1999年のゲーム・キッズ
第二回
渡辺浩弐 Illustration/竹
それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(ルビ:2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(ルビ:1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。
第7話 机上の空論
Desk-Top-News
KEYWORD★デスクトップペーパー
「おい、大変だ大変だ!」
壁面スクリーンに、見慣れた顔が現われた。親友だ。
「なんだい……おまえの大変は、本当に大変だったためしがないぜ」
僕はTV電話に向かってそう言った。
「いいから新聞見てみろよ」
その言葉に従って僕は、壁の〝新聞〟コマンドを指でぽん、とクリックした。親友の顔の横に、朝刊の第一面が鮮明に広がった。
〝国連多国籍軍 ついに中東派兵!〟という大見出し。
「ほう」
僕が驚いてみせると、親友は得意そうにニヤリと笑った。
「いよいよ戦争だぜ! 〝中東のならず者〟もこれで一巻の終わりってわけだ」
国際世論の集中非難を浴びていたあの暴力国家に対し、国連が武力行使を決定したのだ。
興奮した親友が画面から消えたあと、僕はそのデジタル壁新聞をじっくり読んでみることにした。
写真は、声明を読み上げるアメリカ大統領の姿だった……いや、〝写真〟ではない。この画像はクリックすれば動き出す、つまり動画映像になるのだ。
僕は記事中の、超タカ派で知られる中東軍事国家の指導者の名をクリックしてみた。
すぐにスクリーンにウィンドウが開き、彼の顔写真とプロフィール・データが表示された。
〝……秘密部隊を率いて時の指導者を次々と暗殺し、黒幕としての実力を手中にする。処刑と称して同志を大量虐殺したことも知られている。クーデターを起こし独裁者に成り上がってからの、近隣の国々に対する極めてアンフェアな軍事的圧力、侵攻は枚挙にいとまがなく……〟
そこには、陰謀と裏切りと殺戮に満ち満ちた半生が、綴られていた。
新聞だけでなく雑誌、書籍そして戸籍など記録物のすべてが紙からデジタル媒体に置き換えられたおかげで、さまざまな情報をこうして有機的に検索できるわけである。
スクリーン上に好きな新聞や雑誌を呼び出して読める。文中の言葉をクリックすれば、過去のありとあらゆる記録や資料から、関連情報を取り出して表示してくれる。
僕はその顔写真を、しばらくぼんやりと眺めていた。それにしても凶悪な顔だ。鋭い目、歪んだ口ひげ、醜くたるんだ喉。
瞬間、その顔写真が、生きているようににっこりと笑った。
? ……いや違う。写真がべつのものにすり替わったのである。指名手配写真のような悪辣な野蛮人顔が一瞬にして、柔和な紳士の顔に変身したのだ! 優しく笑いかける目、よく手入れされた上品な口ひげの下で知的に結ばれた口もと。まるで別人である。
啞然としながらウィンドウを閉じ、新聞の一面に戻ると、今度はもっと驚いた。そこには、アメリカ大統領と、その中東軍事国家の指導者が肩を抱きあい、握手をしてる写真が!
〝二大国、共同声明を発表〟
たったいま、国際情勢が大きく変わったのだ! これまで世界の目の敵とされていたその中東の軍事国とアメリカが、電撃的に国交を樹立したのだ。
本文を読む。おかしい。アメリカは多国籍軍を率いて、事実上この国とは戦争状態にあったはずなのに。〝停戦〟とか〝和平交渉成立〟なんて言葉さえ出てこない。
これまでのことは〝なかったこと〟になっているのだ。僕は、その中東のならず者の名をもう一度クリックした。
〝……平和的外交による国の安定を訴える政治グループの指導者として、次第に民衆の心をとらえていった。内戦を平定した手腕が認められたことにより、大統領の座に。以降、中東の新しい平和と秩序を提唱する国際派の政治家として国内外からの信頼は厚く……〟
プロフィールも、理想的な平和主義者のそれに変わってる! ひとつの国と、その指導者の記録が、過去にさかのぼってすべて、一瞬のうちに改竄されてしまったのである。誰の仕業だ!?
突然、画面上にTV電話のウィンドウが開いた。案の定、親友がまた電話してきたのだ。
「もしもしっ、夕刊見たかい?」
彼はかなり興奮していた。
「ああ、見たよ」
「驚かなかったか? 歴史的な国交樹立! ってやつ」
「ああ……うんまあ、よかったね」
「おいおい、よかったネじゃないだろう! 昨日まで『極悪非道の暴れん坊』だったあいつが、いつの間にか『中東の平和をになう理想的な指導者』になっちまってるんだぜ。おかしくないか?」
「ああ。おまえ……悪いことは言わないから、あまり気にするなよ、そんなこと」
「何言ってるんだよ!」
彼は怒りながら電話を切った。やれやれ。昔からこういう性分の男なのである。
待てよ……彼はもしかしたらあっちこっちに電話して大騒ぎしているかもしれない。いや、彼のことだから新聞社に直接、事実関係を問いただしてるかもしれない。
心配だ。今度は僕のほうから彼に電話してみることにした。
電話番号簿をスクリーンに開き、彼の名前をクリック……おや? 変だぞ。彼の名が、消えている。
僕はどきりとした。不吉な予感。今度は『個人情報ファイル』を開いて、彼の名前を打ち込んでみる。
彼の顔写真と、そして住所、生年月日、経歴など個人データがそこに映し出された。と、思ったつぎの瞬間、画面はぐにゃぐにゃと溶けるように消え、そのあとには一行の文が残った。
〝ソノ ナマエノ データハ ミアタリマセン〟
僕は、ため息をついた。そして気をとり直して自分に言い聞かせた。
彼は、もういないのだ。
いや、違う。そんな人は、もともとこの世に存在していなかったのだ……。
第9話 究極のビジネス
Death For Sale
KEYWORD★人工冬眠
おすすめします!
〈不老不死になってみませんか?〉
現時点ですでに〝不老不死〟のテクノロジーは実現しています。
人類の究極の夢は、ついにかなったのです!
それは、人工冬眠のことです。
当社では、あなたの身体を冷凍して、半永久的に保存してさしあげるサービスを実施しております。
これ自体は、正確にはまだ〝不死〟のテクノロジーとは言えないかもしれません。
でも、〝不死〟が可能になる未来まで〝死〟を先延ばしにすることができれば、それは〝不死〟と同じことなのです。
この技術開発が始まったのは'50年代から。最初に人間が冷凍されたのは1967年です。
当初は、ガンやエイズなど重い病にかかり、死を待つばかりの状態の患者たちのために、その病気の治療方法が発見されるまで死を先延ばしにする目的で使われていたものです(現にいま、アメリカ・カリフォルニア州のアルコア延命財団では、すでに約百名もの冷凍ボディーが、液体窒素に満たされたアルミ・タンクのなかで、〝元気に死んで〟いるのです)。
健康な人だって、このテクノロジーを利用しない手はありません。
人工冬眠で本当の死を先延ばしにして、いつの日か不老、不死のオペレーションを受けられる日に蘇ればよいのです。
さあ、あなたはもう、老いることからも、死ぬことからも自由になったのですよ!
〈タイムトラベルが実現しました!〉
冬眠は辛いことでも、退屈なことでもありません。あなた自身にとっては、一瞬のできごとになるはずです。
眠っているあいだは死んでいるのと同じですから、あなたは、眠りについたと思った瞬間、未来の世界に目覚めることになるのです!
つまりこれは、未来に行く〝タイムマシン〟のテクノロジーでもあるのです。
未来社会を、自分の目で見たくはありませんか?
そこで、あなたは〝大昔からやってきた歴史の生き証人〟としてスーパースターになれるかもしれません!
〈永久に美しく!〉
「眠り姫」になってみませんか?
永遠の美を保ったまま、未来のある日、白馬にまたがってやってきた王子様のくちづけで、あなたは目覚めることになるのです……美しさに自信のあるあなたは、特に急いでください!
できるだけ若いうちに、その美しさを冷凍してしまいましょう。いつの日か、不老の手術が受けられるようになるその日まで!!
〈料金は、なんと実質的にタダ!〉
ちなみに気になる料金のほうは、全身保存の場合一千五百万円弱、頭だけなら五百万円弱です。
自分の下半身に特別な思い入れのないかたには、〝頭だけコース〟をおすすめさせていただいております。
そして、冷凍ボディーは法的には死体とみなされますから、あなたは生命保険でこの料金を払うこともできるのです。つまり、いま、お金を持っていなくても大丈夫。あなたは、実質的にはタダで人工冬眠に入れるわけです。
また、残ったお金を貯金しておけば、利子がついて、目覚めたときには大金持ち、なーんてことも……。
〈さあ、急いで!!〉
さあ、急いでください。あなたの周囲の人々も、ひそかに冬眠に入ろうと計画しているかもしれません。
おくれをとってはいけません。もし取り残されたら、あなたは「墓守り」として一生を過ごすハメになってしまうかもしれませんよ!
◆
おすすめします!
〈ビジネスを始めてみませんか?〉
以上の広告コピーを、そのまま使っていただいてもOKです。
つまり冷凍カプセルを作って売って、人間を冷凍保存してあげる商売です。
え? 本当にその技術は大丈夫なのか、と? 冷凍された人間が本当に生き返るのか心配ですか?
それは保証しましょう。
大丈夫ですとも。もし万が一、この技術に欠陥があったとしても、心配ありません。この商売に限っては、絶対にキャンセルも、返品もないからです。
第11話 楽園
Inside Out
KEYWORD★シミュレーションスフェア
その生き物は、透明な壁の向こう「外側」からじっと、ぼくのことを見つめていた。
二本足で立っている。身体に衣服のようなものをまとっていることが、知能生物であることを証明している。
でも、その皮膚はただれて崩れ、そして顔の上半分を占める大きな緑色の両目、その昆虫のような輝きの不気味さといったら……。
◆
ぼくたちは、鉄骨と特殊強化ガラスによって完全に密閉された、巨大ドームのなかで暮らしている。
ぼくが生まれるずっとずっとまえに、はるかかなたの国で起こった原発事故がそもそもの発端だという。
それはまたたく間に地球全域に放射能を撒き散らした。
人類にできたのは、汚染されずに残った土地に大急ぎでこのドームを建造することだけだった。内側を清浄な大気や液体で満たし、そして膨大な種類の植物や動物のなかから、汚染されずに残っていたものだけを質、量、ともに厳選して運び入れた。
そして、人々はそこに逃げ込み、蓋を閉じた。そのミニ地球を密閉してしまった。
死滅しかけた地球の一部分に、昔の、美しいままの地球環境のミニチュアが出来あがった。
「シミュレーションスフェア」という技術がもとになった設備だ。完全密閉した空間の中に地球の全環境を揃え、運び込まれた動植物によって食物連鎖が完結するようにバランスを計算した上で大気と水を循環させる。そして完全に閉じた生態系を維持する。そんな試みが、成功したのだ。
しかし、このプロジェクトには明白な問題点があった。
当然のことながら、急ごしらえのドームの、箱庭のように小さな世界には、すべての人類が生活できるスペースはなかった。
大半の人々は「外側」に置いてけぼりにされてしまったのだ。
彼らはそこで生き延びざるをえなかった。
ぼくは知っている。ドームの外側からギラギラした目で覗き込む怪物たちの正体は、そのときに取り残された人々の成れの果ての姿なのだ。長い長い年月、放射能の濃度をどんどん増していく過酷な環境のなかで、彼らは生き続けたのだ。生き地獄で暮らすうちに彼らの肉体、そして遺伝子は変形し、いまや、見るも無残な怪物と化してしまったのだ。
小さい頃、母親からこの話を聞いたとき、ぼくは幼心にショックで全身が震える思いをしたものだ。
動物園の檻の中を見るような気持ちで、興味本位で眺めていた「外側」の荒廃した不思議な風景、そして奇形の怪物たち。その正体が、ぼくたちの先祖が破壊したふるさと、そして、その過酷な環境に置き去りにされ、どろどろと崩れながら生き続けている人々の姿だったなんて……。
「かわいそうだよ。どうして入れてあげないの?」
「仕方がないのよ。世のなかは、みんなが幸せになることはできないのよ」
「もっと大きなドームを作って、たくさんの人々が暮らせるようにできないの?」
「私たちは、このドームのなかだけで生きていられるんだから、これより大きなドームを作ることはできないのよ。この『内側』世界のなかだけで、空気と水が循環して、そして植物と動物が食物連鎖して生き続けてる。空気の濃さとか水の量とか、生き物の数なんかが、ものすごく複雑なバランスで成り立っているの。もし、一回でもハッチを開けて、空気や生物が『外側』と入れ替わったら、その瞬間に、この世界のバランスは崩れてしまう。そしてみんな死んでしまうことになるの」
神様に選ばれて箱舟を建造したノアは、連れていく動物、置き去りにする動物を選別するときに、悩まなかったのだろうか?
ぼくは時折、「世界の涯て」と呼ばれているこのドームの壁際に来て、こうやってぼんやりと外側の風景を眺めている。奇形の生物がはびこる、荒涼とした、死の世界。そこでの暮らしはどんなだろう。そしてあの人たちはどんな思いでこの壁までやって来て、ぼくたちの世界を覗き込んでるんだろうか。
ときどき、壁を叩く者もいる。しかし、彼らの力ではそれはびくともしない。それに、もしかしたら彼らは知っているのかもしれない。壁が壊れたら、この〝天国〟そのものが、消失してしまうということを。
かわいそうな人々。でも、母親の言うことは正しい。救うことはできないのだ。
ぼくは最近、その覗き込む怪物たちの顔触れのなかに、常連を見分けられるようになった。
そのうちのひとりは確かに、ぼくと同じ年頃の子供だ。背丈も同じくらいだから、自然と目が合ってしまう。ただれて不気味な顔だが、その瞳はまだ幼い。
あの子には、お母さんはいるのだろうか。
◆
「お母さん、ただいま」
「おかえり……また、惑星動物園に行って来たのかい?」
「うん、『地球人』をガラスごしにずっと見てたの」
「あのなかは、滅びるまえの地球とまったく同じような世界になってるのよ」
「地球人って不気味だねえ。あのねお母さん、まだ子供みたいなんだけどね、最近、いつもいつも壁際まで来てる地球人がひとり、いるの。そして、こっちのほうをじっと見てるの。何か企んでるんじゃないのかな? 脱走とか」
「大丈夫よ。絶対に外に出ないように脅かしてあるらしいから」
「どういうこと?」
「お外は怖いよ、外に出るとすぐ死んじゃうよ、ってだまして、教えてあるのよ」
第12話 トロイの木馬
I'm In You
KEYWORD★マイクロロボット
「もしもし君か? 最近、つきあいが悪いぜ。忙しいのかい?」
電話は、旧友からだった。こいつの声を聞くとほっとする。
「いや、そうじゃないんだが……」
「なんだ、落ち込んでるのか?」
古いつきあいだ。何でもお見とおしなのだ。
「じつは女房とうまくいってなくてね」
「早すぎる倦怠期ってやつだな、よくあることだよ」
違う。そんなに単純なことではない。結婚してわずか半年で、あの女は本性を現わしていた。金遣いは荒い。家事はしない。夜遊びは激しく、そして最近はしばしば外泊してくる。どうも、浮気しているようだ。
もうだめだ、我慢できない。僕は、親友にそう、告白した。
「そうか、残念だな」
彼は、もちろん僕の女房のこともよく知っている。
「君たちは、合わなかったんだよ。いっそ、すっきり別れちゃえよ」
「もちろん別れて、自由になりたいよ。でも、浮気の証拠をつかんだわけじゃないから……。僕から離婚を切り出せば、莫大な慰謝料を請求されることは間違いない。そういうところは抜け目のない、どん欲な女なんだ」
親友は、しばらく黙っていた。そして、急に真剣な声になった。
「相談に乗るよ。近々、会えるかな」
数日後、場末のバーで彼と会った。
「奥さんのことなんだけどさ、……いっそ、殺っちゃいなよ」
開口一番、彼は小声でそう、ささやいたのだ。僕は驚いてグラスを取り落としそうになった。
「そ、そう簡単には……」
「忘れたのかい、俺は医者だぜ」
彼は、バッグから大切そうにハンカチの包みを出し、テーブルの上でそっと開いた。小さなカプセルがあった。
「毒薬かい?」
「違う。クスリなんか使うと、検死でまず間違いなくばれてしまう。このカプセルのなかに、超小型の体内手術用ロボットが入ってるんだよ」
「ロボット?」
「そう。最近の医者は、患者をメスで切り開いて手術をしたりはしないんだ。このロボットが身体のなかに入って、医者の代わりに作業をする。静脈や動脈を泳いで、患部にたどり着いたらそこに投薬したり、悪い細胞をレーザーで焼いたりする。血管用よりもひと回り大きな内臓用ロボットにはちゃんと両目も付いている。医者はロボットの両目のカメラが捉えた映像を見ながら、そのロボットの両腕を遠隔操作して複雑な体内手術をしたりするんだ」
「まるで『ミクロの決死圏』だなあ!」
「このカプセルに入ってるのは最新式の血管用ロボットだ。そして、こっちが遠隔操作スイッチだ」
彼は、今度は小型ラジオのようなものを取り出した。
「よく聞けよ。このスイッチをONにすると、カプセルが割れてなかから身長0・05ミリメートルのロボットが登場する。このロボットはいちばん近くにいる人間を察知して、その人間のところまでノミのように跳んでいく。鼻から頭に入って、そして脳の基幹部の血管を切断していく」
「な、何だって!」
「しっ。声がでかいぞ。そう、これは特別なプログラムをインプットした殺人ロボットなんだよ。目的を達成したあとは、このロボットは死体の頭から退散する。死因は単なる脳溢血とみなされるだろう。証拠は残らない。完全犯罪だ」
「おい、冗談だよな!?」
しかし親友の目は笑っていなかった。
「このカプセルを奥さんが眠る枕元に置くことができれば、それで成功も同然だ。だからこれを彼女のピルケースか何かにしのばせとけばいい。君は別の部屋で待ち、彼女が眠り込んだ頃にこのスイッチを押す。それだけだ」
「そ、そんなこと」
僕はまだ尻込みをしていた。けれども彼は「とにかく持って帰れよ、決心がついたら使えばいい」……そう言って僕にそのカプセルとスイッチを押しつけた。
その夜、女房はまた、帰って来なかった。僕は、それでなぜかほっとした。
しかし、ベッドのなかで目をつぶると、あの憎い女が頭をかきむしって苦しむ姿がありありと浮かんだ。夜中に何度も目が覚め、そして僕は眠ることをあきらめ、ベッドに起き上がった。
彼は、本気なのだろうか? 昔から冗談好きな彼が、珍しく今日は真剣な顔だった。
枕元に置いてあったハンカチを開き、彼からもらったカプセルを出してみた……おや?
いつの間にかカプセルが、割れていた。自然に割れたのか。そして中身は……カラッポだった。
おかしいぞ。僕はふと思いつき、今度はスイッチを手に取った。そっと裏ブタを外してみた。
やっぱりだ。スイッチのなかも、カラだった。
僕は、思わず笑い出してしまった。何も入ってなかったのだ。一杯食わされた。彼一流の悪ふざけに、見事にかつがれたのだ!
僕はひとりで、声をあげて笑った。
頭が痛くなるほど笑った。げらげら笑いながら、ふと気づいた。僕の女房の、ピルケースを枕元に置いて寝る習慣を、彼はなぜ知っていたのだろう!?
そういえば、女房が僕に生命保険をかけたのはつい先週のことだ。
僕は、まだ笑い続けていた。頭痛はますますひどくなっていた。
頭のなかを虫がはいずり回っているような、奇妙な痛みだった。
第17話 聞こえますか
No No Noise
KEYWORD★サブリミナルメッセージ
ある日、耳の奥に、声が響いてくる。かすかな、とぎれとぎれの声が。
◆
突然エアコンの振動音が止んだ。
寝つけずにベッドのなかでぼんやりとしていた僕は、そのときはじめて、自分がその音をずっと聞き続けていたことに気づいたのだった。
ちょうどそのとき、遠くの道路で響いていたクルマの音が、完全にとだえた。
静寂が僕を取り巻いた。瞬間……あの不思議な、不気味な音が、確かに聞こえたのだ!
それは人間の声のようだった。
誰の声なのか、どこから聞こえてくるのか、何を言っているのか、わからない。でも、かすかにとぎれとぎれに聞こえてくるその声は、確かに、何かを激しく訴えていた。必死に助けを求めているようにも聞こえた。
しかし、その静寂は一瞬のことだった。すぐにエアコンのファンはやかましい回転を再開し、遠くのクルマの群れはまた流れはじめた。
「声」はかき消されてしまった。
都会で暮らしている僕たちは、一日中、騒音のなかにいる。
その喧騒の底に、何か不思議な「声」が潜んでいたことに、僕はそのとき気づいたのだった。
僕たちは皆、無意識のうちに誰かの不気味な声を聞き続けている?
たとえば、こういうことだ。青い色のサングラスをかけると一瞬、自分のまわりの世界が青一色になる。
しかし、ほんのしばらくすると視界は元どおりに戻ってしまう。目を覆う青い色に気づかなくなる。やがて、サングラスをかけていることも、忘れてしまうのだ。
そんなふうに、ずっと聞き続けているせいでその存在を忘れてしまっているような音が、存在するのではないか!?
あるいは……「サブリミナルメッセージ」という言葉がある。
意識では知覚できない音や映像で人間の深層心理にイメージを送り込み、本人にそれと気づかせないで感情や行動をコントロールする広告のテクニックだ。
映画のフィルムのなかに、1フレーム(1/24秒間)だけ、まったくべつの絵を入れておく。ふつうに映画を見た観客は、絵に気づくことはないのに、そのイメージに潜在意識を刺激されてしまう。ジュースの絵を入れておくと、激しい喉の渇きを覚えたりするという。
また音楽のなかに、人間の鼓膜では知覚されないはずの帯域の音で簡単な命令の言葉を入れておくと、聞いた人は知らず知らずのうちにそれに従ってしまったりするらしい。
誰かが僕たちに向けて仕組んだサブリミナルメッセージが、現代社会の喧騒の底に流れているのではないか……。僕はそんな考えにとりつかれた。そうなると、気になって気になって仕方がなくなった。
「声」は確かに聞こえているのか、いやそれとも、僕の気のせいなのだろうか。
もう一度、聞いてみたい。耳を澄ましてみる。意識を聴覚に集中する。ダメだ。
僕は、改めて思い知った。僕たちは、絶え間のない騒音の渦のなかで生きている。いつでも、どこでも何かの音が鳴っている。どんなに意識を聴覚に集中しても、邪魔が入るのだ。テレビやラジオや、いたるところに備えつけられたスピーカーから聞こえてくる音。人々の喋り声や笑い声。部屋のさまざまな電気製品が振動する音。
機械は、そして都市は二十四時間眠らない。一日中、僕たちの鼓膜を刺激する音に切れ間はないのだ。
しかし、ぼんやりしているときに限って、ふと、あの声は耳の奥に聞こえてくるのである。
はっと気づくとその瞬間、声はもう聞こえなくなっている。自分の影と追いかけっこをしているような感じだ。僕は少しノイローゼ気味になってきた。
この音は本当に聞こえているのか、それとも、僕の脳のなかで鳴っている「幻聴」なのか?
僕はそれを確かめるために、完全に音を遮断した空間に入ってみることにした。もしそこでもあの音が聞こえ続けたならば、それは僕の幻聴だということになる。
マイケル・ジャクソンやウィリアム・バロウズが、バスルームくらいの大きさの金属製の小部屋を、自宅に持っていたという話を聞いたことがある。彼らは創作上のアイデアを練るときに、たったひとりで、そのなかに入るのだ。そしてまったくの無音状態で瞑想にふけるという。
それがヒントになった。僕は有り金をはたいて大きな金庫を注文した。
とある休日、その金庫は僕の、ひとり暮らしの部屋に届いた。
人間が、なんとか入れる大きさだ。僕は体を縮めて、そのなかにもぐり込んだ。
そして、体をねじ曲げながら内側から扉を引いて閉めた。
ガチャリ。不吉な音がした。
僕はハッとして、すぐに扉を押してみた。しかし……開かない!
強く叩いても、びくともしない。カギが掛かってしまったのだ!
確かにここは僕の望んだ静寂の、暗黒の空間だ。けれども、僕はここに閉じ込められてしまったのだ。
「誰か、誰か助けてくれ」
僕は大声をあげた。その声は反響音となって僕の鼓膜を激しく振動させた。
「助けて、助けてくれ!」
僕は厚い鉄の壁を力いっぱい叩きながら、声を限りに叫び続けた。
「助けてくれ!!」
そして、耳の奥にずっと聞こえていたあの声の正体を、ついに、知ったのだった。
◆
やがて君にも、不思議な音が聞こえてくるはずだ。
かすかな、とぎれとぎれの、僕の声が……。