サクラコ・アトミカ
第五回
犬村小六 Illustration/片山若子
「最前線」のフィクションズ。サクラコの美しさが世界を滅ぼすーー。 畸形都市・丁都に囚われた美貌の姫君、サクラコ。七つの都市国家を焼き払う原子の矢は、彼女の“ありえない美しさ”から創られる......。 期待の新星・犬村小六が放つ、ボーイ・ミーツ・ガールの新たな金字塔、ここに誕生!
二.
幻妖の咆吼が全天に轟いた。
地に四肢を押しつけ、狼のごとく、顔を曇り空へむけて、全身から紫紺の炎を噴き上げ、火山さながらの咆吼である。
口腔から放ち出された大気の震動が低く立ちこめた雲をも引き裂く。空間が圧力を孕む。
煮えたぎるその双眸が丁都陸戦兵団威力偵察部隊「加藤大隊」を睨め付けた。
重戦車三両は幻妖の前方五百メートルのところでキャタピラを止め、旋転して目標に対し車体の脇腹を見せた。三つの主砲塔は既に幻妖へ据えられている。その背後にヒドラ歩兵五百、そして大隊の両翼に新型駝鳥に騎乗した騎兵がそれぞれ百ずつ配置される。
「散らばった方が良くないか?」
高度三百メートルにて戦場を鳥瞰しながら、飛行艇「白雪」の指揮所に詰めたユキノ・ヴィルヘルム・シュナイダー大佐は双眼鏡を目に当てたまま独りごちた。
「怪獣の倒し方は教科書にありませんからな」
傍らの猿渡が無造作に答える。ユキノは眼下を仔細まで観察して、
「生還が義務だ。無理をするな、加藤」
届かない言葉を地上へこぼした。
同時に炎の花が地表に芽吹く。
重戦車三両が一斉に砲撃を開始した。八十八ミリもの砲口から放ち出された三つの徹甲弾が幻妖へ吸い込まれていく。敵戦車の装甲を貫通できる射程からの砲撃だった。
獣のごとき戦闘態勢を取っていた幻妖の顔面へ弾丸は直撃した。
水面に石を投げ込んだように、紫紺の炎が飛沫をあげた。
一瞬、ぐっ、と幻妖の首が縮み、わずかに後ろにのけぞった。兜に似た頭頂部の外殻が弾丸を弾くのが見えた。戸惑うような、くぐもった呻きが怪獣の口腔から洩れる。猿渡が頷き、
「痛みは感じているようです。呻きました。やつには痛覚がある」
「あの外殻を貫通せねば。あれがやつの装甲だ。見ろ、動くっ!」
ユキノがいう通り、幻妖は炎のうしろの表情に怒りをたたえ、毛を逆立たせるかのごとくに威嚇の炎をよりいっそう噴き上げて、後ろ足で二度、大地をかいた。
急襲を察知して加藤大隊も動いた。
まず両翼の騎兵が荒野に土煙を蹴立てて進発する。両面から大きく迂回して幻妖を挟み撃ちにすべく、両腕を広げるように相反する方向へ新型駝鳥のくちばしをむける。
そして重戦車一両を先頭に、ヒドラ歩兵百が幻妖へむかい前進を開始した。
ヒドラ歩兵は後方の本隊を守るように四列横陣を組み、整然と進む。前二列が重突撃銃、後ろ二列が軽機関銃を腰だめに構えて、幻妖へ狙いを定めたまま前進する。
低い唸り声が地表を爆ぜる。
幻妖はおのれの頭を地面すれすれへ持って行き、加藤大隊と同じ目線から前方を睨め付けた。後ろ足に緊張が溜め込まれているのがわかる。
転瞬――
ぶわっ、と大気がめくれあがった。
荒野のただなかに一点、真空が現出する。
大気は真空へむかいなだれこみ、紅蓮の炎を芽吹かす。
気がつけば――重戦車一両とヒドラ歩兵百は地上から消え失せていた。
彼らがいたはずの場所にはいまや幻妖だけが残っている。
紫紺の炎をさらに盛大に燃え立たせ、人間たちをあざわらうかのように、悠然と四肢を地に降り立たせ、首を伸ばして本隊を睥睨している。
怪獣の四肢辺りにちらほら、燃え立つなにかが点描されていた。しどけなく手足を荒野に貼り付かせてイモリのように全身が黒く煤けて、燻された死体たちはいずれもヒドラだった。ぱちぱちとそこかしこ、重軽機関銃の炸薬弾が虚しそうに弾けていた。
「くっ」
ユキノは呻いた。予想できていた光景であるが、いざ目の当たりにすると胸が痛む。
「いかん、騎兵、無茶はするな」
辛そうにそう呟く。といっても任務だからそれをしなければならない。わかってはいるのだが、しかしユキノは我が身を以て敵戦力を推し量る麾下の精兵たちがかわいそうでならない。
右翼、左翼の騎兵百は果敢に土煙を朝の中へ蹴立てる。有効射程五百メートルほどの狙撃銃を構え、脚力を生かして目標とのあいだにその距離を維持したまま攻撃を加えんとしている。幻妖が鈍重であれば騎兵には対処できないはず――なのだが。
幻妖を真ん中に挟み込み、有効射程分の距離を置いて、両側面から騎兵隊の銃撃がはじまった。
ざざざ……と水飛沫があがるように、幻妖を覆う炎がさざめきたつ。分厚い外殻がキンキンと音を立てて弾丸を弾き返す。
幻妖が不快そうに身をよじる。総勢二百もの騎兵は機動しながら間断なく銃撃を仕掛ける。
燃え立つ怪獣の眼が、まず右翼を睨みつけた。
それから跳躍する。
しかし右翼騎兵もそれは読んでいたか、全員が見事に気を合わせた手綱さばきで新型駝鳥を旋転させて幻妖の前足から逃れ、さらに距離を取り、再び銃撃する。
左翼騎兵は距離を詰め、自分たちへむけられた幻妖の尻へ容赦なく炸薬弾を見舞う。
ぎああ、と獣の咆吼があがる。幻妖は振り返り、今度は左翼へ襲いかかるが、しかしこちらの騎兵も日ごろの過酷な訓練成果をこの機会に発揮して怪獣を翻弄する。猿渡が感心しながら、
「わが騎兵もなかなかやりますな。幻妖に損傷を与えています」
「うん。だがもう充分だ、騎兵を戻せ、加藤」
ユキノは歯がゆそうに戦況を見守る。大隊の指揮権は加藤大尉に一任している。白雪のユキノは一部始終を観戦することが任務だ。
幻妖が苛立たしげに空を仰ぎ、喉を鳴らした。ただそれだけで白雪の木造船体がわずかに震える。幻妖を覆っている炎が紫紺色から彩りを変えはじめた。
空間をおんおんと震わせながら、幻妖は前足を地から放し、二本足で直立した。異形の輪郭をかたどる炎は橙色に変じていた。炎のむこうに、両翼の騎兵を睥睨する獣の双眸があった。巨体を支える野太い両足が燃えさかりながら大地を軋ませる。
朝焼けの空を背景に、あまりに醜怪な巨影がそびえ立ち、唯一無二の威容を以て景観を圧する。
雷雲のごとき唸りが幻妖の口腔から洩れ出た。地上百二十メートルからの呻きは、白雪の指揮所内にまではっきりと届いた。
「騎兵戻れっ」
耐えきれず、ユキノが叫ぶ。
叫びと同時に、丘ほどもある巨体が宙へ舞いあがった。超重量の肉体から噴き上がる炎が空を焼いた。
あろうことか、幻妖は背を丸め、曲射砲から放たれた砲弾さながらの放物線を中空に描き出しながら、両腕を高々とおのれの頭上に掲げ、まっすぐに右翼騎兵を目指して降下していった。
狙われた騎兵たちが慌てて手綱を引き戻す。
しかしあまりに幻妖が俊敏すぎた。
旋転が間に合わない――
どおっ、と大地が揺らいだ。くさび形の地割れが荒野を放射状に切り刻む。
降り立ったふたつの巨大な踵から、地との間に挟まれた炎が圧縮されて噴き上がる。
首を騎兵にむかってねじ曲げ、幻妖は右腕を振り上げて、逃げる百人の騎兵へむかい容赦なく薙いだ。
悲鳴さえあがらなかった。
燃え立つ右腕はそれだけで駆逐艦の船体ほどの太さがある。これが地面すれすれを横ざまに薙ぐのだから対処しようがない。
右翼騎兵百は、地上から消失した。内訳は炎の腕の中で燃え尽きたか、地に擦られて圧死したかのいずれかだった。
幻妖は止まらない。休むことなく首だけを左翼へむけると、一瞬わずかに後ろ足に力を溜め込み、さっきと同じようにもう一度、その巨大すぎる肉体を中空高く舞い上がらせた。
左翼騎兵は勇敢だった。
いや、すでに逃走を諦めていたのかもしれない。
その場に留まり、飛来する幻妖へ百の銃口をむけ、斉射した。
百の銃弾が吸い込まれ炎の表面がけば立つ。しかし、それで止まるわけもない。
再びの地鳴りが空間をどよませる。
噴き上がる橙色の炎。四肢を折り曲げた人間のなれの果てが中空へ舞い上がる。幻妖の重量が地に接した音響は悲鳴など搔き消してしまう。新型駝鳥の甲高いいななきすら聞こえることはなかった。
幻妖の首が中空を仰ぐ。禍々しい口腔がひらく。
巨獣の凱歌があがる。その足元に左翼騎兵たちが炭となって四散している。投げ出された肉片と銃器類がやるせなく燃えあがり、地に伏した新型駝鳥たちが白灰色の毛皮を燻らせていた。
「ダメだ、地上では勝てないっ」
ユキノの悲痛な声が指揮所にこだました。猿渡も言葉を失い、なすすべなく屠られた騎兵たちの無惨な死骸を双眼鏡越しに見やるのみ。
地上では本隊に残された戦車二両が三百メートルほどの射程から砲撃を開始した。
そしてヒドラ歩兵四百が、ゆっくりと後退をはじめる。加藤大尉は撤退を決断したらしい。偵察任務だから生還しなければ意味がない。彼らの任務は戦場の匂いを参謀本部へ持ち帰ることだ。
「それでいい。早く逃げろ」
歯がみしながらユキノは双眼鏡を目に当てていた。白雪の武装では幻妖を押しとどめるのは難しい。なんとか戦車二両が踏みとどまって、加藤を戦場から逃すしかない。
しかし――
砲撃を受けながら、幻妖は再び地に四肢を下ろして戦闘態勢を取る。
張り詰めた後ろ足で地をかいている。逃げ延びようとする加藤隊へ眼差しがぴたりと据えられる。
耳元まで切れ上がるような笑みが幻妖の顔の上に咲いたように見えた。
落雷のごとき咆吼が地を爆ぜた。それだけで兵員たちが吹き飛びそうな音圧だ。
幻妖と加藤隊の狭間の空間が圧縮される。
瞬閃――
幻妖の巨体が宙を飛んだ。
一跳躍で戦車二両を踏みつぶし、二跳躍で加藤隊の尻に食いつき、左腕を振り上げる。
その野太い腕が薙がれたとき、逃げていたヒドラ歩兵たちは、加藤大尉も含めて一兵残らず消し炭となり、この世から消滅した。
紫紺の炎がそこかしこで荒野を灼いていた。
空の低いところから差し込んでくる曙光のさなか、ぽつりぽつり、なにかの苗床みたいな炎の塊が朝の風をその身に映して揺らいでいた。その火のただなかにひしゃげた金属装甲と砕けた発動機、折れ曲がった砲身とちぎれたキャタピラが見て取れた。
赤いまだらが点々、炎と炎の隙間を染めている。ぺたりと地面に貼り付き、手足を伸ばしてひしゃげているのは威力偵察部隊の兵員たちだ。血潮をおのれの周囲ににじませ、いずれの死体も黒く煤けてくすぶっている。
「全滅……」
依然として自失したまま、ユキノはその事実を口にした。
「陸からではいかんともしがたいと思われます。やはりこれを撃滅するには飛行艦隊を差し向けるしか」
傍ら、猿渡が冷徹に告げる。
ユキノはなんとか思考を醒まし、加藤大隊の挺身がもたらした成果を鑑みる。
矛を交えて、わかったこと。
幻妖を相手に、陸戦部隊のみでは太刀打ちできない。が、空戦部隊には幻妖は手出しができない。いかな怪獣も、空を飛ぶことはできないらしい。機関銃は通用しないが重戦車からの砲撃はそれなりに有効だった。幻妖の肉体は物理的な衝撃を以て破壊することができる。
同じく白雪に乗り合わせて観戦していた生物学者、物理学者が幻妖の体積、密度、体重なども算出したことだろう。対策はこれからだ。加藤大隊を犬死ににはさせない。
「丁都には指一本触れさせん」
燃えさかり、勝ち誇る幻妖を見下ろしながら、ユキノは決意を込めてそう呟いた。