星海大戦
第一部 第二章 グリーンホーンたち
元長柾木 Illustration/moz
元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。
第二章 グリーンホーンたち
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日常的にはただ木星または連合とのみ称される主権ガリレオ連合は、木星の衛星上に存在する五〇を超える民主制国家によって構成される国家連合である。
苛酷な環境下にあって遺伝子レベルの身体改変をさほどの抵抗なく受け入れた土星圏以遠の人々と違い、比較的地球に近い距離にあった木星圏では地球時代の延長上にある保守的な価値観が保持された。
それは生命倫理だけではなく政治思想の面でも同様で、自由、平等、民主主義といった地球上の旧先進国がもっていた伝統的な諸観念を、木星圏はそのまま受け継いだ。大戦末期に《敵》の仮借ない攻撃に晒された地球や火星からの大量の難民を受け入れたことで、その傾向は加速された。さらにバルニバービ協定によって故地たる地球の支配権を人類が失って以降は、倫理的に鈍感で前近代的な階級社会をもつ土星圏に対して、木星圏は西欧近代の正統後継者を自任するにいたった。
正式名称に含まれるガリレオとは、西暦の一六世紀から一七世紀に生き、木星の四大衛星であるイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストを発見した自然科学者の名である。そのため往古においてはこの四つの衛星を指してガリレオ衛星と称していたのだが、いつしか木星の衛星は、直径一キロに満たない微小衛星から四大衛星にいたるまで、すべてガリレオと呼ばれるようになった。さらにまた、ガリレオという名詞は木星の衛星という物理的な概念にとどまるものではなく、近代合理主義を奉じる精神の象徴でもあった。つまり主権ガリレオ連合という名称には、近代合理主義精神を把持する人々によって形成される、それぞれに主権をもった木星圏の大小の国家の連合体、という含意があるのである。
そして木星軍は、文字どおり木星の軍隊である。人員数三八〇万を誇る太陽系内最大の実力組織であり、その規模は仇敵たる土星軍の三一五万を二割ほど上回る。
木星は土星より内側の軌道を公転しているため、防衛のためカバーすべき宙域容積も必然的に土星に比して小さく、逆に単位容積あたりに配備できる戦力は大きくなる。だから単純な定量的比較においては、絶対数のうえでも密度のうえでも、木星軍の戦力は土星軍のそれを上回る。
その一方で木星軍には、とくに土星軍と較べたときに一つの問題点がある。それは練度や技術力といった純軍事的な事柄ではなく、制度面におけるものだった。
木星軍は、最高司令部たる幕僚本部を除いては単一の軍として統合されておらず、あくまで各国軍が母国に所属したまま共同で行動する連合軍である。各国所属の個々の艦隊は、名目上「命令」ではなく「要請」によって動く。
実際には幕僚本部での作戦立案やそれ以前の折衝において各国の意思は調整されているため、実動部隊に下りてきた要請が拒絶されることはまずない。とはいえ、日常的な巡回任務においてさえ煩瑣な書類的手続きが存在しており、即応性に欠けるきらいがあった。
そういった問題を解消するため、各国軍が幕僚本部に指揮権を委譲し統一行動をとれるような組織改革の提議がなされることも一再ならずあった。しかしそれは、議論が紛糾したあげくに結局は立ち消えになるのがつねだった。各国の主権を重んじるという、大戦の反省にもとづいて制定された木星憲章の精神を否定するものだというのがその理由である。
それはたんに連合成立の理念だけではなく、政治的な問題でもあった。タイタン一国が全体の富の八割近くを占めている土星と違い、木星では四大衛星の国力が拮抗しているため高度に意思を統一することが困難だったのである。
木星近傍の宇宙空間を、後背からわずかな太陽光を浴びて航行する航宙艦ヴィレッジグリーンは、木星の四大国の一つカリスト共同体の防衛軍第三艦隊――カリスト第三艦隊に所属する。同艦隊は、木星軍の指揮系統のなかでは、木星近傍宙域を担当するガリレオ方面軍の一翼を担う。
ヴィレッジグリーンは、数時間前にガリレオ方面軍司令部のある衛星パシファエを発し、巡回任務の途に就いたばかりだった。現在パシファエから一五〇〇万キロ、木星からは四五〇〇万キロほど離れた場所を航行している。この数字は太陽系というスケールでは大きなものではない。たとえば木星から太陽までは現在およそ七億五〇〇〇万キロ、隣国といえる土星まででも太陽とは反対側に七億三〇〇〇万キロの距離があり、土星の向こうの天王星までは二五億五〇〇〇万キロを隔てている。そしてこれは、人類の版図の一部でしかない。有人探査を行った範囲を人類の版図とするならば、それは大まかにいって太陽を中心とした半径七〇〇億キロに及ぶ巨大な円盤を形成しているのだ。
ヴィレッジグリーンが航行しているのは、重力や磁気の影響といった観点からは木星近傍といえる宙域である。このあたりではまだ光学的な監視とそれにもとづく即応的な艦機動が可能であり、安全性がほぼ確保されているといえる。レーダーが実質的に無効となる宇宙の暗闇の手前なのであり、航宙艦にとっては自宅の庭と変わらなかった。
そんな木星近傍であっても、母惑星である木星より太陽から届く光の方がはるかに強い。系内最大の惑星であってもそれほどに頼りない存在なのであり、さらに母衛星たるカリストにいたってはすでに無数にある光点の一つにすぎない。そして最も強い光源である太陽の支配権を、人類が失ってすでに久しい。
太陽系宇宙とは、さほどによるべのない世界なのである。
もっとも航宙艦勤務を事とするグリーンホーンにとって、絶対的な広大さをもつ虚空のなかに身を置くことなど、孤独を感じるに足るものではなかった。基本的にグリーンホーンというのは、神経が粗雑にできているのである。
もうすぐ黄褐色の母惑星周辺の安全な宙域を離れ、全方位から攻撃を受ける可能性のある危険な暗闇のなかへ進入することになるが、ヴィレッジグリーン乗員に緊張感はほとんどなかった。それは彼らがグリーンホーンであるという理由のみによるのではない。この艦は艦長以下多くの高級士官がとくに若年であることで知られている。若さは危機に対する鈍感さを生むのだった。
機関長クラウディオ・チェルヴォ大佐もまた、若く、危機に鈍感であった。
彼は人類暦二四七七年、木星の衛星カリストに生まれた。
カリスト共同体は主権ガリレオ連合の主要加盟国の一つであるが、カリスト共同体自体もまた連邦国家である。およそ一七億の人口をもつカリスト共同体は、二四の自治州によって構成されている。自治州の起源は植民初期に形成されたコロニーの管理組合であり、自治州は人種や言語にもとづくアイデンティティではなく主に自然の地形によって規定されている。木星圏の大衛星は、どこも似たような成立過程を経た連邦国家である。
クラウディオが生まれ育った都市ヒューゴ・ビルイェルは、とりたてて特徴のない地方都市だった。カリスト共同体にとってはもちろん、自治州のなかでも重要な都市ではない。人口四〇万ほどの中規模都市で、政治的あるいは軍事的に重要な施設があるわけでもなかった。
切りたった崖に抱かれるように建設された都市であり、初期入植者の趣味を反映した、幾何学的な様式美をもつルネサンス建築によって街並みが形作られている。街の中心部にある広場から見上げれば、三つの大衛星を従えた木星を、崖のすぐ上に目にすることができる。木星はつねに空の同じ場所にあり、その周囲を、イオ、エウロパ、ガニメデの三衛星が一対二対四という整数比の周期でもって公転している。
そのような幾何学に支配された、奇矯な美意識に根ざした借景がこの都市の外観上の最大の特徴であるといえ、実際に市政府の観光部局もその点を喧伝していた。
「幾何なる美の街へようこそ!」
そんな掲示が市庁舎の外壁になされていたこともある。
とはいえ、公転と自転が同期しているカリストでは、木星系など半分の地域でつねに同じ場所に見ることができるわけで、特別に珍しい風景ではなかった。ようするに観光客を呼べるほどの景観ではなく、どうということのない街といってさしつかえなかった。
その街で、クラウディオ・チェルヴォは生まれ育った。
観光都市としてアピールしたい市政府の思惑とは裏腹にヒューゴ・ビルイェルは、木星圏に数多くある工廠都市の一つにすぎなかった。主たる産業は、航宙艦の主武装であるスラローム砲が使用する各種弾体の製造だった。
通り一遍の美景とありきたりの産業によってすべての説明がついてしまう程度の、さして刺激のない街ではあったが、幼少期のクラウディオはとくに退屈を感じなかった。むしろそこには彼を――ことによると彼のみを満足させる刺激が存在していた。
それが、緩衝体の幼体である。
……かつて人類がはじめて地球の重力圏から脱し無窮なる宇宙空間のただ中に身を置いたとき、得体のしれない、吸いこまれるような力の存在を周囲から感じた。経験したことのないスケールで広がる宇宙は、魅力とも魔力ともつかない引力で人の精神を吸い寄せ、心を奪った。自己認識が薄らぎ、精神が宇宙に溶けだすように感じた者もいた。それはある者にとっては至福の神秘体験であり、別の者にとっては自己の喪失を感じさせる恐るべき悪夢だった。また無重力状態は平衡感覚を混乱させ、眩暈や嘔吐といった症状を引き起こした。
それは、地球上の遠近感や重力に適応して進化した生物である人類が、それまでとはあまりに異なった環境に身を置いたことによる、認知や感覚の異常だった。遺伝子レベルで身体改変が行われたこの時代の人々が、そのような単純な宇宙酔いにとらわれることはあまりない。
しかしノウアスフィアは、かつての人類が感じたのと似たような――いや、それを超える至福と悪夢を経験させたのだった。それも主に、悪夢の方を。
かつての宇宙酔いが一過性のものであり一週間ほどもすればほぼ感覚は正常に復していたのに対し、ノウアスフィアは恒常的でほぼ不可逆な影響を人の精神に与えた。
ノウアスフィアへの曝露によって自他の境界を喪失した人は、世界のあらゆるものに自己を感じ、また自己に世界のあらゆるものが流れこんでくるように感じる。そしてそういった混沌状態からなけなしの自己を防衛するために、精神活動そのものを最小化する。それは自閉ではなく、自己の抹消だった。周りからの働きかけに応じず、感情を動かすこともなくなり、自己そのものも否定するにいたる。無感情で意思疎通困難な、ただ生命活動を維持しているのみの存在となるのだ。現在でも、大戦期にノウアスフィアへの曝露によって精神に障害を負った人々が、精神病棟で無感動に中空を見つめている。そんな長期入院者の数は、太陽系全体で数十万といわれている。
そういったノウアスフィアの暴威に耐えうる人材がグリーンホーンなのだが、航宙艦の艦長を務めるには、もう一つある資質が必須である。艦長たる者には、航宙艦のノウアスフィア機関と神経接続し、艦の周囲に展開されたノウアスフィアに意識浸潤を行う能力が求められるのである。
これは、通常のレーダーが用をなさなくなった時代にあっては欠かせない能力である。
電磁波を用いる通常のレーダーは、この時代、副次的な役割しか果たさない。電磁波は当然光速の壁を越えることができないため、航宙艦の速度が増した時代にあっては、タイムラグが大きすぎて役に立たないのである。
航宙艦の戦闘時における通常の最高速度は、光速の五パーセントほどである。遭遇戦での平均的な交戦距離は約五〇万キロだが、この距離を光が往復するのにかかる時間は三秒あまりであり、そのあいだに航宙艦は五万キロほども移動可能なのである。これでは、位置情報として役に立たない。三秒というのは、こと宇宙空間の戦闘のなかでは長すぎるといっていい時間なのだ。おまけにノウアスフィアによって慣性の法則が無効化されているため、敵の未来位置の予測も困難である。
そのタイムラグを克服するための方法が、意識浸潤による索敵である。グリーンホーンの意識浸潤による探知には、光速の壁はない。個人の資質や、同じ人間でもそのときの精神状態によって性能に差はあるが、探知さえできれば、その情報が艦に戻ってくるのに要する時間はゼロである。つまり、索敵範囲に入っていたならば、リアルタイムで敵の動きを察知することができる。
ただし、この意識浸潤にも危険がある。何らの準備もなしに意識浸潤を行うと、やはり通常人がノウアスフィアに曝露されたときと同様の精神荒廃を招くのである。
それを防ぐための存在が、ノウアスフィア機関と操艦者たる艦長の間を取り持つAIである緩衝体である。緩衝体に与えられた第一の務めは、文字どおり緩衝として、ノウアスフィアの凶暴性に直接操艦者の精神が触れることの危険を軽減することである。
しかしAIであってさえも、ノウアスフィアには容易に耐えることができない。ノウアスフィアは人工物の精神をも蝕むのである。そのため緩衝体の方でも操艦者の精神に依存し、結果、操艦者と不即不離の関係をもつにいたる。いわば、操艦者と緩衝体が共依存のようなかたちで、ノウアスフィアの暴虐に耐えるのである。
そのように操艦者との関係を維持することができるよう、単純な機能性を超えた精神性、個性のようなものが、緩衝体には賦与されるのである。
ヒューゴ・ビルイェルには、まだ幼い状態の緩衝体すなわち幼体に個性を与え、航宙艦に組み込むことができる状態にまで扶育する施設があった。
危機に鈍感なクラウディオは、幼少期から無謀だった。
幼いクラウディオが好んだ遊びの一つが、独立回線をもつ扶育施設の神経ネットにどのようにしてか侵入し、仮想的な空間において緩衝体の幼体と戯れることだった。
構図としては毒虫や小型肉食獣をつついては逃げるといった子供の遊びと同種のものではあったが、しかしそれは遊びというには危険すぎた。不法な侵入であったし、緩衝体と接触すること自体が危険なのだった。
操艦者の精神を保護するための緩衝体であるが、それはけっして安全な従者や友人ではない。
緩衝体の性格は、荒々しいノウアスフィアに耐えるという役割上、獰猛そのものである。操艦者にとって緩衝体は、伴走者というより、宿主を食い殺しかねない寄生者に譬えられる。ふだんは暴風を防ぐ盾となるが、ひとたび主人が信頼するに足りないと判断するや、反転して操艦者自身の精神を攻撃する。
だからそもそも信頼するにあたいしない相手とは契約を結ばないし、そんな者が契約を結ぼうとしたら緩衝体は即座に攻撃を開始する。そんな事態に備えて、軍において契約を試みる場合には、いくつもの安全上の措置を講じてから臨む。
それでも、契約の失敗による事故は、まれに発生している。
そうした事故の被害者は、精神に大きな打撃を受ける。その症状には、感情の鈍麻や自意識の消失といった、通常人のノウアスフィアへの曝露の際に典型的にみられるものに加えて、口笛を吹いたり、詞の不明瞭な歌を歌ったり、動物の鳴き声に声を重ねて和音としたりといった音楽的な行動があり、自鳴琴症候群と呼ばれることがある。その音楽はしばしば聴く者に感銘を与える高い水準のものだったが、そうしているときの彼らには、みずからがしていることの認識はなかった。自鳴琴のごとく、機械的に音楽を発するのである。
そういった危険性があるため、グリーンホーンのなかでも緩衝体と契約を交わすことのできる人間は少ない。そのことが、将官と佐官、艦長とそれ以下を隔てる大きな壁となっている。
にもかかわらずクラウディオは、ほとんど徒手空拳で緩衝体と接触していたのである。まだ幼体であり、また契約ほど濃密にコミュニケートするわけではないとはいえ、命がけの行為であった。
無知ゆえの所業だったが、確実に危険を楽しんでもいた。しかもそれを人知れず楽しむのではなく、クラスの男の子たちに誇らしげに語った。
なぜそんな危険で意味のないことをするのかと女の子に問われると、クラウディオは端的に答えた。
「他の奴にはできないから」
それは当然両親なり教師なりの知るところとなり、そのたびごとにひどく叱られる羽目になった。ただし、彼ら以上の範囲に伝わることはなかった。躾のあり方なり指導責任なりが問われることになるためである。だからクラウディオはその危険な遊びを何度もやり、そして何度も叱られた。
たとえば軍官僚であった母親は言うのだった。
「みっともない。息子がそんな犯罪者だなんて、お母さん戦争で亡くなった人たちにどう説明したらいいの」
あるいは、
「緩衝体は航宙艦の生命線なのよ。それを傷物にしようとするなんて、人文主義に対するテロよ。そんな利敵行為をしでかして恥ずかしくないの」
などというように。
それは世間体の問題であり正義の問題であった。危ないからやめろとは言われなかった。そのことを彼自身は気にしていなかったが、あるいは人格形成に何らかの影響を与えたかもしれない。
そのころからの知己であった、のちに同じ艦に勤務することになるモニカ・スカラブリーニは、武勇伝を誇るようなクラウディオの馬鹿げたふるまいを鼻で笑い、それから多少は心配した様子で言った。
「そんなくだらないことで死んだら笑えない」
「笑ったらいいさ」
「そのとき笑えるような関係になってたら笑ってあげる」
教師からは、つねに自己顕示欲が強いと評された。何でも自分の思いどおりにならなければ気が済まず、その際にも力ずくで意を通そうとし、時間をかけて合意形成をしようとしない、という評だった。
その論評は、クラウディオには受け入れがたいものだった。
「誰にもできないことに挑戦して、それができたら拍手喝采される。あたりまえのことだろ? そうあるべきだろ? どうしてそうなってないんだ。まるで理解できないな。絶対におかしい、ここは」
仏頂面でそういったことをクラウディオが述べると、モニカは冷たく言ったものだった。
「そもそもあんたが、理解されるよう努力しなさいよ」
それがまた、クラウディオにとっては不満なのだった。
中等学校を卒業すると、彼は就労先に軍を選んだ。
彼は自由や民主主義のために戦う闘士ではなかった。その点では、軍に入る他の多くの人々と同様だった。土星の階級制度や技術至上主義に対する多少の反感はあっても、熱烈に大義を信じているわけではなかった。軍人となることはすなわち土星の人々と武力でもって対決することを意味する。もちろん戦争状態なので戦うし、故郷への侵寇を許すようなことにでもなれば死にもの狂いになるかもしれないが、休戦協定以来そんな事態にはいたっていない。
中等学校の最終学年次に行われた検査によって、クラウディオはノウアスフィアへの耐性を認められた。それはすなわち、グリーンホーンとしての適性が確認されたことを意味する。ほぼ生得的なものであるその適性を認められることは、一五歳にして高収入と社会的地位を約束されることであり、端的にいって僥倖だった。人々がグリーンホーンとして航宙艦乗りとなるのは、若くして将来を約束される僥倖に欣喜雀躍してであった。
クラウディオもそうだった。
しかしそれだけでもなかった。最大の理由は、きわめて高い評価を受けたことだった。
「これまでに見たこともない数値だ」
「ぜひとも軍に入り航宙艦乗りになるべきだ」
身体的な検査の後の面接で係官に、そんなことを言われて、高評価に最初きょとんとし、次に喜び、そして有頂天になった。何より彼を喜ばせたのが、天才、という言葉だった。「天才的な資質」とか「何年に一度の天才」といった言葉が、彼を陶酔させた。
彼はそういった言葉をかけられるのが好きだった。これだ、と思った。これを待っていたのだ、と。この絶賛の声を。
だから彼は、軍に入った。
幼少期から、クラウディオは評価されることが少なかった。
彼の父親は元歴史学者の共同体議会議員で、母親は木星圏防衛部に勤務する高級官僚だった。そして二人とも、熱心な自由主義者であり熱烈な反土星主義者だった。人間の自由を信じ、それを奪いとろうとするものを憎む。そんな、木星圏の理念を結晶化したような思想をもった両親の一人息子として、彼は生まれ育った。
クラウディオの父親は、息子に対して語った。
「土星主義者たちの特徴の一つは、歴史をなかったことにしようとしていることだ。大戦のころの戦争犯罪から現在も続いている少数者への抑圧にいたるまで、あまたある人間の心の傷について、すべての者が記憶を捨て去って水に流してしまえば、何も後腐れはない、みんな幸せに生きていける――そんなふうに考えている。けれどもちろん、そんなものはただの無責任だ。一人一人の人間に人間として向きあわない傲慢だ」
「そんなこと、実際に可能なの?」
クラウディオは土星主義者の考えよりむしろその実現可能性の方に興味をもち、父親に尋ねた。
「不可能に決まっている。一時的に痛みを我慢すること、悲しみから目を背けることはできる。けれどそれを永遠に続けることなど、人が人であるかぎりできはしない。ただ、表面上、完全な忘却が実現しているように見せているだけだ」
「……表面上? どうやって?」
「土星圏には、市民に主権がない。人々の生活と政治とが完全に分離している、専制主義社会だ。市民の意思は、為政者には届かない。抑圧されている者の声は当然、聞こえてこない。けれど土星圏の権力者たちは、自分たちは大衆に十分な富を与えていると自分勝手に主張している。そうやって彼らは、傷つけられた者の感情をつねに踏みにじっている。そして踏みにじられた者は、ますます声を上げることができなくなっていくんだ」
「…………」
「だからわれわれは、戦わなくてはならない。戦争をするだけが戦いじゃない。踏みにじられた人たちの代弁者になることはできないかもしれないが、それでも耳を傾け、記憶しつづけることはできる。あなたの声を聞く人はここにいる、と発信しつづけることはできる。そのためには、もちろん完全ではないけれど、この自由な社会を維持しつづけなければならないんだ。もちろん、あくまで土星主義者とは違うやり方で。つまり、ゆっくりと合意形成をして」
合意形成、という言葉はあまり好きではなかったが、父親の話に対してクラウディオはとくに異論めいたものはなかった。基本的には正しいことを話していると感じた。
「だけど、理解できないな」
「何が?」
父親は穏やかに訊いた。
「何が――というんじゃない。何かの考えをもつということ自体に、実感がもてないんだ。正しいことを言ってるんだろうなってことは、だいたいわかる。だけどそれを、自分の問題としてとらえることができないんだ」
「まあ、それはおいおい考えていけばいいことだ」
父親は性急に理解を要求するようなことはしなかったが、しかし息子の次のような言葉を耳にしては失望するしかなかった。
「いや、わかるんだ。父さんや母さんみたいに、考えをもってる人間でも生きていけるような懐の深い社会っていうのが、悪いものじゃないって。だから、この社会が続けばいいってことは、理解できる。土星圏じゃ、たぶんそういうわけにはいかないだろうから」
クラウディオの発言は皮肉でも悪意でもなかったが、父親にとっては、考えることそのものを放棄する宣言のように感じられた。
そのように思想をもたず、さらに素行に問題のあるクラウディオは、不肖の子として扱われた。虐待を受けたわけでも強く抑圧されたわけでもなかったが、一人息子は両親を失望させるに足る存在だった。そして養育者の失望は、子の精神を縛る枷となりうるのだった。
義務教育修了後すぐに職に就いたのには、そういった家庭環境から逃れようとしたという側面もあった。ただ、その結果選んだ道が軍人であるのだから、完全に逃避できたともいえなかった。文官と武官という違いこそあれ母親と同じ組織に入ったわけだし、公職についたという点では両親のいずれとも同じなのだった。
軍に入ることを、両親は反対しなかった。両親に相談も報告もせずに故郷の街を出たのだから当然だった。
中等学校の卒業式が終了した後、友人たちとパーティで大騒ぎしてから、帰宅することなく、その足で自治州首都にある防衛軍支部に向かった。グリニッジ標準時で二四時を回っており、最終列車は出た後だった。ヒューゴ・ビルイェルは、二四時間客車が走っているような都会ではなかった。そのためクラウディオは、貨物列車に忍び込んだのだった。古典的な逃避行だ、とはクラウディオは思いいたらなかった。
出立は翌日でもまったく問題なかったのだが、故郷から逃れたいという思いのゆえかアルコールのためか、頭が回っておらず、待つという選択肢は存在していなかった。
列車は氷点下一一〇度の非温暖化地域を通過し、クラウディオは語義どおりの意味で死にかけた。実際、五〇〇年前の地球人なら凍死していただろう。それを免れたのは、カリスト人としては標準的な身体強化のたまものだった。非温暖化地域を抜けた後、身体の震えを抑えながらクラウディオは、レイモンド・ルーデスの気持ちがわかった、などと微光を放つ空を見上げながら思った。
そして両親の顔を思い浮かべて、呟いたのだった。
「あんたたちから逃げたんじゃない」乾燥と寒さでひりついた喉と唇は、はっきりとした輪郭を言葉に与えなかった。「無意識だったんだ」
ただ、両親の期待には応えられたのではないか、とは思った。軍にでも入って鍛えなおしてもらった方がいい、社会への貢献にもなるのだから一石二鳥だ――そんなことを、両親が親族と話しているのを、過去に耳にしたことがあったからだ。当否を確認する意欲はわかなかったが。
いずれにせよ、両親のことはすぐに彼の意識から消え去った。自分を評価してくれる人々が無数にいたからだ。航宙艦乗りという職業は、彼にとって天職だった。
彼は異例の、ほとんど前例のないほどの速度で昇進した。
各種検査にもとづく寛容階級は、最高の7。であるから最初から前途を嘱望されてはいたものの、それをも上回る昇進速度だった。
「誰も彼も、勝手に期待をかけて、勝手に失望しやがる。俺のことなんか無視して」
いわば賞賛の言葉に乗せられて軍に入ったクラウディオだったが、入隊当初はそんな疑念もいだいていた。思いこみの激しい期待ほど、傍迷惑なものはない。
しかしクラウディオは、周囲の勝手な期待をも上回る能力を発揮したのだった。模擬戦の成績も優秀だったし、機関士としてもスラローム砲の砲手としても抜群の実績を残した。情報分析や通信業務は得意ではなかったが、その種の役回りが割りあてられることは少なかった。
野心はなかった。ただみずからの才能を他人に見せつけられるのが嬉しかった。給与も上がったが、それもたいした問題ではなかった。
中佐に昇進したばかりのあるとき、クラウディオは航宙艦内でモニカ・スカラブリーニと再会した。三年ぶりの対面だったが、活力に満ちていてどこか保護者的な物言いをする彼女は、軍服を身にまとっていること以外は以前とほとんど変わっていなかった。軍人になっていることが、クラウディオにとってはいちばんの驚きだった。
そしてさらに彼を驚かせたのは、それが偶然の出会いではなかったことだった。モニカはクラウディオを追って軍に入ったのだった。
「誰にも言ってないのに。どうやってかぎつけたんだ」
クラウディオは言った。両親にも誰にも告げずに軍に入り、それからいっさい故郷の関係者とは連絡をとっていなかったのだ。あえて縁を切ったのではなく、軍務に夢中になっていて故郷のことなど忘れていたのだったが。
「失踪したあげくにものすごい有名人になっておいて、何を言うの」
モニカは答えた。そこではじめて、クラウディオは自分が故郷でどのような扱いを受けているのかを知ったのだった。
突然失踪したと、騒ぎになった。のちにカリスト軍の人事局から両親のもとに照会があって、軍に入ったことが明らかになった。そしてその後は、戦功を立てたり昇進したりするたびに地元のメディアで取り上げられるようになったのだった。大戦中から現在にいたるまで、戦争報道はつねにメディアにおける主要なコンテンツの一つだった。
「とくにあれが決定的だった」モニカは言った。「単砲十字砲火」
それは一六歳、中尉のときに砲戦士として迎えた初陣において彼がとった戦法で、砲手一人の砲撃によって敵艦に十字砲火を浴びせ撃沈するという、ほとんど物理的にありえないような離れ業だった。戦技研究課において研究が行われ原理は明らかになったものの、彼以外にその技術を会得できた者は現在にいたるまで存在しない。クラウディオとてほとんど本能的に行ったことで、他人に説明することも教授することもできなかった。
「天才現るってね」
モニカの口から天才の語が出たことには満足したが、故郷での名声には関心がなかった。面映ゆくも誇らしくもならなかった。彼にとってはすでに、そこは自分とは関わりあいのない世界となっていた。むしろなぜモニカが自分を追ってきたのかということの方が気になったが、その明確な回答は得られなかった。
モニカと再会してすぐに内部部局に勤務する母親から連絡があったが、事務的なやりとりしかしなかった。母親は、自由の防衛なり階級社会の打倒なりといった理想に燃える闘士像を期待していたようだったが、クラウディオがそういったものにいっさい関心を示さないことを知るとあからさまに落胆し、以後は幼少期以上に冷淡になった。しかしそれもどうでもよいことだった。
それよりもクラウディオにとって大きな問題となったのが、もう一人の「天才」の出現だった。
マクシミリアン・ルメルシェという名の人物だった。クラウディオと同年齢で、同じような速度で昇進を果たしていた。そして「天才」と称される人物であり、軍に身を置いていてその噂を聞いたことのない者はいないほどの存在だった。そういった点でクラウディオと似たような立場にあり、実際、二人を並べてどちらが優れているかを論じるような世間話は、カリスト軍の内部においては頻繁に行われているようだった。クラウディオにとってはあまり気分のいいことではなかった。
ある研修において、二人ははじめて顔を合わせた。当時、二人とも中佐だった。
この時代において珍しく眼鏡をかけた、やや神経質そうだが整った顔立ちをした長身の男と対面したクラウディオは、最初から良い印象をもたなかった。ルメルシェ中佐とやらがどのような才覚をもっているのかは知らないが、周囲からの評価を鼻にかけ、とりすまして冷静ぶっていて、実際以上に自分を大きく見せようとしていると感じた。
その人物評は多分に偏見どころか決めつけによって歪められたものだったが、クラウディオは正す気はなかった。天才の称号を冠するのは自分一人で十分だったからだ。自分以外の天才は擬似天才であってしかるべきだった。
そして相手の方でも、自分に対して良い印象を抱いていないように見えた。それを感じ取った瞬間、クラウディオは心のなかでほくそ笑み、戦意がみなぎるのを感じた。
一〇人ほどの若手佐官を選抜して行われたその研修で、クラウディオはルメルシェの資質をはじめて知った。
寛容階級は、クラウディオと同じく7。しかしクラウディオの能力が操艦や砲戦といった空間把握に基盤を置く分野に偏っていたのに対し、ルメルシェは万能だった。特定の分野に偏ることがなく、情報分析においても戦術においてもバランスのとれた能力を示した。かといって個々の領域において劣るのではなく、最高といえる水準で均衡していたのだった。
模擬戦のなかでは、操艦や砲戦においてクラウディオと同水準の能力を示した。単砲十字砲火のような超絶技巧を演じることはなかったが、そもそもそれはシミュレータがそんな異常な離れ業の再現に対応していなかったことによる。常識の範囲内の戦闘では、二人はほぼ互角だった。
ルメルシェと対抗するためにクラウディオが選んだのは、苦手を克服することではなく、得意分野にさらに磨きをかけることだった。彼は操艦や砲戦術の訓練に没頭した。それだけなら彼個人の選択であり問題はなかったのだが、救いがたいのは、相手の足を引っ張ろうとしたことだった。
ルメルシェの個人的な醜聞を入手しようと宿舎の私室に忍び込んだり、体技訓練の際に制服を隠したり、模擬戦での対戦中にシミュレータそのものに侵入してプログラムを書き換えようとしたりした。
一見冷静なルメルシェだったが、売られた喧嘩は徹底して買うタイプの人間だった。クラウディオの食事に大量の香辛料を入れたり、私室に侵入してベッドを水浸しにしたり、講義テキストを幕僚本部の高級教育課程のものと入れ替えたりした。
とほうもなく低次元の争いだったが、クラウディオにとっては負けられない戦いだった。
噂によると、その研修は新造艦の艦長の選考も兼ねているとのことだった。ブローデル少将という責任者が有名人であったこともその傍証とされた。二〇代後半のこの少将は、有能な指揮官として、さらに典雅なふるまいと貴族的な容姿を兼ね備えたアイドルとして、そして何より連合航宙艦隊司令長官就任間近だともいわれるグリンステッド大将の秘蔵っ子として知られる人物だった。そんな場において、自分より優れた人間の存在を認めるわけにはいかなかった。
はたして噂は真実だった。
研修の終了後しばらくして、マクシミリアン・ルメルシェは大佐を飛ばして准将に昇進し、新造艦ヴィレッジグリーンの艤装員長すなわち初代艦長の辞令を受けたのだった。
木星軍史上最年少の将官にして艦長の誕生だった。クラウディオは、その栄誉は自分のものだと信じきっていた。彼自身も大佐に昇進し同艦の機関長に就任することとなり、これとて破格の人事だったのだが、慰めにはならなかった。
実のところクラウディオではなくルメルシェが艦長に選ばれたのは、能力の問題というより人物評価によるところが大だった。人物評価であるならば、研修において喧嘩を売った立場であるクラウディオが不利であるのは当然といえた。そして譴責処分で済んだことが幸運であるのに、加えて昇進・昇格までするというのは奇跡的だった。しかしそんなことはクラウディオは知らなかったし、知ったとしても納得はできなかっただろう。
ともあれクラウディオにとって、それは軍に入って以来はじめての挫折といってよかった。
直後に両親の死という事件が起こったが、そういった状況下にあっては、クラウディオの精神に大きな影響を与えるものではなかった。
両親は自然死ではなかった。自宅を古典的なプラスティック爆薬で爆破されたのである。両親の遺体はほとんど原形をとどめず、アパートメントの隣接する部屋にも被害者が出た。
警察発表によると、父親の属する政党から分派した組織による犯行とされた。合法政党による漸進的な合意形成型政治に飽き足らない、対土星強硬派による犯行とのことだった。ただ物的証拠に乏しく犯行声明も出されていなかったため真相ははっきりせず、発表どおりのセクト抗争であるとか、土星の工作員の仕業であるとか、あるいは彼らの一人息子に戦場で殺された者の遺族による復讐であるとか、いくつかの説が出された。
クラウディオはとくに興味ももてなかったため、捜査の進展を横目で見ていたにすぎなかった。
「釈然としないな」
独り言のようにつぶやいたクラウディオに、モニカが応じた。
「そうね。……いったい誰が犯人なのかしら」
「そうじゃない」
「え?」
「敵ってのはどこにいるんだ? 内側なのか、外側なのか。そもそも、俺と両親は味方同士といえる関係だったのか?」
哀惜の念はさほどなかった。ただ、両親にとっては本望だったに違いないとは思った。自分の思想に殉じることができたのだから。
「本望だったんだろうと感じられるくらいには、あの二人に対する感情をもってたわけだ。まあ、悪いことじゃないんだろうな。俺にとっても、あの人たちにとっても」
それに対するモニカの返答はなかった。そしてそれきり、両親のことは頭から去った。彼はほとんど主義主張をもちあわせていなかったし、それどころではなかった。口には出さなかったが、彼は敗北感に打ちのめされていたのだ。
ただ幸いなことに、その時間は長いものではなかった。彼に敗北感をもたらした人物とそこから立ち直らせた人物は、同一人物だった。
艤装員長と機関長就任予定者として、艤装中のヴィレッジグリーンで二週間ぶりに対面したときにルメルシェ准将が発した言葉が、クラウディオを不活性状態から呼び戻したのだった。ルメルシェは一言、眼鏡の奥の切れ長の目に蔑みを宿して、卑しむように言ったのだった。
「間抜け」
その言葉がクラウディオの闘争心に火をつけ、危機に鈍感でつねに不可能に挑む精神をもった天才を蘇らせたのである。一時的に後塵を拝しているが、自分は必ず目の前の男を打倒する。そうみずからの魂に誓ったのである――その誓いは、終生彼の行動を律することとなる。
そしてクラウディオは今、仇敵たるルメルシェの指揮下、ヴィレッジグリーン機関長として木星近傍宙域にあるのだった。
2
モニカ・スカラブリーニ中尉は、機関制御を自動に切り替え機関司令室で居眠りしていたクラウディオの安眠を破った。寝ぼけ眼かつ仏頂面でクラウディオが用件を問うと、モニカは言った。
「会議だから第三会議室に来てって」
クラウディオは仏頂面をさらに歪め、目をこすりながらモニカに言った。
「そんな連絡、おまえをよこすようなことじゃないだろう」
それはそのとおりで、クラウディオにしては珍しくまっとうな意見だとモニカも思った。そもそも、彼女はクラウディオの副官でも何でもない。しかし首席幕僚バラージュ大佐の意向であったし、自分としても別に苦痛というわけでもなかった。軍組織においてはあるまじきことだったが、この艦ではそれが通用したのである。
クラウディオは全長五〇〇メートル弱の航宙艦の尾部近くから会議室のある中央部まで、微小重力のなかを漂うようにして移動した。クラウディオは個室のある区画の〇・四Gより、この微小重力の方が好きだった。広い空間に身を置いている感覚があり、精神が解放されたように感じるのだった。
彼が到着したとき、第三会議室にはすでにヴィレッジグリーンの主だった面々が顔を揃えていた。
すなわち、艦長ルメルシェ准将、副艦長カトラー大佐、首席幕僚兼航宙長バラージュ大佐、次席幕僚ハツィダキス少佐、砲戦長カルタヘナ大佐、補給長マリノフスカ大佐、そして政治士官クリールマン人文准将といった人々をはじめとする、一五名ほどである。
幕僚と政治士官を除いて、皆若い。社会的な組織の首脳としてはもちろん、航宙艦司令部としても異例の若さである。さすがに一〇代であるのはルメルシェとクラウディオの二名だけだが、皆二〇歳そこそこからなかばである。
クラウディオが入室したとき、上座についていたルメルシェが不快そうな顔を見せた。最後にやって来たことが気に食わないのだろう。それはわかったが、クラウディオは意に介さなかった。主役は最後に登場するものだと固く信じていたからである。バラージュ大佐が二人を交互に見やって小さく息をついたが、クラウディオは気づかなかった。
会議といっても、参加者全員が直接に顔を合わせるわけではない。
クラウディオは席につくと、他の列席者と同じように戦術神経リンクに接続した。そうすると、眼による視覚とはまた異なった認識のなかに、いくつもの情景が現れた。それらはいずれもクラウディオが今いるのと同様の部屋の情景で、重なりあうように、しかしあくまで別々のものとして認識された。
現れた情景は、ヴィレッジグリーンの所属するカリスト第三艦隊第二戦隊隷下の各艦の会議室である。それぞれの部屋には各艦の首脳が集まっており、各室を戦術神経リンクで結んで仮想の会議空間を作りあげているのであった。空間の色調は、透明感のある青を基調にまとめられている。これは精神を鎮静させ円滑に会議を進行させるための環境設計だった。
いくつもの部屋の状況のパノラマが折り重なるなか、空間の一部分だけ何もない空白部分があった。
そこに、他とは少しだけ異なる、存在感のある映像が現れた。他と同じような会議室ではあるが、上座の壁面に戦隊旗が掲げられている点が、まず第一に目につく相違点だった。椅子や会議卓の造りも、凝った装飾をもっている。映像で見ただけではわからないが、材質からして他の部屋のものとは違っている。それは、戦隊旗艦レディジェーンの会議室だった。
その映像が現れると同時に、会議空間に接続しているすべての者が立ち上がり敬礼をした。そして旗艦の映像中央にいる人物の合図とともに着席する。
その人物は、肩まで届く檸檬色の髪をもった、柔和な印象の男だった。つねに穏やかな挙措と表情を崩さない人物で、二八歳という年齢よりも若く見える。一見したところでは人の上に立つタイプであるようにはあまり見えないが、彼はここに集合した人々のなかで最上位者だった。その証拠に彼がまとっているマントは、戦隊司令以上の指揮官にのみ着用が許されるものである。
カリスト第三艦隊第二戦隊の司令を務める、アマディス・ブローデル少将だった。
「――相変わらずの美形で」
クラウディオは呟いた。
ブローデル少将は、軍の内外双方で、女性のあいだでの人気が高かった。悪意のある人間が見たならば、外見の面でも立ち居ふるまいの面でも気障な印象の人物であったかもしれない。
その人物に対し、クラウディオはとくに反感を抱いてはいなかった。ルメルシェのように昇進や評価において競合しているわけではなかったし、異性に人気があるといったことにはあまり関心がなかったのである。ルメルシェに対抗意識をむきだしにする彼を知る人にとっては意外であるかもしれなかったが、彼は才能を評価されたいのであって、異性に好かれたいのではなかった。
だから先の呟きは、ただの感想であって、含むところのないものだった。そして誰にも聞こえないように言ったつもりだった。
しかしそれに、小さな咳払いによる反応があった。ヴィレッジグリーンの政治士官、ベネディクト・クリールマン人文准将だった。その人物は彼がまったく好感を抱いていない人物であったので、完全に無視した。職務上聴力がいいのだろうが、政治士官という職務の存在意義自体が彼にはよく理解のできないものだった。
会議は、内容としてはどうということのないものだった。
型どおりの訓示、そして事務的な連絡と確認事項である。すでに通信によって各艦の各部署にいきわたっていることであって、実際上はことさら幹部を集めて話さなければならないようなことではない。それでもこういったことが必要なのは、仮想にではあれ一つの場所に集合し口頭で伝えることが、軍隊という組織にあっては意思を統一し指揮系統を確認するのに効果的だからである。
ただ効果があるとはいえ形式的であるには違いなく、クラウディオは退屈な思いで聞き流していた。もともと理屈よりも感覚で職務をこなしている彼である。紋切り型の手続きなど、退屈以外の何ものでもなかった。退屈そうな横顔をひょっとしたらまたクリールマンなどが咎めだてするような目で見ているかもしれないが、知ったことではなかった。
会議は滞りなく進行し、そして終了した。会議空間は展開を解かれ、ヴィレッジグリーンにおいても会議室に集まっていた人々は解散した。
最後に神経接続を解除し、そして最後に席を立ったのは、クラウディオだった。いつのまにか居眠りしていたからだった。会議室を後にする際、ルメルシェが眼鏡の奥から冷たい一瞥だけをくれ、バラージュが弱ったようにため息をついたが、彼を起こす者は誰もなかった。
会議室を出てすぐのところで、クラウディオを待ち構えている人物がいた。
「チェルヴォ大佐」
非友好的な口調で声をかけてきたのは、政治士官クリールマン人文准将だった。
強い信念を体現したようなしっかりとした目鼻立ちをもった五〇がらみの男である。背はクラウディオより頭一つ半ほど低いが、体格はたくましく、若いクラウディオより格技能力はよほど高そうだった。
「何か?」
階級体系が違うとはいえいちおうは上位者であるクリールマンに、しかしクラウディオはぞんざいに応じた。
「それは上位者に対する態度として少々問題がないかね、大佐?」
クリールマンは尊大に言った。ただ尊大ではあったが、言っていること自体は正しくもあった。
「相手によって態度を変えるほど器用でも頭の回転が速くもないんだ、准将閣下」
クラウディオは面倒くさそうに言った。
政治士官とは、正式には軍人ではない。木星の実質上の最高意思決定機関である木星委員会が、文民統制を徹底するために軍の実動部隊内に派遣している官僚である。軍隊風の階級を有しているがあくまで文官であり、戦闘に参加することはない。
現場の軍人の独断専行を防ぎ、綱紀を粛正し、法的な事柄について助言し、思想面の指導を行う立場にあった。その歴史は古く、発足は大戦中にまで遡る。航宙艦に搭乗するための最低限の耐性は有しているが、操艦能力や軍事的識見ではなく学識によってその階級を得ている。
「不規則発言は慎んでもらいたい」
「不規則発言?」
「先の会議でのことだ」
そう言われても何のことだかわからなかったが、話を聞くとブローデル少将の容姿に対する独り言の件であるようだった。それから、最後に会議室に現れたこと、会議の後半において居眠りをしていた件についても非難された。クラウディオは頭をかきながら心のなかでため息をついた。
「ああ、やっぱり気づかれてたのか」
「その口の利き方もだ」
クリールマンは厳しい表情を崩さないまま言った。
「……気に食わないですか?」
「勘違いしているな。私の感情の問題ではない。規律の遵守と上位者への忠誠をないがしろにする者は、軍人として不適格だという基本的な事項の確認だ」
「不適格とまで言われちゃ参るな……」
クリールマンの物言いに反発心を喚起されないではなかったが、クラウディオは相手に合わせておくことにした。節を折るのではない。敵でもなければ軍人ですらない人間を相手に、戦功など立てられはしないからだ。残念ながら、ここはまだ戦場ではない。だから追従して言った。
「でもわかりますよ。たしかに部下が言うとおりに動いてくれないと困りますもんね。今後気をつけます」
「わかれば良い。貴官はまだ若く、階級と職務に責任感が追いついていない。そのことを考慮に入れて、大目に見られているのだ。駆け出しの尉官であったならば再教育ものだということは、頭に入れておいた方がいい。私個人としては――いや、普通ならばと言った方がいいが――それでも甘すぎると考えている。これは貴官だけではなく、この艦の行状を放置されているブローデル少将にも問題はあるのだが……」
小声になった最後の方の発言を、クラウディオは何となくあげつらってみたくなった。
「……それは上位者に対する不服従にはならないんですか?」
クラウディオの言葉に、クリールマンは不快を感じたようだった。クリールマンはこの対話中、クラウディオに対して咎めるような言葉を述べてはいても、みずからの感情を見せてはいなかった。彼はあくまで個人の感情ではなく、職務上の義務感から話していたのだ。しかし今はじめて、クリールマンは感情を動かしたように見えた。
ただそれは一瞬のことで、すぐもとの謹厳な表情に復すると、一つ咳払いをしてから言った。
「健全な批判精神と規律無視は異なる」
「なるほど」
それはたんなる相槌だった。納得でも皮肉でもなかった。気まぐれで少し粗探しをしてはみたものの、もともと興味をもっていた相手ではない。
「せいぜい気をつけますよ」
クラウディオはもう一度言った。
クリールマンは民主制下の軍隊の何たるかについて二言三言述べてから去って行った。その背中を見送りながら、クラウディオは息をついた。
評価を受けて昇進することは素晴らしいことだ。しかしそれに応じて、面倒くさいこともついてまわる。政治士官との接触の機会が増えるというのもその一つだった。個人的な好悪はおくとしても、単純にわずらわしいのだった。
ひょっとしたら両親も職場ではこんな感じだったのかもしれない、とふと思った。家庭でしか接点がなかったため考え方が合わないというだけで済んだが、同じ職場にいたならばクリールマンとの関係のようなものになったのだろうか。
クラウディオは頭を振り、面白くもない考えを思考から排除した。もっと有意義なことを考えるべきだ。たとえば、これからどこで居眠りの続きをするか、というような。しかしそれを実行する前に、落ちついた声をかけられた。
首席幕僚のバラージュ・カーロイ大佐だった。三〇代後半であり、政治士官を除けばこの艦における最年長者である。黒い口髭をたくわえた端然とした雰囲気の男で、この艦内にあっては、その人間的な安定が異質な存在感を放っていた。若く気ままなこの艦の乗員たちからも一目置かれている人物であった。クラウディオとて、例外ではない。
バラージュは穏やかな表情で、前置き抜きに言った。
「君はもう少し自分の身を守る方法を身につけた方がいい」
「面倒くさいんですよ」クラウディオは率直に答えた。「――だいたい政治士官って必要なんですか?」
初等学校で習うようなあまりにも初歩的な問いだったため、バラージュは一瞬たじろいだようだった。しかしすぐに諦めたような笑みをかすかに浮かべて返答した。
「単純に戦闘を遂行するだけなら不要だよ」
「だったら廃止しちまえばいいのに」
「そういうわけにはいかんのだよ」
「邪魔なだけでしょう」
「邪魔――そう、そこが問題だ。政治士官はなぜ存在するか? それは、自分の思うがままに戦ったら、私たちが土星主義者になってしまうからだ」
「へえ」
クラウディオは肩をすくめた。自制が必要ということだろうが、どうせ自分たちは命令のとおりにしか動けないのだし、航宙艦同士で戦っているうちは非戦闘員を殺傷するようなことなどありえない。クラウディオにとっては、過剰な自制のように思える。
バラージュは表情を引き締めた。
「政治士官の存在意義についてはこの際いい。問題は君だ。君は敵といえば虚空を隔てた向こうにしか存在しないと考えている節があるが、世界とはそう単純なものではない。君はあまりにも無防備にすぎる」
「俺は攻撃が好きなんです。ってことは、自動的に最大の防御を行ってることになるわけです」
クラウディオの言葉に、バラージュは呆れて大きく息をついた。
その様子が何となく気の毒になったが、クラウディオは発言を取り消しはしなかった。自分だって十分窮屈な思いをしている、と思ったからだった。他人からはそう見られていないらしいことが大いに不本意だったが。
3
カリスト第三艦隊第二戦隊司令アマディス・ブローデル少将は、会議を終えてからずっと旗艦の司令室に一人こもっていた。
指揮官席の革張りの背もたれに体重を預けて中空に視線をやっていたが、何かに焦点を合わせているわけではなかった。彼は五感をなかば現実から退避させて、みずからの境遇に思いを馳せていたのだった。具体的には、みずからの率いる戦隊のことである。
彼が第二戦隊司令の辞令を受けてから一年半ほどになるが、この戦隊は最近大きく様変わりしていた。六隻の航宙艦からなる戦隊のうち実に五隻までが、この半年のあいだにブローデルの麾下に加わったものだった。継続して所属していたのは旗艦たるレディジェーンのみであったから、実質的には総入れ替えがなされたことになる。
そして新しく加わった艦は、風紀や規律といった面で奔放にすぎるのだった。
もともと木星の軍隊は、軍規においてさほど厳格ではない。民主国家の軍隊であるのでそういった部分においては本来厳しくあってしかるべきなのだが、長い歴史のなかで変容してしまった。情報技術にもとづく統治システムが実現した高い水準の民主主義が、公的機関の実力行使に歯止めをかけているため、軍の内部における細かな規律遵守が問われなくなったのである。実のところその点に関しては、階級社会がそのまま軍にもちこまれている土星の方が厳しく、奇妙な顚倒現象が発生しているのだった。
そして奔放である木星軍のなかでも、この戦隊は群を抜いているように、ブローデルには思われた。他の部隊のことを完全に知っているわけではないが、彼の配下ほど勝手気ままな集団が軍隊という組織のなかに存在するとは思えなかった。
「……司令官閣下も面倒な役目を押しつけてくださるものだ」
ブローデルはため息とともに呟き、目を閉じた。
気ままな連中を配下とすることになったのは、上官の意向である。信頼されている証といえなくもないが、常日頃は厄介を押しつけられたという思いが強い。今まで何とか大過なくやってこられたが、今後はどうなるかわからない。戦争は遊びではないのだ。
とくに問題の多い艦のことを考える。
新造艦ヴィレッジグリーン。とりわけ、その艦長と機関長。
マクシミリアン・ルメルシェとクラウディオ・チェルヴォとは、ブローデルが半年ほど前に研修の監督官を務めたときからの縁である。
その当時から、二人は不仲だった。彼らはそのときが初対面だったようだが、性格の根本的なところでそりが合わないように見えた。性格の不一致は人間であるから仕方がないとしても、彼らが繰り広げる争いは、端から見ていてげんなりするほど不毛で幼稚なものだった。制服を隠したりベッドを水浸しにしたりなど、ブローデルは自身を振り返ってみて、幼いころにでさえやった記憶がない。目を覆いたくなったものの立場上そういうわけにはいかず、そのつど注意を与えたのだが、幼児のピクニックを引率しているような気がして情けなくなったものである。
卓越した才能は往々にして性格的な欠陥と結びつくものではあるが、その見本のような二人だった。ただこの二人の場合、個々人の性格に問題があるというより、組み合わせたときに欠陥が顕在化するといった方が正確ではあった。
不仲を知ってなお同じ艦に配属したのは、上官の意を汲んでのことであり、また劇的な化学反応の発生を期待してのことでもあった。才能だけは間違いなく一流なのだ。しかし、今のところ成功しているとはいいがたい。天才と天才を組み合わせたら凡才以下になった、というのが彼の耳に聞こえてくる評であり、また自身でもそう観察していた。
ヴィレッジグリーンはまだ実戦を経験していないが、もしも致命的な問題が生じるようならば配置転換を行う必要がある。いちおうは軍隊であるので彼らも時と場合をわきまえてくれるであろうとブローデルは信じていたが、信じきる心境にまでは到達していなかった。
こういった問題は、グリーンホーンの軍隊においてはある程度起こりうることである。
グリーンホーンは、人格的な問題をしばしば指摘される。それは人類社会全体において通念化しており、ことさら取り上げられることもなくなっているほどである。
ノウアスフィアへの耐性とある種の人間性とのあいだに関連がみられることは、大戦初期にグリーンホーンが見いだされたころからすでに知られていた。彼らには他人の感情の動きに鈍いところがあり、どこかしら人間的な機微に欠けるといわれていた。忍耐力も強くなく、対照的に特定の物事に対する執着が強いことが多かった。彼らは、程度の大小はあれ、一般社会においては不適応者であった。
当初彼らは耐性保有者とだけ呼ばれたが、次第に軍組織内において若年者が台頭するにしたがって、嫉視や蔑視も込めて青二才と呼ばれるようになった。
しかし当人たちは意に介するどころか、むしろ積極的にその呼称を受け入れた。他者からの否定的な評価に反発するのでもなく、甘んじるのでもなく、耐え忍ぶのでもなく、あえて受け入れみずからの肯定的な属性としたのである。
ただこれは、彼らが相手の感情を把握したうえであえて受け入れたというより、鈍感であったためその含みをよく理解していなかったのだともいわれている。ようするに、侮られているのを評価されていると勘違いした、ということである。
このあたりの事実関係は錯綜している。個々人としてはともかくグリーンホーン集団全体では他者からの扱いをある程度理解していたとも、軍内部の通常人がグリーンホーンを貶めるために彼らの鈍感さをことさらに強調するエピソードを捏造したのだとも伝えられている。グリーンホーンという語が一般に定着してしまった現在となっては、その成立過程における微妙な陰翳は捨象されて、人々の意識から消え去ってしまっている。そうした記録に残らない事情は、ただ忘れ去られるのである。
ただ、当時最前線において流行した言葉は記録に残っている。
「青二才上等」
それは、思いがけず時代の最先端に躍り出た社会不適応者の、快哉の声であるに違いなかった。
ともあれグリーンホーンという存在は元来そういった問題をかかえているのであり、ある程度までは許容しなければならないものなのである。自覚はないが、ブローデル自身もそうなのだろう。ヴィレッジグリーンの連中と同類であるというのは不本意ではあるが……。
それに、グリーンホーンの性格上の特性は、ノウアスフィアへの耐性といった資質を抜きにしても有用なものである。
この時代、航宙艦の任務というのは、虚空のなかを盲目的に巡回し、敵と遭遇した場合にはなし崩し的に戦闘に突入する、といったものだ。
木星圏やラグランジュ点近傍といった、航宙優勢をどうにか保持できている拠点の間近のごく一部の宙域以外では、後方連絡線といった概念が成立しない。周囲三六〇度が「前方」であり、艦はつねに最前線において孤立しているのである。僚艦は存在しているとはいえ、宇宙空間という尺度のなかではそれも頼りない存在であるにすぎない。
いつ敵と出くわすかわからない、どこから攻撃を受けるかわからないような、絶えざる緊張を強いられる暗闇のなかに身を置くわけで、そのような苛酷な任務は精神が無粋にできているグリーンホーンにしか遂行できないのだった。
そうではあるのだが、有用性と弊害を秤にかけてはたして有用性の方に傾くものかどうか、ブローデルははなはだ不安なのだった。
会議に先立って、ルメルシェ准将からとんでもない報告を聞いた。クラウディオ・チェルヴォ大佐がヴィレッジグリーンの緩衝体に接触し、その支配権を奪いとろうとしたというのだ。
どのような意図があってチェルヴォ大佐がそんな愚行をしでかしたかについては聞いていないが、どうせいつもの諍いの延長なのだろう。
これにはブローデルも頭を抱えざるをえなかった。これまでの幼児的な揉め事とはわけが違う。「致命的な問題」のすぐ近くにまで到達しているように、ブローデルには思えた。いや、すぐ近くどころか、常識的に考えるならばすでに致命的な領域に達している。
それでもブローデルは、不問に付した――というか聞かなかったことにした。さいわい、今回の件は事件を起こした当人とルメルシェ准将、およびたまたま居合わせたという中尉しか知らない。たんなる素行の問題であるならばともかく、今回のようなことが政治士官の耳にでも入ったら大変なことになる。チェルヴォ大佐にとってはもちろん、ブローデルや彼の上官にとっても立場上有利にははたらかないだろう。
ただ、さすがに放置しておくわけにはいかない。何らかの手は打っておかなければならないだろう。
それにしても、とブローデルは思う。
目を開く。チェルヴォ大佐の非常識はおくとして、実のところ彼は戦慄せんばかりに驚いているのだった。
――他人の管制下の緩衝体に接触して生きている、だと?
ありえないことだった。
契約を終えた緩衝体は艦長と一対一の関係を結び、それ以外の者をいっさい受けつけない。もしも近づく者があれば、獰猛な獣としての本性を現してその精神を食いつくす。神経接続を逆流して中枢神経を破壊し、死にいたらしめる。実際、これまでにそうした事例はあった。それは事故であったり敵の破壊活動であったりしたが、契約後の緩衝体への接触を試みた者は、すべて死という結末を迎えている。もはや自鳴琴症候群では済まされない。
頭を振る。繊細な檸檬色の髪が揺れた。
「馬鹿な」
声に出して呟く。
聞いたことがない。ありえるはずがない。いや、伝説のうえではある。かのマリーヤ・アントノヴァにはそれができたという。しかしそれは伝説的――というよりもはや神話的英雄の話だ。さまざまな装飾が付け加えられて、実像と虚像の区別がつかなくなっている世界の物語だ。そんなあやふやな世界にまで遡らなければ見いだすことのできない不可能事なのだ。さすがに何かの間違いであるはずだ……。
物思いは、電子音によって断ちきられた。
それは人の注意を惹くよう意図的に機械的な響きを与えられた音で、通信がつながった合図であった。
ブローデルの視界の正面に、立体映像が投影された。通信士を経由せずいきなり映像が現れるというのは、相手が上位者であることを意味する。
映像に現れたのは、レディジェーンの司令室よりもはるかに豪奢な調度をもった部屋だった。正面の壁には木星軍旗とカリスト軍旗が掲げられている。戦隊旗のみであるレディジェーンとは背負っているものが違う。そこはガリレオ方面軍総旗艦ブレイヴユリシーズの司令室なのだった。
ブローデルは立ち上がり、映像の中央に立つ人物に敬礼した。
ブローデルのものより豪奢なマントをまとい多くの徽章を身につけたその人物は、逆巻くような緋色の髪とくっきりとした眉目が特徴的な、筋肉質の体軀をもつ美丈夫だった。
木星軍ガリレオ方面軍司令官オズワルド・グリンステッド大将。木星軍で実戦部隊の指揮官としては第一に名を挙げられる人物であり、名将であるとか知謀家であるとかは他に存在しても、彼以外に「英雄」の呼び名を帯びるにふさわしい者はいないとされる人物であった。彼に較べれば、クラウディオ・チェルヴォなどは一介の勇士であるにすぎない。いまだ三一歳にすぎないが、連合航宙艦隊司令長官の地位に最も近いといわれている。
美丈夫は鷹揚に答礼し着席してから、こぼれるような笑顔を見せた。
「旅は快適か?」
ブローデルは努めて諧謔的に肩をすくめた。
「大しけですよ」
「それは大変だ」
グリンステッドは声を上げて笑った。ブローデルはあまり笑う気にはなれなかった。
会見の予定は入っていなかったが、グリンステッドがこういったタイミングで通信をよこしてくるのは通例となっていた。
ブローデルの率いる戦隊は現在、通常の通信が可能なぎりぎりの位置にある。これよりのちは傍受の危険があるため、ごく近距離以外では電波を使用した通信は行えない。戦隊内の連絡も、ノウアスフィアを利用した意識接触通信に限られる。そんな頃合いに、グリンステッドは部下に「激励」の言葉をかけてくるのだった。
パシファエにある総旗艦から、グリンステッドはくだけた口調で話しかけてくる。実務的な話はない。必要な連絡はとうに終了していたし、方面軍司令官たるグリンステッドが戦隊レベルの通常巡回任務に細かく口を出すことはない。だからこれは、純粋な激励であった。
もっともブローデルにとっては、激励とは感じられないことが多いのだった。とくに最近においては。
皇甫地球化集団やカオスモーズ・デモニクスとならぶ七大企業の一つであるケプラー・オムニクスの創業家の出身という生まれの良さからくるものなのだろう、彼の上官のある種の無神経さに、多くの人は天性の威厳と愛すべき天衣無縫を感じているようだ。しかし他の者よりグリンステッドに近い距離にあるブローデルにとってはむしろ困惑の対象であることが多く、個人的な意見としてはそろそろ人前では隠すべき稚気なのではないかと考えていた。最大限の敬意は表したうえで。
「腹が減らないか?」
ウォールナット製の椅子の肘掛けに肘をついて、グリンステッドは唐突に言った。
「いえ、食事は済ませたばかりですので……」
また何を言いだすのかと構えたうえで、ブローデルは答えた。
「そうか、そいつは問題だな」
ブローデルは上官が何を言わんとしているのかわからなかった。だから、食べたければ勝手に食べてください、とは言わずに無言で先を促した。その態度は、この上官にとっては礼を失するにはあたらないものだった。
「戦いに向かうにあたって、腹は減らしておいた方がいい」
その言葉でブローデルは、上官の話の道筋が何となくわかった。
「いつ敵に遭遇するかわからない状況で、何週間も絶食しろというんですか?」
「たしかに、たまらなく宇宙は広いな」
「それに、私たちは理性の王国の兵隊です。いくら空腹になったところで、本能で戦う捕食者にまで退行はできません」
「理性の王国、か」グリンステッドは複雑な笑みを見せた。苦笑というには幼いが、屈託がないとはいえない笑みだった。「政治体制の問題ではない。これは個々の資質の問題だ。そう考えたからこそ、本能で戦える連中を配したんだが」
ブローデルはため息をついた。肩を落とした様子が相手に伝わらなければいいがと思いながら、それがどんな苦労を招いているのかわかっているのか、と心のなかで独語した。
「いずれにせよ、食事はもう終えました。これは私にとっては、戦いの準備は調ったという意味です」
「そうか。ならば俺としては、武運を祈る以外になすべきことはないな」
そう言ってから、グリンステッドは急に立ち上がって敬礼した。
ブローデルも慌てて椅子から立った。
「戦闘など、ないに越したことはありませんが」
この会見において将来の木星圏元帥が予言に近いことを行っていたことを、ブローデルは知らなかった。ただ最後に上官が述べた言葉に対して、困惑と疲労感を覚えただけであった。グリンステッドは、何気ない口調で付け足しのように言ったのだった。
「苦労が顔に出ているぞ、アマディス」
そして美丈夫はまた笑顔を見せた。
パシファエを発してから約一三八時間後、木星からみてほぼ土星の方向、黄道面からの仰角四五度、距離五億一四〇〇万キロの、木星および土星からほぼ等距離の宙域で、カリスト第三艦隊第二戦隊は敵と遭遇し、自動的に戦闘へと移行した。戦隊で最初に敵を察知したのは航宙艦ヴィレッジグリーンであった。
それは同艦にとっての初陣であると同時に、マクシミリアン・ルメルシェとクラウディオ・チェルヴォが同一の艦に搭乗して最初に経験した実戦であり、そして彼らと九重有嗣が虚空のなかではじめて意識を接触させたことで歴史に特記される戦いであった。
人類暦二四九六年、恩寵暦四三二年七月一三日、木星および土星にとってこの年九回めの遭遇戦は、通例どおりの唐突さで始まった。
通例どおりでなかったのは、その物量差であった。木星軍は通例どおりアマディス・ブローデル少将率いる一個戦隊であるのに対して、土星軍は九重有嗣中将率いる一個艦隊であった。
戦隊対艦隊。
その戦力比はほぼ一対七であった。