エトランゼのすべて

第三話 五月病とサボテン

森田季節 Illustration/庭

注目の新鋭・森田季節が贈る青春小説。ようこそ、京都へ!

第三話 五月病とサボテン

「ゴールデンウィークは沖縄おきなわに行ってきたの。でも、初日が嵐で、もうねずみよ」

「災難でしたね。僕は実家でのんびりしてました」

「あら、実家ってどこだっけ。何度聞いても忘れちゃうのよね」

「奈良と和歌山の間みたいなところです」

「いまいち、その説明で絵が思い浮かばないのよね」

「実際、地味なところですよ」

学食のバイトのまかないを食べながらの会話だ。ちなみに相手は今日も女性である。いよいよモテ期が到来したとかそういう旨い話ではない。なにせ相手は四十八歳なのだ。もし、ネコ型ロボットのタイムふろしきがあれば、三十年分時間を戻したに相違ない。

どうも自分はパートのおばちゃんに好かれる性質があるらしい。この麵類・丼物どんもの担当の相模さがみさんはじめ、レジチーフの磯貝いそがいさん(53)とも仲がいい。磯貝さんいわく、僕には若者特有のトゲがなくて話しやすいらしい。

「あ、豚汁とんじる、もう飲んだの? 入れてあげようか?」

「じゃあ、お願いします。具、多めで」

そんな感じで献身的なお世話を受けている横のテーブルでは、ギャルっぽい短大生二人が甲高い声でカレシの話をしていた。さらにその奥のテーブルでは曹さんが黙々と米をかきこんでいる。おかずのラインナップを見るに、おひたしとか豆腐とかばかりで一番純粋な和食だった。

短大生までいるのに、なぜか同じ大学の女性は皆無かいむだ。最初は詐欺さぎだと激しいいきどおりを覚えたが、冷静に考えてみると、学生食堂でばりばり働く美しい女子大生という絵柄はミスマッチだ。時給八百十円の世界で生きていると、低収入時代をリアルに実感して怖いものがある。一日四時間半の仕事だから、約三千六百円か。

「針塚君、聞いた? また、食堂の皿を持って帰ろうとした学生が怒られたのよ。それぐらい百円均一で買いなさいって話よね」

豚汁を入れてくれた相模さんが戻ってきた。相模という苗字なのに実家は武蔵むさし小杉こすぎらしい。

「いくら貧乏でもそこまで落ちぶれたらダメですよね。そうです、皿もコップも百円均一で買えるのです。百万遍の角のダイコクドラッグで百円のお菓子を一つ我慢すれば買えるのです」

よくわからないフラストレーションがたまっていたので、今日出現した皿泥棒未遂に怒りをぶつけることにした。学食のすごい安物の皿なんかをくすねようとする不届き者は本当にいるのだ。むしろ、安すぎるから罪の意識がないのだろうか。そういえば喫茶コーナーからコーヒーフレッシュを十個も持って帰ろうとして止められたヨーロッパの留学生もいた。

「しかも、よりによってサラダバー用の皿を盗もうとするのよ。あれ、数が少ないのに」

「そうです、そうです。大おかず用の広皿ひろざらを盗めって話です。サラダバーのは余裕がないから、補充が面倒なんですよ」

まだバイトをやって一か月であるが、だいぶ学生食堂業界の人間らしい会話ができるようになってきた。これも成長だろうか。できれば、人間関係のほうももう少し成長したい。

「聞いてよ、針塚君、またうちの亭主が禁煙を三日でやめてさ」

はいはい、聞きますよ。どうぞ、どうぞ、愚痴ぐちって下さい。

そんなことをまたサークルの例会で話した。いいかげん、バイト以外に話題のない生活はまずいと思うのだが、ないものはない。

今日のカフェテリア・ルネには会長、僕、中道さん(彼女は律儀に講義を全部出席するタイプ)、勝原さん、太い大村先輩、ヒモ島先輩が来ている。長月さんは就活で休み。僕も少し顔を合わせづらいので、ちょうどいいかもしれない。そういえば、新歓の時だけ来ていた「けんどう」さんはいまだに来ない。

ちなみに大村先輩には前にカラオケに誘われて、ご飯をおごってもらって帰った。サークルにさほど来ないことと非社交的なことはまた別らしい。

「毎度、つまらない話ですみません」

同じ話を何度もする男というのは嫌われると、どこかのネットニュースで見た気がするので、とりあえず謝罪しておいた。

「でもさ、バイトぐらいしたほうがいいよ。労働で、わかることもたくさんあるしさ」

なぜか勝原さんが擁護してくれた。パンク系の見た目で怖がらなければ、勝原さんは常識人である。おそらく、将棋などをやらせても、極めてオーソドックスな打ち方をすると思う。

「ま、バイト程度じゃたいした社会経験にならないけどね」

でも、きっちり落とすのも勝原さんである。

「たしかに、バイトごときを社会経験と言いだすのは、大学時代に何もしてなかった人間がエントリーシートを粉飾ふんしょくする常套じょうとう手段なのは知っていますけどね

「バイトごときでもやってる事実があるだけいいじゃん」

バイトの神様がいたら呪い殺されそうな会話だった。

「ほら、会長とか、いつも涼しい顔してるけどさ、一回ぐらい労働者になったほうがいいよ。そういう経験が後できてくるんだよ」

そこで勝原さんの矛先が会長に伸びた。しかし、労働したほうがいいという表現は聞くが、労働者になったほうがいいという表現は初めてだ。

「そうですね。でも、今はサークルのほうが大事ですから」

だが、会長も慣れているのか、さらりと論点をサークルにずらした。いまだにお世辞にも京都を観察した記憶がないのだけれど、それでもサークルが大事と言えるのは、たいした度胸だと思う。これが会長の底力か。

それにしても、本当に会長は何者なのだろうか。新歓の日に言っていたように、会長は会長であってそれ以上の何者でもない存在だ。何の統一性も見つからないサークルだが、会長が中央にどんと座ると何故かまとまる。こういうのをカリスマ性というのだろう。

「ちょっと、お茶をとってきます」

長月さんがいないせいか、会長は自分でお茶を取りにいった。しまった、こんな時こそ、ポイントを稼いでおくのだった。

好感度なんだよ、どんなものでも計量的に考えないとダメなんだよ。高校時代、そう、武田君は熱く語っていた。恋愛というのは運命のように言われるが、相手に好かれるように努力を繰り返すことで成就するものなのだ。どうも、武田君の言うことは過度にゲーム理論(武田君がするようなゲームで得た理論のこと)に寄っている気がするのだが、わからなくもない。僕は席を離れた会長の髪をしばらく見つめていた。あそこに追いつくにはどうすればいいのだろう。ニーチェは超人になれと言った。僕も超針塚になるしかないのか。

視線を戻すと、ぱっと中道さんと目が合った。会長のことを見すぎだ。どうにも気恥ずかしくて、僕は後悔した。だが、その後、もっと後悔する事態が生じる。

「はい、みんな、どうぞ」

戻ってきた会長はお盆を持っていて、その上に全員分のコップが置いてあった。学食バイトの身からすると、「コップ消費が倍増するようなことをされると、皿洗い係が大変だな」とやきもきしてしまうのだが、そんな特殊な立場を無視すれば、たたえられるべき行為だろう。会長、気もきく人だ。一方、自分は気がまわらない後輩だ。こういうことがさらりとできないようでは会社でも出世できない。無礼講の飲み会で本当に無礼を働くヤツの次ぐらいに出世できない。

「わざわざありがと」

勝原さんも驚いているようだった。顔がきょとんとしている。目が細くて何を考えているかよくわからない大村先輩も目が大きくなっていた。大村先輩は始終面白くなさそうな顔をしているのだが、この時ばかりは、素直に驚いておられた。

「さて、さっきのバイトの話なんだけど、私もいくつかかけもっててさ」

かなり強引に勝原さんが話を引き戻した。

「明日、一緒に入るはずのバイトの子が入れなくなっちゃって、ちょっと代役頼まれてくんないかな、針塚君?」

代役を探すのはわかるけれど、どうして、最初から針塚圭介指定なのか。僕は困惑した。しかし、どうも勝原さんは押せばどうとでもなるということを確信しているらしかった。一気に言葉を継ぎ足してくる。

「ほら、明日は学食のバイトの日じゃないっしょ。時給は八百五十円で、十三時から五時間。レジ打ちとかはアタシが全部するから、マジで座ってるだけでいいから。あの仕事、一人だと暇すぎて死にそうなのよ。お願い!」

「いったい、何の仕事なんですか?」

もはや、断りづらい雰囲気になってしまっている。いくら楽だといっても、勝原さんの隣で五時間座るというのは、地味に疲れるぞ。肩がこることは間違いない。

「仕事は中古CD屋の店員。客もたいして来ないし、さばくのはアタシ一人でやる」

CD屋か。コンビニのバイトよりは楽そうではあるが

ここまで楽だとプッシュされた手前、断る理由もないのに断ることもできず、僕は首を縦に振った。

翌日、十二時二十三分。はからずも長月さんと待ち合わせしたのと同じ場所で僕は勝原さんを待っていた。あの時と同じようにそわそわしているのだが、感覚がだいぶ違う。何か気のきいた話でもしないとなと考えていたが、とくに何も思いつかなかった。気のきいた話をしようと考えている人間が気のきいたことを言えるわけがない。

そもそも、五時間というのはちょっとしたエピソードの一つや二つで乗り切れる時間ではない。千客万来せんきゃくばんらいで私語の暇もないというほうが個人的には楽なのだけれど

ジャンカラを出入りする客を眺めて時間をつぶしていたら、予定より五分遅れて勝原さんがやってきた。今日も目が強そうなメイクだった。周囲からはカップルに見えるだろうか、見えないだろうか。派手な姉と弱気な弟に見えるというのに一票。

「ここから十分も歩けば着くから。CD屋なんて客の数は知れてるから、本当に大丈夫だよ。暇すぎたら、入荷したCDを棚にでも差しといて」

文字数にして百文字にも達しない引継だが、大丈夫だろうか。だが、激務ならおそらく勝原さんももっと頼れる人間に当たるだろうから、気楽でいいところは事実なのだろう。

商店街を十分ほど歩いていると、左手に中古CDの店舗が目に入った。雰囲気からしてロック専門店という感じだった。レジにいる店長らしき人に勝原さんが声をかけたので、続いて頭を下げる。店長は前掛けをしていなかったら、何をなりわいとしているのかまったくわからないような中年のおっちゃんだ。

「いや〜、わざわざ悪いね。帰りにいらない在庫のCD、五十枚まで持っていってくれていいから。むしろ、処分してよ〜。ははははは」

「じゃあ、お言葉に甘えて数枚ほど

「君の給料は机に入れておくから、働きに問題なしと思ったら、理沙ちゃん、渡してあげて。六時前には交代の子が来るから。じゃあ、オレ、ビッグキャットに行ってくるよ、ははははは」

すでに酒が入っていそうなラテン系の店長は、結局、業務内容を一言も僕に説明せずに旅立ってしまった。ビッグキャットとはおそらくライブハウスか何かの名前なのだろう。卑猥ひわい隠語いんごではないと思う。

「じゃあ、はじめますかっと」

一時五分前、我々従業員二人はレジの後ろのやたらと背の高い椅子に座った。業務開始だが、透明人間がいない限り、客は店内にいないので、やることはない。

「誰もいませんね、お客さん」

いきなり無言の応酬おうしゅうはコミュニケーション力がないと断罪だんざいされてもやむをえないので、阿呆みたいに当たり前なことを聞いた。

「珍しくないよ。だって、セール品があって客が並ぶような商売じゃないし。かといって、土日だけ開店ってことにするわけにもいかないしさ」

「なるほど」

手持ち無沙汰なので、店内の品揃えをざっと見ていく。音楽に不案内ぶあんないなので詳しいことはわからないが、ロック中心というコンセプトに間違いはないようだ。縦長の店内の中央にCD棚があり、店の壁側ももちろんCD棚なので、都合四列のCD棚がある。それが基本的にあいうえお順の邦楽と、ABC順の洋楽に分かれている。DVDとかレコードとかカセットとか残りのものは、隅に追いやられている。あと、やたらとカラフルな一角があって明らかに浮いているのだが、アニメコーナーらしい。

「アニメもあるんだよ」

後ろから声がかかった。自己主張が弱いというだけで、アニメとか詳しいと判断されているのだろうか。だとしたら、錯覚なのでただしておかないといけない。僕は高校時代、武田君とは仲が良かったが、趣味まで同じではないのだ。アニメをたくさん見るために、二倍速で見るだなんて本末転倒な所業をしたことはない。

「アニメの主題歌をロックミュージシャンが歌うのなど珍しくもないし、体制からの反逆という意味では、今の時代はアニメ絵のジャケットにするほうがロックと言えるかもしれませんね」

「それはそうかもな。さて、せっかくだから仕事を与えよっか。棚のチェックをしてよ。アタシもするけど。入荷したCDをバイトが棚に入れてるんだけどさ、信じられないほどバカなヤツが一人いてさ、無茶苦茶に差してるわけ。そういうのを修正してほしいわけよ」

さらりと言われたが、具体的にどうしていいかさっぱりわからない。

「ええとな、たとえばなどうせ、間違ってると思うんだけど。あ、あったあった」

「あ」から順にCDを見ていた勝原さんの目が「い」の最後のほうで止まった。抜いたCDには「陰陽座」と書いてあった。

「こういうバカを平気でするんだよ、新人のバイトは! ふざけんなよって感じ」

「ええと、どこが違うんですかね

新人バイトときっと同レベルの僕は勝原さんの側にはまわれない。

「これ、『おんみょうざ』なの! バイトは間違って『いんようざ』って読んだから、『い』に入ってるわけよ! そんなこともわからずにCD屋でバイトしようとか思うなって話よ!」

それを言われると、僕の立場がないのだが、勝原さんの怒りもなんとなくわかった。僕も「はりづか」を「はりつか」と言われると、かすかにイラっとくることがある。

その後、勝原さんの棚チェックが行われた。言うまでもなく、僕はそんなことをする審美眼しんびがんがないので、昔のRPGのパーティのように勝原さんの後ろをついていくのみだった。職業「あそびにん」ではなく、「あそびもしないひと」だ。

以降も勝原さんは洋楽コーナーから「ハイスタ」(何かのバンド名の略称らしい)を抜いてラウドコーナーに入れたり、××××(もはや名前も思い出せない)を○○○○コーナー(もう、コーナーもよく把握できない。卑猥なことだから伏字にしているわけではない)に入れたりしていた。僕の知っている単語はほぼ皆無だった。

素人がくちばしをはさむとろくなことにならない、それは政治に主婦の感覚を入れるようなものだと痛感した。

こんなことをしている間にも、たまにお客さんは来て、そうなると勝原さんがレジに戻る。激務でもなんでもないが、勝原さんの勤務態度が真面目なのは間違いなかった。人が見た目から入るのは仕方ないとしても、勝原さんを誤解していた。彼女は誠実で、ひたむきな人なのだ、何一つおかしなところなどないと思っていた。

しかし、ひょんなことから勝原さんの問題行動が発覚することになる。

時刻は二時半頃だっただろうか。店にどことなくオタクっぽい風体ふうていの男が入ってきた。いくらなんでもリュックサックにバンダナとか、そんなほっかむりをした泥棒みたいなステレオタイプなものではないが、雰囲気からそういうオーラが漂っていた。隠しようのないものがやはり、にじみでるのだ。僕の予想はちゃんと当たった。メガネの彼は洋楽コーナー(どうもヘビーメタルのバンドを物色していたようだ。勝原さん談)を見た後に、アニメコーナーと思われる一角に移った。商品なのだから、見てもらわないといけない。彼に何の非もない。

自分にできることはレジでじっと待つことだけである。ここで、勝原さんと「あの人、オタクですよね」などと小声で話すようなことはありえない。それは人種差別と同じだ、人間として終わっていることだ。まして相手はお客さんだから神様なのだ。

だが、勝原さんは何を思ったのか、レジから抜け出た。その瞬間、僕は悪い予感がした。しかし、まさか、そんな行動に出るとは思わなかったのだ。まだ僕は勝原さんを信じていたのだ。

「ねえ、あなた、オタクですよね?」

勝原さんはお客さんに向かって、そんなことを聞いた。うわ、ありえねえ。

お客さんは予想外の展開に度肝どぎもを抜かれて、うろたえていた。これが、どう見てもオタクですという店員が話しかけてきたのなら、まだいい。だが、勝原さんはどう見てもキャラが違う。

「ねえ、どんなアニメ見てんの?」

さらに質問はエスカレートした。もう、オタクであることは自分の中で確定したらしい。これには、僕も目を覆いたいと感じた。ほとんど営業妨害だ。

「最近だとさ、このアニメのCDがけっこう売れてるんだけどさ、これ、流行ってたの? やっぱり誰もが見てるものなのかな。その袋、『とらのあな』だっけ、そこの帰りだよね。どんな本を買ってるものなの?」

そのお客さんは、ヤクザにからまれたような顔をして、用事があるので時間がないと、幼稚園児でも噓だとわかるような噓で逃げていった。

「あ〜あ、帰っちゃった」

その直後の勝原さんの言葉だ。困ったことに、勝原さんには何の悪意もないのだ。オタクっぽいと思った人にオタクですよねと聞いただけなのだ。それが相手をどれだけ混乱させたか理解していないのだ。つまり、矯正ははなはだ難しいということになる。

もしや、こんなことを今までもずっとやってきたのだろうか。こんな伝説的に空気が読めないなどということがあるのだろうか。洋楽と邦楽を間違えるとかそんなものはかわいいものだ。

勝原理沙、恐るべし。

僕はトラブルが起こらないことを祈った。この調子では、チンピラ風の男が入店してきても、「あなた、チンピラですよね?」とか聞きかねない。どうして、CDを売る仕事でこんな気持ちを味わわないといけないのか。

だが、トラブルは起こった。ただし、今回は向こうが一方的に悪かった。

万引きが出た。

五時前のことだったろうかと思う。高校時代の自分がまず確実に仲良くできなそうな、ちょっと悪ぶった感じの高校生が入店してきた。カバンにバッジが大量についている。傷口でも縫っているのか。あんなもののどこが恰好いいのか。そんなに恰好をつけたいなら、スポーツでも、芸術でも、なんらかの部門で実績を残せ。何の実力もないのに、無理に社会の注目を浴びようとするから浅ましいのだ。いけない、私怨が心に渦巻いていた。

ほうっておこう。そのうち帰るだろう。勝原さんが「君、偏差値いくら?」とか聞かない限り、大丈夫だ。

だが、そいつは正真正銘しょうしんしょうめいのワルだった。

高校生はやたらときょろきょろと棚を見ていた。店員からはかなり離れたDVDの棚だ。たしかに僕ですら不穏な空気を感じとっていた。

しかし、勝原さんの状況察知能力はそんな僕の比ではなかった。勝原さんは底辺高校を中退して、大検を受けて、大学に入ったという特殊な経歴の持ち主である。そのせいか、悪そうなヤツを見分ける嗅覚きゅうかくも並ではなかった。

「おい、どうしてカバンに入れた?」

そう言った時には、すでに勝原さんはレジから飛び出していた。古武道こぶどうの人間が驚くほどのスムーズな動きだった。高校生もまさかという顔をして、店から逃げだそうとする。その間にも勝原さんはずんずんと前に進んでいた。こんな時、追う側は強い。

「待ちやがれ! 殺すぞ!」

店を出る直前の勝原さんの叫び声だ。どっちが犯罪者かわからない。えらいこっちゃ! 僕もあわててレジから飛び出す! いくら勝原さんと言っても、相手は男だ。ナイフなんて持っていたら、洒落しゃれにならない。あるいは万に一つも、億に一つも勝原さんがふところからナイフを取り出すことがないとも言い切れない。いやいや、それはさすがに言いすぎか。とにかく、勝原さんが相手の抵抗にあって殴られたり、蹴られたりしたら事だ。

狭い店内の廊下がこんなに長く、まだるっこしく感じることがあるとは思わなかった。最低でも勝原さんを止めないと!

ようやく店から出た時には、勝原さんの手が高校生の背中に伸びていた。そして、高校生の足が止まり、泳ぐような体勢になり、次の瞬間には高校生が宙を舞った。見事なぐらい、きれいな投げが決まり、犯人は足からコンクリートに落ちた。

「黒帯だから」

勝原さんは僕にピースサインを向けて言った。

以下、十分にわたって、高校生への口撃が続いた。高校生は悪ぶっているのがかえって恥ずかしいほどに謝りまくっていた。親にも連絡して文句を言ったものの、学校への連絡だけは止めてやるということで話はおさまった。この映像をユーチューブにでもニコ動にでも流したら、犯罪抑止力に効果があるだろう。

もう、六時までの残り時間は消化試合である。

「ったく、罰ゲームで使うとかありえないわ」

声にイライラが表われていた。CD程度の硬さなら、片手で三枚は割ってしまいそうだった。

「罰ゲームって何ですか?」

「一回、万引き犯をあんな感じで店で投げたのよ。それが有名になっちゃって、このへんの不良たちが賭けに負けると、この店で万引きするの。ふざけんなって感じよ」

それってある意味、勝原さんが万引き犯を呼んでるようなもんですよね、なんてことは言えるわけがなかった。僕は宙に舞いたくはないし、宇宙飛行士になる予定もとくにない。

六時まで残り十五分である。すでに次のシフトの人も来ていて、裏で休憩している。暇は暇だったが、勝原さんのせいで充実しすぎた五時間だった。やはり、肩はこった。

自然と時計に目がいってしまう。高校時代の数学の授業と同じだ。

しかし、最後の最後で火種が飛んできた。

時計を見ていると、ちょんちょんと腕をつつかれた。店員としてまずい態度だっただろうかと、勝原さんのほうを向くと、およそ業務とは関係ないことを聞かれた。

「サエ、ああ、長月さんに服を見にいこうって言われてデートだって思わなかった?」

遺憾いかんながら、図星ですよ」

「サエって、いつもああなの。友達に性別とかないって素で思ってるから。今は平気だけど、けっこう修羅場になったこともあってね」

やはりバラにはとげがあるのだ。でないと、そんなうまい話があるわけがない。

「ところで、君って彼女いるの?」

今回は長月さんのような気分にはならない。勝原さんの場合は、単純に質問だからだ。この人はわからないことがあれば、何だって聞いてしまうのだ。たしか、勝原さんは見かけによらずけっこういいとこの子だと聞いた。だから遠慮する必要が人生でなかったのだろう。

「いませんよ。彼女いない歴が人生の長さと同じってやつです」

どうせ詮索せんさくされるなら先に言ってしまえ。とことん自嘲じちょう的に話した。

「いないならいい人がいるんだけど」

これも長月さんの時のような気分にはならない。まさか、この人、恋人のあっせんでもやって儲けているのだろうか? いやいや、勝原さんは人の道にはずれたことはやらないタイプだ。商売では断じてない。

「ちなみにアタシみたいなタイプじゃなくて、おとなしめの子。そのほうがあってるでしょ?」

声音がそれまでと違うことはにぶい僕にでもわかった。最初からこれが目的で、バイトに僕を引っ張ってきたのではないだろうか。相手がおとなしめというのも、自分の性情を考えれば妥当ではある。

「具体的に聞かないとなんとも言えないですが

そう言いつつも期待と不安が入り乱れていた。なぜなら、これはかなり大きな賭けだからだ。間に勝原さんが入っている以上、その顔をつぶすようなことはできない。一度付き合うとなったら、それなりの責任が伴う。

ぶっちゃけて言えば、いや、発言するわけにはいかないが、性格は前提条件として大事だとして、「容姿」が気になる。

いくら勝原さんでも、「すごく美人で芸能人の誰それに似てる」なんてことは言えないだろうが、かわいい系とかキレイ系とか、そういった情報が開示されないのは怖い。極端な話、女性かどうかもわからないのだ。後悔先に立たずということわざを頭に刻みつけて、行動しなければ。

「ちなみに、客観的に見ても、相当かわいいと思うよ。おそらく、モロに針塚君のタイプの女の子だと思う。アタシの友達だから年は針塚君よりは上だけど。まあ、アタシとほぼ同じ」

懸案けんあん事項はすべて勝原さんに先回りされた。そして、避ける理由もこれで消滅してしまった。

自分なりに整理すれば「勝原さんの友達の中で、ちょっと内気な子がいて、そのせいで男と付き合った経験がないので、自分がある程度把握できる範囲でちょうどいい男を探していた」ということなのだろう。じゅうぶんありえる話だ。

ここは「はい」と答えるべきか。

リスクがないと言えばウソになる。性格がお互いにまったく合わないことだっておおいにある。それでも、これがうまくいけばどこに出しても恥ずかしくない大学デビューになる。今まで正気の沙汰さたではないと思っていた、待ち受け画面に彼女の写メを入れるなんて行為も可能になる。だが、そこに会長の顔が頭に浮かぶ。自分は会長にみさおを立てると誓ったのではないか? いやいや、さすがにそんなことはしてない。けれども、あまりにも軽薄すぎるのでは? ふざけるな! われ足るを知る、というやつだ。そんなのクレオパトラと結婚できるまで一生独身でいますと言っているようなものだぞ。これは妥協ではない。決断なのだ。

運命を信じろ、針塚圭介。地球はお前を中心にまわっているんだ。お前の線路は栄光という名の駅までつながっているのだ。

「そうですね、もし、迷惑でなければ

しかし、答える前に、お客さんが三人ほどやってきた。

勝原さんが強そうだとしたら、怖そうなメイクのお姉様たちだった。みんな、目元がすごい。最初からかわいさよりかっこよさを狙っているのだろう。そのうち一人はジャラジャラした鎖が腰にかかっていた。実は忍者なのかもしれない。

落ち着かないし、早く帰ってほしいな、などと念じていたが、それが逆効果になったのか、ずんずん三人組はレジに向かってくる。どういうことだ? まさか、過去の抗争相手とかではないだろうな?

けれども、幸いなことに敵ではなかった。

「お久しぶりー、理沙! 六時からフリーなんだよねぇ?」

どうやったら、そんな声が出るのだというような、高い声でお姉様一人が言った。

「残り十分だからちょっと待っててよ。蛸薬師たこやくしのあたりで会おー!」

普段とは裏腹に、勝原さんの高い声が響いた。まさか、いつもは力を僕らのために制御していたのか?

彼女たち三人衆はさほど時間も置かずに帰ってくれた。正直、助かったと思ってしまった。ただ、彼女たちの登場は僕の心にそれなりの影響を与えた。

「あの、先ほどの話ですが、なかったことに

おとなしめと言っても、あくまで勝原さんの基準のおとなしめだ。おとなしいあんなタイプが来たら、お互いに悲劇になるのは間違いない。

「そうだよね。いきなり言われても無理よね」

あっさり勝原さんがチキンぶりを許してくれたのが、せめてもの救いだった。よかった

十分後、僕は四千二百五十円の入った封筒をいただいた。

ちなみに売り上げ金額は二万三千二百十円。

こんなにずしりと重い五千円未満は初めてかもしれなかった。

後白河上皇ごしらかわじょうこう天下三不如意てんかさんふにょいとして、博打ばくちの横行、鴨川の洪水、僧兵だと言ったという。それにならって京大三不如意を作ってみようと思う。

思うようにいかないもの。

悲惨な就職活動、バイトの蓄財ちくざい、かわいい彼女、大学デビュー。

おっと、四不如意だった。