1999年のゲーム・キッズ
第三回
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(ルビ:2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(ルビ:1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第18話 伝染性
The Game
KEYWORD★コンピューターウイルス
苦労して入手したその黒いディスクを机の上に置いたまま、僕はためらっていた。
裏ルートでしか流通していないこのソフトの出所について、奇妙な、そして不気味な〝ウワサ〟が流れていた。
わが国と犬猿の仲にある北の某国家がひそかに送り込んできた、ソフトウェア兵器だというのだ。
表面上は何のへんてつもないソフトだが、じつはそのなかに、巧妙にして強力なコンピューターウイルスが潜んでいる、と。
それは、単にメモリー内のプログラムに侵入する、ふつうのウイルスとは全く違う新種だというのだ。
通常のコンピューターウイルスは、それが仕込まれたソフトを走らせてしまったマシン、あるいはその感染したマシンとネットワークを介してつながっているべつのマシンにしか伝染しない。もちろん、同じシステムのコンピューターに限られる。
しかしこのウイルスは、ネットワークでつながっていないマシンにも、そしてそれがどんなシステムのコンピューターであろうとも〝空気感染〟して伝わるらしい。
さらに信じ難いのは、このウイルスは人間にまで伝染する、という話だ。
感染したパソコンからそのユーザーに感染し、その人間を勉強も仕事もできない状態に、つまり〝廃人〟にしてしまう、というのである。
僕にこのディスクをそっと渡してくれた友人も、そんな、まことしやかなウワサ話にビビっていた。
彼には、このゲームを立ちあげてみる勇気がなかったのだ。
もちろん僕自身も、正直いって少し怖かった。
しかし、どう考えても、そんなバカなことはあるはずがない。いくらそれが国家ぐるみの陰謀でもハードウェアの設定を超越するソフトウェアが存在するはずがない。
某国とわが国は、確かに利害が衝突する関係にあった。領土をめぐるいざこざもあった。
しかし、すでに力を失って解体寸前だともいわれているその国が、そんなことを仕掛けられるハズがないのだ。コンピューターウイルスを使って人々を生ける屍にして、国を滅ぼす計略なんて……。
それに、ヤバいといわれたらなおさらのこと、僕は中身を知りたくてたまらなくなった。
そんなウワサを呼んでしまうほどのソフトとは、いったいどんなものなんだろう。
僕は決断した。
思いきってスロットにディスクを差し込んだ。
ゲームだった。それは数種類のブロックの組み合わせが画面のなかを動くだけの、単調なゲーム。
まあひと昔まえのフリーウェアといった感じだ。誰でも、どんなハードでも作れる、プリミティヴなゲームだ。
どこに、あんなすごいウワサを呼ぶだけのカルト性があるというのだろう。
しかし……。やがて僕は驚いた。
これはおもしろい、すごくおもしろいぞ!
単純な画面の動きがなぜだかとにかく気持ちいい。そしてやればやるほどやめられない。これは、単純でありながら、ものすごく奥深いゲームだったのだ。
すっかりハマってしまい、気がつくと数時間が過ぎ去っていた。ふとわれに返った僕は、念のため、ゲームを中断してハードディスクのデータをたんねんに調べてみた。
データは無事だった。どこにもウイルスが潜り込んだような形跡はない。
くだらないウワサを本気にしてビビっていた自分がばかばかしくなった。これは、ゲームの傑作だったのだ。
僕は、もどかしい思いですぐに画面に戻って、再び遊びはじめた。
おもしろい。おもしろすぎるぞ。
これがソフト兵器だなんて! それは、このゲームを独り占めしたいと思ったどこかのオタク野郎が流したデマに違いない。
それから数カ月後、このゲームは、大流行しはじめた。
まずはネットワークを通じてマニアのあいだに大量に出回った。
そして、美しいビジュアルと音楽を付加されたヴァージョンがゲームセンターで大ヒット。
気がつくと、みんなが狂ったようにこのゲームで遊んでいた。
ほどなく世界最大のゲームメーカーがこのブームに目をつけた。そしてこのソフトを携帯用のゲームマシンに移植した。いつでもどこでも楽しめる、世界でもっともおもしろいゲームの登場だ。街中のいたるところで、ありとあらゆる人々が口を半開きにして、ぼんやりとした目でこのゲームにハマっている光景が見られるようになった。
やがて、あの黒いウワサのことは完全に忘れ去られていった。
みんな会話をする時間さえ惜しんで、ゲームをやり続けた。
とにかく楽しいのだ。みんな、何をやっているより、このゲームをしていたいと思っていた。
子供たちは学校に行かなくなり、そして大人たちも仕事をサボりハマり続けるようになった。
じつは僕自身も、朝から晩までこのゲームで遊び続ける毎日だ。仕事はやめた。出かけることもなくなった。
このゲームをやっていると、人生の、ほかのすべてのことがばかばかしくなってしまう。
こんなにおもしろいソフトを、いったい誰が〝某国の陰謀〟だなんて言ったのだろう。こんなにおもしろいソフトを……。
第19話 地図にない国
Paradise Lost
KEYWORD★グローバルポジショニングシステム
急停車!
ダッシュボードに顔を、したたかに打ちつけて目が覚めた。
ひと眠りしているあいだに、会社に着いているはずだったのに……。僕のクルマは、見知らぬ平原にいた。
表示パネル上のマップが、警報音を鳴らしながら赤く点滅していた。カー・ナビゲーション・システムが故障したのだ。
コンピューター・ネットワークとサテライト(人工衛星)システムがリンクして、ありとあらゆる交通・運行システムの、完璧な一元管理が行なわれるようになった。
ここに、未来都市国家が実現したのだ。
街の、すべての建物や道路、そして移動中の車両や通行人などのデータは、衛星によってリアルタイムで捕捉され、デジタル・マップ上に絶えず表示される。
自動運転システムは、このマップの全データと連係して、クルマを安全に目的地まで誘導してくれる。
つまり、もうこの国では、運転する必要がないのだ。乗り込んで行き先をインプットするだけでいい。
クルマは、最短距離の道路を、歩行者やほかのクルマをよけながら器用に走ってくれるわけである。
しかし、不運だった。暑さのあまり車載コンピューターが暴走して、現在位置を捕捉できなくなったようだ。
自分でハンドルを握るのは何年ぶりだろう。僕は、見当もつかない道をうろうろと走った。
長いあいだ、僕にとっての移動とは、勝手に走るクルマのなかでぼんやりとしていることだった。道を探りながら運転する感覚が鈍っていた。やみくもに走ったのがいけなかった。
ブシュー……。不吉な音がして、クルマは止まった。
なんと、ガス欠だ。僕は降りて、あたりを見回した。
カンカン照りの太陽。広い広い、荒れ果てた平原。
見渡す限り、何の建物も見えない。誰もいない。
コンピューターがだめになってるせいか、電話もかからない。
つまり、歩くしかない。
僕は観念して、外に出た。なんとか、人間のいるところにたどり着かなくては。
暑い。シャツはすぐに汗で体に貼りついた。
平原はとてつもなく広かった。完全無欠な新型都市のほんの隣に、こんな場所が放置されていたとは。
そういえば、いままで、あのデジタル・マップのエリアから少しでも外に出たことはなかった。
決まった時間に起き、会社に行き、あくせくと働き、帰ってきたら、くたくたで、もう寝るだけ。休みの日も家でごろごろしているか、せいぜい会社のそばの、会社指定のレジャースポットに行ってみるだけだった。
僕だけではない。すべてのクルマが完全自動走行するようになってからは、都市に住み都市で働くサラリーマンで、自由きままにあちこちをドライブする人などいなくなってしまっていた。
そんなことを考えながら、僕は歩き続けた。道は小高い丘を上っていた。身体中の水分が蒸発し、頭がぼんやりしてきた。
もうダメだ。そう思った頃、風景がぱっと開けた。僕は丘の頂上にさしかかっていた。
驚いた。
えんえんと広がる美しい緑のなかに、お城のような建物が立ち並んでいた。
蜃気楼のようなその光景を、僕はにわかには信じることができなかった。暑さのあまり、幻覚を見たのかと思った。
そこは、まるで天国のようだった。水晶のように透きとおる湖。森の木々には果物がたわわに実り、色とりどりの小鳥たちが遊んでいた。そして、花の咲き乱れる園のなかに三々五々、くつろぐ人々の姿も見えた。
みんな、とても楽しそうだ。
彼らは、僕たちのようにあくせくと働かなくていいのだろうか。
「おい!」
不思議な風景に見とれていたら、不意にうしろから怒鳴りつけられた。
振り向くと、数人の黒服の男たちがばらばらと僕を取り巻いた。
「『街』のものだな。なんで勝手にこんなところに来たんだ!?」
いきなり両腕をうしろ手にねじり上げられて、僕はうずくまった。
ひとりが注射針を取り出し、僕の腕に素早く突き刺した。
僕はやっと事態を理解した。
僕は、都市国家の統制を乱したのだ。
決められたルートを外れ、しかも会社をサボってこんなところをウロウロして……。
注射針の痛みはすぐに消えた。僕は、薄れゆく意識のなかで考えた。
これから、どこに連れていかれるのだろう。どんな恐ろしい罰が待っているのか。
奴隷として一生働かされるのかもしれない。
目覚めたら、僕は再び、自分のクルマのなかにいた。会社の建物のまえだった。
助かった? 僕は奴隷にならずにすんだのか。
いや、あれは夢だったのか? 僕はクルマのなかで寝過ごしただけなのか。
おっと、早く会社に行かなくちゃ。上司に、遅刻のことをこっぴどく怒られるだろう。
僕は、これから始まる退屈極まりない一日のことを考え、うんざりした。
ふと、あの天国のような光景が脳裏に蘇ってきた。
いや、あの光景は現実だった。僕は確かに、はっきりと見たのだ。
僕たちに知らされることのない〝天国〟。……そうか、そうだったのか。僕は理解した。
奴隷になることを心配することなんて、なかったのだ。そう、すでに、僕は、そして僕たちは……。
第20話 進化した男
Newtype
KEYWORD★ウイルス性伝染病
目のまえに座っているのは、薄汚れた白衣を着た、ぼさぼさ髪の男だ。
アポイントもなしに、突然、押しかけてきた。
しかし、私は一国の元首として、面会に応じざるをえない立場だった。
風変わりなこの男は、あの新種ウイルスの権威者なのだ。つまりいま、この国の、いや世界の命運を握っている人物ということになる。
男は、にやにやと気味悪く笑いながら握手をしてきた。そして、なれなれしい口調で話しはじめた。
「閣下、感謝しますよ。お忙しいのにわざわざ時間を取ってもらって」
「とうとうあの〝奇病〟の治療方法を発見したとあっては、話を聞かんわけにはいかんだろう」
私は苦々しく答えた。
彼とは初対面ではない。以前、彼の研究室を視察したことがあった。そのときから、いやな印象を持っていた。
「いや、治療方法ではない。〝奇病〟のウイルスは遺伝子そのものを変貌させる、文字どおり〝不治の病〟なんだから。私はただ、感染者の発病を防ぐ方法を発見したというだけで……」
「それで充分だ。ノーベル賞ものだよ。詳しい話を聞かせてくれ。場合によっては国家プロジェクトとして援助させていただく」
「この方法はかなり大がかりなことになる。閣下、あなたの力が絶対に必要だ」
「すぐに特別予算を組ませよう。どれくらいの費用が……」
「いや、金の問題じゃあない。あんたがたお偉いさんは、すぐそうやって金で解決しようとする。この〝奇病〟のことを他人ごとだと思ってる証拠だ」
彼は、どうやら私をじらして楽しんでいるようだ。しかし、いまこの社会問題を解決することは私にとって、自分の地位を維持するためにもっとも必要なことなのだった。
私はむかむかとする気持ちを抑えて彼の話を聞いていた。
「エイズ騒ぎのときもまったく同じだった。伝染病は、感染していない人間にとってはまったくの他人ごと、対岸の火事なんだ。必死になるのは感染者やその家族だけだ。だからあんたがたは、この私、つまり臨床ウイルス学の権威が〝奇病〟に感染したと知ったとき、ひそかに喜んだはずだ。こいつは命がけで真剣に研究をするだろう、と。その期待どおり、私は必死になった。もちろんあんたがたのためじゃなく、自分自身の命のためにな。そしてついに、ある特別な方法を考え出したんだ」
私は、この不愉快な男の話をとことん聞く覚悟を決めた。
「このウイルスに自分で感染してはじめてわかったことがある。まず、そこから説明しよう。これは、病気ではない。ただ、身体が変容しただけなのだ。吸血鬼に嚙まれて、吸血鬼になってしまったようにな。いま、人類が〝感染者〟と〝非感染者〟のふたつの種族に分化したということだ。つまり、国境でも、人種でもないまったく新しい方法で、人類が再分割されたのだ」
彼の目は狂気を帯びてきていた。
「生物は新しいウイルスに感染することによって進化してきたとする、〝ウイルス進化説〟という学説がある。つまりいま、われわれ人間はウイルスによって進化しはじめたのだ。そうだ、われわれは病気持ちではない。〝新種〟なのだ!」
私は、黙り続けた。こいつは、何を言っているのだ? 発病してとうとう狂ってしまったのか?
「そう、感染者を〝新種〟と、非感染者を〝旧種〟と考えることもできる。ではなぜ正常に進化した側が死に絶えようとしているのか? そこが肝心なところだ。このウイルスに感染しただけなら、医学的にはまったくの健康体なんだ。ただ、ウイルスによって変容させられてしまった体質が、現在のこの地球の環境に合わないことが問題だ。非感染者にとっては何でもない幾種類かの病原菌が、感染者には命取りになる。その細菌に取りつかれると〝発病〟ということになる。そしてあっさりと死んでしまう」
「…………」
「だから私が研究していたのは、感染した身体を元に戻す方法ではない。この身体で生き続けることができる環境を、徹底的にシミュレーションしていたのだ。そして答が出た。放射能だ」
「放射能!」
「この新しい体質は、放射線に対してきわめて強い耐久力があることがわかった。そして大気中の放射能濃度を1千万倍に上げたとしたら、感染者にとって命取りになる細菌、つまり発病に至らしめる病原菌は、すべて死に絶えるということもわかったのだ」
驚きのあまり血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
「まったく不思議なことだが、これは、核戦争に備えて人類が、無意識に進化していたとも考えられる現象だ。閣下、もうおわかりだろう、私が今日、ここにやってきた理由が。この国にある原子力発電所を、事故を装って破壊して、暴走させればいい。大型の原子炉ならたった一基で充分だ。1カ月ほどで世界中に濃厚な灰がばらまかれることになる。そんなことができるのは閣下、あなたしかいない」
「そんなことをしたら!!」
「そう、非感染者は絶滅するだろう。もちろん、私だって、心がとがめないと言ったら噓になる。すべての人間が感染するのを待つべきかとも考えた。しかし、私自身、明日、発病するかもしれんのだよ。そうなったら手遅れだ。遅れた連中を慈悲深く待ってやる余裕はない。進化しそこなった恐竜たちを、大自然は待たなかっただろう? 生き残るのは、いちはやく進化した鳥類や哺乳類だけで充分だったんだ」
狂っている! 私は、立ち上がり、人を呼ぼうとした……。
すると男はまたにやりと笑い、右手を突き出して見せた。
目を凝らして見ると、彼の指のあいだには、細い針があった。
「さっき握手したとき、少しちくりと感じなかったかい? ……さあ、もうあんたにも、時間はない。迷っている暇はないはずだぜ!」
第22話 クスリ
Poison
KEYWORD★スマートドラッグ
「あのさぁ……」
部活が終わった帰り道のことだった。僕を呼び止めたのは、隣のクラスのA子だった。
「ちょっとつき合ってくれる?」
なれなれしい口調に、少し驚いた。彼女はべつに親しい友達ではない。それどころか、まともに口をきいたこともない。名前をなんとか思い出せる程度の関係だった。
僕の表情を見て、彼女は言った。
「やっぱりね。やっぱり、そうなんだわね……驚いちゃうのはわかるけど、大切なことなの。お願い、少しだけ話を聞いてほしいの」
なにが〝やっぱりそう〟なんだ?
しかし彼女の口調には有無を言わせない迫力があった。
僕は背中を押されるようにして喫茶店に入ったのだった。
水も運ばれてこないうちに、突然、彼女はこう言った。
「あなた……本当にあの夜のこと忘れてしまったの!?」
僕はア然としてしまった。あの夜!? おいおいA子とはデートしたこともないぞ。
口をぽかんと開けたまましばし絶句していたら、彼女は続けた。
「じゃあ順番に話すから。落ち着いてちゃんと聞いてね」
その口調は、きわめてまともだった。べつに気がふれてるわけではなさそうだ。
「まず、聞いておきたいの。あなた、すごくたくさん〝クスリ〟飲んでるでしょ?」
「う、うん」
僕はうなずいた。そりゃ、いまどき誰だって飲んでるだろう。
〝クスリ〟といっても、病気を治すための薬品ではなく、脳に効く〝ケミカル・フード〟のことである。
ひと昔まえに〝スマートドラッグ〟という呼び名で、脳を活性化する錠剤が出現して、大ブームになった。以降、各製薬会社はこぞって研究開発にいそしみ、すごい効能を持った新製品が続々と登場したのだ。
「で、試験まえにはいつも『ブレイン・ダイナマイト』飲んでるんでしょ?」
「うん」
『ブレイン・ダイナマイト』とは、〝飲むとそれから二十四時間、記憶能力が倍になる〟という触れ込みで去年、発売されたものだ。
当然のことながらこれは、学生のあいだで大ヒットした。
ほかのみんなと同じように僕も、試験勉強のたびに愛飲している。
「あのね、あのクスリがちょっとだけ危ないって話、聞いたことある?」
「え? ……知らないけど」
「『ブレ・ダイ』飲んで勉強すると、ものすごく速く、正確に覚えられるかわりに、ときどき大事な記憶がすっぽりなくなっちゃうことがあるらしいのよ」
「…………」
僕は言葉を失った。彼女も、しばらく黙り込んでいた。
「それで、わかったわ。知らない人みたいに無視するから、ヘンだと思ってたのよ。本当に……私とのこと……忘れちゃってるなんて」
そう言うと彼女はテーブルに顔を伏せ、しくしくと泣き出した。
周囲の客がいっせいにこちらに注目するのがわかった。
彼女がようやく泣きやんでまた喋りはじめるまでの数分間、僕は冷や汗を流し続けていた。
そして、今度は僕のほうがショックで泣きそうになったのだ。
「中間試験の、前々日のことだったわね。だからきっとあなた、あれから勉強のためにたくさん『ブレ・ダイ』飲みすぎて、それであんな大切な夜のこと、ふたりだけの秘密のこと、すっかり忘れてしまったのね」
「あのお、その、大切な夜っていったい……」
僕はおそるおそる聞いた。
「告白したのは、私のほうだったわ。でも、それからあなた……すぐにいっしょに……うふふっ」
彼女はすっかり泣きやんで、それどころか、うつむいて恥ずかしそうに笑っているのだ。
僕は頭のなかが真っ白になるのを感じた。
「……もういい、忘れたんならしょうがないわ。でも、大丈夫。私たち、やり直せるわよ」
僕は彼女の顔をもう一度まじまじと見た。
そして、半月まえの〝僕〟に心のなかで、大声で呼びかけた。お〜い、趣味悪いぞ〜、いったいなんだってこんな……。
彼女は、きっぱりと言った。
「責任はとってね! だって私、はじめてだったんだもの……」
◆
バスケ部のキャプテンの、モテモテの彼を、あのパッとしないA子が落とした!
学校は噂で持ちきりだった。
それはこの学校の七不思議だった。私たちは早速、休み時間に彼女を取り囲んで、問い詰めた。
「あの難攻不落の彼を、どうやってくどいたのよ? ねえ、教えてよ」
彼女はにこにこしながら黙っていた。
「ねえってば〜、教えろよA子!」
「うるさいな、じゃあ教えてあげる。ちょっとしたアイデアなのよ……。〝クスリ〟を使ったの」
「クスリ? 〝惚れ薬〟みたいなもの?」
「そうね。まあ、そんなところかな」
そしてA子は、意味ありげにクスリと笑った。
第30話 ぷよぷよしたもの
PuyoPuyo
KEYWORD★落ち物ゲーム
学校に行かなくなってから、ずいぶん長い歳月が流れていた。
教師からの電話はやがて絶えたが、母親だけは相変わらずうるさかった。
「お願いだから、学校に行ってちょうだい! いい大学に受からなきゃ、一流の会社入れないのよ!」「あなたは私が血を分けた大事なひとり息子なのよ! 何で話をしてくれないの!?」
僕は自分の部屋に内側からカギをかけ、閉じこもってしまった。ドアに小さな窓を開け、そこから食事だけを受け取ることにした。
「どうしたの! 開けて! 開けなさい! まだ、いまならまだ間に合うから!!」
声を無視して、僕はゲームをやり続けた。
やがて外の世界が夜なのか昼なのか、わからなくなった。いま春なのか夏なのか、どんな大事件が起こっているか、そんなことにはまったく関心を持たずに、ただひたすら、ゲームをやり続けた。そして、幸福だった。
どれくらいの年月が経過しただろう。ある日、ふと、コントローラーを持った自分の右ひじに、乳首のような小さな突起物ができていることに気がついた。
痛みはない。最初は気にもとめていなかったが、しばらくたつと、それは耳たぶくらいの大きさに成長していた。
僕は、昔、おばあさんから教わった治療方法を実践してみることにした。簡単だ。糸で、できものの根元をきつく縛るのだ。
縛ったままほうっておいた。忘れかけた頃、それはぽろりと取れた。触ってみると、大きさも手触りも、「グミ」によく似たぷよぷよした物体だった。ピンク色で、生温かい。
見つめているうちにそれはだんだん白く、冷たくなっていった。
「こいつ、死にかけているんだ」
僕は押し入れから昆虫採集セットを探し出し、注射器を引っ張り出した。
勇気を奮い起こして自分の腕に針を突き刺し、血をちょっぴり抜き取った。
それをそのグミ状の肉塊に突き刺し、注入した。
すると肉塊にほんのりと赤みがさしていった。そしてぴくぴくと嬉しそうにけいれんするではないか。僕も嬉しくなった。
それから日に数回、それに輸血してやるようになった。
昆虫用の水槽に入れた。ときどきつまみあげて、てのひらにのせてやると、それは芋虫のように、もこもこ動いた。
僕と同じ肌。僕と同じ体温。こいつは、僕の分身なのだ。
そして数日後。驚いたことに、今度は左腕のひじにまったく同じようなできものが見つかった。
ある程度大きくなるのを待ち、僕はそれを糸で縛り、腕から切り離した。二匹目の誕生。
たっぷりと血液を与えてから、一匹目のいる水槽のなかにぽとりと、落としてやった。
すると、不思議なことが起こった。二匹はまるで磁石のように引き寄せ合い、ぺたり、と引っ付いてしまったのである。
つまみあげてみる。驚いた。二匹は一体化していた。そして、ひと回り、大きくなっていた。
それからは、以前の倍の量の血液を与えることにした。
いつしかその生温かい不思議な生き物は、僕にとってゲームと同じように大切なものになっていた。
ドアをガンガンとノックする音やヒステリックな叫び声を無視して、僕はその生物を育て続けた。
数日後、今度は右足のひざにできもの出現。
切り離して注射し、水槽に落としてやる。案の定、それは瞬時に合体。
数時間おきに、大量の血液を与え続けた。僕の生命を吸い取って、ピンク色の柔らかい生き物は元気に動き回った。金切り声が貧血のだるい身体に響く。しかし無視して、ひたすらそれに血を与え、かわいがった。
やがて予想どおり、左足にもできものが。僕は糸を用意し、慣れた手つきで縛る。
切り離す。注射器を取り出す。腕に針を突き刺し、血を吸い取る。生まれたてのぷよぷよに注入してやる。と、そのとき、背後でドアをがしゃがしゃ揺する音がした。
「いいかげんに出てきてちょうだい」
あの忌まわしい声。
「あんた何ゴソゴソやってるの? まだゲームやってるの?」
ガタン、と、音がした。振り返ると、母親が立っていた。カギを壊して、入ってきたのだ。
久し振りに見た彼女の顔は、すっかり老いぼれていた。
「あんた、何やってるのよ! その注射器は何よ!」
僕は右手に注射器を握りしめ、左手に生き物を持っていた。
母親は、その不思議ななまめかしい生き物を見て叫び声をあげた。
「その気持ち悪い物は何なの!」
僕は母親の存在をまったく無視した。わくわくしながら、その四匹目を水槽に、ぽとりと、落とした。新入りは、すぐに大きな肉のほうに吸い寄せられた。
ところが、今回の合体のようすはいままでとは少し違っていた。四匹目を吸い込んだ肉塊は小刻みに、震えはじめたのだ。
ようすがおかしいぞ。それは、けいれんしながら、ものすごい勢いで、風船のように膨らみはじめた。水槽からはみ出すほどの大きさになったときそれは、ぴゅん、と飛び出して宙に浮いた。きゃあああああ! 母親の、叫び声。そして……。
バシーーン!!!!
その生き物が破裂した音だった。あたり一面に、血が飛び散った。僕も、そのしぶきを浴びて頭から足先まで、ずぶぬれになった。
〝それ〟は消えた。跡形もなくなっていた。
ふと気づくと、床の血の海のなかに、母親が、倒れていた。
僕が右手で握りしめているものは、注射器ではなかった。
金属バットだった。