星海大戦
第一部 第三章 ジュノーのように
元長柾木 Illustration/moz
元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。
第三章 ジュノーのように
1
「僕は、ジュノーみたいに死ぬの?」
航宙艦ヴィレッジグリーン司令室の指揮席に華奢な長身を収めたマクシミリアン・ルメルシェは、幼いころに発していたそんな言葉を、何年かぶりに思いだした。これから展開されるであろう生と死の相剋を予感して、多少不安に、あるいは感傷的になっているのかもしれない。あまりよい徴候とはいえないと思い、頭を振ってその戯言を思考から追いだした。
――運命は、決められてなどいない。
あまりに陳腐なそんな言葉を、心に投げかける。
しかしどれだけ陳腐であったとしても、彼にとってそれは、長い時間と大きな努力とを注ぎ込んで獲得した観念だった。ただの決まり文句などではありえないのだった。それをみずからの裡に発するのに、羞じるところなどない。
――俺は、ジュノーとは違う。
ルメルシェは、何重にも張りめぐらされた防護壁に守られた中枢神経系が作りだす精神のなかで、声に出さずにつぶやいた。まるで、誓いのように。
黒銀色の巨大な骸骨が、輝点をちりばめた漆黒の空間を航行していた。
一般的な航宙艦の形状は、大まかにいうと円錐形をなしている。円錐の底面が艦首、頂点が艦尾にあたる。
ただしそれはあくまでごく大雑把な近似であり、近寄って細かく見てみると、幾何的な美しさよりもいびつな不気味さの方が目立つ。簡潔な数式で表せるようなすっきりした形状もしておらず、流体力学にもとづいた滑らかな流線型ももっていない。
それは、ごつごつとした無骨で不規則な外形を有しており、しばしば「膝を抱え頭を屈めた巨人の骸骨」といった形容がなされる。一般的な観点からは、高速で宇宙空間を航行し、戦闘時には光速の五パーセントで機動するとは、にわかには思えない形状であった。実際、民間の航宙船は、より常識的な幾何的形状をしていることが多い。
しかしノウアスフィア内で高機動を実現するには、この「巨人の骸骨」という形状が最も効率的なのだった。ただしそれは、理論的に導きだされた結論ではなく、あくまで経験則である。ノウアスフィアに関する事柄には、理論的に解明されていない部分が多いのだった。
カリスト第三艦隊第二戦隊――通称ブローデル戦隊に所属する新造艦ヴィレッジグリーンも、多くの例に漏れぬ外形を有していた。「艦匠」と称されるイニャキ・ゴロスティアガ造艦少将の設計による、飛翔体としては一見非効率であるその形状も、暴力装置としてとらえるならば理にかなっているといえた。あくまで結果的にではあったが、その形状は、見る者に暴力と死とを想起させるまがまがしいものであったからだ。
宇宙空間を航行している今、そのまがまがしさを肉眼で確認しうる者は存在しない。しかし現在、ヴィレッジグリーンは、その不吉な性質を発揮しうる状況下にあった。
すなわち、敵と遭遇したのである。
通例どおり球形陣を保って航行していたブローデル戦隊のなかで最初に敵の存在を察知したのが、ヴィレッジグリーン、正確にはその艦長であるマクシミリアン・ルメルシェ准将であった。
敵の存在は、意識接触通信によってすぐさま僚艦にも伝えられた。
ノウアスフィアは艦の周囲におおむね球状に展開されているが、その表面から細い筋状の触手を伸ばして、僚艦のノウアスフィアまたはその触手と接触させることによって、情報のやりとりを行うことができる。それが意識接触通信であり、この触手はまた索敵にも用いられる。
艦長としての最初の実戦であったが、ルメルシェは表面上は動揺する様子をまったくみせなかった。冷静な表情を保ったまま彼が行ったのは、鼻梁に手をやって眼鏡をわずかに押しあげたことのみだった。
ルメルシェが察知した敵のイメージは、即座に戦術神経リンクを経由して艦内各部署へ伝達された。
乗員たちは、艦長ほどには冷静ではいられなかった。虚空に不気味に浮かぶ、自艦と似たような形状をもつ巨人の像を認識して、程度の差はあれ、艦内のいたるところで息を吞む気配が発生した。いくらグリーンホーンが恐怖に対して鈍感であるとはいっても、戦闘というのは相応に緊張を強いるものなのである。
推定で六五万キロ離れた位置にある敵の姿を、肉視することはできない。敵情報を必要とする要員はすべて、光学的な映像ではなく、艦長が意識浸潤によって認識したイメージを直接受け取るか、あるいはそれをもとに分析士が視覚情報へと変換処理したデータを利用する。肉視できないのは、索敵を担当する艦長であっても同様である。敵の存在を察知したといっても、直接認識したのではなく、敵艦の展開するノウアスフィアの存在を感知したにすぎない。
肉視できない敵影は、虚空に不明瞭に浮かぶ朧な光として認識された。
敵がこちらを認識しているか否かは定かでない。ただ六五万キロという距離は、この時代の平均的な敵発見距離である五二万キロをかなり上回る。発見されていない可能性の方が高いといえた。
敵を認識した数秒の後に、ノウアスフィアの触手を介して、戦隊司令ブローデル少将から通信が入った。指揮官の意思は音声へと変換されて司令室に響き、その場にいる十数名すべての知るところとなった。
「戦闘状態へと移行せよ」
手順どおりの、戦闘開始の文句だった。
ブローデルの命令を耳にしたルメルシェは、こちらも用意していた言葉をみずからの指揮下にある者たちへ向けて吐いた。
「これより戦闘状態へと移行する。――土星主義者どもを打ち破れ」
鋭く透明感のある声を、ルメルシェは発した。発した者の強い意志の存在を感じさせる音声は、適温よりやや低めに設定された室内の空気を冷たい刃で切り裂くように、司令室スタッフたちの精神に響いた。
戦闘開始の合図だった。
それは、ただちに通信士によって各部へと伝達される。
ただしこれは、あくまで形式である。事あるごとに艦長が音声言語で命令を発し、それを通信士づたいに伝達するといった手間をかけていては、非効率きわまりない。より詳細で具体的な命令・指示は、ルメルシェの発声と同時もしくはそれ以前に、艦内に張りめぐらされた戦術神経リンクによって各部署に伝えられている。各要員も、耳からではなく神経で艦長の意思を受け取る。
音声による命令は、戦闘の折々の重要な局面において行われている、儀式のようなものである。表向きの存在意義は責任の所在を明確化するためのものだとされているが、実際的な意味はそれよりもむしろ、戦闘開始にあたって乗員たちを一個の運命共同体としてまとめあげることにある。ようするに、覚悟を決めさせるのである。
そのための、些細な仕掛けもある。
――打ち破れ。
戦闘開始命令の最後の部分がそれである。
この部分の文言は、それぞれの艦長固有のものである。艦によって異なる特徴的な言い回しを用いることによって、乗員の精神を艦長の個性に染めあげるのだ。
ただルメルシェが選んだのは、比較的凡庸な表現だった。
彼は、こんなところで個性を発揮する必要性を感じていなかった。いわゆる「猛将」などと呼ばれる指揮官が「ぶっ殺せ」だの「叩き潰せ」だのといった荒々しい戦闘開始宣言で部下の士気を高めるといったことも行われており、その効用をまったく認めていないわけではなかったが、彼自身は過剰な士気の高揚を求めてはいなかった。
浮つくことなくなすべきことをこなし、結果として勝利する。それを繰り返すことによってはじめて、部下の自信も忠誠心も発生する。ルメルシェはそう考えていた。それは信条的なものであったとともに、彼は――クラウディオとは異なって――自分が弱輩者であることを自覚していた。気負った表現で若さゆえの熱意の空回りと認識されるよりは、粛々と重ねた実績を見せつけた方が得策であると考えていたのだった。
ともあれルメルシェの意を受けて、ヴィレッジグリーンの骸骨のごとき艦体表面に、数百基の可動式砲塔が、艦内部から滲出してくるように浮かび上がった。
荒削りな球形をした、スラローム砲と呼ばれるその砲塔が、航宙艦の主たる武装である。スラローム砲は艦体表面を滑走するように高速移動し、艦長および砲戦指揮官の意に従って火砲を放つ。
一基の砲塔には、二名一組で乗り込む。敵の姿を肉視することのできない彼らは、虚空へ向けてレーザや弾体を発射することになる。
火砲を放つたびに発光する数百もの砲塔が表面を高速で動きまわるため、戦闘時の航宙艦は、あたかも巨人が輝く繭に覆われているかのように見える。
数百の砲塔から放たれる毎分合計数万の光条は、四方八方を指向している。一見ただやみくもに、暗黒の無窮へと資源とエネルギーをばらまき、無目的で無軌道な浪費を行っているようにも見える。
しかし、これが宇宙空間における戦闘なのだった。
敵は肉視できない。レーダーもさほど役には立たない。あまりにも高性能化した航宙艦の速度は、光速の五パーセント――秒速一万五〇〇〇キロに達する。索敵能力や攻撃能力に比して回避能力があまりにも高く、敵艦に確実に攻撃を命中させることなど、至難であるどころかほぼ不可能なのだった。
こういった状況においては、一発必中を目指すのではなく、無数の火砲を放ち、その弾幕によって敵の行動の自由を制限する、といった戦い方しかできない。この際、自艦から敵方向へと直線的に向かうものだけでなく、全方向へと誘導弾体を放ち、敵を多方向から包囲する。砲撃の第一義的な目的は、敵艦に直接損害を与えることではなく、敵の行動範囲を――可能性を掣肘することとなる。そうやって敵の可動域を削りとるように徐々に狭めていったのちに、完全に身動きできなくしておいてから、火力を集中して敵を撃破する。それが、この時代の一般的な航宙戦術であった。もっとも、戦闘の本質が相手の可能性を奪うことであるというのは、過去から現在まで変わらない。そして可能性が無となった状態を、人は死と呼ぶ。
攻撃を開始してから数テンポ遅れて、敵の攻撃が四方からやって来た。まずは直線的に闇を切り裂くレーザが、それから複雑な軌道をとる誘導弾体がやってきた。
弾幕は薄く、連繫も感じられなかった。ほとんど回避行動をとる必要もないほどだった。敵はこちらの位置をごく大まかにしか把握していないようだった。こちらの攻撃を受けての、脊髄反射的な反撃といったところだろう。
三重存在。
ルメルシェは、そう呼ばれる状態にあった。
彼は認識のうえでは、司令室と戦術神経リンクと宇宙空間との三箇所に同時に存在している。物理的には艦の司令室に身体を置き、ときに部下と会話を交わす。戦術神経リンクが作りだすネットワーク空間では、さまざまな情報のゆきかうなか、獰猛な緩衝体とともにノウアスフィア機関を操る。そして宇宙空間に意識浸潤を行い、艦の機動や敵味方双方の砲撃によるエネルギーの奔流が虚空をほとばしるのを全身で感じる。
「水準をクリアしてはいる」ルメルシェはつぶやいた。「だが、有能と称するにはわずかに足りない」
それは、現在相対している敵の力量の推測だった。敵の攻撃から瞬時に判断したものだった。彼の年齢や経験からすれば、敵手にとってはあるいは傲岸な物言いであるかもしれなかったが、敵として相対している以上そんなことに配慮してはいられない。
相手の位置や軌道要素は直接認識できないため不分明であり、かつたえず変化するため、攻撃にせよ機動にせよ、つねに予測と直感によって行わなければならない。そして操艦と索敵の根幹であるノウアスフィア機関の管制を行うのが、神経レベルで艦と接続した艦長である。よってこの時代、歴史を通観してみても異常なほど、戦闘において艦長という個人の重要性が高まっている。秀でた指揮官に率いられた弱兵は凡庸な指揮官に率いられた強兵に優るという原則はつねに正しいとはいえ、この時代はその傾向がきわだっていた。しかも、いわゆる「単位容積あたりの飽和艦数」が経験的に定まっているため、戦闘は同数同士、つまりほぼ一対一で行われる。極言すればこの時代の戦争は、何万人が参加しようとも、最終的には個人戦なのである。この時代に生を享けたことを、ルメルシェは幸運に感じていた。
ルメルシェは、かすかに精神の昂ぶりを感じていた。さきほどまで感傷のようなものをいだいていたにせよ、それは彼のなかからは綺麗に消え去っていた。表層には出さなかったが、戦いにあたって覚えるのは、恐れではなく精神の高揚であった。
ましてや、一つの戦闘をすべてコントロールできる、艦長としての初陣である。これまで参加した戦いとは異なる。彼はさほど支配欲の大きい人物ではなかったが、それでも他者の指示ではなく思うままに行動できるというのは快いものである。ここは、彼の戦場なのだ。
もちろん彼の上位者として、戦隊司令ブローデル少将が存在している。しかし現段階ではともかく、戦闘が進み敵味方のノウアスフィアが入り交じるようになると、その隙間を縫って通信を行うことは難しくなる。そうなると、ほぼみずからの判断のみで行動しなければならない――みずからの判断のみで行動する権利を得るのである。
ルメルシェは軽く一息つき、声に出さずに独語した。
――俺は、どこまでいける?
それは、つねに彼が心にいだいている自問だった。そして、彼の内部でのみ発せられるものでもある。この問いを耳にしたことがあるのは、この艦では副官のアネジュカ・カプリツキー大尉だけであるはずだった。それも、副官に心を許したがゆえではない。単純な彼の過失により、彼女のいる場所でその言葉を発してしまったからにすぎない。
搏動が高揚する精神と同調して高まりかけたが、水準をはるかに超える強化のなされた自律神経がそれを抑えこんだ。
星の海のなかでエネルギーと荒漠を同時に感じながら、ルメルシェは当面の敵を打倒すべく、積極的な戦いへと移行した。
闇に近い空間に浮かぶ、輝く繭に覆われた巨人。そこから四周に放たれる無数の光の筋。
巨大な骸骨は、つねに小刻みに震えていた。
その細かな機動は、一つには襲いくる敵の弾幕をかわすためのものだが、もう一つ、スラローム砲が発射する弾体に速力を与えるという目的ももつ。
弾体も推進や姿勢制御のための機関を備えてはいるが、あくまで補助的なものである。五パーセント光速で機動する航宙艦を攻撃するには、その機関が生みだす速力ではまったく足りない。だから艦を機動させ、いわば艦そのものを射出機として弾体を撃ちだすのである。
そして艦が細かく振動するのは、多方向に弾体を発射すべく、同様の動きをたえず行っているためである。ノウアスフィアが慣性の法則を無化しているため、この細かい運動にも艦は耐えうる。
じきに、分析士が敵の情報を伝えてきた。
「――艦名スタレゾロト。土星軍太陽系艦隊母星方面軍所属、第六艦隊第五戦隊旗艦。艦長はマルーシャ・トカチェンコ少将、戦隊司令と兼任」
分析士が、ルメルシェの感知した因果紋を分析し、データベースと照合して艦名・艦長名を同定したのである。
航宙艦が展開するノウアスフィアにはそれぞれ、艦長の個性に由来する一定の癖がある。艦長によって異なる因果紋と呼ばれるそれは、いわば指紋のようなもので、艦や個人の識別の判断材料となる。ただし因果紋自体は個人の容姿と同様のたんなる特徴であって、能力の大小を示すものではない。
「戦隊司令」ルメルシェはつぶやいた。「重畳だ」
敵は旗艦であり、戦隊司令。ルメルシェにとって良い報せだった。
「敵の指揮系統を破壊すれば、戦闘をさらに優位に進めることができます」
バラージュ大佐が言ったが、ルメルシェが歓迎したのはそれとは別の理由によるものだった。
相対する敵が全体の指揮官であるということは、一介の艦長より裁量の範囲が広いことを意味する。すなわち、そのぶんだけ敵の能力が上方に補正される。
「違う。敵が強大であれば、それだけこちらも大きな能力を発揮することができるということだ」
彼は戦闘狂などではなかったが、それでも戦意が高揚するのを隠しきれなかった。
公開情報である航宙艦スタレゾロトおよびその艦長トカチェンコ少将のプロフィールと、軍がこれまでに蓄積した非公開の分析情報とが、随時参照可能なかたちで意識の片隅に配置される。
それをざっと舐めるように認識しながら、操艦を行う。
ヴィレッジグリーンのスラローム砲が放ったレーザや弾体が、昏い空間へと吸いこまれていく。弾着観測を直接行うことはできない。意識浸潤によって大まかに把握するのみだ。
しかしルメルシェは、数分のあいだに、みずからが優位に立っていることを知っていた。
彼の艦の砲撃は確実に敵の可動域を奪っていた。当然のごとく敵の攻撃もやってきていたが、しかしその弾幕の網はごく粗いものだった。ヴィレッジグリーンの行動を掣肘する域にまではまったく達していない。
敵を先に発見し、みずからの存在を察知される前に攻撃したならば、確実に戦闘を優位に進めることができる。それはどの時代の戦争においても適用可能な原則であり、今現在もまさにそうだった。ルメルシェは敵より先に、そして味方のなかでも最速で、敵の発見に成功した。それは索敵範囲の広さと勘の良さを物語る事実であり、艦長としての有能さを端的に示すものだった。
あとはその有能さを、戦いの終局まで保ちつづければよい。整然と、戦闘教義に従って攻撃を行えばよい。彼の理想とする戦いにおいては、奇手も蛮勇も不要だった。
整然と。粛々と。論理的に。
そういった形容の似合う戦いが、彼にとっては望ましいものだった。
「理想的だ」
今、戦いは彼の望むかたちで進行していた。敵を襲う弾幕の密度が、徐々に濃密になってゆく。こちらの発射密度が上がったためではない。敵の可動域が狭まったがゆえである。敵が期待したほどの能力を見せていないのは残念だが、それはこちらがコントロールできることではない。
おおむね満足すべき経過であったが、気に食わない点もあった。
――落ちつけ、獣。
その対象に対して、ルメルシェはネットワーク空間のなかで声をかけた。
それは、彼の認識のかたわらで猛々しい気配を発している緩衝体だった。ノウアスフィアから人間の精神を守る緩衝体は、なくてはならないものではあるが、聴覚神経に息づかいを感じるほどの荒々しい存在感は、彼にとっては快いものではなかった。
――死を、死を喰らわせろ。
餓えた肉食獣のごとき獰猛さを放ってはいるが、それは怯懦の裏返しであるようにルメルシェには思われた。そいつは、宇宙が、戦いが怖いのだ。だから必死に、号泣しそうなほどの凶暴さで牙をむいているのだ。それも、敵に対してというよりは、全方位の森羅万象に。緩衝体の性格はみなそのようなものだったが、そんな事実は慰めにはならない。
戦いの相棒としてはかぎりなく付き合いづらい相手だったが、いないことには始まらないし、緩衝体を飼い馴らさなければこちらの精神が攻撃を受ける。
――死にはしない。だから邪魔をしてくれるな。
無駄と知りつつ、緩衝体に語りかけた。
ルメルシェは、獣、とそいつを呼んだが、固有名は存在する。緩衝体との契約は、操艦者が緩衝体に固有の名を与える「名づけ」の儀式によって完了する。つまり、そいつの固有名は、ルメルシェの命名によるものである。
だがルメルシェが、緩衝体を名で呼ぶことはめったにない。緩衝体の方でもそれを望んではいないようにルメルシェは感じていた。だから、獣、なのだった。
獣はただ、うなり声を返してきただけだった。
それを確認すると、もはやルメルシェは緩衝体を意識するのをやめた。その存在感を完全に無視しきってしまうことは不可能だが、当面の敵は宇宙空間にある。
……弾幕による包囲網は、確実に敵戦隊旗艦を追いつめていた。
「敵艦スタレゾロトの可動域、五〇〇〇キロを切りました」
分析士が報告した。
戦闘開始から一〇分ほどで、当初半径四万キロほどはあった敵艦の可動域が、そこまで落ちこんだのだった。一方ヴィレッジグリーンの可動域はほとんど制限を受けておらず、半径五万二〇〇〇キロという値を維持している。
艦の可動域の大きさは、戦闘状態にある航宙艦同士の有利不利を測る重要な指標である。それは地球時代の陸上戦闘における兵数ほどに、戦況をあからさまに表す。つまり現状、ヴィレッジグリーンは圧倒的な攻勢にあるといえた。地球時代との大きな違いは、それほど戦況がどちらかに圧倒的に傾いていても、艦への着弾がないかぎり人的被害はほとんど出ないことである。
ルメルシェは司令室から一瞬だけ艦橋の方に視線を移した。そこで働く要員の挙動は、戦闘開始直前よりいくぶんか肩の力が抜けているように思われた。交わされる声までは聞こえてこないが、一見するだけで余裕のようなものがただよっているのがわかった。弛緩しているわけではないが、自軍が優勢であることを彼らもわかっているのだ。指揮官としては浮きたつことまではできないが、戦況の判断そのものは彼らと変わらない。
艦同士の距離も縮まっており、現在彼我の距離は三五万キロほど。これくらいの距離となると、ノウアスフィアの触手が敵艦を直接かすめるようになり、より精確な位置把握ができるようになる。
その点で、条件としては、敵も味方も同じである。しかしそれでもルメルシェは、敵艦の艦長はヴィレッジグリーンを直接は認識しえていないだろうと推測していた。戦闘開始当初から感じていた、ノウアスフィアの展開能力の差のゆえだ。いわば殴りあう腕の長さが違うのであり、ルメルシェは、こちらからは触手が届くが向こうからは届かない、それだけの距離をとっていたのだった。
勝利まであと一歩だった。
降伏させるにせよ撃破するにせよ、最後の詰めに入ったとみていい段階だった。
にもかかわらず、ルメルシェは違和感を覚えていた。
――ぶっ潰せ! ぶっ潰せ!
緩衝体が騒ぎたてているが黙殺する。
その違和感は、看過してはならないもののように思えた。そう直感に訴えかけてきていた。しかしそれが何に起因するものなのか、ルメルシェにははっきりとわからなかった。手順どおりに敵艦を追いつめながら、ルメルシェは自分の倍ほどの年齢の首席幕僚に問うた。
「バラージュ大佐。――何か気づいたことは?」
漠然とした問いだった。不確かな違和感でしかなかったから、そのように聞くしかなかったのだ。
「教本どおりの運用といえます。順調といってよいでしょう」
ルメルシェの曖昧な問いに表面上は怪訝な様子も見せず、バラージュは答えた。それは幕僚というより保護者や教師のものに近い態度だったが、ルメルシェは気づかなかった。
「私もそのようにありたいとは願っている。だが――」
それに続く言葉を、ルメルシェは発することができなかった。どのように言うべきか、具体的な言葉を用意できていなかったからだ。言い淀むルメルシェの様子から何かを感じ取ったのか、首席幕僚はややトーンを落とした柔らかい口調で言った。
「旗艦からも特別な情報は入ってきていません」
その言葉は、ルメルシェの精神を少しばかり鎮静させる作用をもっていた。
それは、異変の情報は入っていない、という言葉の内容によるものではない。旗艦との通信がまだ維持されているという事実が、彼を落ち着かせたのだ。通信が可能であるということは、抜き差しならないような状況ではないということを意味する。
ルメルシェは一つ息を吐いた。
しかし、やはり違和感は去らない。
その淵源が、艦長としての初陣ゆえの怯懦であるとは考えたくなかった。そのように自覚してもいなかった。とはいえ、みずからに優位に展開する戦況を脅かすような具体的な何かを見いだすこともできなかった。
「チェルヴォ大佐でしょうか」
かたわらに佇立している副官のカプリツキー大尉が、戦術神経リンク経由でそっと話しかけてきた。それは何重にも暗号をかけた通話で、この艦内には他にそれを認識しうる者はいない。この通話回路は、外見上つねに職業的な冷静さと見事な直立姿勢を崩さない、医師資格をもった二〇代なかばのこの大尉専用のものだ。副艦長や首席幕僚との間にも存在しない特殊な専用回路を副官との間に設けているのは、理由あってのことだった。
「それは最初に疑った。だが、今のところは大過なくやっているようだ。いつまた愚劣な不始末をしでかすかしれたものではないが、すくなくとも今のところは。……満足できる仕事ぶりとは、とてもいいがたいが」
「案外期待されているのですね」
それはとっぴな言葉であり、副官の言わんとするところが一瞬理解できなかった。そしてその発言が看過しがたい勘違いにもとづいていることを察知すると、ルメルシェは不快を覚えた。
「私の要求する水準一般に比してということだ。あなたに対して医学的な知識と口の堅さを要求するのと同じだ。あの男個人に何かを期待しているわけではない」
「……失礼いたしました」
副官はすぐに前言を撤回した。現実にはまったく動作を見せなかったが、非礼を謝するような気配は伝わってきた。
依然として去らない違和感は、かすかな息苦しさをともなっていた。かすかではあったが、彼にとっては戸惑いを覚えるほどのものだった。宇宙空間にあって息苦しさを感じるのは、経験にないことだった。
そしてそれは、彼の生まれもった宿痾のゆえでもないように思われた。
2
――俺は、どこまでいける?
それは長じたマクシミリアン・ルメルシェがつねにみずからに対してなしていた問いだが、幼少期の問いはそれとは異なるものだった。幼い虚弱な少年がベッドの中で天井を見上げながら発していた言葉は、次のようなものであった。
――僕は、いつまで生きられる?
彼は、つねにそのような恐怖にとらわれていた。
マクシミリアン・ルメルシェは、生来の病をもっていた。しかしその病が何であるか、正確なところを知らなかった。
それも当然である。当時まったく知られていない疾患であったのだから。
類例があれば、病因や機序が不明であっても、とりあえず情報は集積され命名がなされる。しかしその類例が存在しなかったのだ。類例がないため名前は存在せず、彼の主治医によって「マクシミリアン少年の症例」と称されていただけだった。
その主な症状は、感覚やそれにもとづく知覚のうえでの多岐にわたる障害だった。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった古典的な五感の他、平衡感覚、圧覚、痛覚、温度覚、振動覚、位置覚、運動覚、内臓感覚等の多くの感覚に異状をきたし、視界の歪み、色覚異常、光覚異常、視力低下、視野の欠損、遠近感の喪失、聴力の低下、耳鳴り、痙攣、振戦、痒み、痺れ、味覚異常、嗅覚異常、火照り、眩暈、嘔吐感、異物感、頭痛、発汗、動悸、発熱、過呼吸、倦怠感、不眠、意識障害、幻覚、共感覚、時間・空間知覚の混乱といった症状となって現れるのだった。
遺伝子疾患でさえ、多くは治癒しうる時代だった。
治癒が不可能であっても、たいていの場合は対症的な処置によって問題なく生活を送ることができたし、発生の機序が明らかになっていれば、器官が病変に冒され破壊されても、あらかじめ体内に埋め込んだ機械的・生化学的な装置が即応的に代替器官を生成することも可能だった。つまりは原因が不明であっても、ほぼすべての疾病は、生活の質を落とすことも寿命を縮めることもなくなっているのだった。
しかしそれでも、医療はまだ魔術ではなかった。例外的にではあれ、治療困難な病は確実に存在した。ルメルシェがもって生まれた病も、その一つだった。
「マクシミリアンは助かるんですか」
同じ立場にある多くの親が行うのと同じ凡庸な問いかけに対して、魔術師たりえない医師は明確に答えることができなかった。
ルメルシェは、一見重病人には見えなかった。症状の多くは不快なものではあれ、個々としてみれば軽微といえるものだった。主治医の観察によると、それらはあくまで感覚の異常であり、知覚や認知の方は副次的なものだった。であるならば、症状が多様であっても対症的な処置で何とかなるはずであり、この時代の医療はその程度には進んでいた。
しかし、彼の病には特異な性質があった。
たんに感覚に異状をきたして知覚や認知に影響を与えるというにとどまらず、より直接的に、正常な動作をしなくなった感覚器が電気信号を発して自律神経を攻撃するのだった。
「感覚器の、自律神経への電気的侵入です」主治医はそんな表現を使って、ルメルシェの両親に説明を行った。「報道で、電子機器への不正侵入のニュースを聞いたことがあると思います。それと同じことが、マクシミリアンの神経にも起こっています。不可解なことですが……」
しかし主治医に可能だったのは表現を思いつくことだけで、対処法の開発はできなかった。あるいはまた彼は、その症状を簡潔に「感覚の叛乱」とも呼んだ。
いずれにせよ自律神経が攻撃を受けるのであり、それはすなわち、循環器、呼吸器、消化器、内分泌腺といった生命維持機能が危機にさらされることを意味する。
「感覚の叛乱」は、神経系に施された標準的な程度の人工的な防護壁など軽く突破して、自律神経の管制を奪取してみせた。そのたびごとにルメルシェは、生命の危機を経験した。一時的な心肺停止に陥ったことさえ、一度や二度ではない。彼がその危機を乗り越ええたのは、たんに僥倖といってよい。何の前ぶれもなく起こった発作が何の前ぶれもなく治まっただけであって、彼の生命力や医療が勝利したのだとはいえなかった。その病の発生機序がおぼろげながら明らかになり、ある程度統一的な名称がつけられたのは、やっと彼がその軍歴のなかで最高位に達した後になってからのことである。
運良く幾度もの死の危機を乗り越えたルメルシェが軍に入った原因の一つは、彼の病にあった。
しかしそれは、恐怖からの逃避ではなかった。
――俺は、どこまでいける?
その問いに、答えるためであった。
マクシミリアン・ルメルシェは、小惑星帯のヴェスタに生まれた。
小惑星帯は太陽系内最大の小惑星集中領域であり、その軌道はおおむね火星と木星の間に収まる。
彼が生まれた当時、小惑星帯は経済的に活力を失い停滞状態にあった。人口も主に木星圏へと流出しつづけて長期低落傾向にあり、太陽系内でほぼ唯一の人口減少地域だった。現在にいたるまで変わっていないこの傾向は、ひとえに大戦のゆえである。
小惑星帯に属する天体は、もともと経済規模が大きくはない。それは単純に天体そのもののサイズの小ささと、それに由来する人口規模の小ささのためであった。
最大のケレスでも直径一〇〇〇キロ弱で木星圏の四大衛星には遠く及ばず、しかもケレスのみで小惑星帯全体の質量の三分の一を占めるほどなのである。他の小惑星の大部分は、テラフォーミングの条件を満たさない小天体である。小惑星帯の総人口は大戦勃発直前の最盛期でも一億三四〇〇万人にすぎず、それは人類社会全体の〇・四パーセントでしかなかった。
人口規模が小さく資源にも乏しい小惑星帯の天体群が、それでも大戦前は一定の存在感を有していたのは、その軌道的条件による。
すなわち、大人口をかかえる金星・地球・火星といった地球型惑星と科学技術の先端地域である木星圏・土星圏の中間に位置していたために人やモノの移動の中継地となり、さらに租税回避地として発展し存在価値を示しえたのである。一時期はケレス第三の都市フランツ・クサーヴァーが太陽系最大の金融都市として名を馳せ、WBTFの本部が置かれたこともある。
しかし大戦の結果、人類が協定球圏内、すなわち火星以内の惑星の支配権を失ってしまうと、小惑星帯の中継地としての価値は一瞬で消し飛んだ。太陽系の中心から、人類の敵地と境を接する辺境へと零落したのである。
天体によっては、軌道が協定球圏の内側に入りこむものもある。そうした天体は、一つの例外を除いて《敵》によって容赦なく破壊された。イリスやジュノー、バンベルガといった、最盛期には一〇〇万を超える人口を擁した、小惑星帯のなかでは比較的大きな天体でさえ、宇宙の塵と化したのである。
このような状況にあっては、人口が他へと流出するのは当然のことであった。
ルメルシェが生まれたヴェスタは、小惑星帯においてはケレス、パラスに次ぐ大きさをもつ天体であり、低迷するこの領域にあっては、あくまで比較的にではあるが、経済的には恵まれていた。
すくなくともルメルシェにとっては幸運であった。
人類社会における存在感という意味では弱小であるに違いなかったが、まがりなりにもテラフォーミングがなされており、医療技術の面でもそれなりの水準にあった。
だから何とか、ルメルシェは生存することができた。
しかしそれは字義どおりの意味であって、つまりは生きているだけでしかなかった。彼は他の子供と同じような生活を送ることはできず、ほとんどの時間をベッドの上ですごした。生活のうえでの変化といえば、ベッドの置かれている場所が病室であるか自宅であるか程度でしかなかった。
幼いルメルシェは、つねに死を恐れていた。自分の人生がいつ終わるのか、つねに怯えていた。
幼いころの彼は、線の細い、少女のような外見をしていた。
子供特有の柔らかさをもった褐色の髪は、腰のあたりまでの長さがあった。当時は眼鏡はかけていなかった。のちには鋭く冷たい視線を宿すようになる眼差しも強い意志の力をともなってはおらず、切れ長の目は生命をもたない無機物の結晶のごとき美しさを放っているだけだった。肌の色も生気に乏しく青白かったため、全体として、繊細だが魂のない、幼い少女を模した人形めいた美しさをもった子供だった。
人形のような少年は、ずっとベッドの中にいた。
死ぬまでに何かをなしたい――ベッドの中で彼はずっと、そんなことを考えていた。ただしその切望は、短い生を燃焼させたいという積極的なものではなかった。あくまでも、恐怖から目を逸らすためのものだった。そのことを考えていれば、ほんの少しだけ死の恐怖を軽減できた。だから、何かをなしたいといっても、具体的なイメージをともなったものではなかった。
「僕は、ジュノーみたいに死ぬの?」
幼い彼は、ときにそんなことを言った。
そこで引き合いに出される固有名詞はさまざまだったが、それらはすべて、協定球圏内に入りこんで破壊された小天体の名だった。そのなかでジュノーの名が出されるのが比較的多かったのは、その悲劇性が少年の負の琴線を刺激したがゆえだろう。
ローマの主神ジュピターの妻であり、女王の称号を有する最高女神ジュノー。そのような至高の名を冠する存在までもが、重力に引かれたすえに無慈悲に破壊される。しかし悲劇性は、そういった物語性にのみ由来するものではない。
大戦後いくつかの小天体や無人探査体が協定球圏に進入したすえに破壊されたが、そのなかでジュノーの破壊は最大の悲劇としても記憶されている。
《敵》との間にバルニバービ協定が結ばれた当時、ジュノーはその軌道において遠日点近く、三・三AUあまりの位置にあった。だから半径二AUの協定球圏内に入りこんだ他の天体が破壊されるさまをみる機会は幾度もあったし、他天体への移住を行う時間的余裕も十分にあった。
にもかかわらずジュノーの住民の多くが、何らの対策もとらずその土地に残ったのである。それは、死を覚悟して故郷に残ったという積極的な選択ではなかった。そんな災厄がわが身に降りかかるはずがないと、根拠もなく信じこんだのである。いや、信じたのですらなかった。周囲の人間がそうしているからみずからも同じように行動するという人間心理が、ジュノーの社会全体に伝播してしまったのだった。
そして当然のごとく、人類暦二四三二年九月末、破局はおとずれた。無為は、惨劇をまねいた。小惑星ジュノーは《敵》によって破壊され、そこに残った六〇万にのぼる人々はすべて死亡した。大戦後、これほど多くの人命が一度に失われたことは、戦争によるものを含めても他にはない。
これは歴史上、いくぶんの感傷を込めて「女王の墜死」と呼ばれる事件であり、人間の集団心理がいかに悲劇的な結果を生じうるかを示す教訓として後世の人々に記憶されている。
……とはいえ小惑星帯に属する天体の公転周期はおおむね三年から六年ほどであり、大戦の終結から五〇年あまりが経過していたルメルシェの幼少期にあっては、軌道が協定球圏内に入りこむ天体はあらかた破壊しつくされていた。だから、そういった天体の《敵》による破壊は、同時代のニュースではなく、あくまで歴史のなかの出来事だった。それゆえに、それらの出来事には、さまざまな立場の人々によるさまざまな意図によって、散文的な説明にとどまらない意味が付与されていった。
協定球圏内進入にともなう小天体の破壊を「堕天」と称し、悪徳に対する神罰であるとする教義をもつ宗教の誕生も、新たな意味付与にともなうエピソードの一つである。そういった宗教の教義においては、古代の神、名の知れた科学者、天体の発見者の家族、地球上の地名といった雑多なルーツをもつ天体たちが、十把一絡げにさまざまな悪徳を象徴する邪なる存在とされた。
他愛のない創作神話であったが、ルメルシェはそういった教団が発行したパンフレットを読むことを好んだ。
それは、彼の両親が心配したように新興宗教に心酔したがゆえではなく、そういった天体の運命というものに共感したためだった。彼は宗教の教義自体にはまったく興味を示さなかった。あらかじめ定められていた軌道をたどって、唯々諾々として、予定されていた死を迎えた天体。そういった存在に、大きな共感をいだいたのだった。そして、自分もそのような運命を迎えるのだろうか、と問うのだった。
「僕は、ジュノーみたいに死ぬの?」
その問いに対して両親は、そんなことはない、と言葉のうえで否定することしかできなかった。彼らも、自分たちの子供がどれだけ生きられるかについて、確信などもっていなかった。表面上迷いは見せなかったが、幼いルメルシェには伝わった。
だから幼いころの彼は、希望のようなものをもったことはなかった。
3
ルメルシェは息苦しさを感じていた。
敵および味方の、艦や弾体の無数の軌道要素がルメルシェの頭のなかをゆきかう。宇宙空間で敵の攻撃を見ているのか、戦術神経リンクのネットワークでそのデータを認識しているのか、厳密には判別できない。そんな宇宙空間とネットワークの同化したなかで、光輝と情報の一体化した奔流に身を置くことは、解放感を覚えこそすれ、息苦しさを感じるような体験ではない。
だからルメルシェは、その原因を確かめたかった。仮にそれが心理的なものに起因するのであれ、放置していてよいものとは思えなかった。
そしてしばらくして、ルメルシェは直感したのだった。
――敵が、多い。
あくまでも直感である。
ルメルシェが現在認識している艦は、敵戦隊の旗艦スタレゾロトのみである。しかしその背後に、より多くの敵がいる。そう感じたのだった。
スタレゾロト以外に敵艦がいるのは当然のことだ。通常航宙艦は戦隊単位で行動するから、旗艦以外にもあと五、六隻は存在するだろう。公開情報であるから、敵戦隊隷下の艦やその艦長たちの名もわかっている。ルメルシェが直感したのは、そんな常識的なことではなかった。
そんなことであるならば、何も問題はない。他の艦への対応は僚艦が行うことであり、ルメルシェが心配することではない。
しかしルメルシェは、もっと非常識な数の敵がいる――そんな直感をいだいたのである。彼が瞬間的に想定したのは、たとえばこちらの二倍であるとか三倍であるとか、そういった数字だった。
「単位容積あたりの飽和艦数」の経験則によって、通常、航宙艦による戦闘における戦力差は、二割ほどの範囲に収まる。重要なのは艦数ではなく、ノウアスフィアの展開能力、すなわち索敵範囲であるからだ。飽和艦数を超える艦数を揃えたところで、実質的には意味をもたない。せいぜいが、艦が破壊された場合に救助される可能性が少しばかり高まるといった程度である。
こちらの何倍もの数の敵。
通常は考えられないことだった。完全に非効率だし、極端にいえば無法だった。にもかかわらず、なぜそんなものを感じ取ったのか。
あくまで感覚の問題であったが、敗れつつある敵にあまり切迫感が感じられなかったからだった。さして根拠のあることではない。ノウアスフィアにはたしかに操艦者の精神状態がある程度にじみでるが、それとて偽装の可能なものであり、あまりあてにはならない。しかし、ルメルシェの感覚に一定の確信を与える程度のたしからしさが、そこにはあったのだった。
考えていたのは、数秒間にすぎなかった。ルメルシェは自己の判断で、通信士を経由せず旗艦との間に通信路を開いた。
それと、旗艦の方から通信が入ってくるのが、ほぼ同時だった。
次の瞬間、ルメルシェは会議空間にいた。
そこには、戦隊司令と旗艦艦長を兼ねるアマディス・ブローデル少将と、ルメルシェを含む五人の艦長が列席していた。
予定されていたことではない。コールもなしにいきなり開かれた、緊急の会議空間だった。あからさまに示しはしないが、居並ぶ艦長たちの様子にも戸惑いと緊張があった。なお、こうやって仮想の空間に集ってはいるが、各人はそれぞれの艦において戦闘を継続中である。そんな状況下で、戦隊司令ブローデル少将は儀礼的な挨拶に時間を費やすようなことはせず、即座に本題に入った。
それでルメルシェは、みずからの懸念の正しかったことを知った。
「敵の戦力はわれわれよりはるかに多い。――ざっと七倍だ」
上官の発言に、艦長たちのあいだに驚愕が広がるのがわかった。驚きが波となって伝播するのが見えたと錯覚するほどの、それは衝撃力をともなった情報だった。敵の数が多い――そのことを予期していたルメルシェでさえ、その規模には驚かざるをえなかった。
――七倍。
戦隊司令部は、各艦には存在しない、大規模な情報分析チームをかかえている。そのチームが各艦から上がってきたさまざまな情報を集約・分析して、艦レベルでは知りえない全体状況を算出する。七倍という数字も、戦隊司令部がはじきだしたものだった。
「つまり、敵は艦隊規模で行動しているということだ」檸檬色の髪をもつ優男は、いつになく険しい表情で、しかし表面上はあくまで冷静に言った。「詳細はすでに各艦に情報を送ってあるが、敵はわれわれに七倍する一個艦隊。土星軍第六艦隊、司令官は九重有嗣中将だ」
通常、五から一〇隻の航宙艦が集まって戦隊となり、さらに五から一〇の戦隊によって艦隊が構成される。つまり、敵は自分たちより一段階上位の部隊単位で行動しているということなのである。
ルメルシェが現在進行形で戦っている相手であるトカチェンコ少将は、今回の戦闘における敵の指揮官などではなく、より大きな戦力の一部を構成するにすぎなかったのだ。
「九重――八尋の眷属か」
嘆息と怨嗟の混じりあったような声が聞こえた。正確には声ではなく意味の塊とでもいうようなものだが、認識のうえでは声と称してもほぼさしつかえない。
その声は、マルベリーブッシュ艦長のロデリック・クイン准将によるものだった。こめかみから頰にかけて猛獣の爪による傷のような刺青をほどこした、いかつい顔つきと体つきの男だった。戦闘開始に際して、「ぶっ殺せ」だの「叩き潰せ」だのといった言葉を遣うタイプの人間だ。けっして臆病な男ではないはずだが、そんな彼でも八尋の名に対しては何かしら落ち着かないものを感じるようだった。
八尋の眷属とはすなわち、大戦時の英雄の一人である八尋一貴につらなる一族であり、土星圏のイアペトゥス王国においては最大の権門をなす。現在のイアペトゥスの実質的な最高権力者である太政大臣・八尋貴詮は、八尋家の当主である。そして「九重」は、「四辻」や「七曲」などと同様の、八尋家の分家の一つである。八尋およびその分家の名は、木星圏の政治や軍事の世界においてそれなりの立場にある人間には、ある種まがまがしいものとしてとらえられていた。
「貴官にそんなものを恐れるかわいげがあったのか」
皮肉にではなくあくまで隠やかに言ったのは、イサベリータ・メンディサバル准将だった。アニマルトラックの艦長を務める、微笑が表情に張りついたような女である。仮面のような微笑のおかげで、本当の感情をうかがい知ることは困難をきわめる。
「恐れてるわけじゃない。気味が悪いってだけだ」
クインが不本意そうに言う。
それは木星圏の人々にとってはある程度共有されている観念だった。
同じ土星圏の出身である大戦期の英雄でも、中立的な評価を受けているマリーヤ・アントノヴァと違い、八尋一貴のそれは悪名に近い。それは現在も、土星圏の政治に影響力を有しているからである。何十年も前の英雄の血縁者が貴族として一大勢力をなしていて、私企業であるならともかく、今なお政治権力を握っているというのが、なかなか理解しがたく不気味に感じられるのだった。
その感覚はルメルシェとて共有しているものだったが、発言したのは別のことだった。
「その敵戦力の見積もりは、たしかなものですか」
司令部の分析能力に疑問をいだいているわけではないが、話題を現実に引き戻すために愚劣に近い問いを放った。
ブローデルの方でもルメルシェの意図を察したようで、ただ頷きで返した。それはたんに頭を縦に振るという動作を表すものではなく、肯定の意として全員の精神に瞬時に伝播した。
「しかし明らかに飽和艦数を超えてる気がしますがね、司令」
セルフォーティフォー艦長ヤン・ダイクストラ准将が、なぜか非常用糧食をかじりながら発言した。その様子を気配だけで感じながら、ルメルシェは少しばかり陰鬱な気分になった。自艦の機関長のことを思いだし、そしてこの戦隊にはこんな連中ばかりなのか、と思ったからだった。
「当然の疑問だが、そうとしか解釈できない」ブローデルは言った。「試みに問うが、ダイクストラ准将、貴官が相対した敵指揮官の名は?」
「ジーナット・ダントワラ少将」ダイクストラは上官の問いに糧食を食べこぼしながら答える。「女でした」
ダイクストラの返答は列席する者たちに驚きを与えたようだった。
「性別はこの際いい。……階級は少将。つまり戦隊司令。正確には、第六艦隊第七戦隊の司令だ。――メンディサバル准将は?」
先のダイクストラの発言によってわずかに動揺を与えられていたメンディサバルは、笑顔はそのままに、しかしいくぶんためらいがちに答えた。
「庫翡潤少将。性別は……必要ありませんか。男前であれば僥倖というものですが。肖像は、あえて見ていません。もちろん、美女であってもそれなりに僥倖です」
ブローデルはメンディサバルの軽口は無視して、ルメルシェの方に意識を向けた。
「ルメルシェ准将」
冗談のたぐいを口にする必要性を認めていないルメルシェは、事実のみを簡潔に述べた。
「マルーシャ・トカチェンコ少将。第六艦隊第五戦隊司令です」
「そういうことだ。もうこれ以上問う必要はあるまい」
ブローデルは全員を見わたした。
場にいる全員はすでに、ブローデルが何を言わんとしているのかを理解していた。
「貴官らはすべて、少将――つまり戦隊司令級、旗艦艦長級と戦闘を行っていた。そして貴官らの現在の敵手の所属はすべて土星軍第六艦隊だ。少将や旗艦のみで構成された戦隊が存在すると考えるより、複数の戦隊を相手としている――一個艦隊を相手としていると考えた方が妥当だろう」
「しかし、敵はどうしてそんなことを? 明らかに非効率ってものです」
この戦隊に二名いる女性艦長のうちの一人である、キャリーアン艦長アンジェリーカ・ボルトラーミ准将が、冷静にというよりぶっきらぼうに発言した。その表情はほとんど眠そうですらあり、今この瞬間も操艦を行い戦闘を継続しているという事実をまるでうかがわせない。
「単位容積あたりの飽和艦数」を超える数を用意したところで、結局はノウアスフィアが、すなわち索敵範囲が重なるだけのことであり、端的に無駄である。戦闘に重要なのは索敵範囲であり、たとえば火力の量などは二義的なものにすぎない。弾幕の濃密さは敵を追いつめるための重要な要因ではあるが、それも敵艦を破壊するためのものではない。
「譬えるなら、シャワーヘッドから噴出する水程度のものです。数十万キロの距離を隔てた戦闘における弾幕なんて。多少数を用意してたといっても、宇宙空間に弾体をばらまくのに、一〇発も一〇〇発もさして変わりはしません。しょせんは網なんですから」
ボルトラーミの言うとおり、弾幕は、武器というよりは網である。だから、多数の戦力を用意し火力を集中する、といった考え方はこの時代には基本的には成立しない。
「まあ、敵も変なことをしてくるもんだが、俺たちとしちゃこれまでどおりに戦うだけだろう?」いかにも「猛将」らしい調子で、クイン准将が言った。「相手がどれだけいようが、飽和艦数は変わりはしない。なら、損をするのは向こうだ。こっちとしてはむしろ、敵を一度にぶっ潰すチャンスってものだ。そうじゃないか、司令?」
ルメルシェは一瞬ブローデルの様子を確認し、自分と同じ危惧をいだいているであろうことを見て取ってから発言した。
「それがたんに効率の問題であったなら、そうだろう」
「どういうことだ、天才?」
クインが用いた「天才」という呼称はルメルシェに対するものだが、それをルメルシェは気に入っていなかった。今回のように皮肉めいたものであるならばもちろん、そうではなく単純に賞賛の意味あいであっても同じだった。しかしその不満を口にすることはしなかった。
「敵は抑止という考えを無視しようとしているのかもしれない、ということだ」
「抑止?」
ダイクストラは、怪訝そうな顔をした。
説明は、ブローデルが行った。
「われわれは効率という言葉を口にする。火力を集中すれば、わずかに攻撃力は上がる。艦数が増えればノウアスフィアの展開主体が増え、敵のノウアスフィアによる索敵・通信能力をわずかに掣肘することができる。しかし、結局それらはわずかなメリットにすぎない。だから効率の名のもとにわれわれは――敵も――戦力の大量投入という試みを行ってこなかった。多くの航宙艦を同時に運用するのにかかるコスト。被害を受けたときのデメリット。それらを考えたならば、合理的な判断だといわざるをえない」
「だから敵は不合理ってことなんじゃ?」
ボルトラーミが問う。
「敵がたんに不合理ならばそれでいい。問題は、そうでなかった場合だ。戦場での勝利を至上とするならば、わずかでも戦闘を有利に進めるのに益する要素は、何であれ採用するだろう。もちろんデメリットは計り知れない。それをやると、泥沼に陥る。戦場に投入される戦力も戦闘による犠牲も、幾何級数的に増加することになる。だから通常は効率の名のもとにそんな行いは愚行として退ける。しかし効率というのは、最終的には何を目的とするかで決定される曖昧な概念にすぎない。――われわれは言う。『人命は大切だ』。土星主義者たちは言う。『生命は大切だ』。その含意は微妙に異なるが、しかしその利害関係の一致のもとに、抑止は成り立ってきた。敵が大戦力を投入したら、こちらもそうせざるをえない。結果として、双方に甚大な損害がもたらされる。だから、たがいに自制してきた。飽和艦数だとか効率だとかいうのは、あくまでそのための方便――高級な言い方をすれば、戦略的概念だ。しかし、敵が人命を軽視するという選択をしたならば、話は別だ」
「敵はその方便を放棄しようとしているってことですか?」問うたのはメンディサバルだ。「ようするに抑止ってやつを」
「その可能性がある。敵が愚劣である可能性を除外するならば、恩寵会議か、最低でも土星軍の最高統理部における決定がかかわっている。それほど重大な戦略上の転換だ。すくなくとも、一介の現場の軍人の判断でなしうることではない」
「するとどうなるわけです? 戦場でたくさんのロマンティックな逢瀬がある――ってわけじゃないですよね」
「大戦中に逆戻りだ」ブローデルは険しい口調で言った。「第一次前方トロヤ会戦に端を発する無秩序な流血。あの悲惨な状態に」
「流血、ね」メンディサバルは肩をすくめた。「そんな耽美な出逢いは好みじゃありませんね」
「司令、大事なのはそんなことじゃないでしょう?」
それまでいささか退屈した様子で指揮官の話を聞いていたクインが、刺青を指先でなぞりながら言った。
「もちろんだ」ブローデルは頷いた。「現状、われわれにとって重要なのは戦略ではない。今この戦場において勝利すること、そして生き残ることだ。ただ、敵はこの世界の戦略的転換を図るほどに本気だ――それを銘記すべきだということだ。あとのことは、戦いが終わってから考えればいい」
それからブローデルは、具体的な指示に入った。
とはいえ、ほぼ想定されていない戦況であるから、彼にできることは少ない。そもそも通常の戦闘においても、指揮官のなすべき仕事は限られている。戦闘が始まってある程度の時間が経ってしまえば、通信もままならない状態になる。各艦が個別に判断するしかなくなる。戦隊司令が、場合によっては艦隊司令官が艦長を兼ねていることが多いのも、戦闘時に指揮官にできることが少ないためである。
だからブローデルが行ったのも、最終的には精神的な訓示にすぎなかった。
「われわれは、敵の用意した新しい世界のとば口に立っているのかもしれない。だが、現況を設定したのは残念ながらこちらではないのだとしても、勝機はつねに存在する。戦場を見つめつづけろ――」
指揮官のメッセージが艦長たちに完全に伝わりきる前に、会議空間は雲散霧消した。
敵の本格的な反撃が始まり、意識接触通信が途絶したのだった。
会議空間が展開されていたのは、実時間では四秒ほどだった。
4
――一介の現場の軍人の判断でなしうることではない。
木星軍の指揮官がそのように述べたことを、その敵手たる九重有嗣が知っていたわけではもちろんなかったが、「一介の軍人」である土星軍第六艦隊司令官の彼にとって、そのようなことは考慮にあたいするものではなかった。彼は、その容貌が与える印象に似つかわしい、黒い想念を裡にいだいていた。
そもそも彼は、軍人の本分であるとか節度であるとかいう発想そのものを忌み嫌っていた。彼にとって一介の軍人であるということは一個の武人であることをしか意味しておらず、節度や制限といった観念の含意はなかった。
軍人という存在に対する彼の規定において最重要であるのは世界に武威を轟かせることであり、人が軍人であることによって得られる至高の経験とは戦闘のなかに身を置くことそのものだった。そういった価値観のなかでは、社会的な仮構たる抑止も文民統制もさして重要なものではなかった。
彼とて、軍事や安全保障や国際法についてまったく無知であるわけではない。しかしそれはあくまで超克すべき対象であった。敵を打倒するために敵についての情報を収集しているにすぎない。
――いつまでグロティウスやクラウゼヴィッツにすがりついているつもりだ。
戦隊という単位で展開されている敵艦群を感じながら、有嗣は唾棄した。
戦争とは政治の継続であるなどという物言いは、政治技術としては有効であろう。しかし、人の世の真理を衝いたものではない。そんなものは、有嗣は破壊しつくしてやるつもりだった。しかもそれは、新しい秩序の創造のための一時的な破壊などではない。あくまで、自己の欲求を満たすための無法なのだった。彼の後に新しい道はできるかもしれないが、それは目的ではなく結果にすぎず、道を造るために最前線を走るつもりは毛頭なかった。彼は世界において彼自身でありつづけるために戦う。ただそれだけのことだった。
きっとそれは、世界にとってさほど不幸なことではない。逆説的ではあるが、人がただ戦いを戦える時代こそが豊かで平穏な時代なのである。彼はそう信じていた。
そのことを、これから展開されるであろう歴史において、敵味方の双方に教えてやるつもりだった。時間はかかるだろうが、最後まで戦場に立っていられたならそれは可能だろう。
艦隊旗艦烏羽玉の司令室指揮席にある彼は、意識を左後背に向けた。そこには、彼の司令部の参謀次長であり実の弟である九重有視特任准将が、個人的な欲望を抱くことを自己に対して禁じているような、きわめて自制的なたたずまいで侍立しているはずだ。最後まで戦場に立っているために――生き残るために、彼は弟を呼び寄せたのだった。
弟の反対側には参謀長たるデリャーギン少将がいるはずだが、職業的な冷徹さを完璧に身にまとっている骨ばった長身のその男には、有嗣は何も期待していなかった。能力の問題ではなく、歩みをともにする相手ではないと判断していたのだ。ようするに、信用するに足りないということだった。それにはレアの出身者であるという偏見も手伝っていたかもしれないが、不用意に人を信用して裏切られるよりは、偏見による機会損失の方がましだった。デリャーギンの方でも、参謀としての職務に積極的に取り組もうという気はあまりないようだ。怠惰なのか、背後にいる者の意向なのか、有嗣の性格を知ってのことかはわからないが。
……九重有嗣中将率いる土星軍太陽系艦隊第六艦隊は、新型艦の試験航宙を兼ねて、艦隊規模で巡回任務に出た。通常とは異なり艦隊規模であったため、敵との遭遇確率が比較的低い宙域を航路に選んだ。しかし運悪く、たまたま木星軍の一個戦隊と出くわし、そのまま戦闘へと突入した。
この戦いは、形式的にはそれだけの、偶発的なものである。形式的には。
実際のところは、有嗣の企図したとおりである。敵と遭遇できるかどうかは賭けだったが、運良く果たすことができた。
有嗣は、太陽系宇宙における戦争のあり方を変えたかった。
戦略的要衝であるラグランジュ点を奪いあうという名目のもと、戦隊と戦隊とが卑小な戦いを行い、どちらかが勝ち、どちらかが敗れる。そこでは大きな損害は発生せず、そして全体としてみても、土星と木星、いずれの勢力の優勢に傾くこともない。予定調和的な一進一退が、えんえんと続く。
そんな世界を、変えたかったのだ。そのために、偶発的な出来事を装って、この状況を現出せしめた。
敵と遭遇したなら、戦わざるをえない。一度戦闘を行ってしまえばそれは前例となり、以後はその前例に縛られる。
暗黙の約束事は、一度破られてしまえば、もう元どおりにはならない。敵が大兵力でもって暗闇に潜んでいるとなれば、相対する側も大兵力を動員せざるをえない。そうして世界は予定調和から解き放たれ、戦いへの意志と意志とが真にぶつかりあう、掛け値なしの戦場と化す。
あくまで、偶発事である。
直接に世界を変える権限は、まだ有嗣にはない。
政治的にはイアペトゥスの一子爵であり、無役の貴族院議員にすぎない。軍事的にも、一六個艦隊からなる太陽系艦隊の一つを率いる中将であるにすぎない。直接に世界を変えるには、最高統理部に動議を行える太陽系艦隊の方面軍司令官級になるか、イアペトゥスの太政大臣ひいては恩寵会議に影響力を及ぼせる程度の政治的地位を得るかだが、いずれにせよ遠い道だ。であるから、現在の有嗣としては、偶発事を装う以外になかった。
これから始まる本格的な戦闘を前にして、有嗣の険のある容貌はわずかに熱を帯びていた。しかしそれは肌を赤く染めるのではなく、青黒い輝きで全身を薄く包むように他人に感じさせるのだった。もちろん錯覚だったが、闘争本能に支配された彼の発する雰囲気には、そのように感覚を誤認させるような何かがあった。それはあるいは、歴史に選ばれたものの特権であるかもしれなかった。
有嗣は昏い炎が精神の奥底で燃えているのを感じ、笑みとは形容しがたいかたちに口元を歪めた。しかし確実に、彼にとってはそれは笑みであった。
「流血を恐れて戦争ができるものか」
有嗣はつぶやいた。背後の二人の参謀がそれぞれなりの思いとやり方とで懸念をいだいたことだろうが、顧みることはしなかった。
世界に、みずからの爪痕を刻みこむ。
この戦いはそのためのささやかな前哨戦にすぎない。
しかし戦いそのものはつねに精神の昂ぶりを呼ぶものであり、捕食の悦びにも似た、この世界で最も原始的で純粋な歓喜にほかならなかった。
有嗣は各戦隊旗艦とのあいだに通信路を開いた。
ゲレリーン・アラブタン、ナルシン・パーラ、庫翡潤、マルーシャ・トカチェンコ、レオン・ネジダノフ、ジーナット・ダントワラ。
この状況にいたって、仮想の空間に揃った戦隊司令たちを前にして言うべきことは、彼にとってたった一つでしかありえなかった。
彼はさして気負うことなく、当然のことを告げる口調で、しかしながら他人にとっては凶悍さを感じさせる不吉な調子で言った。
「――喰らいつくせ」