サクラコ・アトミカ
第十一回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
ナギはそっとサクラコを押しのけた。サクラコの目の端に、邸内で血を流して倒れている側女たちのすがたが映し出された。可憐な桜色の唇を嚙みしめて、サクラコは影を見上げながら庭の隅へ退避した。
ぱぁっ、と光の粒が砕けて、ナギの白い翼が消滅した。その代わり、砕けた光の粒子が剣のすがたに再構成されてナギの右手に収まる。細長い刀身が波打つように湾曲する、フランベルジュと呼ばれる剣だった。
「名乗った方がいいかな」
「丁都軍人にまだ誇りというものが残っているなら」
「丁都近衛師団独立大隊特一等戦闘士官、ナギ・ハインリヒ・シュナイダー」
「はじめまして『無敵の個体』。おうわさはかねがね」
「ぼくの名前にびびって、逃げてくれるとうれしいな」
「阿岐ヶ原陸軍秘密戦技能士官、赤司源一郎。できれば逃げたいところですがそうもいかないもので」
「お互い因果な商売だね」
「全く以て」
言いながら、赤司は鞘を鳴らして腰の刀を引き抜いた。側女たちの血脂は既に拭われていて、青光りする湾曲した刀身が月明かりを弾いていた。
ナギは不敵な眼差しで赤司を睨み上げたまま、心中で音のない舌打ちをした。サクラコを連れて力の限り飛行したことで疲弊の極みにある。そしてこの赤司という男が、そのタイミングを見計らって襲撃をかけてきたことも理解していた。
「サクラコ」
ナギは庭園の隅にむかい、そう呼びかけた。強張ったサクラコの顔が上がる。
「必要なときはぼくを呼んで」
「……?」
「それでぼくはきみのところへ駆けつけられる」
謎めいた言葉を短く告げた。サクラコは訝しげに眉根を寄せるのみ。
屋根の上の赤司は、右手に提げた刀の反りに左手を添え、目を閉じて心胆を整えたのち、確固たる変性意識状態を引き起こしてからナギへ言葉を贈った。
「赤司源一郎はナギ・ハインリヒ・シュナイダーの右手首を斬り落とした」
赤司の言語がナギの内部表現へアクセスする。暗示効果が働き、ナギの変性意識が揺らぐ。
ナギの内部表現へ、右手首を斬り落とされるイメージが伝わる。ナギは強烈な変性意識を生成して赤司の暗示を振り払う。これをわずかでも信じてしまえば、物理世界において赤司の予告が達成されてしまう。
『ぼくの手首の切断面からは新たな剣が生じた』
ナギはそのイメージをおのれの意識の最奥へささやいた。
手首を切断されることはもう前提である。この疲弊さえなければ赤司のイメージそのものを覆すことは可能だが、現在の状態では難しい。地に足のつかないイメージを抱けば取り返しのつかないことになる。「肉体が疲弊の極みにある」という確固たる事実が、厳然と抱けるイメージを著しく制約する。
赤司の身体が人工の夜空へと浮き上がった。
そして鷹のごとく、ナギを目がけて斜めに降下してくる。
右手の刀が月光をはじく。蒼い光が散る。長い外套がコウモリの翼さながらふわりと広がる。
ナギは右手に持ったフランベルジュを顔の前に突き出して剣尖を横へ流した。
中空を滑る赤司の上体がねじれる。ねじれながら右手の湾曲刀を横殴りに振る。
波打つフランベルジュの刀身が赤司の斬撃を受けた。ふたつの剣を構成する光粒子が砕け散る。
湾曲刀から赤司の力量が伝わってくる。非常に厄介な相手であることがそれで知れた。
よろしくない。非常によろしくない。
無言の愚痴を胸中へ垂れ流しつつ、ナギは右手首を切断されるタイミングを待つ。恐らくは切断されてからが勝負だ。それまでの劣勢は我慢するしかない。
赤司もナギが本調子でないことには気づいていて、剣をかわしながら世間話を仕掛けてくる。
「ずいぶんお疲れのようですね」
「デート疲れ。きみんとこのお姫さま、わがまますぎ」
「そのまま姫君を連れて阿岐ヶ原までおいでになれば良かったのに。あなたならいつでも歓迎ですよ、無敵の個体」
「一応、丁都軍人の誇りが残ってるもんで」
「それは残念」
ただの世間話ではない。赤司の言葉は全てナギの内部表現を書き換えるための暗示が含まれている。ナギのイメージを制限し、自分を有利に導くための見えない武器だ。術者同士の戦いは、言語による洗脳勝負といっていい。より強いイメージを相手の意識へ押しつけた方が勝つ。
「どうでもいいけど、さっさとぼくの手首飛ばしなよ」
「失礼。有名人とのお喋りが楽しかったもので。では遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
「斬り落としたあと、わたしはあなたの切断面から生じた剣をもう一回斬り落としますけど」
「やれやれ。参ったなあ」
どうやらこちらの内部表現を読まれているらしい。おそらくは集合的無意識領域を通じてナギの意識を覗き見しているのだ。赤司の実力が知れた瞬間、ナギは右手首に焼けつく痛みを感じた。
切断された右手の先がフランベルジュを握りしめたまま夜空を舞い飛ぶ。手首を失った右腕から血流が噴き上がる。
「ナギっっ!!」
サクラコの悲鳴が耳朶を打った。何故だかサクラコはナギを応援している。血を噴き上げながらもナギは呆れ顔を庭の隅のサクラコへむけて、残った左手で赤司を指さしながら、
「あの、一応言っとくけど、彼はきみの味方だよ? あの人がきみがずっと待ってた白馬の騎士」
「無駄話しとる場合かっ! また来るぞ、上じゃっ!!」
サクラコの言う通り、赤司は再び中空高く舞い上がり、湾曲刀の剣尖を腰の後ろに回して一直線に降下してきた。
無駄とはわかっていても、ナギは右手首を前方へ掲げた。破られることがわかっていてもそれが自分のイメージだから守らねばならない。迸る血流が発光し、またたくまに新たな剣が右腕の切断面から生えてくる。細身の刺突剣、レイピアだった。
この剣が斬り落とされることはもう予言されている。まず覆らない。ナギは次に抱くことのできるイメージを探した。自分の変性意識が信じ切ることのできる確実な心象風景を。
『ぼくは二分間、赤司の剣をかわしつづけた』
できたのはそれだけだった。しかしいまの状態であれば上出来だった。
その確固とした心象は心理学者がいうところの集合的無意識領域を通じて、言葉にせずとも赤司へ伝わる。
「残念ながら、二分間かわしつづけることはできないようですよ、無敵の個体」
赤司はそう呟いてから斬撃した。
いま生えてきたばかりのナギのレイピアが根もとから切断され、ぼとりと地へ落ちる。
二分かわしつづける、としたナギのイメージを赤司は覆しにかかっていた。彼はナギを二分以内に仕留めるための確固としたイメージを抱こうとしている。
「まずいね」
こうした明らかな劣勢になると、こちらが抱いた未来の風景そのものが敵によって覆されることがある。ナギ自身も滅多に陥ったことのない苦境だった。
ナギは奥の手を使うことにした。
『ぼくは負けたけど死ななかった』
赤司に気づかれないよう、意識領域のぎりぎり最下層のところ、無意識領域の最表面のあたりでそう呟いてから、赤司の斬撃を身体のさばきでかわした。できれば無意識層の深いところまで心象を浸透させたほうが現実への具象が速やかに行われるのだが、それをやれば赤司に感づかれてしまうおそれがあった。できるだけ他者と繫がっていない領域ぎりぎりのところでささやきつづけるのがコツだ。
『ぼくは負けたけど死ななかった』
何度もそう自分へ言い聞かせる。内部表現が『負けたけれど死なない自分』に完全に塗り込められ、ホメオスタシスは内部世界の外界との隔絶に気づき、肉体を『負けたけれど死なない状態』へとフィードバックする。
万が一のときにだけ使え、とユキノから教わった、とっておきの手段だった。『負けたけれど』と自分に都合の悪い情報を最初に置くことで、『死なない』という都合の良すぎる情報を内部表現が信じてくれる。かなりの痛みを伴うからあまり使いたい手ではないが、いまはこれ以上の方策が見あたらないからもう仕方ない。
赤司の瞳が真紅に光った。次の刹那、飛び散った光粒子が密に圧縮され、刀身から鹿の角のごとき六つの枝が生じた。七支刀と呼ばれる、阿岐ヶ原固有の斬撃刀だった。使い勝手はともかくこうしたいかつい形状の武器は、使い手には勝てるイメージを、相手には勝てそうにないイメージを呼び起こす効果がある。
振り下ろされた七支刀を、ナギは身体のさばきでかわした。武器を持たない素手のまま、紙一重のところで器用に避ける。刀身から突き出した六つの枝がナギの軍服にかすり、細かな裂傷を負わせる。
徐々にナギは血に染まっていった。呼吸が乱れる。新たな武器を生じさせたいところだが、イメージを抱く隙を与えてもらえない。赤司の斬撃の前に防戦一方、はじめは薄皮を斬られるだけだったのが、やがて頻繁に肉片を削がれるようになり、右腕の切断面は損傷を修復することも出来ず、ひたすら動脈からの血を流しつづけるのみ。
「もうよい、やめよ、ナギ、逃げるのじゃっ」
サクラコが懸命に叫ぶ。血塗れのナギはへらっと笑って、
「覚えといてサクラコ。必要なときはぼくを呼ぶ、って」
さっきと同じことを言う。そのとき、赤司の七支刀がぎらりと人工の星明かりを映した。
「南無三」
大上段に振りかぶってから、赤司は大きく踏み込んでナギの懐へ入ると、七支刀を右斜め上方から左斜め下方へと振り下ろした。
教科書通りの袈裟斬りだった。
ナギの左の肩口から入った刀身が、胸部を斜めに横断して、右の脇腹から抜けた。
ぼとり。
断ちきられたナギの上体が地に落ちる。遅れて下半身がその場に崩れる。
ナギの血が庭を染める。
世界から音が消える。
赤司は左手を顔の前に垂直に立て、屍へむかい頭を垂れた。
「成仏なされ」
庭の片隅、サクラコは目と口を大きくひらいて変わり果てたナギのすがたを見下ろしていた。力なく左手を伸ばして、切断された右腕からはいまだに血を流し、ふたつに断ちきられた肉体から内容物をこぼしている。
先ほど一緒に空を飛んだ、あの美しい肉体はどこにもなかった。ナギはただの無惨な肉塊と化していた。
「あ、あ、あ……」
わずかな喘ぎが、ひらいた口からようやく出てきた。
「ひ、うわ、あ、あ……」
ナギの屍を指さしながら、サクラコの表情がいきなり歪んだ。
「うわあああっ!! あああああっ!!」
可憐さの名残も留めず、みっともなく顔を歪めてサクラコは絶叫した。
赤司の右手の七支刀が光粒子となり、空間へ溶けた。取り乱すサクラコの直前に歩を進めると、赤司は地に片膝をついて頭を下げた。
「姫君がこの者と頻繁に交流していらしたことは存じております。敵へも情を注がれる姫君のお優しい心根、まこと感服の至りにございますが急がねばなりません。ほどなく追っ手がかけられましょう。さ、お手を」
赤司は顔を上げるが、サクラコはそこにいなかった。既にナギの死体の傍らへ駆け寄っていて、切断された上体を抱き上げて泣きじゃくっている。着ている真っ白なワンピースがナギの血に染まるのも構わず、あたかもそうしたら生き返ると信じているかのように、無惨な屍をきつく抱きしめる。
むう、と音のない溜息をついてから、赤司は夜なのにサングラスをかけて、片手で口と鼻にマスクをあてがった。完全な不審者の格好だが、こうして視覚と嗅覚に制限をかけなければ常人はサクラコの美しさにあてられてまともな活動ができなくなってしまう。自我を抑制することにかけては高度の訓練が施された赤司であれども、間近からサクラコの美しさの直撃を受けたなら我を忘れ任務を忘れ人間性を忘れて彼女に襲いかかる危険があった。不審者すがたの赤司は深呼吸して心胆を整え、サクラコの傍らへ駆け寄り、強引にその華奢な身体を肩の上に担ぎ上げた。
泣きながらサクラコは足をじたばたさせる。
「なにをするっ。放せ無礼者っ、わらわに触るなっ!」
「どうかご容赦を」
「いやじゃあ。おんしに抱っこされるのはいやじゃあ」
「姫、お気を確かに。わたしは味方、彼は敵です。生きて阿岐ヶ原へ帰れるのです、どうか、暴れずに」
「ナギぃ。ナギぃぃっ!」
サクラコは泣きっ面で、真っ二つのナギへむかい片手を差し伸べる。呆れながらも赤司は強引に塔から飛び降りた。
「ナギーーーっっ!!」
サクラコの絶叫が、虚しく高空庭園に響いた。動かないナギの屍へ、星の光が降りそそいでいた。