルマードは、〇・四Gに調節された上級士官室区画を歩いていた。そこで彼は、少しだけ異状を感じていた。
――Gが一定していない。
その理由も、彼にはわかっていた。艦が想定外の高機動を行っているせいで、重力制御機構が作りだす重力加速度が不安定になっているのだ。
目的の部屋は施錠されておらず、部屋の主は予想どおり在室していた。
クラウディオ・チェルヴォは憤懣を全身から漂わせて、来意も告げずに扉を開けた訪問者を振り返った。クラウディオのこの様子もまた、パルマードにとっては予想どおりのものだった。
「やってられるか、とでも言いたいのか?」
不機嫌きわまりない様子のクラウディオに、パルマードは声をかけた。
機先を制されて、クラウディオはより仏頂面をあらわにする。
「外れるはずのないクイズだったな。でも、あんたがこの部屋にいて、こうやって俺がここを訪ねてこられるってことを幸運だと思おうぜ。昔だったら、確実に営倉送りだ」
「昔っていつだ」
「すくなくとも大戦前。行動の自由なんか与えられるはずがない。ま、昔と比べたら戦闘中に直接他人と顔を合わせる機会は減ってるからな。その手の施設があんまり必要じゃなくなったんだろうな。保安要員だって、簡単にパスできた。青二才の軍隊様々だ」
「おまえは何でもそうやって予防線を張りながら行動する奴だったな」
クラウディオは不満そうに言った。
一歳年長のこの男は、パルマードなどよりよほど直情的だ。打算を秘めて行動するようなことは好みではないのだろう。パルマードとしてはギャンブルのためには打算が必要不可欠だと考えるが、それはひょっとすると堕落に近い考えに映るのかもしれない。もちろん、だからといって考えを変えるつもりはない。
「何しに来たんだ?」
クラウディオの問いに対して、パルマードはかすかに鼻を鳴らした。
――慰めに来たに決まってるだろう?
しかしその言葉は、口には出さなかった。クラウディオも何となくは察していたようで、それ以上は問わなかった。
「あの野郎の貧乏くさい操艦のせいで死ぬくらいなら、死んだ方がましだ」
クラウディオはそう言って逆向きに椅子に座ると、端末に取りついた。神経接続を行い、同時にパネルを操作しはじめる。
パルマードもベッドに腰かけ、クラウディオの背中に向かって話す。
「そうは言うが、奴はやるぜ。たいしたもんだ」
好き嫌いはともかくとして、この艦の艦長の能力が突出しているというのはパルマードの率直な感想だった。
「俺の方がやる。圧倒的にだ」
何事か作業しながら、クラウディオが言う。台詞の後半を強調したその物言いには、いくぶんか拗ねたような響きが感じられた。
「そりゃそうかもしれないな」
パルマードは息をついた。クラウディオがルメルシェに対抗意識を燃やすような感情のもちあわせは彼にはないし、人それぞれに立場があるということも受け入れていた。だから自分の地位を解いたルメルシェやバラージュに対して、とくに思うところはなかった。彼らの立場ならそうするだろう、と思うだけだ。
「おまえは何とも思わないのか?」
あたかも誰かに敵愾心を燃やすのが当然であるかのように、クラウディオは言う。
「別に対抗意識で戦争してるわけじゃないからな」
「俺だって対抗なんてしてない」
「そうかい」
それからしばらく無言の時間が続いた。そのあいだにも、部屋を包む重力加速度は微妙に変化しつづける。それは戦闘がまだ続いているという証であり、自分たちがまだ生きているということとまだ危地を脱してはいないということを同時に示していた。普通の人間には酔いをもたらすような重力加速度の変化だったが、航宙艦乗りである彼らはこの程度で自律神経を乱されたりはしなかった。
「くそっ!」
クラウディオが首筋から神経接続の端子を引き抜き、力任せに壁に投げつけた。それから勢いよく掌でデスクを叩く。
「どうしたよ、おい」
「機関のまわりに、最低でも四重に防壁がある……」
クラウディオは歯がみしながら言った。
「ひょっとして機関の管制系に侵入しようとしたのか? いきあたりばったりで無茶をする奴だな」
パルマードはさすがに呆れた。戦術神経リンクに侵入し、推進機関の管制を奪取しようとしていたらしい。クラウディオの様子を見ると、失敗に終わったようだったが。
クラウディオはうつむいて唸るような声を上げていたが、しばらくして顔を上げた。
「……ローラン、だったらおまえは何のために戦争してるんだ」
「何だよ、急に」
「さっきの話の続きだ」
対抗意識で戦争をしているわけではない――パルマードは先刻そう言った。それならば、いったい何に駆動されて戦争をしているのか。クラウディオはそのように問うたのだった。
パルマードは少しだけ考えてから答えた。
「勘弁してくれよ」
内面を吐露するのは彼の趣味ではなかった。
2
木星軍の航宙艦ヴィレッジグリーンがこれまでにない速度で機動していることは、当然相対する土星軍の指揮官も把握していた。
「安全を度外視してきたか。それもやむをえまい」
九重有嗣は、その様子を悠然と観察しながらつぶやいた。
圧倒的な戦力を擁し戦闘を優位に進める彼には悠然とする権利があったし、またそれを義務であるとも考えていた。
たとえ数のうえで圧倒しているとしても、未経験の戦いであることには変わりはない。行動は慎重を期すべきだし、それに部下たちに平等に経験を積ませることが目的の一つである以上、有嗣がむきになって敵艦を追いまわすわけにもいかなかった。
さらにもう一つの有嗣の目的は、まさに悠然と観察することそのものだった。この戦いは、未来の一つの指針となる。敵を撃滅することももちろん重要だが、あるいはそれ以上に重要なのが、未来の戦いの様相を見きわめることだ。
やっとここまでたどりついたのだ。二六歳という年齢は社会的には――軍組織においても――十分に青二才といいうるほどに若年であったが、しかし有嗣にとっては長かったという思いが強い。これまでの準備を未来に有効に活かすためにも、戦いをあますところなく観察する必要があった。
ここから、未来が始まるのだ。第一歩を踏みだす大地の観察をおろそかにすることなどできようはずがない。
「慎重にすぎないでしょうか」
デリャーギンが言葉を発した。つねに短文で発言をなす男だった。
「それは貴官の発言か?」
有嗣はデリャーギンの言葉に答えず、そんなことを訊いた。
「どういう意味でしょうか」
デリャーギンは表情を変えずに言う。
「大公殿下の発言を代弁したのか、ということだ。たとえば、私が功を焦って失敗するよう誘導しようとした、とか」
有嗣はおそろしく単刀直入に言った。
大公殿下。それは土星を構成する主要五箇国の一つであるレア大公国の元首の称号である。
土星軍は木星軍とは違って、連合軍ではなく統合された単一の軍組織である。だから出身地がいずこであるかということは、その人物の瞳の色を問題にするのと同様に無意味なことである。しかしそれは、建前にすぎない。実際にはかなりの者が故国の政府とつながりをもっており、程度の差はあれその意を受けて行動する。
デリャーギンが本当にレア大公の意向で動いているのか否かについて、有嗣は情報を握っているわけではない。ただ有嗣は、この参謀長の精神に、レアらしい荒涼としたものを感じるのだった。その索漠は有嗣にはレアの風土と重なって感じられ、またあの国の最高意思決定者の影響の存在をも見てとることができるような気がしていた。もちろん根拠あってのことでない以上、たんなる偏見にすぎない。
これはデリャーギンだけの問題ではない。
有嗣はイアペトゥスの出身である。有嗣自身はみずからの目的以外のものに従うつもりはないが、しかしその言動はイアペトゥス政府あるいは八尋家の意向を受けてのものであると解釈されることが多い。有嗣はその手の思いこみをいちいち否定してこなかったし、逆に利用することさえしばしばしたが、ともあれとくに高級軍人はそのような見方をされることがままあるのである。本人にその気がなくとも、人は政治的背景に縛られるのだ。
デリャーギンがかすかに息を吞む気配を感じた。ここまで直截な言い方をされるとは予期していなかったのだろう。
「貴官は知らないかもしれないが、私はそれとなく探りを入れるなどという芸当が得意ではない」
沈黙するデリャーギンに追い討ちをかけるように、有嗣は言葉を重ねた。外見上そう変化はないが、銀髪の参謀長は明らかに返答に窮しているようだった。
実のところ有嗣は、この参謀を困らせようとして言ったのではない。ただ思ったことを口にしたにすぎない。身も蓋もない物言いが相手を困惑させるということを知ってはいたが、それに替わる修辞法をもっているわけではなかった。
「……いえ、一参謀としての発言です」
結局デリャーギンは、そのように言った。
参謀としての職責などろくに果たさぬくせに――有嗣はそう思ったが、口にはしなかった。しかしそれは、彼の殊勝さを示すものではない。たんに別の無配慮な発言をしたため、言葉にする機会を失ったにすぎない。
「なるほど。では、反語的に私を粗暴な戦闘狂であると評しているということか?」
デリャーギンはまたしても絶句しかけたが、何とか答えた。
「そのようなことは」
「気にするな。その人物評は、さほど間違ってはいない。――だが、今は違う。残念だが、指揮官としてふるまう」
とはいえ、そろそろ潮時ではある。
マクシミリアン・ルメルシェという一九歳の艦長が駆る艦を沈めるのが最優先の仕事ではないとはいえ、もちろん取り逃がしてよいということはない。
「……ただ、どうもあの敵はこちらとの戦いを忌避しているようにみえる」
「この状況で正面から相対するのを避けるのは当然のことかと存じます」
それはそうだが、有嗣はそれとは微妙に違う感覚をもっていた。敵はただ攻撃を避けるだけでなく、有嗣の存在そのものから距離を置こうとしているかのように感じられたのだ。
「とはいえ、たしかにいまひとつ整合性に欠ける観はあります」デリャーギンは言った。「先刻トカチェンコ少将を斃したときとは異なる思想で動いているようです。切り替えが早い、といってしまえばそれまでですが」
「そうだな」
少し感心して、有嗣はデリャーギンを見た。まさに同様のことを、有嗣も感じていたのだ。デリャーギンに表情の変化はない。
もちろん戦場というのは細かいアクシデントの集まりであり、完全に首尾一貫した行動など望むべくもない。だから気にするようなことではないのかもしれない。
「しかし、これだけ歓迎していて袖にされるのも気に食わない。ちゃんとこちらを向いてもらわねばな」
有嗣は言って、ノウアスフィアの触手を敵艦の方へと伸張させた。
おぞましい気配を感じた。
最前から感じていたまがまがしい気配が、いっそう濃度を増した。宇宙空間の黒がさらに一段階昏い黒に染めあげられたような錯覚に襲われて、ルメルシェは唾液を吞みこんだ。
ノウアスフィアの接触によって、これほどまでの圧力を感じるのははじめての経験だった。意識浸潤の程度を上げていることもあるだろうが、それを考えあわせても、これまでとは異質な感覚だった。
多かれ少なかれ、ノウアスフィアには個性が出る。であるならば、このノウアスフィアの展開者の精神はよほど暴戻にできているに違いない。
――こいつが、八尋の眷属か。
敵の指揮官である九重有嗣。大戦時の英雄に連なるという、土星圏はイアペトゥスの権門出身の男。
発作が起きたわけでもないのに、悪寒さえ感じた。そして思わず声に出してつぶやいていた。
「――俺のなかに入ってくるな」
戦いの段階としては、まだ探りを入れてきているにすぎない。また全体の指揮官であるということもあって、まだこちらに本腰を入れていないのだろう。そういった段階ですでに、ルメルシェに強烈な嫌悪感を抱かせるほどの負の気配を発しているのだった。
ルメルシェは、感情をそのまま吐きだすようにして言った。
「構っていられるか」
それは心底から発せられた感情ではあったが、論理的な判断でもあった。
この敵指揮官と正面から戦うつもりは、ルメルシェにはなかった。副機関長に指示を与え、烏羽玉という名をもつ敵旗艦と距離をとる方向に艦を機動させる。そのぶん別の敵との距離は縮まることになるが、顧慮しなかった。
この機動のあいだも、一〇パーセント光速に近い速力を出している。艦体の限界がいつおとずれるかはわからない。航宙士からの情報によれば、まだ余裕があるはずだ。ただし、いつまでもというわけにはいかない。
「九重有嗣、敵の総指揮官です」
バラージュ大佐がわかりきった事実を今さらながらに短く言った。
その発言の意図は、ルメルシェには明確に伝わった。現在敵の総指揮官と相対している。これを打倒することは、この状況を打破する数少ない方途の一つではないか。そう言っているのだ。
しかしルメルシェはその考えを否定した。
「戦場において、艦隊司令官などという役職にさほどの意味はない。せいぜい、組織運営における責任者であるというだけのことだ。有能無能の差はあれ、敵は四〇。あの艦も、その一つにすぎない。それを斃したとて、機関長の愚行とさして変わらぬ。――方針はすでに決定している。変更はない」
ルメルシェの言葉に、バラージュは小さく一礼した。
――すぐに、正面から対峙してやる。
ルメルシェは内心で、嫌悪をもよおさせる敵指揮官に向けて独語した。
――ただし、それは俺ではない。おまえと対極の存在である秩序に、無理やりにでも従わせてやる。もう少しだ、待っていろ。
その独語によって、ルメルシェの覚悟は完全に決まった。
ルメルシェは、客観的には自暴自棄に近い速力で艦を駆動しつづけた。艦の強度への配慮や宇宙に満ちるまがまがしい気配は、意識から遠ざけた。
戦場に意識を広く深く浸潤させ、艦を駆動し砲撃を続けることによって、徐々に精神は平板になってゆく。緩衝体の荒々しい吠え声も、後景にしりぞいていく。ルメルシェのあり方は、反射的に動作を行う機械へと接近していった。
3
「僕は、ジュノーみたいに死ぬの?」
死の恐怖にとらわれつづけていた幼いマクシミリアン・ルメルシェにとって、転機めいたものは、初等学校を卒業したころにやってきた。
感覚の叛乱によってまともに学校に通うこともできなかったルメルシェだったが、学業の成績はとびぬけて優秀だった。そのため、ほとんど出席もしないままに初等学校を首席で卒業していた。
そんな頃合いに、一人の退役軍人と出会ったのだった。
エドガー・ブラズウェイトという名の、衣服をつけていてもなお身体中に傷跡があるとわかる、老境に入りかけたその男は、ルメルシェの人生の初期において師と呼べるような役割を果たすことになる。
ブラズウェイトは大戦期の軍人であり、最初期のグリーンホーンだった。
当時はおろか、現在でも大戦を軍人として戦った者は数多く生存しており、けっして珍しい存在ではない。
地球外知性を相手としたあまりにも不可解な戦争であり、またその敵手とも戦後は没交渉となってしまったため、戦後生まれの人々にとっては――戦争を経験した者にとってさえ――大戦は遠い歴史の向こうの、神話や伝説に近く感じられている。
しかし実際のところは、ルメルシェがブラズウェイトと出会った時点で大戦が終結してから六〇年弱しか経過しておらず、これは人間の平均寿命からみたときにそう長い時間ではない。統計上は人類の半数近くは大戦を経験しているのである。
にもかかわらず、大戦は神話化していた。英雄たる《聖母》マリーヤ・ドミトリエヴナ・アントノヴァも、今や神話のなかに生きる「永遠の一四歳」といった感傷的なニュアンスでとらえられているが、存命であったならば現在八〇歳になる計算であり、それは普通は初老といえる程度の年齢でしかない。
ルメルシェは、エドガー・ブラズウェイトとすぐに親しくなった。
彼がこの退役軍人に好感をいだいたのは、昔話をよくしてくれたこと、単純に子供に甘かったこと、そして病をかかえているからといって腫れ物に触れるように接しはしなかったことによる。
昔話が多いのは老境に入った人間によくあることだ。大戦初期の航宙艦乗りはノウアスフィアへの曝露による精神崩壊を多く目にしていたため、治療困難な病をかかえた者を前にしても動じることが比較的少ない。これらは一般論として説明のつくことだったが、ただ子供に甘いということに関しては、ブラズウェイトに思惑があったともされる。
ブラズウェイトと出会ったころ、一二歳のルメルシェは、以前と変わらない腰まである褐色の髪と不健康な白皙をもつ少年だったが、それに加えて背が伸びたことにより、見方によっては頹廃に近い魅力が感じられるほどになっていた。
ブラズウェイトは、その美しさに惹かれたのだともいわれている。肉体的な関係はなかったとされるが、彼の容姿に惹かれた旨を婉曲あるいは詩的に記した手記がのちに発見されている。そこではルメルシェの今にも毀れてしまいそうな美しさが性的な比喩とともに讃えられ、さらにそれがみずからのものにならないことの苦悩が吐露されていた。
しかしルメルシェの方は、欲望の秘められた退役軍人の視線に気づかなかったようである。
彼は、ブラズウェイトの昔話を好んだ。
エドガー・ブラズウェイトは、とりたてて有能な軍人ではなかったし、栄達を果たしたわけでもなかった。大戦終了時には二五歳で少佐であり、戦前と比較すれば早い昇進といえたが、大戦期の航宙艦乗りとしてはごく標準的なものであった。
ただ一つブラズウェイトに他の凡庸な軍人と一線を画するところがあったとすれば、それは大戦の英雄たる《聖母》マリーヤ・アントノヴァや八尋一貴と面識があったことだった。といっても特別に親しかったわけではなく、ただ配属された部署が近かったため多少言葉を交わす機会があったにすぎなかった。だがブラズウェイトの具体的な思い出話は、巷間に流布する英雄神話に色彩と肉感を与えた。
「一四歳の女の子だから仕方ないのかもしれんが、《聖母》の気難しいことといったらなかったな。髪形がうまく決まらないとかいって出撃をとりやめるなんてのはしょっちゅうだった。だいたい、俺はあの子が口をひん曲げてないのを見たことがない」
「八尋少将は《聖母》を扱うのが天才的に巧かった。といっても、半分くらいはチョコレートの力だったみたいだが」
そういった話だった。
また《敵》との黙示録的ともいえる戦闘についての記憶も、ルメルシェの心を躍らせた。《敵》が古代の神話に登場する神や天使や聖獣の姿を借りて攻撃してくるなどといったエピソードはさすがに与太話のたぐいだとルメルシェは考えていたのだが、それは誇張のない事実だった。
「宇宙に出ればわかる。航宙艦乗りなら、一度はそこらを漂ってる《敵》の死体に出くわしたことがあるはずだ」
戦傷であるという額の瘢痕をさすりながら、ブラズウェイトは言った。
「本当に? そのときの姿のまま?」
ルメルシェは問いかえした。
「そのときのままだ。……まあ、実はここらにはそんなに多くない。もはや行くすべはないが、火星のラグランジュ点のあたりには、本当に神やら悪魔のたぐいの死体がごろごろしてるはずだ。仲間の死体を、やつらが放置していればの話だが」
両親は新興宗教よりは退役軍人の益体もない思い出話の方がましだと判断したようで、ブラズウェイトとの付き合いを容認した。しかし彼らは、じきにそれを後悔することになる。
彼らの病弱な息子が、軍に入って航宙艦乗りになると言いだしたからである。
幾度にもわたる神経系の強化処置によって何とか中等学校に通えるようになっていたとはいえ、それまでの状態を知る者にとってみれば、無謀としかいえない望みだった。
しかし最終的に、彼らは折れた。独立した一個人である息子の自発的な選択に干渉すべきではないと、思想的には木星主義の影響下にある小惑星帯の住人として標準的な決断を、苦渋のなかで下したのである。
ルメルシェはグリーンホーンの例に漏れず他人の心情を推し測ることの得意な人物ではなかったが、あるときあまりに悲嘆にくれている様子の両親を見かねて言った。
「死を恐れるより素敵なことだと思うし、死にに行くわけでもない。――僕はジュノーみたいな死に方はしない。絶対に帰ってくる。僕の家は、ヴェスタにしかないから」
そして少しだけ迷ってから、付け加えた。
「ありがとう」
ただ小惑星帯ではどこでもそうだが、ヴェスタも小規模な陸上部隊と防宙部隊しかもっておらず、ノウアスフィア展開が可能な航宙艦を保有していない。よって航宙艦乗りになるためには、木星圏以遠に赴く必要があった。
そこでルメルシェが選んだのが、木星圏のカリストだった。
「土星圏ではないのだな」
それを告げたとき、ブラズウェイトはいくぶん意外そうに言った。
土星圏はマリーヤ・アントノヴァや八尋一貴の出身地である。彼らと生死をともにしたブラズウェイトがまず候補に挙げるのが土星圏であるのは当然だったかもしれないが、ルメルシェの考えは違った。
「単純に近いし、市民権を獲得しやすいというのもある。だけど、それだけじゃない。僕は、『開かれた社会』にしか生きる価値はないと思う」
まあ、別に悪くはないんじゃねえの――終生の好敵手にして盟友であったクラウディオ・チェルヴォであったならそのような評価を与えたことであろう木星圏の理念に対して、ルメルシェは積極的な価値を認めていた。
彼は秩序を求めていた。
「無秩序な戦いがしたいんじゃない。手段を問わず出世したいわけでもない。ただ無茶苦茶をやるのに意味なんてない。自分がどれだけのことをなしとげたか、そんなのじゃ誰にも計測できないから」
戦場における能力の発揮にせよ社会的な上昇にせよ、人間の理性が作りあげた秩序だった枠組みのなかでなしとげるのでなければ意味がないと感じていた。彼はみずからの限界を、みずからがどこまでいけるのかを知ることを欲したが、それは開かれた社会においてしか可能ではないと考えていた。
権威主義的で閉鎖された社会においての方が、狂気の暴発のごとき勇戦や横紙破りによる栄達は容易であったかもしれないが、彼はそんなものを求めてはいなかった。そんなものは、いまいましい感覚の叛乱と何ら変わりはしない。
勝利が論理的帰結であること。決定の過程が他者から見ても明白であること。そういったものが担保されている社会においてでなければ、何かをなしとげたとは考えられなかった。限界になど到達しえないと考えていた。
中等学校卒業後、ルメルシェはカリスト軍の予科参謀学校に願書を提出した。高い耐性が認められたにもかかわらずあえて予科参謀学校への入学を選んだのは、ただ戦いの技術によって評価されるだけでは飽き足りなかったからである。
入学式の前日に、ルメルシェは腰まであった髪を切り、眼鏡をかけた。髪を切ったのは気分の問題だったが、眼鏡の方は発作時にどうしても瞳に現れる微細な動きを隠すためだった。鍛練を重ねても、それを完全に消しきることはできなかったのだ。
このときに、肩に届かない程度の褐色の髪をもち、眼鏡をかけ、切れ長の目にいくぶん神経質そうな視線を偽装することで感覚の叛乱を押し隠した、ぎりぎりのところで瘦せぎすより細身という形容のふさわしい長身の、一人の「天才」の姿は、外見上ほぼ完成したのだった。そこにはすでに往時の頹廃的な美はなく、体つきこそ華奢ではあったものの覚悟と理性とをあわせもつ精悍さがあった。
そして今彼は、木星圏史上初の一〇代の将官・航宙艦艦長として、三重存在となって戦場に身を置き、敵と闘争しているのだった。
4
伸張させたノウアスフィアの触手が敵手たる木星軍の航宙艦ヴィレッジグリーンのそれと触れあったとき、有嗣は宇宙空間に無彩色の火花が散ったように感じた。
たんなる錯覚ではない。有嗣と敵の二者の相性の悪さを示す感覚だ。
――なるほど、こういう魂の持ち主か、青二才。
ノウアスフィアには操艦者の精神が反映される。
もちろん欺瞞情報ということもありうるが、有嗣はその可能性は考慮していなかった。性格を欺瞞することにさしたる意味はないし、そもそも有嗣は自分がその手のまやかしに欺かれることなどありえないと自負していた。有嗣にとって、宇宙空間での現象は、人間社会よりもよほど理解しやすいものなのだった。
秩序。
有嗣が敵のノウアスフィアから感じとったものを一言で表現すれば、それだった。
――なかなか稀少なことだ。その若さで大義に殉じるか。早くから可能性を狭め、みずからに枷をかけ、未来を鎖すか。さぞかし不自由な生き方であろうな。
有嗣はそう考えてから、かすかに口角を歪めた。不自由であることについては、その内実は違うにせよ自分も変わりはしない、とすぐに思いいたったからだ。
今回、彼が一艦長として戦うことの優先順位は、全体のなかでかなり下の方に位置する。烏羽玉の艦長として獣性を野に放つような戦いは、この戦闘においては封じなければならないのだ。
それはそれで仕方ない。経験を積まねばならないのは、部下だけではない。自分もまた同じなのだ。経験を積み能力を増進させるのは、悪いことではない。
自分にそう言い聞かせながら、庫翡潤少将はどのようにみずからを納得させて部下に戦いを譲ったのだろうか、などと考えた。
「ゲレリーン少将が思いのほか苦戦しているようです」
上官の物思いを破るように、デリャーギンが言った。
有嗣に替わって敵戦隊司令ブローデル少将と相対することになったゲレリーン少将が、守勢とはいわないまでも攻めあぐねていることは、有嗣も先刻から承知していた。
しかし有嗣は、デリャーギンの発言の内容にではなく修辞について、難じるように言った。
「思いのほか、か。簡単に言ってくれるものだが、ならば貴官も戦ってみるか?」
「……それは私の職責とは異なります」
「ああ、そうだな。わかっている、冗談だ」
ゲレリーン少将の低調の理由について、有嗣はだいたいのところを理解していた。
敵を囲むということは、同士討ちの危険も高まるということだ。であるから、艦の機動や砲戦について、より繊細さが求められる。そのことが躊躇を生んでいるのだ。
――これはこれで、上官たる者の役割か。
有嗣は少しだけ考えてから、ゲレリーン少将を通信で呼びだした。
即座に、その像が視界中央に現れる。
タイタンの少数民族出身であるゲレリーン少将は、グリーンホーンらしからぬ生真面目さを武骨な体格に帯びた、細い目と細い眉が特徴的な三〇歳すぎの人物だった。
唐突に上官から呼びだされて少しばかり当惑している様子の少将に、有嗣は言った。
「宇宙は広い。臆するな」
それだけだった。
通信を切ってから、慣れない助言めいたことなどしたのは、自分の戦いができないことの欲求不満ということだろうか、とふと思った。
有嗣は息を一つついてから、前方の敵へと向かう触手に思いを込めた。
――おまえのせいだ。とりあえず、こちらを向け。
ヴィレッジグリーンは、防戦に専心していた。クラウディオがなしたように、敵を撃破することもない。ただしその一方で、艦に無理に無理を重ねてのこととはいえ、戦闘開始時の可動域を守りぬいていた。劣勢であること自体は間違いなかったが、しかし劣勢の度合いはほとんど変化しないまま時間が経過した。意志の力のこもった触手の干渉も、徹底して無視した。
しかしそれも、三隻残っていた僚艦の一隻、クイン准将が艦長を務めるマルベリーブッシュが撃破されるまでのことだった。
そのデスハウリングが収まりきらないうちに、より多数の敵艦およびノウアスフィアに包囲され、それまで死守してきた可動域が徐々に削りとられはじめた。
とうとう、不本意のきわみである一方的な肉弾戦に入ったのだ。
それでも、ルメルシェはまだ絶望していなかった。望みは完全になくなったわけではなく、彼の計画は続行可能だった。
すぐに、さらにもう一隻、今度はボルトラーミ准将とその艦キャリーアンが虚空に散った。
つづけざまの、デスハウリング。一度の戦闘で、敵味方を問わずこれほどのデスハウリングに接したのは、ルメルシェにとってはじめてだった。
戦力比は、二対四〇というおよそ非常識なものとなった。
それはさすがに絶望的な数字だった。どのような天才的な操艦能力の所有者であっても、そう長くもちこたえることはできない。二〇倍の敵に囲まれて、粛々と死への階段を上っていくのみ。そのような状況となった。
「あとは、祈るだけだ」
ルメルシェはつぶやいた。
しかし彼は、死を覚悟したのではなかった。単純な艦対艦の戦闘という意味において死への階段が用意されたのと同時に、ルメルシェの計画も最終段階を迎えたのだった。あとは実行を残すのみとなった。自分にできることをすべてなしおえたからこそ、あとに祈りのみが残ったのだ。
緩衝体は、あいかわらず牙を剝いた獣のように騒ぎたてている。
それへ向けて、ルメルシェは語りかけた。いつもとは違って、固有名で。
――泣くな、ジュノー、もうすぐだ。
緩衝体からの返答はなかった。
ルメルシェは副機関長に、最後の指示を出した。
天頂方向へ、一六パーセント光速で突っこむ。それはあらゆる安全性を無視した、推進機関が出しうる、正真正銘、限界の速度だ。これ以上の速度は、本当に出せない。それで何とかならなければ、ルメルシェにできることはもうない。
指示を出しおえた瞬間、唐突に通信回路が開き、まったく思いもかけない相手が現れた。
「オーケイ」
悪意のある笑みを浮かべたその人物は、クラウディオ・チェルヴォだった。
5
時をおかずして二隻を撃破してすぐに、残り二隻となった敵艦のうちの一隻が、光速の一六パーセントという速度で機動を開始した。
「すべての手段を失って、最後の賭けに出たようです」
烏羽玉の司令室で、デリャーギンが感想を述べた。
彼の言葉のとおり、敵は最高速で逃走に入ったようだった。
勝った、と判断してよい状況だった。等速運動で逃げる敵を斃すことほど、たやすいことはない。結局正面から戦うことはかなわず、有嗣にとっては少々残念なことになったが、それはそれで仕方がない。相手を敗北に追いこむことが勝利なのだから、その形式にこだわる必要はない。
そのとき、異変が起こった。
味方のすべてのノウアスフィアが、限界速度での機動を始めた敵艦ヴィレッジグリーンを見失ったのだった。まるで、戦場から忽然と消え失せてしまったかのようだった。麾下の各艦から、ぞくぞくと報告と確認が入ってくる。
一瞬で、有嗣は事態を察した。
どのような偶然かはわからないが、四〇もの艦によって作りだされるノウアスフィアの包囲に、わずかな空隙が発生していたのだ。そこを、敵は高速で衝いたのだった。
敵はすぐに、ふたたびノウアスフィアによる索敵網に捕捉された。少し遠ざかりはしたが、完全に包囲を抜けたわけではない。包囲率はまだ七〇パーセントを超えている。しかも向こう見ずな機動を行ったため、防御態勢がまるで整っていない。そして等速運動を継続している。これほど狙いやすい的はなかった。あとは落ちついて火線を集中すればよい。問題はなかった。むしろ、準備万端だった。あとは捕食するのみだ。
有嗣は最後の砲戦命令を出そうとした。
土星軍第六艦隊第四戦隊旗艦の司令室に、私服の女性が入室してきた。
艦の最高位者たる庫翡潤はそちらに視線を送ることも咎めだてすることもしなかった。
ともに淡い暖色のセーターとスカートを身につけた長身のその女性は、彼の秘書だった。副官ではなく、秘書である。だから軍服も着用していない。航宙艦の中であるので耐性はもっているが、あくまで民間人である。彼女だけは、艦長が戦闘に没頭しているときであっても司令室への入室を許可されている。
当然のことながら正常な状態ではなく、艦内では彼女は艦長の情婦であるとささやかれている。そのことを、庫翡潤はあえて否定していない。肯定もしていないが、態度で噂が事実であると示した。そして秘書の顔ぶれは、定期的に変わった。情婦を同伴するにせよ、軍人のなかから見つくろえば問題は少ないところをあえてそうしないのは、それが彼の信条であるからだった。こと趣味においては、問題の存在を糊塗するような真似を、彼は好まないのだった。
秘書は指揮席のかたわらに立ち、艦長に細い煙草を手渡した。もはや稀少となった、火を用いる紙巻き煙草である。
不文律として、航宙艦に限らず宇宙を航行する船舶においては火を用いることは禁忌だった。それは往古から続く慣習であり、現在においては実質的な意味をもつものではなかったが、しかし間違いなく顰蹙を買うに足る行為だった。
ほのかに甘い煙の漂うなかで、彼は戦況を観察し、そして考えていた。
――妻にいい土産話をもって帰れそうだ。
ここ何十年か、誰も経験したことのない戦いに参加することができた。経験としては悪くない。圧倒的多数での戦いであり、土産話とするには少々卑怯という感もあるが、戦争とはそういうものだ。
ただ、この次はどうなるかわからない。おそらくは司令官が言うように、大戦中の血みどろにまで退行することになるのだろう。血を好むわけではない彼にとってはさほど興趣を感じるものではないが、そうなったところで生き残る自信はある。気がかりがあるとすれば、そういう戦いに身を置くことを妻は喜ばないかもしれない、ということだった。
敵はあと二隻。そのうちの一隻が、自暴自棄の突破に出たように見える。こういう場面に、彼は何度も遭遇したことがある。戦闘の最終局面においてよくある光景だ。それと同じことが、またくりかえされているのだと思った。とりたてて珍しいものではない。
そこで彼は、少しだけ指揮席から身を乗り出した。
――いや、違う。
彼は異変に気づき、そしてつぶやいた。
「しくじったか、司令官よ」
「――おやめください!」
有嗣が砲戦命令を出そうとしたところで、司令室に鋭い声が響いた。その場にいた者すべての視線が、その声の発生源の方を向いた。
そこには背筋を綺麗に伸ばした、剃髪した弟の姿があった。有視が、有嗣でさえほとんど聞いたことのないような鋭い声を発したのだった。
弟の言葉の真意を確かめる前に、有嗣は気づいた。一六パーセント光速で航行する敵艦が目指している方向に。そして戦場自体が向かっている方向に。
「――天頂公路か」
ヴィレッジグリーンは混迷のなかにいた。
一六パーセント光速での機動によって、艦の各部が不調をきたしている。その報告が、引きも切らずに届いている。瞬間的に発生する大加速度はノウアスフィアがおおむね無効化してくれるが、等速運動は艦そのものに損傷を与える。
もはやスラローム砲は機能していない。最高速力を出すことのみを目的とした艦機動であり、それに不要なすべての要素は機能を停止させていた。
通常ありえないことだが、司令室においても振動を感じる。
さらに意識浸潤を行っているルメルシェは、強く自律神経が攪拌されたような感覚のなかにいた。それは特別な訓練を受けた彼であっても耐えがたいもので、両手で手すりを握りしめていても指揮席から転げ落ちそうになるほどだった。副官がその体を支えようとしたが、ルメルシェは眼球の動きだけでそれを制した。
激しい不快感と闘いながらも、艦の後方に位置しているであろう敵軍の指揮官に向けて、ルメルシェは告げた。
――それが、おまえの対峙すべき敵だ。
ヴィレッジグリーンは、まっすぐに天頂公路へと疾駆していた。
「いつのまに、こんなところにまで……」
土星軍の指揮官である九重有嗣は、つぶやくように言った。その声にはうめくような響きがあったが、そこに込められた感情の半分以上はみずからのうかつさを呪うものだった。
二隻の敵艦は、天頂公路のすぐ手前に位置していた。最初にヴィレッジグリーンが、それに数瞬遅れて戦隊旗艦レディジェーンが、一六パーセント光速で一直線に天頂方向へと向かったのだった。今ここで砲撃すれば、攻撃はどうしても天頂公路へと至ってしまうだろう。もはや攻撃を行うことはできなかった。
大戦の勃発以後、太陽系宇宙の全域が戦場と化し、通常の交通に支障をきたす事態が発生した。その問題を解決するため、各国協議のうえで、天頂および天底方向に何人といえども軍事行動を行うことの許されない領域を設定した。それが「公路」である。大戦終結後も現在にいたるまで、公路はその性質を変えずに存続している。
これまでの軍事常識を唾棄する有嗣であっても、国際的な枠組みまで無視して公路で軍事行動を行うことはできなかった。
戦闘を開始した時点で、戦域はさほど公路に近かったわけではない。しかしいつのまにか、戦場自体が天頂公路の手前にまで移動していた。一時間あまりのあいだに、戦場が五〇〇〇万キロも移動していたのだ。
「それが、おまえの策だったわけだ」
多数の敵を打倒することは不可能だ。一時的に包囲を抜けることはあるいは可能かもしれないが、すぐに再包囲されてしまう。だから包囲を抜けてすぐに、絶対に攻撃を受けない場所、すなわち公路へと逃げこまなければならなかった。そのために、限度を超えた機動によって戦場自体を公路近くにまで巧妙に誘導した。そして最後に、時機を見計らって戦場から脱出し公路へと至る……。
トカチェンコ少将の死から天頂公路への脱出にいたるまで、すべて計算されていたのだ。有嗣はそれに乗せられたことになる。不注意だとしかいいようがなかった。弁明はできる。敵は過去にない試みを実行した。そもそも状況自体が前例のないものだった。さらに、人類全体が民間船の存在を考慮しない戦闘を行うようになって何十年も経っている。しかし、不注意は不注意だ。
有嗣は仮想空間のなかに構成された敵影を睨みつけた。
「だが、おまえはまだ完全に成功したわけではない」
有嗣は低い声でつぶやいた。それに反応して、有視が何事か言いたげにこちらを向いた。
気づかないふりをして、有嗣は言葉を継ぐ。虚空を隔てた敵に向けて。
「抑止を無視しても、国際法までは無視すまい――そう考えているな? 俺を大きな枠の中に閉じこめて勝利したと思っているな? だがそれは、おまえが思うほど強固な枷ではない」
今この瞬間、有嗣が公路において戦闘を行う決断をすれば、敵の生命はない。生殺与奪の権利は、まだこちらにある――
敵はまだ、勝ちきってはいない。
自問する。
好機を摑んだならば、手放してはならないのではないか。一度好機を逃した者は、次は敵の好機によって屠られることになるのではないか。
たとえ時期尚早であれ、好機を活かすべきではないか。人生において、完全に膳立てが調うことなどありえない。どこかの段階で跳躍をしなければならない。それが今このときなのではないか。
慣行、惰性、不文律――くだらない世界を終わらせるために、ここまでやってきたのではないのか。
数秒後、いくぶんか肩の力を抜いて有嗣は言った。
「……冗談だ。これ以上は身に余る」
「承知しております」
柔らかい声で、弟は言った。本当に冗談と解したのかどうかは、その口調からはわからなかった。
残念ながら、現段階で国際法を無視するわけにはいかなかった。一介の軍人たるを超えることを志向していても、現実はまだそれに追いついてはいない。現在の階級と地位では、社会的制約を超えることはできない。
「今はまだ、だが」
航宙艦ヴィレッジグリーンは戦場を離脱し天頂公路に入った。ここに至ったからには、攻撃を受ける危険性はほぼない。
ルメルシェは大きく息を吐いた。安堵した反動からか、意識を眩暈にからめとられてバランスを崩した。だが手すりに肘をつき、掌で顔面を摑むようにして何とか上体を支えた。
「心配ない。少し目が回っただけだ」
周囲に対して、ルメルシェは声に出して言った。
「何とか生き残ったようですな。――ああ、今旗艦も公路に入ったようです」
バラージュ大佐もまた、この人物にしては珍しく、一見してわかるほどに安堵の雰囲気を全身に漂わせていた。生き残った――その言葉は艦長に対する最大級の賛辞のはずだったが、ルメルシェはそれを素直に受け取る気にはなれなかった。たしかに最低限のことはなしとげたが、それを超えるものではない。
自分は逃げたのだ。
もちろん、勝てない戦いを避けることを恥辱とは思わない。だが、怯懦のゆえに逃走を選ぶことは、彼にとっては不名誉なのだった。
敵指揮官のまがまがしいノウアスフィアを思いだす。ルメルシェはそれとの正面衝突を避けたが、それは論理的判断というより嫌悪感や恐れといった感情にもとづくものだった。結果としてうまくはいったが、みずからの感情に負けたという事実に変わりはない。
実際のところ、あのときバラージュが暗に示唆した、正面の有嗣を斃すという方法を選んでも、あるいはよかったかもしれない。けっして容易ではないし不確定要素も多いが、これが戦略上の転換を目的とした戦いであるならば、通常よりも指揮官の重要性が高い。ならば、敵の指揮官を斃すという策はそれなりに合理的なのだ。しかしルメルシェはそうはしなかった。
結局どちらが現実的だったのかはわからないが、すくなくとも複数ある選択肢のうちから、感情に後押しされたものを選んでしまったのだ。それは彼にとって屈辱的なことだった。
そして、さらに気に食わないことがもう一つあった――
天頂公路へと離脱した二隻の敵艦を意識に収めつつ、庫翡潤は考えていた。
――若さ、あるいは経験の少なさが招いた失敗ということだろうか。
上官である九重有嗣は、彼より一〇歳近く年少である。それゆえに犯す誤りもあるだろう。
――いや、こういう思考法はよくない。
九重有嗣が若いのはたしかだが、むしろ庫翡潤の方が年をとりすぎているのだ。三五歳で少将というのは、艦長職であったならば退役していてもおかしくはない年齢だ。
年齢が問題なのではないし、上官が失敗を犯したわけでもないし、上官一人が問題なのでもない。
上官はよくやった。本意ではないかもしれないが、目的は達したといえる。戦場では完勝などありえない。もししくじったと表現するのであれば、それはこの戦いに参加したすべての者にあてはまる。もちろん、自分にもだ。ここは、敵を評価すべきところだろう。
そしてその敵だが、彼には気になっていることがあった。
敵の年若い艦長はよくやった。しかしそこには、矛盾する精神の存在を感じるのだった。それは、秩序を求める志向と無秩序を求める志向。その二つが奇跡的に組み合わさって、この状況を導いたように、彼には感じられる。しかし、そんな精神というのはありうるのだろうか。
庫翡潤は鼻を鳴らした。
「まるで詮のないことを思案しているな」
ヴィレッジグリーンに少しだけ遅れて、旗艦レディジェーンも天頂公路に入った。
戦隊司令であるアマディス・ブローデルにとっては、通常以上に一艦長として行動することを強いられる戦いだった。通信が不可能であったため、戦隊司令としてはほぼ何もできなかった。
ただそれでも、戦闘の途中からマクシミリアン・ルメルシェの企図は何となく了解していた。だからこそ、今ここに彼も生きて存在しているのだった。一六パーセント光速という常軌を逸した速度のなかで意識浸潤を行ったため、はなはだ気分が悪い。髪が汗で頰に張りついていた。
気分は悪いが、生き残ったことはよいことだ。理性の王国の兵隊が本能で戦う捕食者に遭遇してなお生き残れたのはほとんど奇跡的であり、それは祝福してよいことだと思った。
もっともブローデルには、その祝福にあずかる権利はない。彼はこの戦いにおいて、四隻もの航宙艦と一万を超える人命を失った。状況がいかなるものであったかはこの際関係ない。指揮官として無能きわまりないと自己評価せざるをえず、慚愧に堪えなかった。
そして損害は、それだけにとどまらない。偶然とはいえ、彼らは新しい世界への扉を開けてしまったかもしれないのだ。今のところはブローデルの想像にすぎないが、それは抑止などという概念が存在しない、新しい血みどろの戦いの世界だ。そういう意味で、損害は未来の方向に向けてまだ拡大中といえるのだった。
もちろん、生き残ったことにはつねに意味がある。この戦いの経験は将来に活かされることになるだろう。しかし今ブローデルは、それを積極的に評価する気分にはなれなかった。
……木星軍が天頂公路へと逃げこむことによって終結したこの戦闘は、客観的には土星軍の圧倒的勝利に終わった。
木星軍六隻、土星軍四一隻が参加して行われたこの戦いだが、最終的に残ったのは木星軍二隻、土星軍四〇隻だった。
しかし圧倒的不利からの生き残りに成功した木星軍も、敵をほぼ壊滅させたといえる土星軍も、いずれも満足してはいなかった。
敗者たる木星軍はもちろんのこと、土星軍の指揮官にとっても、敵を完全に撃滅しえなかったことは不満の残る結果だった。
反対側から考えるならば、双方とも最小限の結果は得たともいえた。何より木星軍は生き残って戦訓を持ち帰ることができたし、土星軍にとっても多数でもって敵に当たるという経験を得た。
ともかく、程度の差はあれ双方満足と不満とを手に入れて、この戦闘は終わったのだった。
6
戦闘は終了し一息つきはしたが、勝者である土星軍はまだ警戒態勢を解いていなかった。
これから方面軍基地のあるタイタン周回軌道に帰還することになるが、天頂公路にある敵の残存部隊とは違って、依然としていずこから敵が出現するかわからない暗黒の空間を航行するのだ。
各艦の高級士官たちと会議を行い、トカチェンコ少将とその部下たちの略式葬を済ませてから、司令官である九重有嗣中将はひとまず司令室を離れた。その背後に、弟の有視が付き従う。
「けっして負けてはいない。そんなことはわかっている」
有嗣は言った。その言葉に、みずからの心を偽るところはなかった。完全を目指すべきであるのは当然だが、完全など望むべくもない。そんなことは承知している。戦略目標はほぼ達成したし、敵も壊滅といっていい状態に追いこんだ。二隻を逃しはしたが、それらの艦にも限界を超えた機動によって相当な負担がかかっているだろう。即座に戦線に復帰できるとは考えられなかった。だから戦闘の結果については彼はそれなりに満足し納得していた。完勝を得ることができなかったとはいえ、私的な敗北感にひたってはいなかった。
「兄上が勝利を独占しなかったことは、間違った選択ではなかったと存じます。勝利の独占は、つねに成果を上回る敵意を呼ぶものですから」
弟が見解を述べた。弟らしい物言いだ、と思った。
「おまえが間違っていないと言うなら、とりあえずはそれを受け入れよう」
今回は部下たちに勝利を譲った。自分は戦略目標を達成しただけだ。
それは彼の懐の広さを示すものではなく、たんに地位や歴史的段階の制約に従ったにすぎない。今後地位が上昇し歴史が新しい段階へといたったとき、彼は弟の言うところの間違った選択を行うことになるだろう。人類社会における勝利のすべてを、彼が手にすることになるのだから。そのとき弟はどのように考えるのだろう、と思った。
「扉は開いた。とりあえずは満足しているさ」
六〇年以上続いた抑止の時代を葬り去る道筋をつけた。きたるべきは、戦略と戦術の区別のない世界。爪先だけであれその新しい場所に足を踏みいれることができたのだから、満足しない道理はなかった。
そして最後につけくわえた。
「そのうち、悲しみもなくなるかもしれないな」
航宙艦ヴィレッジグリーンは、公路航行に関する国際協定にもとづき、常時現在位置を発信しながらパシファエへの帰路に就いていた。
その艦長であるマクシミリアン・ルメルシェは、敵の指揮官とは違ってまったく満足などしていなかった。
「公路を戦闘に利用するなど、褒められた行いではありませんな」
そのようなことを、先刻から政治士官であるクリールマン人文准将が言っていた。小言のたぐいだった。
「利用しただけだ。交戦したわけではない」
ルメルシェもまた、そのように先刻から同じような返答をしていた。
わずらわしかった。
しかしいちばん気に食わなかったのは、クリールマンなどではない。クラウディオ・チェルヴォの存在だった。
敵艦を撃沈せしめた専行に関してはいい。許容するわけではないが、あの男がみずからの愚かさを曝露しただけなのだから、最終的にはルメルシェとは関係のない問題だ。
そうではなく、ルメルシェが今ここにいることが、部分的にはクラウディオの行いに依っていると考えざるをえないのが気に食わないのだ。
戦闘の途中から、あの男が機関を管制していた。まだ精査はしていないのでどのタイミングからかははっきりしないが、すくなくとも一六パーセント光速を出す直前に通信をよこしてきた際には、機関はすでにあの男の管制下にあった。機関長権限を剝奪されてもなお、私室から戦術神経リンクに侵入し、防壁をかいくぐって推進機関の管制を奪取したのだ。
許されない蛮行だったが、さらに許しがたいのは、ルメルシェの操艦があの男の機関管制に支えられていたことだった。深く意識浸潤したルメルシェが一〇パーセント光速を超える機動において何とか自律神経を正常に保ちえたのは、あの男が艦の機動を微調整していたがゆえだった。
思えば最初の敵艦の撃破も、ルメルシェが生き残る伏線となっていた。あの攻撃のおかげで、敵の警戒が増したのだ。敵が全体として慎重を期していたらしいこともあったが、あれによってヴィレッジグリーンへの敵の攻撃が多少は緩和されていた。
気に食わないこと、はなはだしかった。
「間抜けが」
その言葉は、明確にみずからに向けて発したものだった。
……人類暦二四九六年、恩寵暦四三二年七月一三日二一時二〇分、この年九回めの遭遇戦は終了した。
まだ名づけられていないこの遭遇戦は、のちの大規模艦隊戦時代の幕開けとして、そして九重有嗣、マクシミリアン・ルメルシェ、クラウディオ・チェルヴォの三者がはじめて同時に参加した戦いとして歴史に特記されるべきものだった。