大坂将星伝
第六章 国持ち
仁木英之 Illustration/山田章博
戦国の世に“本意(ほい)”を貫いた男ーーその名は、毛利豊前守勝永(もうりぶぜんのかみかつなが)。家康(いえやす)の前に最後まで立ちはだかった漢(おとこ)の生涯を描く“不屈の戦国絵巻”、ここに堂々開帳!
第六章 国持ち
一
九州を屈服させた秀吉は、既に先を見ていた。
小早川隆景に筑前、筑後など三十七万石、立花宗茂に筑後柳川を中心とした十三万石、森吉成、太郎兵衛に豊前小倉周辺合わせて七万石、黒田孝高に豊前中津など十二万石を置いた。
九州の出入り口を固める一方で、薩摩は島津義久、大隅は島津義弘に与えて安堵し、そのすぐ北に位置する肥後には、古豪である佐々成政を送り込んで支配の強化を進める方針を示した。
懸案の東方に対しても秀吉は抜かりなく手を打っている。島津攻めの前に家康を伏見に招き、彼が応じるという形で天下に関係の改善を喧伝できた。だが、東海から東の関東には北条、そして東北には伊達と、秀吉に服従を誓わない大勢力がまだ存在した。
戦いを進める経済的な基盤は、領土である。秀吉は直轄領である蔵入地を西日本を中心に広くおき、その石高は二百万石に近づく勢いであった。
九州でも敵対した国人たちの領土を没収し、さらに味方した者たちにも国替えを命じたり、秀吉が派遣した武将の直接の家臣、給人になるよう奨めている。そうして得た蔵入地の管理も、九州に派遣された武将たちの使命であった。
豊前小倉は長州下関から関門海峡を越えて間もなくのところにある、九州の玄関にあたり、まさに要地中の要地であった。北に九州と本土を隔てる海、東に妙見山、西に石峰山、南西から南方にかけても山並みが続いて天然の要塞ともなっている。
九州での論功の席で、秀吉は吉成の働きを激賞した。四国勢を導いて最後まで九州に残り、先鋒を務めては岩石城の攻略に力を尽くし、肥後表でも先頭に立ち続けた功は、数万石に値すると言って、小倉を与えたのである。
「殿は見ていないようで、見逃すことがない」
岩石城での功第一は、蒲生氏郷ということになっていた。秀吉もそう公言していたし、吉成も不平を態度に出していない。
だが、吉成のこれまでの働きを知る者たちは、一躍六万石を得たことを我がことのように喜んだ。真っ先に訪れたのは、黒田孝高で、
「どうだ。あなたの働きはもっと大きいのだが、見えない功績を誉めたたえることは難しくてね」
まるで己が口を利いたおかげとでも言わんばかりの得意顔を見せた。吉成は素直に礼を述べる。一方で、さらに無邪気に喜んでくれたのは後藤又兵衛であった。
「もう軽々しく太郎兵衛なんて呼べないな。関白さまから直々に一万石をもらうとは、なんて果報者なんだ」
又兵衛は仙石秀久の失脚と共に、黒田家に帰ってきていた。
黒田家も城井氏ら国人衆が治めていた豊前六郡十二万石を与えられて日の出の勢いである。秀吉は自らの手で育て上げた諸将を積極的に登用するようになった。加藤清正、福島正則、石田三成、小西行長、大谷吉継など秀吉の小姓上がりが秀吉の名代となって諸大名の拝跪を受けたり、大軍勢を率いるようになっていた。吉成親子が一足飛びに見えるほどの出世を果たしたのも、その流れの一環であった。
「六万石、か」
と吉成は呟く。
「殿もいきなり大きな荷を背負わせるものだ」
首を左右に倒して音を鳴らした父の横顔は、これまでになく疲れていた。
「大きな荷?」
「郎党百人ほどの黄母衣衆がいきなり親子合わせて七万石の城主だ。殿から預けられた蔵入地も含めれば十万石を超える。それだけではない。ここ小倉に俺を置いた理由は、九州全体に目を配れということだ」
「誇らしいことです」
大名となることが決まった後の森家の喜びようは、尋常ではなかった。叔父の権兵衛と一族となった九左衛門はいつもの謹厳な顔を崩して酔いつぶれ、二人して城の濠に落ちたほどである。
「誇らしい?」
吉成は無精ひげをばりばりと掻いた。
「畿内や東海は総見院さまや殿のおかげで随分と治めやすくなった。だが九州は無数の国人がいて、その相手もせねばならん」
吉政が頭を痛めているのは、国中に散在する国人領主たちである。一村、一郷を守って代々に土地に根付いてきた彼らと、秀吉が進める天下統一とは衝突せざるを得ない。特に秀吉の行った検地は、貢租の取り立てを円滑にするために、複雑だった村落の境界線や飛び地を整理した。
国の隅々にまで検地の網を張り巡らせ、年貢の納入先は秀吉から認められた領主とされたことで、これまで何代にもわたって守ってきた権益を損なわれた、と反発する国人も少なくなかった。
秀吉が目指しているのは、安定した貢租の徴収であり、領国化である。一方で、服属を誓った国人衆には本領安堵の朱印状も多く出している。安堵を約束されれば、これまでと変わらず、国人領主として振舞えると思うのはある意味自然だ。
その両者の思惑のずれが軋轢の種となるのは、吉成にもよくわかっていた。
「検地をどう納得させるか……。名案はあるか?」
吉成が太郎兵衛に訊ねるほどだから、いい案は出ていないようだ。
「我らはこのあたりに馴染みがないしな。馴染みがなければ、中々素直に言うことを聞いてはくれん。お前もこのあたりの娘を娶って、地の者の心をほぐしていかねばならん。竜造寺家から娘を娶らないか、という話が来ている。豊前の戦いで我らに与力した軍勢を率いていたな」
吉成はふと考え込んだ。
「お前、その娘のことをどう思う」
「どうにもこうにも、知らない人です」
「嫁をもらうのは嫌か」
太郎兵衛が首を傾げていると、吉成は何か一人納得した様子で、城へと戻って行った。
二
国人衆としては、従属はするが臣従はしないというのが本音である。秀吉から本領を安堵されている以上、協力して兵を出し、役務も果たすが、その家臣になった覚えはないのである。
それはもちろん、吉成と太郎兵衛が配された豊前小倉でも状況は同じだった。名が必要だ、と吉成は考えた。
「これから小三次は毛利を名乗れ」
と秀吉が言い渡した時は、さすがの吉成も仰天した。
「森は毛利と似ているからな」
吉成は、豊前の国人衆を家臣へと組み込むにあたって、秀吉と慎重に策を練っていた。新しい主と政への激しい拒絶が、九州の国人たちにはあると彼は見ていた。だから、
「馴染みと重みのある姓をいただきたいのですが」
と吉成が秀吉に願い出てはいた。すると即座にそう答えが返ってきたのだ。
「豊前を島津から救ったのは毛利だ」
秀吉の言葉に吉成は大いに感服した。
「しかし安芸中納言は私のような無名の人間に、姓を貸し与えてくれるものでしょうか」
「小三次よ、お前は己の名を小さく見過ぎている」
こうして話している間にも、何人もの小姓が出入りしては使者の口上や報告を上げてくる。それにすぐさま答えを与えながら、吉成に対しているのである。
「小さく、ですか」
そうは言われても、実際にこれまでほとんど無名だったのである。
「わしの名代として長く働いていたのだから、小倉の城主になってもそれは変わらぬ。お前はわしの代わりとして振舞い、己の言葉をわしの言葉と思って人々に対せばよい」
傲慢に聞こえる言葉だが、そうではないことを吉成は誰よりも理解していた。秀吉は気遣いの人である。敵であろうと味方であろうと、相対する者が何を求めているかを瞬時に理解する。信長のような主君に尽くした秀吉ならではの技量であった。
「豊前の衆がもっとも敬愛しているのは、島津と勇敢に戦った者だよ。毛利にはわしからよく頼んでおくが、小三次は太郎兵衛を連れて挨拶に行け。あと、息子には竜造寺の娘を嫁がせるがいい」
そう指示した。竜造寺は武名を馳せた隆信が戦死を遂げてから、家運は衰える一方であった。かつて九州北部を席巻した勢いは消え果て、今では家老の鍋島直茂に権力を握られていた。
「小倉七万石、九州探題としてわしに信任されている小三次と姻戚になるのは、竜造寺家にとっても悪いことではあるまい」
吉成は黙って頭を下げた。太郎兵衛の結婚など考えたこともなかったが、秀吉の許しも出たなら何も言うことはない。
ともかく、吉成は太郎兵衛を伴って吉田郡山の毛利輝元のもとへと向かった。
吉成は道中でも毛利家の使僧である安国寺恵瓊と頻繁に書状を取り交わし、手順を詰めていく。恵瓊は、
「何か取っ掛かりがあると話が進めやすいのですがな」
と言ってきたが、吉成が自家が大江氏の末裔と称していると返事をすると大いに喜んだ。毛利氏も大江氏の裔ということになっていたからである。その後は、万事障りのないように、輝元と話を進めてくれていた。しかし、問題が一つ起こった。
「又二郎どのが反対しているのか……」
又二郎とは吉川広家のことである。周防と安芸の境まで来た辺りで受け取った手紙を見て、吉成は顔をしかめた。九州征伐において、吉川家は当主の元春、嫡男の元長が陣没したために、三男の広家が跡を継いでいる。
「不都合があるのですか」
「どうにも、御坊と仲が悪いようだ」
広家は毛利家を支える両川、小早川、吉川の一翼を担う武将として重きをなしている。毛利家当主の輝元は従兄にあたる。月山富田城を拠点に十六万石を領している彼は、安国寺恵瓊のような坊主に政を牛耳られているのが面白くない。
「恵瓊師が賛成することには反対したくなるらしい」
「子供のようです」
太郎兵衛は思わずそう評した。
「子供でも力を持てば無視するわけにはいかん。ただ、子供には子供の対し方がある」
吉成は考えた末に、恵瓊に一通の手紙を送った。内容は、吉田郡山を訪れる前に、秘かに月山富田城に広家を訪ねる、というものであった。
「順序が逆では……」
「一人前の男なら道理を尽くせば納得する。安芸中納言も恵瓊師もそうであろう。だが、幼い者は道理よりも目の前の喜びを大事にするものだ。我らがまず挨拶に来たとなれば、満足する」
という吉成の言葉は見事に的中した。
「ひそかに、ということであれば大したおもてなしもできないが」
広家は厳めしい顔に嬉しさを隠しきれない様子で二人を出迎えた。
「まずはこちらに挨拶に出向かれるとは、毛利の家中のことをよくご存じだ。さすがは黄母衣衆にその人ありと言われた毛利小三次どのである。いや、まだ森どのであったな」
そう誉めたたえた後に、
「恵瓊師はさぞやお怒りではないか」
と上目遣いに訊ねた。
「いずれ郡山に着くのであるから、道中どこに立ち寄ろうと気にしないと」
「そうか、そうか。あの渋面が目の前に浮かぶようであるな」
愉快そうに広家は哄笑した。興が乗ってきた広家が、一軍を出して護衛をつけるというのを何とか断って、吉成たちは静かに郡山に入った。
「何度見ても手強そうな城だな」
と吉成が呟くほどの堅固な城である。江の川と多治比川の合流点を天然の掘割とし、独立峰一つを二百を超える曲輪で守った一大城塞だ。
「これが中国の覇者の城……」
太郎兵衛も百万石を超える力を大坂以外で初めて目にし、大いに驚いた。
「この力を我々が自由に使えるとなれば、天下も安らかになろうものだ」
先に広家を訪ねたことに対して、輝元も恵瓊も何も言わない。丁重に挨拶をし、姓を使わせてほしいと願った。
「関白さま入魂の仰せであり、数ある名家の中から我らを選んでくれたのは喜ばしいことである」
遅れてやってきた広家も含め、反対する者はいなかった。
「小三次のような勇者がわが一門に加わってくれて、我らも誇りに思う」
その輝元の言葉は吉成を感激させた。
いきなり姓を貸せと言われて、愉快なはずはないのだ。だが輝元も一門衆も、吉成に対して決して嫌な顔を見せなかった。中国の覇者の度量を見せつけられた思いで、吉成は丁重に礼を述べる。
「もし安芸中納言さまに事あれば、我ら一族命を賭して駆けつけまする」
との言葉に、輝元は鷹揚に頷いた。
「毛利の名はめでたくいただけた。次は実だ」
吉成が太郎兵衛にまずやらせたのは、新しき小倉城の縄張りであった。
「そんなのやったことないですよ」
慌てて太郎兵衛は手を振る。これまでとは違う、肌触りのいい絹の小袖が肌にくすぐったい。麻の粗末な服はもう着るな、と父に命じられている。
「やったことのないのは知っている。俺だって初めて持つ城だ。だがやれ。お前はもうあちこちで城を見てきただろう。長浜、姫路、大坂、土佐、豊前の鶴賀、筑前の岩屋、立花と見聞は広まっているはずだ」
父は命じるだけ命じると、小倉を出ていった。九州のことで秀吉と協議せねばならないことは山ほどあった。
一方の太郎兵衛は城の縄張りをせよと言われて途方にくれた。留守を任されている叔父の権兵衛と家老の九左衛門に泣きついてみるが。
「お前に城の縄張りをしろと兄上は言ったのか。それはさすがに無茶だな……」
叔父も首を傾げた。しばらく難しい顔をして考え込んでいたが、はたと手を打った。
「命じられたからにはやって見せねばならん。だが、一人でやれとも言われていないはずだ。城のことに詳しい者に訊けばいいではないか。誰か心当たりはないか」
そう言われて太郎兵衛も考え込む。
「父上は長浜から始まって、大坂や鶴賀や立花の名前を出していたけど……」
「小倉は言うなれば、関白さまの出城だ。九州の諸将にその強さを見せつけるものでなければならない。だから大坂みたいな城がいいのではないか」
権兵衛はそう言ったが、
「いや、城を守るには山城が有利だ。立花や岩屋の奮戦ぶりから見ても、山に拠るのがいいと思う」
九左衛門はそう言って反対した。
小倉は周囲を海、山、川と囲まれているが城自体の守りは堅くない。半日考えても結論が出なかった太郎兵衛は、宮田甚之丞と杉助左衛門に帯同を頼み、豊前中津へと向かった。
「城とは胸が躍りますな」
最近豪傑ひげをたくわえ始めた宮田甚之丞が楽しげに言った。
「あくまで関白さまにお預かりしたものであることを忘れてはならぬ」
と杉助左衛門がたしなめる。そう叱りつつも、助左衛門も嬉しそうではある。
中津は黒田孝高が本拠としているところで、瀬戸内の海岸線に沿って馬を走らせれば半日ほどで着く。中津へ至ると、こちらもちょうど城を築いている真っ最中であった。まだ塀や矢倉は完成していなかったが、その縄張りはわかる。
中津川を背にして本丸があり、その左右を守るように二の丸と三の丸が南北に設けられている。ちょうど広げられた扇のように、攻め手を防ぐ構造となっていた。
「その地にあった城というのがある」
孝高は忙しい手を止めて、城の隅々まで案内してくれた。
「ここ中津は水が豊かに使える。川は天然の要害であるし、本丸と二の丸、三の丸の間に濠を巡らしておき、矢倉に銃卒を置いておけば敵は本丸に至るまでに全て討ち取ることができるだろう」
自らの縄張りに絶対の自信を持っている、という顔である。だが、小倉のことは知らん、とにべもない答えである。
「城はその地を任された者の器量で造る。城を見れば、戦わずして将の力がわかるというものだ。大坂を見よ。関白さまのお人柄が明らかにわかるだろう」
壮大にして周到、そしてきらびやかな秀吉の性分そのままの城といえた。
「小倉は太郎兵衛とその父で造る城なのだから、お前たち自身を城にすればいいのだ」
そう助言した。
「俺たちを城にする……」
「何のために小倉に来て、何を為すかを考えれば、自ずと形は見えてくるはずだ」
「父上は関白さまの名代として小倉にいて、九州で戦が起こらないようにしたいと言ってました」
「だったら、まず諸将にその気を起こさせないような造りにすべきだな」
小姓に帳面を持ってこさせた孝高は、小倉の地形をざっと描いた。筆に慣れている彼らしい、流麗な筆致である。たちまちのうちに小倉の山河が再現されていく様を見て、太郎兵衛たちは感嘆した。
「こんなことで感心されては困る」
と言いつつ孝高はまんざらでもなさそうである。続けて、小倉の城に小さな丸を描いた。城の本丸がある位置にほぼ違わない。
「よく憶えていますね」
「わしは中国勢の仕切りをしながら九州に上陸したんだぞ。小倉は路地の隅々まで頭の中にある」
筆尻で己の頭を指した後、筆先を太郎兵衛に向けた。
「さあ、どう縄張りする。できるかできないかは別だ。太郎兵衛が思う通りに言ってみよ」
父と合わせて七万石の城といっても、どの程度の大きさにすればいいのかわからない。だが、戦となれば百姓たちが右往左往しているのが印象に残っていた。府内では島津が攻め込んでからひどい略奪にあった家々も目にしている。
「攻められた時に、皆が城に篭ることができたらいいです」
「となると、諸篭りか。小倉は大きな町だから、そうとう大きな構えを作らねばならんぞ」
「町ごと囲ってしまうのは?」
筆を止めて驚いた孝高だったが、
「確かに、大坂は町の半ばを囲っているな」
そう言いつつ本丸を中心に大きな円を描いた。だが、ただ円を描いているようで、川や地形などを考えて微妙に形を整えてある。
「となると、やはり水を上手く使った方がよかろう。曲輪を一から盛り上げていくのは人手も時間もかかる」
小倉城の西に流れる紫川から三本の線を引いて見せる。
「こんな感じでどうだ。中津の城と大きさを揃えてみた」
だが太郎兵衛はもっと大きくとせがむ。孝高が何度か描き直したものを見て、太郎兵衛はようやく頷いた。初めの絵からは随分と大きくなり、紫川と市街の西に流れる板櫃川に至るまでのほぼ全ての地が濠によって囲われた形となった。
「随分と大きくなったな」
孝高は絵図面を持ち上げると、向きを変えたりして何度も何かを確かめていた。
「本当にこれだけの城が築けるかどうかは小三次どのの采配だから置くとして、わしならここに櫓を置いて、狭間はこうやって……」
と孝高の方が城の指図に夢中になり始める。太郎兵衛も横からあれこれ口を挟んでいるうちに、城の見取り図は何枚も床に散らばっていた。外を見れば、日が暮れようとしている。
「興に乗っているうちに一日を無駄に使ってしまった……こともないな。小倉城の縄張りを手助けしたというのは、十分に務めを果たしたと言えるな、うむ」
誰に言い訳をしているのか、そう口にした孝高は、今日は泊って行くように言った。
「城もまだ造りかけゆえ、城下の寺を宿にしてくれ。おおい、又兵衛」
孝高は後藤又兵衛を呼ぶ。どすどすと廊下を踏み鳴らして、熊のような大男が現れた。
「太郎兵衛、殿について城造りを学ぶとは殊勝だな。殿の縄張りは大したもんだぞ」
「城の良し悪しもわからん男が偉そうなことを言うでない。ともかく、太郎兵衛たちを格林寺に連れて行ってやってくれ。あそこなら部屋が空いているだろう」
と城下の寺に案内させた。
「法華の寺だよ。あそこの坊さんはもともと侍だったらしいが、仏門に入って今は辻説法三昧だ。小僧もあまりいないようだから荒れているかもしれんが」
荒れていようが、屋根のあるところで眠れるだけありがたい。太郎兵衛は小倉に来てからの出来事を楽しく話しつつ、中津の城から数町離れたところにある寺に向かった。
だが、薄暗い黄昏時だというのに、寺の前で人だかりができている。
「なんだなんだ、喧嘩か」
又兵衛が嬉しそうに身を乗り出そうとするのを止めながら太郎兵衛が様子をうかがうと、やけに背の高い侍と僧侶が激しく言い争いをしている。
「あれ、明石のおっさんじゃないか」
「明石のおっさん……、ああ切支丹の人だ」
太郎兵衛も一度だけ、京の今井邸で伴天連の神を称える調子はずれな歌を耳にしたことを思い出した。十字架を手に口から泡を飛ばしているのは、明石全登であった。
三
又兵衛はしばらく口論を面白そうに見ていたが、
「何を言っておるのかよくわからん」
とすぐに飽きた。人ごみをかきわけて二人の間に入ると、
「宇喜多のご家老がこんなところで争論とは、お戯れが過ぎますよ」
僧侶を庇うように又兵衛が立った。巨体の二人が向かい合うだけで、やじ馬たちはどよめいた。
「又兵衛か。この坊主、辻に立って邪教を声高に触れまわっておるものだから、我慢できずに争論を持ちかけたら逃げおってな。寺から引きずり出してやり合っておったところだ」
そこから延々と伴天連の教義を説き出したが、又兵衛は耳に指を突っ込んでやり過ごした。
「どれほどありがたい教えかは知らんが、格林寺は客人の宿に使うのだ。そこに立たれていては中に入れぬ」
又兵衛の言葉に、全登はこれは失礼と道をあける。そして太郎兵衛の顔を見ると、ぱっと表情を輝かせて、
「森どののご子息か。九州では父子でいたくお働きになったそうだな。小倉七万石へのご出世、祝着至極であります」
と大声で祝いを述べた。太郎兵衛はやじ馬たちの前で大仰に誉められて恥ずかしいやら照れ臭いやらで、思わず顔を伏せてしまった。
「しかも祝言間近だそうだな。重ねてお祝い申し上げる」
そう全登が言ったものだから、今度は弾かれたように顔を上げた。
「祝言? 誰のですか」
「知らなかったのか? 太郎兵衛のだよ」
「誰と?」
「これはしまった。まだ内密にしておかねばならなかったか」
全登は河童の頭のようなてっぺんを叩いて困った表情を浮かべて見せたが、又兵衛にここまで言ったら全て教えろと迫られ、白状した。
「竜造寺の娘ですか……。島津にやられて、今や肥前の一郡を領するだけになってしまいましたが、確かに九州中に聞こえた名家ではありますな」
と又兵衛は鬚をしごいて感心した。
この当時は親が決めた相手と結婚することはごく自然なことであり、年若くして妻を娶ることもおかしなことではない。又兵衛もなるほどと頷いている。だが、太郎兵衛の知る竜造寺の娘は、年若いというのに男勝りに甲冑を身につけ、薄刃の中国刀を振って敵陣に斬り込んでいくような女である。
鶴崎城を守った妙林尼や日出生城で夫と共に戦って名を馳せた鬼御前など、武略に長けた女性も、これまた珍しくない。
「どうした太郎兵衛、具合でも悪いのか」
又兵衛が心配そうに顔を覗きこむ。
「いえ……」
吉成は確かに妻を娶ってはどうかと口にはしていたが、本決まりになっているとは太郎兵衛も思っていなかった。
「私が祝言だなんだと言ったばかりに、驚かせてしまったな。このような大事は一家の主である小三次どのから直接申し渡されるべきところを、横からなし崩しに教えるようなことになってしまい、まことに申し訳なかった」
全登は丁重に詫びた。宇喜多家家老に頭を下げられては太郎兵衛も何も言えない。
「だがな太郎兵衛、竜造寺と縁を結ぶことは決して悪いことではない」
謝罪のつもりなのか、今度はその婚姻の意味を滔々と話しだした。
「先ほどの国人どものこととも繋がるのだが、九州はやはり彼らの力が強い。かつて信長公が明智光秀や丹羽長秀などの諸将に九州由来の姓を名乗らせたのも、彼らに気を遣ってのことだった」
太古の昔から、たとえ中央の権力であっても本土の強権で支配されることを嫌うのが、九州諸侯の特徴だった。島津は乱暴ではあったが、それでも「九州の流儀」をよくわかっていると全登は言う。
「彼らが守りたいものは、実に明快だ。土地と一族だよ」
「それなら我らも同じではないですか」
又兵衛が口を挟む。
「一所に命を懸けて戦うのが侍です」
「その通りだ。官兵衛どのは播州から豊前中津に移されてきたし、四国や中国にも美濃や畿内から移って来た者も多い。そこで与えられた地を守るという天下さまの指図に従うことに慣れている。だが、九州で代々一所を守ってきた者たちは、他所に行くというあたりが理解できない」
「言われてみればそうですな……。だから力のあるこちらの方が辞を低くしてわかってやらなきゃいけないってことですか。図々しいにも程がある」
又兵衛は不愉快そうだが、全登はそれは違うとたしなめた。
「関白さまがお前や官兵衛どのを播州の田舎者と蔑み、兵を送ってきたらどうする」
「それは、死力を尽くして戦ったでしょうな」
「住む地や習わしは違えど、武者である以上己を蔑む者に牙を剥くのは同じだ。毛利が関白さまとあれだけ激しく遣り合ったのに結局は従っているのも、大友どのが最後まで救援を信じ続けて戦ったのも、そこだ。だから九州でも、中国、四国勢に任せず直接手をかけて欲しかった」
だが、秀吉は多忙だった。
「もう御年五十三になる」
既に、主君信長が世を去った年齢を超えた。
「どうも私には、関白さまが焦っておられるように見えるな」
「焦り? あれほど悠然とした戦をされるお方がですか」
「関白さまの恐ろしさは、あの余裕だ。何があっても、もう一段、二段の構えがあると思わせることだ」
中国攻めの際に本能寺の一件を知った時も、毛利方との交渉では一切そのようなそぶりを見せなかった。清水宗治の切腹を検分した時は涙ぐみさえしてのけたのである。それを見た小早川隆景は、京都での一件を知った後も追撃をかけることを躊躇した。
「明智どのも余りの速さと手回しのよさに、己の手が全て封じられている恐怖の中で冷静さを失った。柴田どのもそうだった。駿府の大将ですらも、戦場では決して敗れていなかったのに、このまま長い戦に引きずり込まれては不利だと思うほどのゆとりが関白さまにはある」
だが、天下に敵なしの秀吉にも恐ろしいものが一つある。
「それは時の流れだ。九州でも自ら薩摩に入ってゆったりと回られて行ったように思えるが、後の始末は諸将に任せたきりで東国のことに取りかかってしまった。東でも周到に事を進めておられるが、頭の中は唐入りで占められているように思える。そのようなことでは、必ず過ちが出る」
秀吉は、天正十五年に九州の仕置きを一段落させた後、関東一円を勢力下におく北条氏の対応に追われていた。何とか軍を出すことなく屈服させようと手を尽くしていたが、関東に覇を唱える北条氏側もなかなか従おうとしない。
秀吉の目が東を向いている間に乱が起きるのではという危惧を抱いて、全登は中津へやって来たのである。
「小三次どのは関白さまをよくご存じだ。どうすれば良いか、要点をよく掴んでおられるはず。太郎兵衛に竜造寺の娘をもらい、毛利の姓を頂戴したこともその一環だろう。だが官兵衛どのがあれほど短兵急な方だとは思わなかった。これでは禍根を残すぞ」
矛先が主に向いて、又兵衛はくちびるをへの字に曲げた。
「殿の悪口を言うのは止めていただきたい」
「悪口ではない。国を誤らぬよう、力を貸して欲しかったのだ。九州の国人たちを納得させるのに時間をかけなければ必ず暴発するというのに、官兵衛どのは従わぬ者たちは根こそぎにすると言う」
吉成と官兵衛の方針は随分と違うようであった。
「ああ、関白様を含め、全ての大名がでうすに帰依すればこのような憂いもなくなるものを。でうすの前では皆が等しく、どの地、どの立場にいても胸襟を開いてわかりあえるものを」
全登は大仰に天を仰いだ。
四
城の縄張りの次は姻戚だ、と吉成は続けざまに手を打った。だが、竜造寺の娘を太郎兵衛の妻にするのには、手こずった。
「嫁ぐことは家のことゆえ承りますが。私には妖が取りついておりますゆえ」
と花嫁になるはずの娘が、吉成に対して物怖じもせず、きっぱりと断ったからである。
もちろん吉成は、あらかじめ何度も肥前に使者を送って、竜造寺家の実権を握っている鍋島直茂に頼んではいた。竜造寺の当主である政家も同意している、という報は直茂からあったが、肥前に行ってみるとどうにも話が違う。
「困ったことだ」
大して困った様子も見せず、鍋島直茂は肩をすくめた。
「うちの姫さまはどうにも嫁入りがおいやと見える」
鍋島直茂は肥前三十万石を治める竜造寺家の柱石である。
先代の竜造寺隆信とは義理の兄弟であり、竜造寺家が九州一円に名を轟かせるにあたって大いに働いた。隆信が死んだ後も、後継ぎの政家を守って島津の攻撃を耐え抜き、秀吉を九州に呼びこむに功績があったが、そのうちに政家から心が離れていった。
「わしは阿呆が嫌いでな」
客人である吉成に、隠すことなくそう言った。
「隆信さまは年を経てから阿呆になったが、その子は若くしてもう駄目だ。もう肥前は関白さまにお譲りした方がよいとすら考えている」
これからその娘を嫁にもらおうとしている人間に向かって随分なことを言う、と吉成は呆気にとられた。だが、直茂はそんな単純な人間ではない。吉成は直茂が強い言葉を使ってこちらの意図を探ろうとしていることに気付いた。
「殿は竜造寺家と鍋島どのが肥前をよく治めておられるとお喜びです。うまく治まっているところをわざわざ替えたりはしませんよ」
「駿府の大将は関東に国替えをされたようだが?」
「それは北条の後で余人が治めるのは難しく、致し方のないことでありますゆえ」
吉成の言葉に、直茂は表情を少し和らげた。だが吉成はこの竜造寺家の家宰に対して警戒を強めていた。
「わが子におあんさまを嫁がせることに、鍋島どのは……」
「あなたは関白さまの黄母衣衆として長年働き、九州での戦ぶりも見事だった。ご子息の評判も聞いている。おあんさまの嫁ぎ先として大賛成でござるな」
と直茂は言いきった。
「しかし妖とはおかしなことを言うものですな」
「私への精いっぱいの反抗でござろう」
直茂が苦々しげに舌打ちする。
「何が気に入らないのです」
「私が関白さまと結託して、おあんさまを肥前から追い出そうとしている、とお考えだ」
「追い出す? 何故ですか」
「肥前を奪われると思っているのだよ。だから化け物がついているなどと、馬鹿げたことを口にする」
直茂はため息をついた。
「肥前を簒奪するおつもりは?」
吉成の思い切った問いに、直茂は悪びれることなくそのつもりだと答えた。
「これからも難しいかじ取りが続く。なのに、殿のようなうつけに肥前を任せていては、民たちが苦労するばかりだ。民が苦しめば国は弱くなる。弱くなれば、また蹂躙される。そうはさせぬ」
と言い切った。吉成はむしろ、このような男が肥前にいることに安堵した。吉成の表情をじっと見つめていた直茂は、
「ともかく、あのじゃじゃ馬は乗り手を選ぶでしょうな」
そう吉成に告げた。
「毛利どのが談判をなさってもいいだろうが、ご子息に直接口説かせてはいかがか」
と、驚くようなことを言った。だが吉成は、しばらく考えて頷いた。
「本当になさるおつもりか」
自分から言いだした癖に、直茂は意外そうに言う。
「我らはよそから九州に来た者です。おあんさまも不安でございましょう。その心を動かすためなら、どのような労も厭いません。鍋島どのが助言して下さったことならなおさらのことです。妖を払って見せるほどの気概を見せねばなりますまい」
吉成の言葉に、直茂は本当に驚いた表情を見せた。
そうして小倉に戻った吉成は、太郎兵衛が妻を迎えるために肥前を訪れるよう告げたのであった。太郎兵衛はおあんが妻となることが事実だと知って、目が回る思いだった。
「向こうが嫌がってるんですから……」
と言いかけて凄い一瞥を食らって口を噤む。もちろん、己の結婚について文句を言うことなど許されない。せめて大人しく来てくれれば気も楽だが、嫌がられている。だったらこの話はなしにしてもいいのでは、と太郎兵衛は考えたのだ。
「娘の心一つ掴めずして、豊前の、いや九州の人々の心を掴めるか」
吉成は厳かに言った。
「豊前の国人たちは、今のところ殿の朱印を得ておとなしくしてくれている。だが、心から従ったとは到底言えない。肥後で佐々陸奥守がなかなか無茶をしてくれているおかげで、九州の国人たちは疑心暗鬼に囚われている。豊前でも官兵衛どのは相当に厳しく臨んでいるようだ。殿の命は曲げられぬが、元からいる者たちから信を得るのは大切なことだ。だから嫌がっているのなら尚更、心を尽くして迎えなければならん」
困り果てた太郎兵衛は、叔父たちに助けを求めるように視線を向けるが、誰もが困ったように目を逸らした。毛利家の男たちは揃って謹厳で、女遊びをするという風ではない。もちろん、吉成も例外ではない。
「そ、そんなのどうしたらいいんですか……」
「妻を娶るということは、他家の娘をいただくということだ。娘だけをもらうのみではなく、家ごと引き受けてくる覚悟で話をしてこい」
否応なく、太郎兵衛は城から追い出された。又兵衛に訊こうかと思ったが恥ずかしくてできない。さすがに気の毒に思ったのか、叔父の権兵衛が城の外までついてきてくれた。
五
肥前の村中城は、太郎兵衛の暮らす小倉から五日ほどの距離にある。有明海に面した平城で、城を高く盛り上げるのではなく、周囲に土塁を築き、樹木を植えて城の姿を隠すという一風変わった姿をしていた。
竜造寺氏の居城であったが、今や鍋島直茂が本丸の主として振舞っている。太郎兵衛が向かったのは、城の二の丸である。竜造寺一族は本丸ではなく、そこで暮らすことを余儀なくされていた。肥前七郡三十二万石を任されているというのに、どこか暗い空気が漂っている。
「おあんを貰ってくれるのか。それはもの好きがいたものだな。ははは。わしは一向に構わんよ。どうせ肥前も鍋島のものになるのだ。家臣に言うことも聞かせられぬわしが、太閤さまの命に逆らえるわけがなかろう。持って行け」
体が弱いのか、青白くむくんだ顔をした当主の政家が力なく笑う。
「父が挨拶に参ったのですが、断られたようです。それで、直に話をまとめてくるようにと」
政家は何がおかしいのか、話を聞いているのかいないのか、乾いた笑いを発し続けている。
「それはそうだ。あおんには化け物がついているからのう」
「化け物?」
「そうだ。我が竜造寺家が鍋島づれに操られておるのも、主であるわしが二の丸に押し込められておるのも、全てそのお玉という猫の化け物のせいだ。おあんはたいそう可愛がっているようだが、それもまた気味が悪い。そうだ、お前はおあんが欲しいのであろう? では一つ頼みを聞いてくれ」
その化け物を退治し、竜造寺家を闇から救ってくれと言うのだ。
「そうすれば我が一族も、再び父の代の栄光を取り戻すであろうよ。ひ、ひひひ」
政家には近習もいないようであった。広間の窓は全て閉じられ、饐えた臭いが漂っている。蝋燭が数本揺らめいているだけの二の丸の広間には、主の笑い声だけが響き続けていた。
太郎兵衛は退出すると、ほっと息をついた。重い空気に包まれた二の丸の中でも、政家が閉じこもる広間は異様だった。
猫の鳴き声がした。
はっとして頭上を見ると、一匹の黒猫が大きな鼠を咥えて太郎兵衛を見下ろしている。鼠から血が滴って、慌てて避けた。
「こちらへ」
奥向きで働く老女なのか、気配も感じさせず太郎兵衛の背後に立っていた。返事も聞かず、広間のさらに奥にある一角へと案内する。二の丸の庭は殺風景で、つつじがまばらに植えられているだけだ。そして庭全体が、どことなく獣臭い。
「姫さまはこちらにおられます」
一室の前で足を止めた老女は、そう言い残して去っていく。声をかけると、
「どうぞ」
という声がした。静かだが、二の丸の中では唯一生気のある声だ。障子を開けると、中は暗かった。蝋燭すら点けていない。そこにはただ、真っ白な顔が浮かんでいるようで太郎兵衛は息をのむ。
「いかがされましたか」
その声で我に返る。部屋の奥に座っているのは、白き肌の少女だった。黒く豊かな髪は丁寧に櫛を入れられ、薄暗い部屋でもぬめらかな光を放っている。
「森……いえ、毛利太郎兵衛です」
「竜造寺肥前守の娘、おあんです。どうぞお座り下さい」
当主の政家と違って、堂々とした態度だった。
「ご用向きは」
と問われて、自分がこの娘に求婚しに来たことを思い出す。顔に血が上り、言葉が出てこない。何とか絞り出したのが、
「化け物に取りつかれているのですか」
という間の抜けた問いだった。目を丸くしたおあんは袖で口を覆う。何か香を焚きしめているのか、ふわりと柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。獣臭さは、この部屋に入った途端に消えていた。
「化け物、ですか。私に取りついているとして、それが何か?」
おあんは袖から口を離し、太郎兵衛を見つめる。
「その化け物を何とかすれば、おあんどのを妻にしてもよい、と肥前守さまは仰いました」
とようやく本題を口にする。既に用向きを予見していたのか、おあんは驚きを面に表すことなく、
「それがお家の決めたことなら、従いますが、太閤さまに取り入り、私を父上から引き離せば肥前を我が物にできるという鍋島あたりの魂胆ならば、面白くありませんね」
否定しようとして、太郎兵衛はおあんの強い視線に射すくめられた。
「ですが、私についているという化け物を、あなたにどうにかできるのでしょうか」
と静かな口調で問うた。
「……やって見せます」
「あなたが化け物と呼ぶ者は、誰よりも純な気持ちで私に仕えてくれています。それを忘れぬよう」
太郎兵衛には、おあんがごく正気であるように思われた。化け物がついているのは、むしろ政家や二の丸自体であるような気がしたが、挑まれた以上は応じなければならない。
それから数日、太郎兵衛は村中城の二の丸廊下で、寝起きすることになった。左文字の太刀を抱き、夜になっても横になることはない。
おあんに取りつくという化け物の正体を見極めるべく、じっと待っていた。五日が経ち、雨となった。庭に漂う獣臭さはさらにひどくなり、耳元を飛ぶ蚊の羽音が不愉快だ。だが太郎兵衛は、庭に立つ影を見て立ち上がった。
その影は背中を丸め、顔を突き出して太郎兵衛の様子をうかがっている。
「化け物というのは、お前か」
と太郎兵衛が問うと、その影は背を伸ばして立った。腕が柳の枝のように長く垂れ下がっている。腕の先に一尺はありそうな爪があることに気付いた瞬間、影が飛んだ。体を丸め一気に跳躍する力は人間業ではない。
だが、太郎兵衛は左文字を抜き放つ。肩が痺れるほどのその一撃に、彼は憶えがあった。
「小倉の紫池にいた……」
島津攻めの際に、各地の軍勢が小倉に集結した。太郎兵衛は父が一軍を任されるのが嬉しくて、小倉城のすぐ側を流れる紫川沿いに走り、池のほとりで気を静めていた。その時に沐浴していた美しき少女には、長大な鉄爪を持った護衛がいた。
「あの娘がおあん……」
「沐浴を覗き見するような奴が姫さまの夫だなんて、片腹痛いね!」
その掠れた声を聞いて、疑問は確信に変わった。
「竜造寺の軍を率いていたのは、やはりおあんだったのか」
「当主がぼんくらだとね、娘まで苦労するんだ。だが姫さまだけに苦労はさせないよ。あたしが一生守ってあげるんだ」
光が縦横に走り、鉄爪が太郎兵衛の皮膚を斬り裂く。
「姫さまは誰にも渡さない。鍋島にも、あんたにも」
太郎兵衛は視線を感じて後ろを振り返る。そこにはおあんが立っていた。
「姫さま、心配いらないよ。こんな奴に指一本触れさせないんだからね」
「お玉……」
おあんが微かに頷いているのが見えた。
「独りおあんどのを守るため、敢えて妖となったのか」
「お前に姫さまの、竜造寺家の何がわかる! よそ者が大きな顔をして、ずるい奴が成り上がって、そんなこと絶対に許さない」
鉄の爪が突き込んでくるところを寸前でかわし、両脇でお玉の腕を挟みこむ。牙を剥いた凶暴な顔がすぐ前にあった。
「お前も小倉に来い」
「寝言を言ってるんじゃないよ!」
強烈な頭突きが太郎兵衛の鼻にめり込む。だが、太郎兵衛はお玉の腕を放さない。
「おあんも、お前も、竜造寺の血も、全部引き受ける。二の丸に閉じ込めることもしなければ、化け物扱いすることもない。だから、俺の妻とその侍女として小倉に来るんだ」
「それは姫さまに言え」
「違う! お前の心にかかっている」
太郎兵衛は鼻と口からおびただしい血を流している。
「お前が認めねば、おあんは動かない」
「だったらどうだって言うんだい。姫さまは誰にも渡さないって言ってるだろう! 姫さまに仇をなす奴は、あたしが未来永劫呪ってやるんだ」
お玉は太郎兵衛の首筋に噛みついた。血しぶきが飛び、庭に流れ落ちる。
「その気持ちのまま、小倉に来るんだ」
「いい加減に……」
血で滑った拍子に、太郎兵衛の腕に挟まれていたお玉の腕が自由になった。鉄爪を振りかざし、止めを刺そうとするところを、穏やかな声が止めた。
おあんが庭に降り、お玉の手を取る。
「私たちのために、これほど血を流してくれた人はこれまでいなかった。おじい様が討ち死にされてから、鍋島も他の者たちも私たちを都合のいいように使うだけだった」
「でも、こいつは姫さまの沐浴を覗くようなやつですよ」
「お玉、実を言うとね」
おあんは少し躊躇ってから、口を開いた。
「この人に体を見られてしまった時、嫌じゃなかったの」
お玉は顔を真っ赤にして鉄爪を外すと、素手で太郎兵衛を引っ掻いた。
六
天正十五年八月吉日、太郎兵衛とおあんの婚礼が執り行われた。十歳と十二歳の、まだあどけなさの残る二人の婚儀だ。
豊前小倉から肥前村中まで、吉成の弟、権兵衛や次郎九郎、九左衛門ら一族、そして宮田甚之丞、杉助左衛門ら太郎兵衛の側近衆が迎えの使者として赴いた。
そして肥前からおあんを乗せた輿の傍らには、お玉がぴったりと寄り添っている。竜造寺家の代表として来たのは、鍋島直茂であった。
一行が小倉に着いたのは黄昏時で、そのまま婚儀は始まった。
柔かな秋風が微かに吹く小倉城の大手門前で、鍋島直茂が朗々と挨拶を述べ、吉成はやや緊張した面持ちでそれに応える。太郎兵衛とおあんの新居となる城の二の丸に花嫁道具が運び込まれ、そのまま宴となった。
小倉には吉成父子にゆかりのある武将たちが招かれている。
黒田官兵衛と後藤又兵衛はもちろんのこと、柳川からは立花宗茂、毛利輝元の名代として安国寺恵瓊がやってきている。相良家からは丸目長恵も訪れ、楽しげに諸将と言葉を交わしている。九州の国分けと検地の指揮を執っていた石田三成も秀吉の名代としてかけつけた。
他にも、秋月や大友といった北九州の名家から次々に祝いの品が届けられ、宴は盛大なものとなった。だが、肥前の佐々成政の所からは祝いの使者もこなかった。吉成たちは怪訝に思ったが、婚儀の忙しさにしばし忘れていた。
おあんは切れ長の目を大きく見開いて、男たちが笑いさざめく様子を見ていた。
「怖い?」
「いえ、私は竜造寺の娘ですよ」
とおあんはきっと太郎兵衛を睨み、すぐに表情を和らげた。
「お祖父さまは肥前の熊と恐れられた方だったね」
「肥前にも勇者は多いのです。祖父や又二郎を前にすると、体が震えるほどでした。優れた武人は、そこにいるだけで風を震わせ、人の心を動かしてしまうものだ、と学びました」
「又二郎殿を誉めるなんて、珍しい」
「嫌いですよ」
おあんはむっとした顔をした。そんな顔も美しい、と太郎兵衛は見惚れていると、
「そこな色男! 花嫁の麗しき顔を己がものとした嬉しさに、客人をないがしろにするか」
と声をかけられた。色男には好色な男、という意味もある。はっとして向き直る。どのような豪の者が相手でも、堂々と返さねば恥となる。だが太郎兵衛は驚いた。端整な細長い顔を真っ赤に染めて太郎兵衛に絡んだのは、石田三成であったからだ。
九州各国から来た豪の者たちは、三成に対して複雑な気持ちを抱いている。秀吉の名代であり、その意思を左右できるほどの側近だ。秀吉への取次を誠実に務めてくれる恩義を感じる一方で、国分けや検地を容赦なく行っている。招待客の中にも、三成とはあからさまに距離を置いている者もいる。
太郎兵衛はきっと前を向いた。吉成たち一門も、客たちも見つめている。大きく息を吸い口を開いた。
「妻を迎えた喜びも、日頃厚情給わったる、皆さま迎えた喜びと、軽重問うはでき申さず。妻は遠く肥前より、それがし遠く近江より、まず互いの容貌を、確かめ合ったその先に、いやめでたし九州の、人の和こそありと存ずる」
と腹の底から声を出し、かつ芝居気たっぷりに言い切って見せた。
「天下一の口上だ!」
後藤又兵衛が大声を上げて誉めると、皆が一斉に喝采した。硬い表情で三成を見ていた国人たちも、笑顔になっている。再び杯が回り始め、立花宗茂の剣舞や後藤又兵衛の謡なども出て座は大いに盛り上がった。
「おあんどの、愛しい背の君の隣で、ちょっと話してもいいかな」
三成の丁重な態度に、おあんはびっくりしながらも頷いた。腰を浮かせかけたおあんに、
「いやいや、お邪魔虫は私の方だ。気にせずにいてもらいたい。私はただ、太郎兵衛どのに礼を言いにきただけだ」
どうぞそのままで、と言うと太郎兵衛の横に座った。
「又兵衛どのも言っていたが、見事な口上だった」
「小倉にきたかぶき者の口上をとっさに真似ました。場にふさわしかったかどうかは自信がありません」
太郎兵衛は最初、三成が叱りに来たのかと思って身構えた。いつもぴりぴりとして、冷たく近づきがたい印象だと思っていたが、愉快そうに微笑をたたえた横顔は、武人の爽やかさを持っていた。
「さすがは小三次どののご子息だ。あなたは絡んでいった私を上げ、己を上げ、そして招かれている諸将と任地の九州も上げた。私一人を上げるのであれば、それは術だ。取り入ろうとする情でしかない。だが、一事を材料に大事を成すのは略だ。大きな目を持ち、理で動いているということだ。その理で動きながら人の心を無にせぬことは、簡単そうで難しい。私は殿に大きな恩を受け、その戦略を無にせぬよう力を尽くしている。その広い目と心に続こうとしているが、なかなか」
三成は自ら杯に酒を満たすと、豪快にあおった。
「いやぁ、いい若武者に会うと気分がいい」
と広い額を叩いた。
「私は殿が願う惣無事をやり通す。そのためなら天下の礎石となって永劫の苦しみを味わってもいい」
「俺だってそうです」
「太郎兵衛には私の築いた礎の上に、永久に崩れない城郭を造ってほしいなぁ。そして豊臣家を盛りたてていって欲しい」
夢を語る少年のように、その瞳は澄んでいた。
「いや、見事な口上に釣られて余計なおしゃべりを。これだから吏僚だ青びょうたんだと陰口を叩かれるのだ。よし、又兵衛どのと相撲でも取ってくるかな」
と三成が立ち上がった。堂々と又兵衛に挑戦すると、九州の諸将も三成に向かって喝采を送った。
その時、早馬が駆けこんできた。使者は吉成を捜して膝をつくと、
「甲斐氏をはじめとする肥後の国人どもが手を結び、兵を挙げました!」
と大声で報じた。宴は沈黙し、しらばくの間誰も身動きすらしなかった。
中巻に続く