星海大戦
第一部 第一章 淡い夜空の遠く
元長柾木 Illustration/moz
元長柾木が放つ、渾身のスペースオペラ!10年代の文学シーンをリードする「星海社SF」ムーブメントの幕開けを、“たった今”あなたは目撃する————。
第一章 淡い夜空の遠く
1
ノウアスフィア機関との神経接続を解除した九重有嗣は、感覚器官を慣らすようにゆっくりと艦橋を見まわした。土星軍所属艦艇のなかでも最大級の余剰空間をもつ新型艦とはいえ、先ほどまで身を置いていた無窮の場と比べるといかにも矮小に感じられる。
「病的な感覚ではあろうが……」
誰にも聞こえないような声で、有嗣はつぶやいた。
そのつもりだったのだが、かたわらの副官ダシドルジーン大尉が怪訝そうな顔をした。そしてそれは、すぐに不安を表すものに変わった。
有嗣にとって、このような表情を見るのは珍しいことではなかった。上官の言葉を聞き漏らしたが、聞きなおすこともはばかられる。大尉の表情の意味するのは、そんなところだろう。
しかし有嗣は、独り言だ、と説明することはしなかった。
そういった態度が余計に部下を気後れさせるのだということは理解しているが、あえて親しみやすく振る舞おうとも思わない。別に意図して畏縮させているわけではない。聞かれれば答える。そうでなければ沈黙する。有嗣にとってみれば、ただそれだけのことだった。
他人に与える印象については、その相貌も影響していただろう。
九重有嗣はまず整ったといってよい顔立ちをしていたが、万人に好まれるという型でもなかった。
配置としても部分としてもおおむね秀麗といえる条件を満たしていたものの、目鼻立ちであれ輪郭であれ粗っぽく削りだされたまま研磨の手間が省かれた原石のようなところがあって、眉目の端整さは美しさではなく険しさを前面に押し出す結果となっていた。
全体的に、黒、をもって人の記憶に残る男だった。
光を吸いこむような色合いのやや長めの黒髪は宇宙の漆黒を連想させて、いかにも航宙艦乗りといった風情を醸しだしたが、底光りするような眼光を放つ黒目がちの双眸と同居したときには、人に畏敬の念を抱かせるのではなく畏怖させる方向に効果的にはたらく傾向があった。瘦せ気味ではあるが肩幅が広く長身で、軍服が似合っていたことも――軍服しか似合わなそうであったことも、その印象づけに加担した。
私的な場ではともかく、航宙艦の中にあっては、良くいって孤高、悪くいって狷介という評価を受けがちなのだった。
ただそれがさほどの悪評にまでいたらないのは、その存在感には宇宙の深淵のごとき得体の知れなさがあって、ある種の神秘を人に感じさせたからだった。八尋の眷属という生まれも手伝っていたかもしれない。太陽系宇宙、とくに土星圏において、八尋の名は《聖母》に次ぐ神話的威光を放つのである。
「有視はどこだ?」
有嗣は大尉に下問した。とりたてて友好的な口調を作ったわけではなかったが、大尉はほっとしたような表情を浮かべた。今度は意図が汲みとれる問いだったので安心したのだろう。
「武道場にいらっしゃるはずです」
大尉の返答に軽い頷きで応じると、有嗣は指揮席から立ち上がった。
土星軍太陽系艦隊第六艦隊司令官・兼・艦隊旗艦烏羽玉艦長、イアペトゥス王国子爵、九重有嗣中将。
それが彼の、公的な地位である。いまだ二六歳でしかない。いかにグリーンホーンの昇進が早いといってもめったにない速度であり、土星軍の太陽系艦隊を構成する一六個艦隊の司令官のなかで二番めに若年である。
戦術神経リンクで第二司令室の副艦長阿跌大佐に権限委譲を行ってから、有嗣は閉塞感を追い払うように頭を一つ振り、扉に向かった。
部屋を出るときにふと気づいて、振り返らずに背後にいるはずの大尉に手を振った。彼としては最大限の気遣いだった。
正式には中央指揮区画という名称をもつ広い艦橋は柔らかな暖色の照明で満たされていて、一見しただけではショッピングモールのような平和な印象を与える。知らない者が見たならば、戦争を行うための場所だとは気づかないだろう。もっとも、戦争だって平和なものだ――有嗣はそう考えている。他人に説明する気はないが、平和であるからこそ戦争ができるのだ。平和は戦争を包含する。
有嗣は艦橋中央の層を空を飛ぶように進んで、有視のいる武道場へと向かった。
この艦には、武道場が備えられている。有嗣の希望により設けられたものだ。艦隊司令官ともなると、そのくらいの権限はある。とはいえ余剰空間の一部にユニットをはめこむだけのことなので、たいしたわがままともいえない。
途中で、銀髪の男と行きあった。
あらゆる無駄をナイフでそぎ落としたような、骨ばった体格の男だった。有嗣にもましてひょろ長い体つきをしていたが、骨格自体はしっかりしているため奇妙に屈強そうに見えた。まるで無風流な姿形のなかで、髪と同様に色素の薄い瞳だけが宝石のような透徹した深みを感じさせる。
多分に偏見を含んでいることは自覚したうえで、いかにもレアの出身らしい風貌だ、という感想を有嗣は抱いていた。
哲学する暗殺者。または暗殺する哲学者。男の姿を見て、そんな言い回しを思いついた。
しかし、彼は暗殺者でも哲学者でもない。
エウゲニイ・エフィモヴィチ・デリャーギン少将。第六艦隊の参謀長である。有嗣が第六艦隊司令官に就任し司令部を開設した際転任してきた人物であり、九万四〇〇〇人におよぶ有嗣の部下のなかの最高位者の一人だった。
正確には知らないが、三〇代なかばであるはずだ。有嗣より一〇歳程度は年長であるが、デリャーギンとて昇進が遅いわけではない。艦長職を経由しない参謀畑を歩んだとあってはなおさらのことだ。
「何か?」
有嗣は短くそう訊いた。
ふだん有嗣は、そのように自分から他人に話しかける人間ではない。なのになぜそんなことをしたかといえば、デリャーギンの視線にあまり好意的でないものを感じたからだ。
哲学する暗殺者または暗殺する哲学者は、慇懃無礼をあえて作ったような視線を淡い色の瞳に宿していた。それに、そもそも偶然に出くわすほど狭い艦ではない。タイミングを見計らっていたに違いなかった。そういう接触の仕方を試みるというのは、色恋沙汰でもからんでいるのでなければ、やはり好意を感じさせるものではなかった。ともあれ相手が自分に好意を抱いていないとなると、何とはなしにつついてみたくなるのだった。
難儀な性格ではある。しかし、あからさまではないにしても察することができる、といった程度にわかりやすい悪意の示し方をする人間というのは、致命的に危険なものではない。経験上、有嗣はそのことを理解していた。
その程度であるならば、敵味方をはっきりさせておいた方がよい。これは、有嗣にとってはほとんど無意識の処世術のようなものだった。
しかしデリャーギンは、有嗣の期待に反して、一礼して去って行った。
有嗣はそちらに視線をやることはせず、鼻を鳴らして呟いた。
「臆病者」
そこに軽蔑はなかった。ただ残念であるだけだった。
烏羽玉の武道場は、二〇メートル四方ほどの広さの、板敷きの部屋だ。板材は残念ながら成形材である。有嗣としてはできればタイタンヒノキを使いたかったのだが、さすがにそこまで贅沢はできない。
格技の訓練のための部屋だが、日常使う者はほとんどいない。太陽系艦隊所属の航宙艦乗員が直接戦闘を行う機会など、現実的にはほぼありえないのである。
柔らかい光に満たされた艦橋とは対照的に、照明は最小限度に抑えられている。板敷きに滑るように映える微妙で硬質な光は、伝承と記録映像のなかにしか存在しない月光――地球の月による太陽光の反射を連想させた。有嗣は冷気を感じたが、気温自体は艦橋と変わらないはずだ。
軍服を着た青年が、宗教的な彫像のように冷厳と背筋を伸ばして正座していた。有嗣が扉を開け室内に入っても、瞑目したまま身じろぎもしない。
数歩の距離を置いて有嗣はその前に対座し、綺麗な姿勢を保ったまま動かない青年に声をかけた。有嗣の方は胡坐である。
「宇宙は見えるか」
有嗣の声に反応して、青年はゆっくりと瞼を開けた。
九重有視――有嗣の弟である。二一歳であり、有嗣より五歳年少である。階級は土星軍特任准将。第六艦隊参謀次長の地位にある。
「いえ」
弟は短く答えた。
有嗣とてそんなことはわかっている。ノウアスフィア機関と接続しているわけでも《恩寵》と交信しているわけでもないのに、宇宙などが見えるはずがない。冗談のつもりだったのだ。
有視は頭髪を綺麗に剃りあげていて、なめらかな卵形をした頭の形を強調している。そのため気づかれにくいが、顔貌自体は有嗣と似ている。ただ全体的に柔らかい曲線で構成されているため、有嗣とは違ってとげとげしい印象はない。視線は鋭いものの、それは狷介さではなく意志の強さを示している。
しかし有視には、どこか常ならざるところがあった。
艶めかしいような気配も漂わせていたのだった。蠱惑といってもいい、妖しい吸引力だ。何かしら神聖なものの存在を背後に予感させるような、そんな力だ。口数の多い弟ではないが、唇を開いたときに出てくる言葉は、託宣めいた響きを帯びていた。
おそらく有視自身は気づいていないだろう。自制心が強いのを通り越して、自罰的ともいっていいほど自己の欲求を示さない弟だ。みずからの存在が他者を引き寄せるなどと、夢にも思わないだろう。そのことがこれからの道行きにおいてどのような結果を招くものかは想像がつかない。
「長駆木星圏まで、わが艦隊単独で侵攻なさるおつもりだと聞きました」
やや唐突に、有視はそう切り出した。数時間前に行われた、第六艦隊全体での会議で有嗣がもちだした話題のことを言っているのだ。しかし有嗣は、弟が言った内容よりも先に、形式が――つまり語尾が気になるのだった。
「聞きました、か」
伝聞形である。
その会議に有視が出席していないのだから当然であるが、問題はその事実にある。司令部の幕僚や隷下の戦隊司令たちのすべてが顔をそろえた会議だというのに、参謀次長の重職にある有視がいなかったのだ。
「なぜ出なかった」
答えは何となくわかっていたが、それでも有嗣は訊いた。責めたわけではない。尋ねただけだ。
「好い顔をされませんので」
それが答えだった。そして、おおむね有嗣の予想したとおりだった。つまり、有視の存在を他の連中が面白く思っていない、そういうことだった。
「あまり歓迎されていないのは俺とて同じだ」
「兄上には実績がございます」
有視の言いたいことはわかる。
土星軍においては――おそらく木星軍でも同様だろうが――いわゆる指揮官畑と参謀畑の間に微妙な確執が存在する。
航宙艦に乗務して前線に出るためには、グリーンホーンであることは必須である。それは当然であるが、艦長や戦隊司令、そして艦隊司令官と、指揮官として栄達することを望むならば、より高いグリーンホーンとしての能力が要求される。艦のノウアスフィア機関と神経接続し、そこからノウアスフィアをつうじて宇宙空間に意識浸潤を行うことが求められるのである。それができなければ、前線において艦長以上の職に就くことはできない――つまり准将以上への昇進は叶わない。
しかしそうはいっても、操艦能力の――戦闘能力の高さだけではさすがに軍隊はたちゆかない。艦長となるほどにはグリーンホーンとしての素養は高くなくとも、戦略家・戦術家としての識見でもって指揮官の補佐を行う参謀が必要となる。細い径ではあったが、そういった参謀のなかで優秀な者は将官へと昇進することができた。ただ戦功を挙げる機会も少なく官僚的な昇進ルートをたどるため、指揮官畑の将官がおおむね三〇代であるのに対し、参謀畑の者は四〇代以上であることが多かった。
そういったわけで、指揮官畑と参謀畑の二つの異なる道程を歩んだ者たちの間で、昇進速度やグリーンホーンとしての能力や年齢や識見などさまざまな要因がからんで、微妙で面倒な鞘当てが存在するのだった。
そして、有視は正規の軍人ではない。
有視はもともと、恩寵神殿に勤務する神祇官だった。それを、中将に昇進し艦隊司令官となって多少の人事権を得たのを利用して、有嗣が新設の司令部に客分として呼び寄せたのだ。
恩寵神殿に入れるくらいだから、グリーンホーンとしての能力は申し分ない。識見の面においても、有嗣は信用している。しかし、有嗣以外の者たちにとってはそうではない。特殊な職掌である恩寵神殿の神祇官にとくに縁もなく、有視個人と人間関係を結んでいるわけでもない通常の軍人にとって、有視に与えられた艦隊参謀次長・特任准将という職位は新任司令官の公私混同のようにしか見えないだろう。
「くだらないことだ」
「公私混同に対して批判を行うのは正しいことでしょう」
批判される立場にあるのは自分なのだが、有視はあくまでもみずからの立場を客観視して冷静だった。
「正しいなんてことはどうでもいい。くだらんさ。公私混同などという形式ばったものの考え方がくだらないんだ。戦争のごときを演じるに際して、公も私もない。そこまで高尚な世界じゃない。――ただ、負の感情が俺じゃなくおまえに向けられるのが、いかにもややこしい」
「人間とはそのようなものです」有視は静かに、兄の疑問について解説した。「嫉妬の感情というものは往々にして、上位者に対してではなく、自分と立場が近いにもかかわらず優遇されているように見える者の方へ向くものです」
「難解だな」
有嗣はそんな感想を述べたが、きっと弟にとっては難解でも何でもないのだろう。
ただ人間心理について口にはしても、実のところ弟は有嗣以上に人間に興味はもっていない。別に冷淡なのではなく、もっと大きな存在に意識が向かっているのだ。昔からそうなのだ。そしてその部分をまさに、有嗣は買っているのだった。
「それが、人間の感情です。多くの人間は、兄上ほど強くはないのです」
「俺は鈍感なだけだ」
少しだけ間を置いてから、弟は言った。
「この社会に階級というものが存在しているのは、分不相応な望みをいだいて人が不幸にならないように、です。そうである以上、感情が私に向けられているうちは、むしろ幸福なのです。しょせんは階級の壁を越えない、慈しむべきコップの中の嵐にすぎないのですから」
有嗣はわずかに頷いた。その理路は、彼にとっても賛同できるものだった。
「……で、連中をどう思う?」
有嗣は具体的な方向に話を転じた。デリャーギン少将をはじめとする幕僚たち、そして隷下戦隊司令の名を挙げる。
ゲレリーン・アラブタン、ナルシン・パーラ、庫翡潤、マルーシャ・トカチェンコ、レオン・ネジダノフ、ジーナット・ダントワラ……。
そのそれぞれについて有嗣なりに能力面での評価はすでに行っていたが、有視の見解を聞いてみたかった――主に人物面において。
自分には、人間を見る目がない。そのことは自覚している。そもそも人間というものをよく理解していない。彼は古典力学のような単純な世界に生きていて、そのことの問題をわかっていながらも、それでもなお改めることができない。そもそも才能の段階で欠落しているからどうしようもない、と有嗣はなかば諦めている。
「どうとおっしゃいましても」有視は言葉を濁した。「意見を述べる立場にございません」
「立場にあるだろう。おまえは俺の幕僚だ。意見を求められたときに発言するのがその職務だろう」
ほとんど無理やり押しつけた仕事であることには触れずに、有嗣は言った。
「おこがましいことです」
しかしやはり、有視は答えない。人間についての一般論を口にはしても、個別の人物評は行わない。弟は、そういう人物なのだった。
有嗣は、それ以上の回答を求めなかった。その代わりに言った。
「ならば、正式に軍に入ればいい。寛容階級も高いのだし、栄達は約束されている。少尉からのやりなおしになるが、おまえならさして時間はかかるまい。抹香臭い恩寵神殿などにいるよりは、俺はいいと思うが」
土星圏の政治的統合の象徴である人工実存《恩寵》。恩寵神殿は、それを祀るため衛星プロメテウス内部に建造された、政治的および宗教的な施設である。重要な機関であるには違いないが、そんなところで朽ちるのは、弟の才華の活かし方としてはふさわしくない。有嗣はそう思っている。
「それに――」
そこで、有嗣は口を閉ざした。
――おまえがいると助かる。
とは口にできなかった。
有視は自分にはない視点をもっている。自分はどこまで栄達しても、一個の兵士であるにすぎない。そしてそれをよしとしてもいるが、しかし荒唐無稽劇のごとき戦いを戦い抜くための探照灯が欲しかった。
心の深奥で理解していても、言葉にすることはできなかった。実質的に同じ意味のことを述べ、現実に幕僚として呼び寄せてはいても、親愛の情を示すような言葉を発することがいつしかできなくなっていた。いつからかはわからないが、いつのまにか。それはたぶん、弟が恩寵学校に行くと言いだす前から。
有嗣は話題を変えた――というより、もとに戻した。
「しかし、どういう伝わり方をしたんだ」
そう言って苦笑を浮かべる。もっともそれは外見上苦笑と解釈するのは困難で、唇の端を歪めただけの冷笑とか憫笑のたぐいに見えるだろう。その陰翳が伝わるのは、ごく一部の者に限られる。
「木星圏まで単独で侵攻、か」
「そのように伺いました」
「話を省略しすぎだし、譬え話だ。俺の部下であるならば、ある程度意識を改めておいてもらわないと困る――それだけの意図で話したまでのことだ」
「しかし、まんざら戯言でもないのでしょう?」
有視の、まっすぐな眼差しとぶつかった。
それは刃のように鋭いものではなく、また表情も口調もあくまで抑制的だったが、見透かしてくるような存在感があった。
「誰も彼も、ラグランジュ点を奪いあうだけが戦争だと思っている」
有嗣は弟の問いに直接には答えず、そう言った。
有視は少しだけ目を伏せて応じた。
「とはいえ……大戦において、そして戦後今日にいたるまで、純粋な国力としては木星に劣るわれわれが何とか戦線を維持してこられたのは、対向トロヤと対向カルタゴとを手にして、木星圏を挟撃することに成功したからでしょう」
有視は太陽系地政学上の要衝の名を挙げた。
「そうだが、しかしそれが最終目標ではあるまい。俺たちにせよ観念主義者どもにせよ、最終的に人類社会を統一するのが目的であるならば、やるべきことはおのずと違ってくるはずだ。いったい何のために『全面遭遇戦』なんて言葉が生みだされたのかわかっているのか」
大戦中に高度に発達した、グリーンホーンの存在に依存した索敵技法と航宙艦の機動力は、旧来のレーダーを無効化し、宇宙を実質的に暗闇へと変えた。航宙艦は敵の存在を光学的・電磁気学的に知る術を失ったのだ。残ったのはグリーンホーンが不可視の触手を伸ばして行う索敵だけで、宇宙空間における戦闘は、暗闇のなかで手探りで敵を探りあてるような、往古の潜水艦戦以下のとてつもなく原始的な状態へと退化したのである。
戦時と平時の区別はなく、拠点のごく近傍でもないかぎり安全な場所は存在しない。通常は戦隊単位で巡回を行い、敵と遭遇すれば戦い、そうでなければその宙域の安全が数時間だけ確保される。それをえんえん、二四時間、三六五日繰り返す。しかし航宙艦の数や索敵範囲に比して宇宙空間はあまりに広大であり、敵を敗走させようが敵の不在によって安全の確保を行おうが、それは完全なものとはなりえない。誰も航宙優勢など握ることはできない。哨戒という概念も無効化した。
戦闘は、往々にして嘆かわしいとさえいいうる状況に陥る。各艦が手探りの索敵を行い、索敵範囲ぎりぎりを探りあうように移動した結果、空間的には敵味方入り乱れた状態となり、ひとたび戦端が開かれるとたちまちのうちに大混乱に陥り、生き残りを賭けた目も当てられない乱戦となるのである。
この、ほとんど混沌ともいえる戦争の形式は、いつしか全面遭遇戦と呼ばれるようになった。全面遭遇戦時代においては、ほぼグリーンホーン個人の能力に戦況が左右されることになる。
有嗣の率いる第六艦隊も、現在巡回任務中である。今は出航したばかりなので敵と遭遇する可能性は低いが、もうじきどこに敵がいるともしれない暗闇の領域へと進入することになる。
「暗闇がそんなに怖いのか」
「第一次前方トロヤ会戦以来、暗闇で血が流れすぎました」
今から八〇年近く前、大戦中の星海暦三五五年に太陽−木星系のラグランジュ点L4をめぐって戦われた第一次前方トロヤ会戦は、その当時において史上最大の艦隊戦であり、そして以後の艦隊戦の形式を規定するものだった。敵も味方もなくただ生き残りを賭けて戦うという形式がここで示され、これ以後「全面遭遇戦」の時代へと突入するのである。
「暗闇を恐れている時点で、みずから制約を課していることがわからないのか」
「恐れとはそのように簡単に割りきれるものではありません。暗闇を走るより、決まった場所を回遊する方が、人間の精神にとっては楽なのです」
またしても人間についての一般論を有視に聞かされることになった。完全に納得はできないが、有視がそう言うのだからそうなのだろう。実際、戦後ずっと、敵も味方もラグランジュ点の奪いあいを繰り返しているのだ。
「そんなこと、そろそろ終わりにすべきだ」
「それで、木星圏まで単独で、ですか?」
「言ったろう、譬え話だ」
「それは一人の艦隊司令官の――一人の軍人のなすべきことではないでしょう」
「グリーンホーンというのはそういう存在だったはずだ。かの《聖母》にせよ一貴公にせよ、挙げた戦果のほとんどは独断専行によるものだった。そしてそれが、人類を救ったわけだ」
「過去、一つの独断専行による成功体験が無数の追随者を生み、統制のとれない状態に陥って国家全体が破局へといたった例がいくつありましょう」
「あるだろうな、無数に。――だが、俺は違う」
「問題なのはむしろ、兄上ではなく後に続く者たちの方です」
「それは俺の責任ではないし、そもそも責任などという概念自体唾棄すべきものだ。――いずれにせよ今現在の話ではない。心配は無用だ」
「……はい」
有視はそう答えたが、完全に納得しているわけではないようにも見えた。
もちろんこちらの思いこみかもしれない。有視の心中を推し測ることは、兄である有嗣にとっても容易ではない。
有嗣と有視の兄弟は、土星の五大構成国の一つであるイアペトゥス王国の王都東雲で育った。大戦時の英雄八尋一貴に連なる貴族の家に生まれ、生活に不自由したことはなかった。もっとも、貴族だろうが平民だろうが、生活に困窮することなど土星圏ではほぼありえないのだが。
幼いころは、有視の方が周囲に期待されていた。
とにかく気難しい、というのが幼時の有嗣の評価だった。学業成績は良かったが何かにつけ攻撃的であり、大人の裏をかくことばかりを考えており、扱いづらいことこの上なかった。
気に入らない家人夫婦を離婚に追いこんだり、本邸で飼っていた貴重な水棲哺乳類であるオルカを狙撃したり、一度などは八尋宗家の世子・八尋貴詮を人質にとって三日三晩書斎に籠城し、私兵部隊を出動させる事態にまで発展した。
一方、有視は素直な子供だった。年長者の期待に反することはなく、八尋の一族の次世代として将来を嘱望されていた。学業であれ社交であれ、そつなくこなした。何より貴重に思われたのは、つねに冷静であったことだ。動じることもなく激することもなく、兄のようにみずからの感情を解き放つことはせず、泰然としていた。母親がタイタンに旅行した際航宙船の事故で死亡しても泣かなかったし、目の前で兄が年上の子供との諍いで負傷し体内の再生機構が追いつかないほどの出血をしても動じず淡々と応急処置を施した。
一〇代なかばになると有嗣の気難しさは表面的な暴発より内面的な固陋さに向かうようになり、そのころ一〇歳を越えたばかりの有視は泰然としたなかにも意志の強さを宿すようになってきていた。そして兄弟そろって寡黙になっていた。
そんなある夜、八尋家の邸宅である八紘宮の庭園の一つに、有嗣と有視はいた。
もっとも夜といってもグリニッジ標準時で夜であるだけで、彼らは夜空ではなく、大気上層を浮遊するナノマシンが放つ淡い光の下にいた。
環をまとった土星が、淡い夜空の向こうに見えた。母惑星ではあるが、イアペトゥスは土星から遠い軌道を公転しているため、さほど大きくは見えない。それでも有嗣にとって、朽ちた葉のような色をした土星は、全天球で最も親しみのもてる天体だった。太陽などは、自分とは関係のない存在だと感じていた。
有嗣は親愛なる土星を眺めながら、弟に問いかけた。
「擬態はどこまでだ?」
「……何のこと?」
「俺は小さいころ、気難しくて、手がかかって仕方がない子供だってことになってた。不可解でどうしようもない子供だって。だけど、何も難しいことなんかない。大きい奴と戦って倒したかった、それだけのことだった」
「知ってる」
弟は静かに言った。
「そうだな、おまえは知ってるだろうな。だけど、他のみんなはそうじゃなかった。いや、ひょっとしたら貴詮公はわかってるかも……まあいい、そんなことは。俺が頑固者って擬態を覚えたのは最近になってからだけど、おまえはどうなんだ?」
弟は有嗣について知っていると言ったが、有嗣にとっての弟はそうではなかった。弟の落ち着き払ったさまが何かを隠すための擬態であるのかどうなのか、有嗣にははっきりとわからなかった。
「何かを隠しているわけじゃない」弟は答えた。「だけど、最初から隠れてしまってるのかもしれない」
「何だか難解だな」
有嗣にとって、弟の言うことは難解であることが多かった。
有視は少し考えるそぶりをしてから言った。
「僕は……この場所のことがわからない」
「……この場所?」
「兄さんや八尋のみんながいるこの場所のことが」
「人間のことをあんなに知ってるのにか?」
当時からそうだった。有視は有嗣に、さまざまな人間がどのような思惑でどのように動いているか、そのことをよく解説してくれた。自分から積極的にではなく、有嗣に請われたときには、だが。
「兄さんはそう言うけど、僕は人間のことなんか何もわからないんだ。兄さんが願うようなことだって、本当には僕には理解できない」
「俺の願うこと? 世界征服とかか?」
「違うよ。――世のなかから、悲しい思いをする人がいなくなればいいのに」
「……ふん」
心の深いところを見透かされているような気がして、有嗣はそっぽを向いた。
「でも僕は、そんなことはわからない。だからせめて、別のことがわかるようになりたい」
「別のこと?」
「たとえば――」
弟は有嗣と同じ夜空を見上げた。その視線の先には土星があるはずだが、有視はもっと遠くを見ているような気がした。
「――この世界とか」
そのとき、有嗣は弟の横顔に底知れぬ何かを感じてぞくりとした。それは恐怖ともまた違う、肉体の奥底を燃やすような感覚だった。
有視が恩寵学校に通うと言いだしたのは、そのすぐ後のことだった。
あのころから、二人とも遠くを見ていたと思う。天に浮かぶ母惑星よりももっと遠くを。ただしその「遠く」は、それぞれに違う、それぞれ同士でも遠く遠く隔たったものだった。
今無理やり呼び寄せて同じ艦に乗り込み、同じ方向に航行しているが、向かっている場所はどれだけ異なっているだろう。そのことを考えると、かすかな寂寥感に襲われるのだった。
有嗣は意識をイアペトゥスの地表から烏羽玉の艦内に戻した。
二一歳となった弟に問う。
「まだ心配事があるのか?」
沈黙があった。
たいした長さではなかったはずだが、有嗣にとっては居心地の悪い静寂だった。
「……兄上は、何を望みますか?」
沈黙ののちに有視の口から出てきた問いが、それだった。抽象的な問いだったが、有嗣は迷うことなく答えた。
「ふん。戦いにあたって望むことなど、一つしかありはしない。喰らうこと、ただそれだけだ」
それに対して、有視は意見を述べることはしなかった。表情の変化はなく、その内心をうかがい知ることはできない。
「他には?」
有嗣は問うた。
しばらくして、有視は流れるような綺麗な動作で頭を下げた。
「ございません」
その言葉に心なしかほっとして、有嗣は立ち上がった。そして正座したままの有視に言葉をかける。
「とにかく、今後は会議には出ろ」唇の端に、わかりづらい笑みを浮かべる。「客分であれ軍に入った以上は、上官の命令は聞いてもらう」
今度は、沈黙はなかった。有視はふたたび頭を下げて答えた。
「了解いたしました」
2
人が軍に入る理由には、いくつかの類型がある。
「普通」以上を求める野心家か、それが家業であるか、宇宙や航宙艦や兵器や戦争が好きな趣味人か、他者からの承認欲求が強いか、たまたまグリーンホーンとしての資質を認められて航宙艦に乗り込んだ技術者や医療関係者か、責任感や義務感のたぐいが強いか、想像力が貧しくて戦争以外の暇つぶしを見つけられなかったか、熱心な木星主義者であるか、熱烈な反土星主義者であるか……だいたいそういったところだった。
しかし、のちに第二次恩寵戦争や初期の《聖婚王朝》について多くの貴重な記録を残すことになるモニカ・スカラブリーニの場合は、そのいずれにも当てはまらなかった。
男を追って、軍に入ったのだった。
ただ、そのことがさほど詩的であるようには、彼女には思われなかった。仕方なしにという感覚の方が強かった。彼女を駆動したのは情熱などではなく、義務感とか責任感とかに気まぐれが混じり合ったものだった。
人類暦二四九六年、恩寵暦四三二年七月七日の時点で彼女は一九歳であり、木星軍連合航宙艦隊カリスト第三艦隊第二戦隊隷下航宙艦ヴィレッジグリーンに補給科員として勤務する中尉だった。
このときの彼女もまた、気まぐれで行動していた。
仕事が手隙になって何となくという理由で、〇・四Gに重力制御された上級士官の個室区画にやって来ていた。職務上の目的もない一中尉がこの区画に立ち入ることは許されていないのだが、彼女は涼しい顔で靴音を鳴らして通路を歩いていた。問題であるという意識はなかった。
二〇〇〇から三〇〇〇の人々によって運用される航宙艦は一つの小さな都市であり、都市ごとに文化が異なるのと同様艦ごとに気質の違いがあった。「自由な気風」というのがこの艦、ヴィレッジグリーンの文化的な特徴だった。もちろん軍隊である以上、上下関係も命令も存在するのだが、上官に対する態度や風紀といった面ではさほど厳格ではなかった。
だから彼女は、気安くこの場所を訪れていた。
しかし実のところ、それは彼女だけに許された特権だった。そしてそのことに、彼女自身は気づいていなかった。気づいていたなら、平然としてはいられなかったはずだ。自分にだけ許された特権を納得できる理由なしに享受することは、彼女の基本的な性格上、矜持が許さない。もちろん彼女にその権限を附与した――彼女のこの区画への立ち入りを黙過するよう保安要員に指示した艦の首席幕僚バラージュ大佐にとっては確たる理由あってのことなのだが、それを聞かされたところで彼女は納得できなかっただろう。
さすが上級士官、とこのあたりに足を踏み入れるたびに彼女は思う。他の機能に付随して重力が存在し結果的に歩けるようになっているというのではなく、歩くという目的、つまり快適さのためだけに通路が設計されているのは、艦内ではここしかない。他の場所でも重力自体は生成されているものの小さなもので、感覚としては歩くというよりは跳ぶのに近い。
〇・四Gという重力は、火星のそれに合わせたものだ。地球外に進出した人類にとっては、その程度の重力が地球の一Gよりも親しみやすいものだった。圧倒的な自然美をもつ地球だが、こと重力環境に関しては、地球の外で生まれ育った者たちにとってはいかにも重苦しく縁遠く感じられるのだった。もっとも今となっては、地球も火星もともに人類の支配下にはない。
前方から、まるでコメディ番組の効果音のような騒々しい物音が聞こえてきた。その物音が今まさに向かっている場所でしたのだと気づいて、彼女は少しだけ足を速めた。
その場所――ヴィレッジグリーンの機関長の個室を覗き込んだ彼女は、思わずあっと声を上げた。
ベッドの上で、若い男が口をひん曲げて仏頂面をしていた。その男が仏頂面なのはいつものことだったが、奇怪なのは、後転の途中のような体勢でひっくり返っていたことだった。
その体勢のまま、男は呟いた。
「もうちょっとだったのに」
「何がもうちょっとなの?」
問いかけると、陸貝のような体勢のままその男はゆっくりとこちらを向き、そして目が合った。そこではじめて、彼女の存在に気づいたようだった。
また何かろくでもないことをやっていたに違いない。証拠はないがそうに違いない。そんな決めつけが口調や表情に表れていたようで、男の顔がさらに不愉快そうになる。
男の名は、クラウディオ・チェルヴォ。航宙艦ヴィレッジグリーンの機関長であり、彼女と同年齢にして大佐の階級を有している。そしてこの男が、彼女を軍へと導いた元凶なのだった。
モニカには、クラウディオの表情の意味するところがわかる。問いつめられたくない、という顔だった。彼女は無視した。さらに、モニカが中尉でクラウディオが大佐であり機関長であるという事実も、彼女の行動を妨げる障害とはなりえなかった。
クラウディオは面倒くさそうに、のっそりと立ち上がった。
中肉中背だが、モニカの身長が低いため見上げる恰好になる。鈍い赤色の髪の下の不機嫌さを隠そうともしない顔は、とても大佐という階級の所有者であるようには見えない。ただこれはクラウディオが幼いというより、年齢に比して階級の方が高すぎるのだ。一九歳の大佐など、太陽系全体でもそうはいないはずだ。階級制社会をもち強引な人事が通りやすい土星ならまだしも、手続きを重視する民主制文明圏である木星においてはなおさらだ。
ともあれモニカにとって目の前の仏頂面は、もう一〇年以上も、カリストの工廠街ヒューゴ・ビルイェルにいたころから見慣れた顔であり、大佐だろうが元帥だろうが関係なかった。
「何やってたの?」
有無を言わせない口調で訊く。
クラウディオは最初顔をしかめ口ごもっていたが、ごまかす方が面倒だと悟ったのか、不本意そうに話しはじめた。
彼は、この艦のノウアスフィア機関の「緩衝体」に接触を試みていた。緩衝体とはノウアスフィア機関と艦長の脳神経の間の連係を管理するAIであり、これは艦長と一対一の主従関係「契約」を結ぶ。一度関係を結んだ緩衝体は、別の者を受けつけない。クラウディオは機関長の権限を利用して緩衝体のいる中枢ネットワークにまで到達し、その緩衝体と契約を結び――いわば艦長から強奪しようとしたのだった。
その話を聞いて、モニカは呆れかえった。抗命罪どころかほとんど反逆罪ものだ。いくらこの艦の空気が鷹揚でも、限度というものがある。艦の指揮命令系統中枢に対する内側からの攻撃なのだ。
ただ、どうしてそんなことを試みたのかはだいたい想像がついた。だからモニカは、別のことを訊いた。
「緩衝体を強奪って、そんなことできるの?」
「できるはずだぜ」クラウディオは悔しそうに言った。「すくなくとも、ビルイェルではやった。艦につなぐ前のだからまだ幼体だったけど、基本は変わらないはずだ」
「でも失敗したんでしょ」
「…………」
クラウディオは口をつぐんだ。先刻からの表情を見れば、結果は言われなくともわかる。
モニカの問いに直接答えずに、クラウディオは自分の両手を見ながら不可解そうに言った。
「一瞬だけだったけど、あいつ、人間の神経系を乗っ取りやがった。それで、あいつに勝手に身体を動かされて、自分で自分を吹っ飛ばすみたいになったんだ……」
「で、あんな恰好になったと」
モニカは冷たく言った。クラウディオの不可解は、一補給科員であるモニカにはわからない。わかるのは、なぜ彼がそんなことをしたのかだ。
新任の艦長が気に食わないからだ。
マクシミリアン・ルメルシェという名の新任艦長は、クラウディオと同年齢の一九歳にして、准将の階級をもつ。こちらは、そうはいないどころか、木星軍にただ一人しかいない一〇代の将官だった。
それが気に食わないのだ。
これまでにモニカが何度となく聞いたクラウディオの主張を要約すれば、次のようになる。
天才と呼ばれるのは自分一人でいい。そもそもヴィレッジグリーンの艦長には自分がなるはずだった。天才の称号も、唯一の一〇代の将官という名誉も、艦長の地位も、ぜんぶ泥棒猫であるルメルシェに横取りされた。気に食わないといえば、ルメルシェの人間性自体もそうだ。取り澄ました感じで余裕ぶっているのも、何となく見下すような目で見てくるのも気に食わない。
「ああそうだ、まだあった」
「何」
「あいつ、この前食堂で同じメニュー頼みやがったんだ。普通やるか?」
クラウディオの表情は真剣そのものだった。何となくその真剣さがうらやましくなったが、口に出しては冷淡にこう言った。
「で、気に食わない艦長に赤っ恥をかかせてやろうとした、と」
「ま、まあ、そんなところだ」
クラウディオは腕を組んで頷く。それに対してモニカは、端的に言った。
「ばっかじゃないの」
モニカの言葉に、クラウディオは最初啞然とし、次に歯ぎしりした。
「別に言いつけはしないけど、問題にならないといいね」
そう言いのこして、モニカは個室から出て行こうとした。
そのとき、モニカは気づいた。通路に、いつからいたのかわからないが、長身の男の姿があった。すらりと背の高い、切れ長の目をした、少しばかり生真面目そうな印象を与える男だった。褐色の、細くまっすぐな髪をもっている。珍しく視力矯正用に眼鏡をかけているのが、いちばんの外見的特徴だった。そして肩の階級章は、准将の階級を示していた。
モニカは慌てて敬礼した。
クラウディオもその男の存在に気づいたようだったが、鼻から息を漏らしただけの反応しか示さなかった。
この艦の最高位者であるマクシミリアン・ルメルシェ准将はうるさそうに髪をかき上げ、軽蔑的な眼差しを隠そうともせずクラウディオに向けた。そして一言だけ、クラウディオをいたく傷つけるであろう言葉を吐き捨てた。
「――間抜け」
新任艦長の就任から二箇月、もはや見慣れた対立の場面だったが、この二人が《連星》として歴史のなかで演じる情景を、モニカ・スカラブリーニは予見しえてはいなかった。