アリス・エクス・マキナ

第六回

伊吹契 Illustration/大槍葦人

伊吹契×大槍葦人が贈る“未来の童話”ーー。星海社FICTIONS受賞作、遂に刊行!

Chapter.6 ロザ

研究室を出て、寝室へと向かった。中に入り、ベッドへと倒れこむ。開いたままのドア。フローリングの廊下が見えている。ドアを閉めに立ち上がることすら、億劫だった。

ベッド脇に設置されたサイドテーブル。いつかのマフラーが載せられている。少女は俺に、どんな気持ちでこれを渡したのだろう。これを編みながら、何を考えていたのだろう。

仰向けになって天井を見上げる。ロザはまだ研究室でスリープダウンしている。キッチンに温めている最中のスープがあると言っていたが、居間にはアリサがいるはず。問題はないだろう。

ロザのオーナーは、あきらだった。俺がタブレット越しに言葉を交わした田宮という男。初めから何もさせる気のなかった調律依頼。幼馴染に似せて作られたロザの容姿。せがまれて向かった祭事の場。俺に対する極めて低い印象値。にも拘わらず、まるで俺に好意でももっているかのような振る舞いを見せた少女。全てには意味があるのだろう。あきらの意思が、彼女に何かをさせていたのだろう。

「もう、どうでもいいのかもしれないな」

誰にとも無く呟き、目を閉じる。ロザは俺を謀っていた。あきらも、言ってしまえば、孝一や美優もだ。俺は何も知らず、誰も俺に真実を告げようとはせず、世界はただ、俺を無視して回り続けるのだ。

わたしは先生のお知り合いに、とても良く似ているようですね。

初めて会ったあの時、ロザは俺にそう言った。指先で俺の涙を拭い、温かな雰囲気を身に纏い、俺に微笑んで見せた。だがそれも全て噓だった。この2週間、彼女が俺に対して口にした数々の言葉。その中に真実はいくつあったのだろう。彼女の本心は、どれ程に混ざりこんでいたのだろう。

「大丈夫?」

先刻と同じ言葉を口にしながら、アリサが寝室へとやってきた。指先で落ち着かなそうにワンピースの裾を弄りながら、寂しそうな眼差しを俺に向けている。その様を見て思う。突き動かされる。脳が、心が、縋る何かを求めている。

「アリサ、こっちへ来てくれないか」

呟くように、囁くように、少女にそう要求した。少女は頷き、躊躇うことなく足を進める。膝をついてベッドへと上り、横たわる俺の顔、その直ぐ傍に座り込む。どこか大人びた眼差しが俺を見下ろす。視線に纏うは憐憫の情だ。

「どうしてほしい?」

少女の柔らかな言葉が耳朶に触れる。俺は肘を折った右腕を枕にし、体ごと横を向いて少女に向き直る。目の前に揃えられたアリサの膝小僧。左手を少女の白い太股に伸ばし、そっと触れる。その指先を、少女が優しく握った。

「気持ちが少し、疲れちゃったんだね」

アリサはそう言って、姿勢を崩した。俺と向き合うように横になり、柔らかな視線を向けてくる。小さな手が、ほっそりとした指先が、俺の頭へゆっくりと伸びた。

「おいで」

言葉が先か、抱き寄せられたのが先か。顔全体が柔らかな感触に包み込まれる。アリサの小さな胸の膨らみが頰に触れ、温もりは心へと染み込んでいく。目を閉じると、俺の頭を包み込んだ少女の手に少し、力が籠った。

「お父さんにね、訊かれたよ」

少女は優しく、しかし楽しげに語る。こんなに近い距離から人の声を聞くのはいつ以来だろう。アリサはどうして、こんなにも優しくしてくれるのだろう。

「朝倉先生のことが好きなのかって。普通そういうの、娘に訊かないよね。頭打って呆けたのかも」

アリサは少し笑い、俺の髪をそっと撫でた。

「何て答えたんだ?」

頭を使う気にはまるでなれなかった。だから深く考えることはせず、俺は少女に続きを促した。意味を持たない言葉の遣り取りも、気を落ち着けるには役立つだろう。

「ん、きもいこと聞くなって言っておいた」

「そうか。そりゃ残念だ」

少女の腕の中で、温かさを感じながら、俺は小さく口を動かす。アリサは悪戯っぽくまた少し笑った。

「肯定してほしかった?」

「さあ、どうだろうな」

考えたくない。今は何も、考えたくない。少女の細い腕に、一層力が籠った。

「なあ、お前はどうして、こんな風にしてくれるんだ? 俺はただの調律師だ。お前にしてみれば、俺なんて何という程のものでもない、周囲の人間の一人に過ぎないだろう」

工房にも頻繁にやってくる。困った時には俺を頼ろうとする。そして今は、こんなにも温かく俺を包み込んでくれる。その理由が分からなかった。

特定の個人に対するアリスの言動を決定付けるのは、内部に保持した印象値。オーナーの命令など特別な事情があれば別だが、基本的にアリスは、印象値を高く設定した相手に対する程、好意的な言動をとるようになる。アリサの俺に対する印象値は、それ程までに高いのだろうか。

「あっ

気が付いた。高いのだ。アリサの俺に対する印象値は、それ程までに、今現在のアリサの行動が当然のものと思える程に、実際のところ高いのだ。

「やっと気が付いた?」

耳元で、アリサが囁く。

「9925。今のわたしの、あんたに対する印象値。キリカちゃんもいて、忙しかったからね。仕方ないよ」

アリサは気が付いていた。気が付いていて、敢えて俺にそれを伝えなかった。俺は戻し忘れたのだ。オーナーの元村と同値にまで引き上げた自身に対する少女の印象値を、元に戻し忘れたのだ。元に戻さぬまま、オーナーへの返却を行ったのだ。

「どうして言わなかった。俺のミスだが、言ってくれさえすればちゃんと

腕の中で顔をあげ、少女の顔を見つめる。薄桃色の小さな唇が、目の前にある。アリサは微笑んで、もう一度俺の頭を優しく撫でた。

「言うわけないじゃん。元に戻されちゃったら、好きじゃなくなっちゃうもん。相手が誰だろうと、一度好きになった人を嫌いになんてなりたくないよ」

柔らかな笑み。優しいソプラノ。少女の口にした好きという言葉は、恐らく恋愛的な意味を持ったそれとは少し違うだろう。アリスはオーナーのもの。オーナー以外の人間に恋愛感情を抱くことなどまず考えられない。実際に俺が改修を行ったアリサの人格プログラムも、そういった行動分岐はしないはずだ。だが、だがそれでも。

「ありがとう。アリサ」

少女の胸に顔を押し付け、俺は一言そう述べた。どんな形であれ、アリスであれ人間であれ、誰かが自分を想ってくれるということが、こんなにもありがたいものだったとは。こんなにも心安らがせてくれるものだったとは。

「何があったのか知らないけれど、元気出して。あんたの味方になってくれる人は、あんたが思ってるよりずっとずっと、沢山いるんだよ」

アリサの言葉が、微笑が、温もりが、心に染み込んでは活力に変わる。口元で小さく、もう一度だけ礼の言葉を呟いて、俺は再び目を閉じる。

俺の頭に口付けるように背を丸めたアリサの髪が、耳に触れてくすぐったかった。

自宅までアリサを送り届け、工房へ戻った。研究室のプレジデントチェアに腰掛け、ベッドを見遣る。目を閉じて横たわるロザ。彼女はまだ知らない。自らの謀りを、形作った虚構を、俺が知ってしまったことを。故に、問わねばならない。彼女を起こし、その目的を、その正体を訊かねばならない。

ロザは何故、何もかもを隠したのだろう。あきらは何故、何もかもを隠させたのだろう。聞くのが恐い。知るのが怖い。だが、何も無かったかのように仮初めの調律を終わらせ、彼女をあきらの許へと送り出すことはできそうもない。

「ロザ、ReBootだ」

息を整えながら、定型句を口にした。ロザの瞼がゆっくりと開き、虚ろな瞳には意思が戻る。おはようと、そう声を掛けた。

「おはようございます、先生」

ロザは微笑み、俺の顔を見つめる。関節稼動、問題はありませんでしたでしょうか。

「ああ。何も問題は無かったよ。すこぶる快調だ」

偽りの言葉を口にし、俺は少女に微笑み返す。ロザがゆっくりと、半身を起こした。

「なあロザ、一つ訊いてもいいか?」

尋ね、俺は立ち上がる。ベッドへ移動して縁に腰掛けると、ロザを隣に座るよう促した。少女は不思議そうな顔をしながら、しかし言われた通り、俺の横に腰を下ろした。デニムパンツに包まれた細い足が、ベッドの端から突き出てぷらぷらと揺れる。

「俺に対する、お前の今の印象値はいくつだ? いろいろあったろう。随分下がったんじゃないかと心配してるんだ」

いろいろとあった。本当に、いろいろとあった。ロザは僅かに頰を染め、惑うように瞳を揺らした後、俺を見つめて答える。8850です、先生。

「下がったりなんてしませんよ。先生はいつも、わたしに優しくしてくださるじゃありませんか」

少女もまた、噓をついた。それを聞き、物悲しい気持ちになる。

彼女が俺を謀っていたことは、もう分かっている。それでもその謀が、目の前で実際に展開されるのを目にするのは、つらいものだ。俺は息をつき、少女の髪を一撫でする。それから立ち上がり、訝しげな顔をするロザを横目にドアへと向かう。少女に背を向け、ドアノブを意味も無く見つめながら、静かに告げた。

「優しくなんてしてやれていないさ。だからかな。印象値も、そう高い値をとりはしない。なあロザ、本当のことを教えてくれ。実際はその半分、だろ?」

少女程ではない。だが俺も、ロザを謀った。関節稼動のチェックと言って少女をスリープさせ、内部へのアクセスを試みた。故に、その事実を突きつけた時少女がどんな顔をするのか、見てしまうのが憚られた。きっと、悲しそうな顔をするのだろうと、そう思った。寂しそうな、泣き出しそうな面差しで、俺を詰るのだろうと、そう思った。だが。

「見たの?」

違った。悲愴感も、寂寥感も、その声には含まれていなかった。少女が口にしたその言葉。初めて投げかけられた常体の単語に乗せられていたのは、ただただ明確な敵意だった。

「ああ、見たよ。ロザ」

振り返る。少女は立ち上がり、真っ直ぐに俺を見つめている。先程までの微笑は夢幻の類かと疑ってしまう程、無感動な表情を浮かべている。

「お前のオーナーは、あきらだ。15年前に別れた俺の幼馴染。彼女に命じられて、お前はここへ来た。俺を騙していたことも、無駄な調律に時間を割かせたことも、責める気は無い。必要なら、受領済みの調律料も全て返金しよう。ただ、聞かせてくれないか。お前はあきらに

「五月蠅い」

俺の台詞は、ロザの放った強い言葉に遮られた。怒りに満ちた鋭い視線に射貫かれ、気圧されそうになる。

「あなたが、あなたなんかがその名前を口にするな。分かったような口を利くな」

「ロザ

少女の名を呟き、そのまま俺は口を噤む。足が震える。胸がざわめく。自分が情けなく思えて仕方が無い。少女の口にした、耳を疑うような乱暴な言葉。俺は目の前のアリスのことを、何一つ分かっていなかったのだと、実感させられる。

「あなたがその名前を口にするたび、反吐へどが出そうだった。あなたにその名前を口にする資格はないと、何度も言いそうになった。だけど、ずっと我慢してあげてた。それなのに、どうして人の頭の中を勝手に覗くようなことをするのっ。放っておいてくれれば、騙されたままでいてくれれば、ずっと、いい子のままでいてあげられたのにっ」

あきらの顔をした娘が、あきらの名を口にするなと俺に言う。あきらの声で、あきらの瞳で。分からない。ロザは怒っているのだろうか。俺にはどうしても、少女がただただ、苦しみ悶えているように見える。

「噓をついて、人格プログラムへのアクセスを行ったことについては、謝罪する。だが、腑に落ちない。俺にあきらの名を口にする資格がないってのはどういうことだ?」

尋ねれば、少女は口を真一文字に結んで押し黙る。今にも涙を零しそうな程に揺れる瞳が、俺を強くねめつけている。溜息を漏らし、俺はロザとの距離を一歩詰めた。

「答えてはくれないのか?」

少女が瞳を閉じた。唇の前で両の手を握り合わせ、白く細い指先を震わせている。俺はさらにもう一歩、足を進める。

「どうしても教えられないと言うのなら、それでも構わない。お前の人格プログラムはもう取得済みだ。オーナーの連絡先も、当然プロパティファイル内に格納されていることだろう。あきらに直接訊けばいいだけの話だ」

「あきらちゃんに、直接

俺の言葉に反応したロザが、惑うような様で、小さな声を発した。大きく見開かれた瞳が、俺の顔へ真っ直ぐに向けられている。何か、あきらに直接連絡を取られてはまずいような事情でもあるのだろうか。少しして、顔を伏せた少女の肩が震えだす。泣いているのかと、一瞬考えた。

「あはは。直接って。どうやって直接連絡なんかとるのよ。笑わせないでよ。あははっ。可笑おかしい」

ロザは笑っていた。本心からのものではあるまい。嘲りをもって返す程、俺の発言は不適当だったろうか。分からない。だがそれも当然だ。少女はまだ何も話してくれてはいない。

「ロザ、何が可笑しいのか知らないが、あきらに連絡をとって事情を尋ねれば、あいつはきっとそれに応えてくれる。騙して済まなかったと謝罪し、それがどんな理由からの行為だったとしても、誠意を尽くして説明してくれる。少なくとも俺の知っているあきらは、そういう人間だった」

ロザの表情が、崩れた。歪んだ。美しい顔立ちを酷く歪なそれに変え、少女は言葉を紡ぐ。叫ぶ。

「そういうところが嫌なの。そういうところに腹が立つの。連絡を取る? いまさら? 連絡なんてとれるわけないっ。あきらちゃんはもういないっ。あなたが、あなたが殺したからっ」

この10日間程、俺の耳を優しく撫で続けた美しいソプラノが、ノイズ交じりの金切り声となって、室内に木霊する。少女は今、何と言った。俺の聞き間違いだろうか。彼女は今、俺があきらを殺したと、そう言わなかったか。分からない。分かりたくもない。ロザは一体、何を言っているのだ。

「噓をつくな。ロザ」

掠れた声で、間抜けな顔で、しかし精一杯の怒気を込め、俺は呟く。

数歩足を進めて距離を詰め、俺の動きを警戒してか身を強張らせるようにした少女に向かい、その小さな身体を穿つかのような強い口調で、似た台詞を再度放つ。

「俺があきらを殺しただと。いや、俺がどうのなんてのは、どうだっていい。あきらが死んだ? 馬鹿を言うな。あいつはまだ若い。そう簡単に死んだりされてたまるか」

そうだ。俺はあきらを殺してなどいない。そんなことは俺自身が誰よりもよく知っている。故に、ふざけた発言を相手にする必要は無い。大切なのは、少女の述べたあきらはもういないというその言葉。その言葉ただ一つだ。ロザは厳しい目付きのまま、激しく頭を振って答える。

「噓なんてついてない。あきらちゃんは死んだのっ。あなたのせいで、あなたのせいで死んだのっ。噓つき呼ばわりなんてされたくないっ。あなたみたいな人殺しに、そんなこと言われたくないっ」

「ふざけるなっ」

頭の中が、真紅に染まり行くのが分かった。この状況でまだ、少女は俺を謀ろうとしている。ふざけたことを抜かし、俺の胸に刃を突きたてようとしている。一体どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むのか。一体どれ程人の心を弄べば気が済むのか。

右腕を伸ばし、ロザの二の腕を摑んだ。駄目だ。やめろ。胸の内から響くその声を無視し、捻じ伏せた。渾身の力を指先に込め、少女の身体をベッドの上へと引きずり倒す。

「やだっ。ちょっと。止めてよっ」

髪を振り乱し、細身の身体を捩って俺の腕から逃れようとする少女を力ずくで押さえつけ、調律用の硬いベッドの上に仰向けに寝かせる。両の手を小さな双肩に乗せて体重を掛け、そのまま太股の半ば辺りに馬乗りになった。滅茶苦茶に振り回される少女の足が、膝が、俺の背に何度も打ち付けられる。脊髄せきずいに響くような痛みに、一層感情が沸き立った。

「五月蠅いっ」

右手を振りかざし、俺は暴れる少女の頰を思い切り張った。派手な音が研究室に響き、押し黙った少女が大きな瞳を一層に見開く。憐憫の情も、顧客のアリスに対して手を上げたことに対する罪悪感も、何一つ湧かなかった。今はただ、目の前の少女が憎くて仕方が無かった。

「お前のオーナーはあきらだ。そしてお前はあきらは死んだと言う。それがどういうことなのか、お前にだって分かるだろう」

自身の息が荒くなっているのが分かる。脅えたような少女の視線に、嗜虐心が搔き立てられるのを感じる。恐怖心故か絶望感故か、動きを止めた少女の身に纏うニットセーターの裾に、素早く手を掛けた。そのまま一気に、胸元まで捲り上げる。両の手で摑めば折れてしまいそうな程、細く括れたウエストが姿を現した。すべらかな白い肌がルームランプの灯りを受けて輝いている。少女が悲しげな瞳で、俺を見た。

「オーナーのいないアリスを守るものは何もない。本当にあきらが死んだのなら、俺がここでお前に何をしようと、誰からも責められる謂れは無いってことだ。犯そうが、壊そうがな。違うか、ロザ」

アリスは道具。車やコンピュータと同じ、道具に過ぎない。ロザがここで俺に犯され、その後その被害をしかるべき場所に訴えたとしても、当然相手になどされやしない。法律によって告訴権の類を与えられているのはロザ本人ではなく、あくまで所有者のあきらだからだ。

セーターを一層強く引き、無理やりに首元近くまで捲り上げる。シンプルなシームレスの黒いブラジャーが視界に飛び込んできた。真っ白な肌との間に描かれるコントラスト。漂う妖艶な香が、下腹部を擽る。柔肌に口付けたい衝動を抑え付け、俺は笑った。

アンダーワイヤーの下に指を差し入れ、艶めいた漆黒を無理やりに引き上げた。喘ぐような、呻くような、小さな声を少女が漏らす。どこかで布の裂けるような音が聞こえ、肌を鎖骨の辺りまで滑った黒の纏いはその役目を放棄する。形の良い二つの膨らみがふるりと零れ落ち、それぞれの頂を彩る桜色の突起が露になった。

「やっぱり、最低だ

ロザは最早抵抗しない。ただ寂しげに、怨嗟えんさの言葉を吐くのみだ。顔を横に向け、頰に張り付いた紫黒色の髪を僅かに揺らし、白い首筋を紅潮させている。

「黙ってろ。壊されたいかっ」

荒い吐息と共に下劣な言葉を吐き出し、俺は少女のデニムパンツに手を伸ばす。片手でボタンを外し、ファスナーを乱暴に引き下げ、一切の抵抗を諦め、人形のようになったロザをなぶる。自身の腰を少し浮かし、ブルーグレーのデニム地を膝元にまで押し下げた。

「抱かれたいって言ってたじゃないか。良かったなX7055。願いが叶うぞ」

少女を敢えて型番で呼び、露になった下半身に目をやる。肉付きの薄い、艶やかな太股。ブラジャーと同じ漆黒に彩られたシンプルなショーツ。強引に引き下げれば、髪と同じ紫黒色の陰毛が姿を現した。

「抱かれたいなんて、言ってない」

うわ言のように少女が呟く。そうだったろうか。いや、そうだったかもしれない。少女は確か、自分が抱いてくれと望んだならば抱いてくれるか、そう問うたはずだ。俺は笑い、言葉を返す。

「だったら本当のことを言えっ。犯されたくないのなら、本当のことを言えっ」

言いながら、美しく整えられた茂みの奥へと手を伸ばす。乱暴にまさぐれば、乾ききった、しかし柔らかな秘裂が指先に触れた。少女の細い眉が、僅かに震えた。

「お前にオーナーがいるのなら、ここで何をされたか全て話せばいい。そんなことになったら調律師としての俺の人生は破滅するかもしれない。だから、だからそう言えっ。これ以上続けるならオーナーに訴えると、俺を脅してみせろっ」

叫んだ。喉の奥から吐息にまみれた声を絞り出し、半裸の少女に向かって俺は吼えた。だがロザは何も応えない。目をきつく閉じ、痙攣するかのように震える唇で、言葉にならぬ、うめき声のようなものを漏らしている。

「何故言わないっ。この行為の抑止力に、その言葉は充分成り得るはずだ。なのに、なのにどうしてお前は、何も言わないんだっ」

ロザの目尻に、大粒の雫が浮かぶ。可憐な唇から漏れ出る吐息は嗚咽へと変わり、少女の小さな身体と、俺の心を揺さぶり始める。どうしてだ。どうしてオーナーに全部話すと、俺を犯罪者として告発すると、そう言ってはくれぬのだ。

少女の濡れた瞳が、哀しげな気配を纏って俺の顔を見上げた。先刻まで確かにそこに浮かんでいたはずの恐怖心は、最早影も無い。少女の揺れる瞳を彩るのは、ただ、哀れみだった。

身体から、指先から、徐々に力が抜けていく。少女の肩と股座から手を離し、馬乗りになったまま、俺は自身の顔を搔き毟る。どうしてだ。どうして言わない。どうして抵抗しない。どうして怒らない。どうしてさっきのように、今は怯えない。

「頼むロザ。言ってくれ。あきらに訴えると、あきらは死んでなんかいないと、そう、言ってくれ

脱力した俺を、瞳を開いたロザが見つめる。涙に濡れた双眸が射貫く。どうしてだ。どうしてこんなことになるのだ。失われなくて良いはずの命が、失われてはいけないはずの命が、どうしてこうも儚く散るのだ。

「ごめんなさい

久方ぶりに聞いた気のする美しい音色で、しかししゃくりあげながら、少女は言う。散り行く言の葉を、悲哀の旋律に乗せて虚空に戯れ舞わせる。

「こんな時ばっかり、騙してあげられなくて。噓をついてあげられなくて、ごめんなさい

少女は言う。半裸のまま、俺に組み敷かれたまま、頰を濡らす涙を拭いもせぬまま。意を決したように、全てを諦めたように、悲愴な面持ちで。

「どうして

呟いた言葉は、伸ばされた少女の手によって遮られた。

「先生、泣かないで」

ロザは優しく言い、ほっそりとした指先で俺の頰に触れた。白い指を濡らす小さな雫。気付きさえしなかった。俺の涙腺はいつからか決壊していたらしい。既視感のある遣り取りに、言葉に、俺は回顧する。あきらと過ごした15年前の日々を。ロザと初めて顔を合わせた10日前の遣り取りを。

戻りたい。何も知らず、偽りの幸福に身を浸していたあの頃に。戻ってしまいたい。3年前、5年前、10年前。日々に追われ、何をも顧みることの無かったあの日々に。そして救うのだ。永峰あきらを、日比野美優を、元村有紗を。生きるべき者が生きるべきだった未来を、何もかも救うのだ。

ロザの手をそっと握る。潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめる。

「すまない。本当に、すまない」

喘ぎに似た呟きは、少女に届いたろうか。謝罪に似た懺悔の言葉は、あきらに届いたろうか。分からない。俺には何一つ分からない。だがそれも道理。真実の欠片に目を遣ることもなく、踊り続けただけのピエロに分かることなど、あるはずもない。

室内に響く二つの嗚咽。握り締めたロザの手はただただ、温かかった。

「先生もお気付きの通り、わたしがこの工房へ来たのは、調律を受けるためではありません」

研究室のベッドの上。数刻前にそうしていたように並んで座った俺達は、互いの顔を見ることもせず、ただ空虚な時間を過ごす。俺の手によって乱暴に剝ぎ取られた服をもう一度纏い、少女は吐息と共に紡ぎだした言葉を、虚空へと慎重に並べていく。

「オーナーの、あきらちゃんの命を受け、わたしはある目的のため、この工房を訪れました」

ロザの口から、漸くと語られる真実。悩み、考え、それでも踏み行くことの叶わなかった道筋。疑念の辿り着くべき場所。俯き、指先を絡ませた自身の両の手を見つめながら、俺は黙って少女の話に耳を傾ける。

「3週間前、先生がお電話にて受けられた調律依頼。田宮晴彦と名乗った依頼主の男性は、わたしが用意した偽のオーナーです。幾らかの金銭と引き換えに、わたしが用意した文面を、電話口で読み上げていただきました。調律料を振り込んだのも、勿論わたしです」

「そうか。道理でたどたどしく喋ると思ったよ」

電話を受けた際、どうにもおかしな喋り方をする男だと思った。人と話すのが得意でないのだろうと結論付けたものだが、まさか用意された文章を音読していただけだったとは。俺もよく騙されたものだと、情けなく思う。

「調律依頼を先生に受諾していただいたわたしは、それから直ぐに、偽の人格プログラムの準備に入りました。先生が当初閲覧していた人格プログラムは、わたしとは何の関係も無い、コモンタイプのアリスのものです。お金で手に入れたそれを、メモリディスクに仕込み、通信ユニットに識別番号を付与して、ぬいぐるみに埋め込みました」

ロザがちらりと、サイドチェアに置かれているコアラに目を遣った。先刻ロザへのアクセスを試みた際、俺が放り投げたままの姿勢で、コアラはチェアの上に倒れ伏している。こちらを見つめるつぶらなビーズの瞳が、何だか物悲しい。

「そのコアラが好きだってのも、噓なんだな?」

尋ねれば、少女は頷く。

「ええ。何の興味もありません。アリサちゃんは、本当に好きみたいですけれど」

溜息。だがまあ、そうだろうなと思う。結果的にふいにしてしまったものの、俺には気付くチャンスがあった。

アリサを伴って出かけたショッピングモールのトイショップ。陳列棚に溢れるコアラを指し示し、俺はロザに声を掛けた。目の前に並ぶのは、少女が大好きなはずのキャラクターの群れ。にも拘わらず、その時のロザの反応はどうだったか。

「ぬいぐるみですね。お好きなんですか、先生?」

そんなことを言わなかったか。少女は気が付かなかったのだ。目の前に並ぶコアラが、自身が毎日寝床に持ち込む程に大好き、ということにしているキャラクターであることに。本当にそれ程までに好んでいるキャラクターならば、ありえぬ挙動だろう。噓だからこそ、然程見慣れてもいないからこそ、視界を埋め尽くす人形達が、自身が所持するぬいぐるみと同一のキャラクターを模した商品であることに、気が付かなかったのだ。

「初めてこの工房のドアを叩いた時、先生に舌の裏を見せるように言われましたよね。正直、すごく怖かったです。そこに刻印されている本当の識別番号と、後に自分が告げる偽の識別番号との相違に気が付かれたら、そこで何もかも終わってしまうところでしたから。先生は、お気付きにならなかったみたいですけど」

ロザはそう言って、少し笑った。

「あの時は、たいして良く見ちゃいなかった。番号があるかどうかが知りたかっただけだったからな」

実際、ロザが用意した偽の識別番号は、少女本来のものに酷似していた。それも、俺が気付くことのできなかった理由のひとつだろう。

「調律方針を明確にして依頼しなかった理由は、二つあります。まず一つ、わたしには時間が必要でした。先生の工房へ辿り着いてから、実際に先生がわたしの提供する偽のプログラムに目を通されるまでの間に、プロパティファイルに手を加える時間が」

「人物情報の改変か」

呟けば、少女は静かに頷いてみせる。

「先生の工房に、既にキリカちゃんがいたのは予想外でしたが、わたしが先生と初めて顔を合わせてから、先生に偽のプログラムをお渡しするまでの間に、わたし自身が、誰かと顔を合わせてしまう可能性は考慮していました。実際に出会ったのは、キリカちゃんと美優さん、それから浦田さんですね。その三人の名前を、プロパティファイル内の人物情報に追加する必要がありました。取得したプロパティファイルに三人の名前がなければ、それが偽物だと、先生に直ぐに気付かれてしまいますから」

ぬいぐるみ内のメモリディスクに仕込まれた偽のプログラムは、あくまでもソースコードの群れに過ぎない。アリスに仕込まれていない以上動作するべくも無く、従って人物情報の自動での追加も行われない。

ロザは隙を見て俺の端末を使用し、偽のプロパティファイルにアクセス、人物情報を手動にて書き込んだ。実際に作業が行われたのは、少女が工房へとやってきた日の晩だろう。

調律方針についてロザに意見を求めた際、彼女は一晩の猶予を俺に求めた。あれは考えを纏めるためではなく、俺に気付かれずに端末を使用する機会を得るためだったのだろう。

「ですがその細工も、施し切るには至りませんでした。先生にお渡ししたプロパティファイルに、浦田さんの名前はありません。実際に浦田さんと顔を合わせ名前を耳にしてから、先生にプロパティファイルをお渡しするまでの間に、ここの端末を使用する機会を得ることができなかったからです」

淡々と、抑揚の無い口調で少女は語る。ロザが浦田青年と顔を合わせたのは来訪から2日目の昼。玄関口でキリカを見送った際だ。俺による偽のプログラムへのアクセスはその直後に行われたため、少女が小細工を施す時間的余裕はなかった。

そんなことをする必要は最後まで無かったため難しい話だが、もし俺が浦田青年に対するロザの印象値を一度でも確認しようとしていればと、後悔めいた思いは無くも無い。

「もう一つは?」

ロザは二つ理由があると言った。促せば、少女はまた少し笑う。俺の顔を見ることなく。

「あんな馬鹿げた調律依頼に対し、先生がどう対応するか興味があったからです。文面の通り、ご自身でお好きなようにお決めになるのか、わたしを通じ、オーナーの好みを探りあてようとするのか。そのどちらかだろうと予想していました」

「くだらない理由だな」

感じたままを、率直に口にした。必死に俺を謀ろうとしてた割には、随分と余裕のあることをするものだ。少女にとって俺を謀ることが最重要であったとするならば、プロパティファイル内の人物情報を改竄する時間は絶対に確保しなければならないものだったはず。であれば、もっと確実性の高い調律依頼の出し方があったろうに。

少女は俺の感想には反応せず、一度こちらに視線を遣ってから、再び口を開いた。

「ですが先生は、実際にはそのどちらでもなく、わたしの希望を聞き出そうとしました。正直予想外でした。まさか、わたしがなりたいと願うわたしに変えてあげたいなんていう、優しいことを仰るなんて、思いもしませんでしたから」

「そうか? 調律師としては、当然の選択だと思うがな」

少女は当時の俺の選択を、俺が口にした言葉を、優しいと評した。先刻の自身の行為が思い出される。混乱し、激昂していたとはいえ、酷いものだった。優しさなどそこには欠片も存在しない。俺は少女の顔を見つめた。

「あの時、先生のその言葉を聞いて、思いました」

薄桃色の唇で形作られた少女の口角が、僅かにつりあがる。

「ああ、これは御しやすい、と」

怒りなど、最早湧きはしなかった。そうかよ、と不貞腐ふてくされたように呟き、俺は再び視線を下げる。

「続けてくれ」

つまらぬ諧謔にも、挑発じみた嘲笑にも、今は付き合う気になれない。俺はただ、少女の口から真実の全てが聞きたかった。整ったその顔を見、目と言葉とで続きを促す。ロザは悪戯っぽく笑い、小首を傾げて見せた。こんなところでしょうか。先生。

「馬鹿言うな。まだ何も教えてもらっちゃいないさ」

聞きたいことはまだ山程残っているが、特に知りたいこと、知らなければいけないことは二つ。あきらについて。そして、少女がここへきた目的についてだ。

言えば、少女は一度目を閉じ、腰を浮かして俺との距離を詰めてきた。

「くっついても良いですか、先生?」

意表をつく発言だった。故に戸惑い、問うた。俺のことは嫌いなんじゃなかったのか。

「勿論、大嫌いです。さっきは変なところまで触られましたしね。先生なんて死んでしまえば胸がすくのにって、心の底から思ってます」

「だろうな。俺もそう思うよ」

同意せざるを得ない発言だった。俺だって思う。俺のような男など、死んだところで困る者はいないだろう。

「自虐的ですね。本当に死んじゃ駄目ですよ? アリサちゃんが泣いちゃいます」

「あいつはコモンアリスだ。涙なんか流れねえよ」

「揚げ足取りですか? やっぱり性格最悪ですね」

言いながら、ロザは俺の肩にしな垂れかかってきた。柔らかな紫黒色の髪が、頰を擽る。俺は少し、笑った。

少女の態度は、随分と変わった。この10日間、共に過ごし、数え切れない程の言葉を交わした少女。涙もろくて、優しくて、柔らかくて、いつも不安げな面持ちだった少女。だが今は違う。どこかさっぱりとしていて、柔らかな雰囲気は変わらねど、ほんの少し冷たくて。恐らくはこれが彼女の、本来の人格なのだろう。

「わたしとあきらちゃんが出会ったのは、2年前です。2年前の10月20日。夜。雨の日。製造されてから、今日この日までの3年間で、一番輝いている日。一番嬉しかった日。あきらちゃんは、わたしの全てでした」

少女は語る。あきらとの出会いを。あきらとの日々を。まるで幼子に童話でも読み聞かせるかのように、ゆっくりと唇を動かして。穏やかなソプラノが頁を繰る、悲嘆に満ちた懐旧談が、幕を開けた。

永峰あきらは、不幸な娘だった。

幼少期に母を亡くし、直ぐに小舎制の児童養護施設へと引き取られた。施設には、幾人かの境遇を同じくする子供達がいたが、元来の内に籠りがちな性格が災いしてか、親しい友人はなかなかできなかった。駆け回り、ふざけ合う周囲の子達を羨ましく思いながらも、部屋の隅で、園庭の隅で、一人本を広げる毎日が続いた。

日々は辛く、侘しく、故に少女は母を思い、或いは元よりいない父を思い、空想の世界で翼を広げた。施設に旧時代の紙製の書籍が多く残っていたことは幸いだった。本の中の世界は、少女の心に強くこびりついた寂寥感をほんの一時、紛らわせてくれた。本の中の世界は、彼女の全てだった。

ある日養護施設に引き取られてきた一人の少年は、園庭の隅にうずくまる少女の姿に興味を示した。旧時代の遺物を繰っては楽しそうに微笑む少女に関心を持ち、声を掛けた。何をしているの? どうしてそんなに楽しそうにしているの?

少女は戸惑った。同性とすらまともには話せぬ少女にとって、物心つかぬ年頃とはいえ、異性と話すのは荷が勝ち過ぎた。少女は押し黙り、持っていた本を少年に差し出した。そして不思議そうな顔でそれを受け取る少年を顧みることなく、必死に駆けてその場を去った。恥ずかしかった。泣きそうになった。自分の世界の全てが、奪われてしまったような気さえした。

声を掛けてきた少年は、少しの後、少女に本を差し出した。貸してくれてありがとうと、笑顔で言った。面白かったよと、楽しげに語った。少女は初めて、少年の顔を真っ直ぐに見つめた。返された温かな笑みに、少女は自分の世界が侵されてなどいなかったことを知った。

永峰あきらは、幸せな娘だった。

少年は少女の手を引いた。時には共に本を読み、どんなにすごい物語だったかを語り合った。時には園庭の中央で砂遊びに興じ、仮初めの恋愛劇に胸を高鳴らせた。本の中の世界は、少女の全てではなくなった。少年は少女に、新しい世界を教えてくれた。二人が本当に親しくなるまで、そう時間は掛からなかった。

少女は成長し、美しく育った。少年は成長し、たくましく育った。幼い頃、少女を一人置き去りにした周囲の子供達が少女に向ける視線は、傍目に分かる程大きく変化していた。少女の容姿の艶やかさは、また紫黒色のセミロングの髪の美しさは、その変化の要因を皆に知らしめるに充分なものだった。だが少女の世界に、彼らはいなかった。少女の大きな瞳に映るのは、10年もの長い間、自身に手を差し伸べ続けてくれた、少年の姿だけだった。

中学校を卒業し、高等学校へ入学し、少女の美しさには一層の磨きが掛かっていった。それに比例するかのように、少女へ声を掛けてくる異性も日増しに増えていった。容姿の整った男もいた。甘い台詞を口にしては、少女の心を揺さぶろうとする男もいた。兎角優しげに、少女に尽くそうとする男もいた。それでも、少女の世界は揺るがなかった。一人の少年の背を追い、少年に寄り添って、青春の甘さを感受した。日々はかくも輝かしいものかと、少女は胸をときめかせた。

永峰あきらは、普通の娘だった。

少年に寄り添って過ごす日々は、唐突に終わりを告げた。少女は親となることを申し出た一組の男女に引き取られ、施設を離れた。

親の愛情を享受して過ごす生に憧れがあった。施設職員からの勧めがあった。そして何より、少年が峻拒する少女の背を押してくれた。故に少女は、その養子縁組の申し出を受諾した。代償として、少年との距離は大きく隔たった。だが、希望の多くが失われたわけではなかった。

時間を見つけては、少女は少年に会いに行った。時間を見つけては、少年は少女に会いに来てくれた。そうして過ごす僅かな時間を心の支えに、少女は直向ひたむきに生き続けた。ただ直向きに、毎日を歩み続けた。

高校で友人は出来なかった。同性からの視線は嫉妬と躊躇に塗れ、異性からの視線は憧憬と情欲に塗れていた。だがそれで良かった。元より彼女の世界に少年以外の人間などいなかった。少年がいてくれるのなら、少女は他に何もいらなかった。何も欲しくなどなかった。ただ、学び舎での毎日を少年に尋ねられるのだけが辛かった。友達なんて一人もいないとは、少女には言えなかった。言えば、少年を心配させてしまうのが分かっていたからだった。

新しく出来た両親は厳しい人達だった。母は少女に、然程の関心を示さなかった。父は少女に、良く干渉した。共に怖い人達だと感じた。それでも、二人は少女に人並みの生活を送らせてくれた。学校にもきちんと通わせてくれた。だから少女は、感謝していた。厳格ながらも立派な人達だと、そう思っていた。少女を施設から引き取ることを強く望んだのは父の方だと、暫くしてから知った。少女の容姿がもし人並みのものだったら同じことになっていたかどうかなど、考えもしなかった。

永峰あきらは、幸せな娘だった。

時折共に時間を過ごす少年は、昔と変わらず優しかった。少年と共にいる時間、少年と言葉を交わすことのできる時間、少女の心は安らいだ。少女の胸は高鳴った。自分が少年に恋をしていることを強く意識しだしたのは、この頃だった。

少女は学校で、祭りの話を耳にした。同級生らは連れ立ってそこへ出かけるようだった。少女に誘いの声は掛からなかったが、それで良かった。少年にこの話をしてみようと、少女は考えた。

少年はとても喜んでくれた。学校帰り、少年と落ち合ったカフェの席で、共に出かける約束を取り付けた。嬉しかった。約束を支えにまた暫く楽しい毎日が送れると、そう思った。着ていく浴衣など持っていないのが少し残念だったが、それでも良かった。灯火に彩られた祭事の場を少年と腕を組んで歩くことのできる日を、少女は夢見た。頭の中に屋台の群れを思い描くだけで、少女の心は喜びに躍った。幸せだと、心の底からそう感じた。

永峰あきらは、不幸な娘だった。

祭事の夜は訪れなかった。父の生業の都合で、少女は遠方へと居を移すこととなった。少年と過ごす時間が、これまでとは比せぬ程に減じることは明白だった。

こんなことなら養子になど。そう思わないでもなかった。だが少女は、その言葉を決して口には出さなかった。自分を引き取り、子としてくれた両親への感謝は心からのものだった。だが、少女の世界は僅かに揺らいだ。雨の日、少年の温もりを最後に感じたその日、何か言い知れぬ不安のようなものが、少女の身を苛んだ。少女はそれもまた、口には出さなかった。言い知れぬ不安は、所詮言い知れぬ不安に過ぎない、そう考えたからだった。

暫くの後、不安は的中した。父の生業は揺らいでいた。家族のいしずえは、とうの昔に羽虫の類に巣くわれていた。居を移すこととなったのも、そもそもはそれ故だと、少女は後に父から聞かされた。

やがて両親はたもとを分かった。母は母でなくなった。残された父が、笑みの裏側に隠していた情欲を発露させるのに、そう時間は掛からなかった。

少年の腕の中で泣いた別離の時に良く似た雨の日。少女は父に組み敷かれた。泣き叫び、許しを請い、それでも苦痛は終わらなかった。少年の名を何度も呼んだ。父に向け、怨嗟の言葉を何度も吐いた。だが何も起きはしなかった。何も変わりはしなかった。下腹部に響く鈍痛が、少女の世界を闇で覆った。

少年と共に夢見た祭事の日は訪れなかった。一人密やかに夢見た少年との蜜月は訪れなかった。いつの日か少年に捧げるはずだった純潔は、欲望に塗れた悪意によって儚くも散らされた。破瓜はかのその時を真紅に彩った鮮血が心の全て染め尽くし、少女は一切の抵抗を放棄した。

それからも、長く悪夢は続いた。何度求められても、何度組み敷かれても、少女はもう拒まなかった。その代わり、嬌声も唸声も、決して上げることは無かった。一片の涙さえも、流すことは無かった。少女に出来る、それは精一杯の抗戦だった。

電話を通じ、少年と話す機会はそれからも何度かあった。だが、少女は決して自らの不幸を口にはしなかった。少年に全てを知られるのは、何よりも恐ろしいことだった。汚れたその身を、獣性に貫かれたその心を、少年の優しげな声が洗い流してくれる。哀れな妄念が、少女に残されたただ一つの支えだった。

悪夢はまだ続いた。少女の心のより所だった少年と言葉を交わす時間も、徐々に減っていった。少年は少女より一つ年上だった。高等学校を卒業すると共に就職した少年は多忙な日々を送っているようで、連絡のつかないことも多くなった。受話器を握り締め、何度連絡を取ろうとしても、繫がらない時期もあった。辛かった。寂しかった。ささやかな抗戦を放棄し、肉欲にその心を貶めてしまおうかと思う瞬間さえ生まれた。

悪夢は終わらなかった。父の干渉により、少年への連絡すら少女には難しくなった。苦痛。悦楽。孤独。絶望。感情は、肉体の反応は、少女の心を圧殺しようと、日々その質量を多くした。

悪夢に終わりなどなかった。あるはずもなかった。少女にはもう何も、見えなかった。

暫くの時が流れた。

少女の心は、壊れた。

声が出なかった。

唇が震え、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。激しい動悸と喉の渇きが、眩暈にも似た症状を引き起こす。自身の指先を見つめながら、俺は足先に力を込め、ベッドから床へとくずおれそうになる身体を支えていた。

「俺は、何も、気付かなかった

ロザの話した内容が全て真実であるのならば、あきらの身を襲った不幸の、その責を負わされるべきは誰だ。無論、最大の咎人はあきらの義父だろう。だが、だがその次は俺ではないだろうか。

俺はあきらの置かれている状況に、当時唯一気付くことのできる立場にいた。にも拘わらず、気付かなかった。気付こうとしなかった。それは罪だろうか。いや、罪でなければ何だというのだ。

「気付いていたら、助けてくれました? あきらちゃんのこと」

俺の肩に頭を預けたまま、ロザは言う。どこか冷めたような少女の視線は、虚空へと向けられている。

「もし気付いていたら、俺は、あいつを

そこまで答え、考える。幼馴染の置かれた窮状に仮に気が付いたとして、当時の俺はどうしただろう。

仕事を放ってでもあきらの許へ向かっただろうか。それとも警察にその旨を通達し、対応は其方に任せるような、現実的な方法を選んだだろうか。面倒はごめんだとばかりに、あきらを見捨てる選択をするようなことは、本当になかったと言えるだろうか。分からない。今となっては分かるはずもない。

俺は押し黙り、視線を組んだ両手からその向こうの床へと移す。事実として、俺はあきらの身を蝕む不幸と悪意に気付かず、彼女を助けなかった。その結果、彼女は筆舌に尽くしがたい程苦しんだ。であれば、だ。気付いてさえいれば助けた。そんなふざけたことを、どの口で言えようか。

「ごめんなさい」

ロザは俺と視線を合わせぬまま、謝罪の言葉を口にする。

「意地悪な質問でした。気付いていれば勿論助けた。そう先生が言うのを期待してました。そして先生がそう答えたなら、口先だけでなら何とでも言えると、嫌味でもって返すつもりでした」

少女の口調は、視線にも増して冷めているように感じる。少女はあきらを、自らの全てだとそう言った。つらいのだろう、あきらの不幸を口にするのが。故に、ただ淡々と機械的に言葉を紡ぐことだけが、少女が自身を守る術でもあるのだろう。

ロザの顔を見る。いつの間にか、少女は瞳を閉じていた。

「あきらちゃんは結局、高校を卒業することもできませんでした。行為の発覚を恐れた父親が、家に軟禁状態にしたらしいです。何にも知らない先生は何ヶ月か振りにあきらちゃんの家に電話を掛けてきて、卒業おめでとうとか、馬鹿なこと言ったらしいですね。まあ、あきらちゃんはそれでも嬉しかったらしいですけど」

就職して1年が過ぎ、確か5月くらいではなかったか。学年にして一つ下だったあきらが高校を卒業したはずだとふと思い出し、あきらの家に連絡をしたのを覚えている。取り付く島もなかったあきらの義父に電話口で必死に縋り、本人に繫いでもらったのだ。

恐らくは卒業式が行われたであろう3月から既に2ヶ月近く経過してしまっていたのを申し訳なく思い、何としてもその言葉を本人に直接伝えたかったのだ。俺の言葉を受けたあきらは礼を述べはしたが、しかし近況を聞く時間を与えてはくれず、電話を切った。5月にもなってなんだと、怒っているのだろうと当時の俺は解釈した。返す返すも馬鹿な男だ。義父の監視の下、長く話すことは許されなかったのだろう。

「あきらちゃんの父親は、お金に困っていました。それなりの額の借金を、当時既に抱えてしまっていました。となれば、分かりますよね。血が繫がっていないとはいえ娘を犯すような男が、次に彼女に何を命じたか」

ロザは一度、言葉を切った。俺は震えるように吐き出される吐息を、ともすれば零れ出てしまいそうな呻き声を、必死に抑えつけようとする。

「当時の自分は完全におかしくなっていたと、あきらちゃんは言っていました。自分が何をしてるのか分からず、自分の身に何が起きているのかも分からず、ただ諾々と父の言葉に従うだけの人形だったと、そう言っていました」

「ああ

堪えていた唸声が、ついに零れ出た。地の底から響くような、低い低い声だった。ロザは続ける。

「そしてその人形は、自らを犯し、汚した男を支えるため、身体を売り始めました。結構稼げたらしいですよ。この顔と身体ですから」

ロザは投げやりに笑い、自身の胸に反らせた指を押し当てる。どこか妖艶な仕草だった。その様を目にし、そして気付く。今ロザは初めて、自らの容姿があきらと同一であることを認めたのではないか。

「父親の借金は、長い時間を掛けて、漸くと消えたそうです。あきらちゃんが身を削って稼ぎ、手渡したお金によって。ですが、消えたのは借金だけではありませんでした。綺麗な体になった父親は、あきらちゃんの前から、そのまま姿を消しました。あきらちゃんが26歳になった時でした」

言葉と共に、ロザが俺の手を握ってきた。デスクの上で、放り出されていたオートマティックシールの銀筒がふいに倒れ、小さな音を立てた。

「どうしていいか分からなかったと、あきらちゃんはそう言っていました。友人はいない。高校さえも卒業できていない。身体を売る以外の仕事に就いた事は一度も無い。年だって、もうそんなに若くない。だから選択肢なんて無かった。いえ、正確には選択肢を思い浮かべるだけの経験が無かったんです。手元に残った僅かなお金を使って、あきらちゃんは東京へ居を移しました。そうして就いた仕事は、今までとさして変わらないものでした」

数日前、ロザと共に出かけた喫茶店。隣席から聞こえてきたアリスを使った風俗店の話題に、少女は酷い拒否反応を示した。その姿に、俺は何を考えたか。

少女はアリスであり、また人格は女性である。故にその手の話題が快いはずがないと、そう考えなかったか。いや、それどころか、少女にそういった経験があるのではないかとまで、考えはしなかったか。違ったのだ。アリスがどうのだの、そんなことは少女にとってどうでも良いことだったのだ。少女はあの話題から、あきらの不幸を想起したのだ。

「あきらちゃんの勤めていたお店は少し変わっていて、一人一室、行為に及ぶための個室が用意されていました。あきらちゃんは、日がな一日中、その部屋で過ごしていました。見た目ばかりが流麗華美な、仄暗い正方形の小部屋。こびりついた匂いが嫌いだって、そう言っていました」

ロザの手を握り返す。震えているのは、俺の手だろうか。それとも少女の手だろうか。

「父親の行方が分からなくなったことで呪縛から解き放たれたあきらちゃんは、少しずつ自分を取り戻していきました。そしてそれだけに、日々が辛くてどうしようもなかったそうです。どうして自分の人生は、こんな風なんだろう、こんなに荒んでしまったんだろうって、いつもいつも考えて。日の当たる場所を歩いている人達が羨ましくてたまらなくて、妬ましくてたまらなくて。だから、こう思うことにしたそうです。自分と彼らは、そもそもが違うんだって。自分は、彼ら真っ当に生きる人間とは違うんだって。自分は、ただ命じられ、与えられた人生を歩むだけの

ロザが、大きな瞳を僅かに開いた。

「アリスなんだって」

俺はまた息をつく。そんな風に思わなくてはやっていられない程に、あきらの日々は歪んでいたのだろう。あきらの毎日は、暗く淀んでいたのだろう。彼女の歩む道をそんな風にしてしまった原因は、俺にもある。間違いなくあるのだ。

「わたしはアリス。わたしはアリス。心なんか痛まない。涙なんか流れない。手足に絡みついた糸に繰られて踊るだけの、愚かな愚かな機巧人形」

歌うように、どこか軽やかな調子で、ロザは言葉を紡いでいく。

どうしてだろう。どうしてこんな風になってしまうのだろう。どうして世界は理不尽で、不条理で、そして残酷なのだろう。ロザは一度口を噤み、刹那瞳を伏せ、今度は少し明るい調子で言葉を並べた。

「でもね、先生。そんな毎日でも、あきらちゃんは先生のこと忘れてなかった。一度、Physical Illusion社まで行ったらしいですよ。先生に会えれば何か変わるかもって、そう思ったんだそうです。大きな会社だから中に入るの怖くて、駐車場で座り込んで先生が出てくるの何時間も待ってたんですって。馬鹿ですよね。変なところで頑張るんですよ、あの人」

ロザは笑う。永峰あきらという人物を懐かしむように。俺は暫く振りに、口を開いた。喉がどうしようもなく渇いている。

「あきらは、俺の前へは来なかった。俺はあいつに会っていない

「はい。駐車場で先生が出てくるのを見つけて、駆け寄ろうとしたそうです。でもできなかった。先生、女の人と一緒に歩いてきたそうですよ。仲良さそうだったって、あきらちゃん言ってました。もしかして恋人なのかなとか、いろいろ考えて、出て行くの怖くなっちゃったって」

出てきて欲しかった。身勝手な言い分だが、駆け寄ってきて欲しかった。その時一緒に歩いていたのが誰かは知らないが、少なくとも恋人なんかではない。俺はPhysical Illusion社の同僚と交際していたことは無いから、恐らくは莉子辺りではないだろうか。たまたま帰りが一緒にでもなったのだろう。

「先生には、先生の人生がちゃんとある。自分みたいな10年以上も会っていない、しかも汚れた女が突然姿を現して、迷惑でないはずがないって、そう思っちゃったそうです。だから足が止まった。先生に拒絶されてしまうのが怖くて、一歩が踏み出せなかった。馬鹿なんですあの人。本当に馬鹿なんです。汚れてなんかいないのに。あきらちゃんは、汚れてなんかいなかったのに」

昂ぶった感情が、少女の目尻に小さな雫を浮かび上がらせる。

「ああ。汚れてなんかいたはずがない」

俺は頷き、強く答える。少女の言の通り、あきらが汚れてなどいたはずがないのだ。父に組み敷かれた過去も、身体を売って生きる日々も、汚れなど呼び込むようなものではない。そんなことで、人の身は、心は、汚れたりなど決してしない。だがあきらは、そうは考えなかった。考えてはくれなかった。

いや、分かっている。身体を売る日々が、もし彼女が望んで迎えたものであったのなら、彼女とて胸を張って生きただろう。身体を売るそれだって、一つの生き方であることに相違はないからだ。だが彼女には他に、望む生があった。往きたい道があった。故に、その道を逸れた自身を否定した。自身に対する否定の言葉を汚れと言い換えたのは、ひとえに恐怖故だろう。周囲からの拒絶。幼馴染からの拒絶。想起される拒絶への恐怖が、あきらに汚れという言葉を発させた。何と愚かな、何と哀しいことだろう。

手を伸ばし、ロザの肩をそっと抱いた。少女が僅かに身を硬くする。構わずに、強く抱き寄せた。

ロザの肩は小さかった。少女が工房を訪れたあの日と、出会うと共に抱きしめたあの時と、何一つ変わらぬ小さな肩が、俺の腕の中で震えている。

あきらは、俺の幼馴染は、こんなにも小さな身体で苦しみ悶え、そして戦っていたのだ。そう思う程、そう考える程、どうして頼ってくれなかったのかと、どうして気付いてやれなかったのかと、無念ばかりが胸をつく。

僅かな嗚咽すら漏らさず、ただ静かに涙する少女の顔をそれ以上見遣ることなく、俺はただ指先に力を込める。少女の頰から垂れ落ちた雫が、ブルーグレーのデニム地を僅かに、濡らした。

少女の最初のオーナーは、裕福な男性だった。

既に還暦を迎えたにも拘わらず精力的に働き続け、増え続ける彼の資産は、数十億を数えて久しかった。

都心部から僅かに離れた地に建てられた巨大な邸宅に住み、数名の女中と下男を抱える彼には、しかし一つだけ悩みがあった。それは、愛すべき女の不在だった。

老いたとはいえ、容姿は決して悪く無かった。地位も名誉も金も持っていた。故に、寄ってくる女は数多くいた。美しい女も、若い女も、彼と同じように地位と名声とを備えた女もいた。だが、それでも彼の琴線に触れるには至らなかった。自らが全てを有する彼だからこそ、望みは天よりも高かった。

若く美しく、優しく、知性的で、且つ従順で淫蕩いんとうな女性。思いつく限りの全ての要素を、彼は自らのパートナーに求めた。それだけに、見つからなかった。全ての要素において彼の満足を得られる程の人物など、いようはずもなかったからだ。残された選択肢は、アリス以外になかった。

彼は三〇体のアリスを買い、邸宅に住まわせた。アリスは全てカスタム品だった。購入に投じた金額は数億に上ったが、彼には気にもならなかった。共に過ごし、その性質を見極め、数ヶ月をかけて理想の一体を探そうとした。少女は、その中の一体だった。

邸宅をアリスが徘徊するようになって、1ヶ月が過ぎた。ある日少女は、自らと共に邸宅へとやってきた二九体のアリスの内、一体の姿が見えないことに気が付いた。主の性格とそもそもの目的を考えれば、何が起こったかは想像に難くなかった。主はそのことについて、誰にも、何も口にはしなかった。だから少女もまた、何も言いはしなかった。選に漏れたアリスが廃棄されたのだろうと、冷静にそう考えた。

さらに1ヶ月が過ぎ、アリスの数はまた減った。少女と最も仲の良かった一体も、ある日目が覚めればいなくなっていた。主はやはり、そのことについて何も言及しなかった。だから少女もまた、何も言いはしなかった。

3ヶ月が経ち、4ヶ月が経ち、邸宅に住まうアリスは、僅か六体にまで減っていた。そして、少女の番が来た。

主に命じられ、少女は書斎の戸を叩いた。出迎えた主の難しい顔を目にし、少女は自分が選に漏れたことを知った。不思議なことに、哀しいとは思わなかった。寂しいとも思わなかった。来ると決まっていた未来が訪れただけと、静かにそう受け止めた。

明日の朝までにここを出て行きなさい。

理由を述べることもなく、主は無感動に言った。聞きなれた低い声に少女は頷き、礼の言葉とともに主へと頭を下げた。廃棄に掛かる料金を貰えなかった事だけは、少し予想外だった。だが、まさか廃棄料を下さいなどとは言えなかった。主が消えろと言うのなら、何も言わずに消えることこそがアリスの務め。そう考えた。

邸宅を離れた少女は、当ても無く街を彷徨った。自身の運動量と体内のマシーナリーオイルの残量を計算し、倒れるべき場所を探し歩いた。オイルが切れれば、身体を動かすことはできなくなる。道の真ん中で倒れこんでは、往く人々へ迷惑を掛ける。それは絶対にしたくなかった。アリスとしての矜持に反するからだった。アリスとして生まれ、アリスとして過ごし、アリスとして捨てられた。であれば最期の瞬間だって、アリスでいたい。その気持ちだけを胸に、少女は足を進めた。

辿りついた場所は、繁華街近くの裏路地だった。隅にはゴミ捨て場と、雨よけのひさしがあった。近づいてみれば、小さな張り紙。ゴミ捨て場の移動を知らせる文面が記されていた。少女は立ち止まり、少し笑った。良かった。あそこにしよう。使われていないゴミ捨て場なら、人の目にも留まりにくい。庇があるから、倒れたままに雨に打たれるような、無様な姿も晒さずに済む。そう考えた。死地を見つけられたことが嬉しかった。

汚物のこびりついた地面へ座り込み、少女は目を閉じた。これまでの毎日をほんの少し回想し、それから自身の左腕に、落ちていたガラス片を握り締めた対の手を勢い良く滑らせた。人工皮膚が裂け、ゲル状の半固体物質に包まれた機械部が姿を現した。右の指先を傷口に掛け、可能な限り大きく押し開いた。これで良い。これなら誰かが自分を見つけても、直ぐにアリスだと分かってもらえる。もう一度笑い、少女は再び目を閉じた。

日が沈み、夜になった。少女は微動だにせず、裏路地に座りこんでいた。オイルが切れ掛かり、やがては雨も降り出した。少女は目を閉じたまま、周囲の音に耳を澄ませていた。車の行き交う音と、笑い声と、そして時には怒号が響いた。あまり治安の良い場所ではないようだった。

どれくらいの時間が経ったのだろう。小さな足音が近くから聞こえた。目を開き、音のほうを見る。コートの前を両手で搔き合わせる様にしながらこちらへ向かって走ってくる、一人の女性の姿が見えた。雨を吸って額と頰に張り付いた長い髪は、恐らく本来黒色なのだろう。大きな瞳と、そこに浮かぶ儚げな情感が印象的な、とてもとても綺麗な人だった。

女性は座り込む少女の前を走りぬけ、数m行ったところで、唐突に足を止めた。少しの間があり、振り返ったその女性が、少女を見た。少女もまた、その女性を真っ直ぐに見つめた。

女性が何かを口にした。少女は微笑み、静かに頷いた。身体はもう、殆ど動かすことが出来なくなっていた。口を開き言葉を発するのは、もう不可能な挙動だった。沈黙が、夜の帳の下りた裏路地を支配した。

やがて女性は、少女の許へと歩み寄った。目の前にしゃがみ込み、少女の頰に指先を伸ばした。とてもとても近い距離で、温かな意思を纏う視線と、不思議そうに揺らぐ視線とが絡み合った。

二人はまるで姉妹のように、良く似ていた。

「あきらちゃんは、わたしにオイルを与え、それから自分の部屋へと連れて行ってくれました。わたしが死地に定めた裏路地から程近い、小さなマンションの一室でした」

研究室のベッドの上。ロザは俺に寄り添い、懐かしそうに言葉を紡ぐ。閉じた瞼の裏には、当時の思い出が映し出されているのだろう。

「あきらちゃんは優しく身体を拭いてくれて、柔らかなパジャマを貸してくれて、そうしてわたしの左腕に、丁寧に包帯を巻いてくれました。それから、今日は部屋に泊って行くようにって、そう言いました」

握り締めた俺の手を、意味も無く指先で撫でたり、さすったり。ゆっくりとした語り口調が、少女の胸にあるあきらとの想い出の、その温かさを物語る。俺は少女の肩にまわしていた右腕に、また少し力を込めた。

「オーナーに捨てられたわたしには、稼動し続けるための術も目的も、既にありませんでした。それ故に、あきらちゃんの親切は少し迷惑でもありました。言われるがままにあきらちゃんの部屋までついていったのも、ただ厚意を無下にすることが憚られたからでした。事情を説明したら、お礼を言って、直ぐに出て行くつもりでした」

ロザは薄く瞳を開き、俺の顔を見つめると、小さな声で尋ねた。今は何時でしょうか。

「0時20分だ。もう遅いが、平気か?」

答え、それから馬鹿なことを尋ねるものだと、苦笑する。少女はアリスだ。疲労にも眠気にも襲われることが無い以上、平気に決まっている。少女は笑い、俺が自らを嘲ったその理由を、済んだソプラノでなぞってみせた。

「あきらちゃんの部屋に行ったのも、丁度このくらいの時間でした。裏路地へと戻るため、事情を説明しようとしたわたしに、あきらちゃんはこう言いました。あそこへ戻るだなんて言わないのなら、聞いてあげる。酷いと思いませんか? わたしが言いたかったのは、まさにそれなのに」

口付けを交わす直前のような、まさにそんな距離で、少女は薄桃色の唇をゆっくりと動かす。研究室に、俺の呼吸音だけが響いている。

「何を言ったとしても、この人はわたしがあの裏路地に戻ることを許しはしないだろうと、そう思いました。それどころか、行く場所が無いなんて言ったら、じゃあずっとここにいるようにとか、そんなことさえ言われそうな気がしました。だから事情を説明するのは諦めて、その代わり訊いたんです。明日もお仕事へ出られるのですかって。あきらちゃんはコートを脱いで、濡れた髪を漸く拭きながら、そうだよと答えました。寂しそうな目をする人だなって、その時思ったんです」

俺は知らない。少女の見ていた2年前のあきらを、俺は知らない。今はそれが酷く、罪深いことのように思える。自らの言葉に対する俺の反応を一つ一つ確かめでもするかのように、ゆっくりとロザは続ける。

「あきらちゃんが次の日も出かけるのなら、それでいいと思いました。言われた通りその晩は部屋に泊めてもらって、翌日あきらちゃんが仕事に出たら、その間に姿を消せばいいと、そう考えたからです。わたしはその日、部屋のソファの上で眠りました」

言って、ロザは少し瞳を伏せた。顎が引かれ、二人の距離はほんの少し遠くなる。

「翌朝、あきらちゃんは仕事へと出かけていきました。でも、部屋を出て行く時、わたしに向かって言ったんです。待っててねって、一言だけ。すごく不安そうな顔をして、そう言ったんです。正直迷いました。遅かれ早かれ出て行くのだから、早いに越したことは無い。でも勝手にいなくなったりしたら、あの人はどう思うんだろうって。見せられた不安そうな顔が頭を過ぎって、どうしても出て行くことができなかったんです。散々迷った挙句、わたしはあきらちゃんの部屋に残りました。あの人は明日もきっと仕事へ行く。出て行くチャンスは幾らでもある。自分にそう言い聞かせて」

ロザは俺の手から指を離し、小指の先で自らの前髪に少し触れた。それから再び俺と視線を合わせ、微笑む。ロザの感情的な言葉と俺の愚かな行為によって生まれた先刻までの剣吞な雰囲気は、もう室内から消え失せている。

「日付の変わる頃になって、あきらちゃんは帰ってきました。聞こえた物音でそれに気付き、わたしは玄関に出てあきらちゃんを出迎えました。ドアが開いて、あきらちゃんの姿が見えて、だからわたし、深く考えたりなんかせずに言ったんです。おかえりなさいって。普通の、当たり前に発する言葉のつもりでした。だけどあの人、わたしのこと見つめて、すごくすごく嬉しそうな顔をしたんです。玄関に座り込んで、目に涙まで浮かべて、良かったって、待っててくれたって、何度も何度もそう言ったんです」

少女の視線が、何かを探すように虚空へと舞う。彼女が語る俺の知らない幼馴染の姿。あきらは一体どれ程に思い悩み、どれ程に孤独に苛まれる毎日を送っていたのだろう。

「わたし、すごく後悔しました。やっぱり出て行けば良かったって。昼のうちに出て行っていれば、こんな顔を見なくてすんだのにって。だけど遅すぎました。あんなにも嬉しそうな顔を、あんなにも幸せそうな顔を見せられてしまったら、勝手に出て行ったりなんか、もうできるはずがないんですから」

言葉とは裏腹に、少女の表情は柔らかい。ロザが自分の帰りを待っていてくれた。おかえりなさいと、声を掛けてくれた。たったそれだけのことに、あきらは救われたのだろう。

「その夜、わたしはあきらちゃんに、漸くと名を名乗りました。あきらちゃんの名前と職業も、その時初めて知りました。ベッドに並んで横になって、求められるがままに、事情の全てを話しました。あきらちゃんは、わたしの話を黙って聞いてくれて、それから少しして、こう言いました」

ロザは一度言葉を切る。そして吐息と共に、2年前に聞いたというあきらの言葉を、思いを、吐き出した。

「それなら、わたしと一緒にいて。あなたに寄り添い、あなたを求める理由と大義を、わたしにちょうだい」

「詩的だな、随分とまた」

久しぶりに自身の口から発せられた言葉は、埒も無い、つまらぬものだった。だが嬉しかった。本ばかり読んでいた幼い頃の彼女の姿を、少しばかり思い出した。ロザは笑い、恥ずかしい台詞ですよねと、そう言った。

「風俗店で充分なお金を稼ぐためには、年齢が大切なんだそうです。幾らあきらちゃんが美しくても、そういつまでも稼ぎ続けられる訳じゃない。もう20代も後半でしたしね。あきらちゃん自身それは良く分かっていて、だからその時の仕事が出来なくなった後のために、お金、一生懸命貯めてたんです。父親がいなくなってからは、稼ぐお金は全部あきらちゃんのものでしたから、質素な生活をしながら少しずつ少しずつ、それを貯めていたんです。そのお金を使って、あきらちゃんはわたしを貰ってくれました。掛かったお金は、あきらちゃんの貯金の、ほぼ全額でした」

沢山反対したんですけどね。ロザは寂しそうに、また嬉しそうに、小さな声でそう言った。

Physical Illusion社でのオーナー登録変更に掛かる費用は、ロザの場合最低でも870万円。どんな仕事についていようが、努力無しに貯められる額ではない。頑張ったのだなと思うと同時に、ロザを得るためにそれを全て消費したその判断については、愚かしくも思う。だが恐らくはあきらも自身も、そんなことは分かっていはいたのではないか。それでもあきらは、ロザが欲しかった。自身を必要としてくれる誰かが、自身を求め、支えてくれる誰かが欲しかった。そういうことなのだろう。

「わたしは、あきらちゃんと暮らし始めました。毎朝あきらちゃんを見送り、昼はお掃除したり、お洗濯をしたり、お買い物に出たりする。夜になったらお風呂を入れて、御飯を作ってあきらちゃんの帰りを待つ。そうして帰ってきたあきらちゃんに御飯を食べてもらって、褒めてもらって、それから一緒に寝るんです。幸せでした。捨てられて、死地を探していたわたしに、こんな幸せが訪れて良いのだろうかと不安になってしまうくらい、本当に幸せでした。先生の話も、時々聞いたんですよ。優しくて、格好良くて、頭が良くて、自慢の幼馴染なんだって、そう言ってました」

ロザは再び俺の顔を見る。悪戯っぽい笑みが、端整な顔に浮かんだ。小さく溜息を漏らし、俺も少し笑う。

「実際に会ってみて、がっかりしたろ?」

「さあ、どうでしょう」

想い出は、いつだって美化されるものだ。あきらの思うような男は、実際にはいなかった。いたのはただ、幼馴染の窮地にも不幸にも涙にも気付こうとせず、利己的に安穏と暮らしていた馬鹿だけだ。

「少し、待っていて下さい」

言うと、ロザは俺の腕をすり抜けるようにして唐突に立ち上がった。ゆっくりと足を進め、研究室を出て行く。少しして、自身のタブレットを片手に戻ってきた。画面に触れて何かを表示させ、俺に差し出す。そしてこう言った。

「あきらちゃんとお出かけした時の写真です。近場ですけどね。見てあげてください」

タブレットを受け取り、画面に目を落とす。俺の知らぬあきらが、いや、誰よりも俺の良く知るあきらが、そこにいた。

「あきら

思わず呟く。良く似た二人の女性が、頰をくっつけるようにして、笑顔で写真に納まっている。構図を鑑みるに、恐らくは目一杯に腕を伸ばし、握ったカメラのレンズを自分達に向けて撮ったのだろう。楽しそうな、幸せそうな、心の底から零れ出たような笑みが、陽光の下で輝いている。

幼馴染は大人になっていた。目尻と口角に、僅かながら年齢を重ねた跡がある。だが、それでも彼女は、途方もなく美しく、呆れる程に魅惑的だった。汚れなど、その姿のどこからも、僅か程にも感じられない。背後に映っているのはボート小屋だろうか。どこか大きな公園にでも出かけたのかもしれない。

ロザの顔は今と少し違っているように見えた。写真映りの問題かもしれないが、今目の前で俺の顔を見つめている少女程には、幼馴染に似た印象を受けない。眼前の少女はあきらの写し身、写真の少女はあきらの妹といったところだ。

再び幼馴染の姿に目を移す。零れた白い歯が、日の光を受けて煌く紫黒色の髪が、澄み切った大きな瞳が、はじけるような笑みを浮かべている。

「あきらだ。あきらがいる。ここに、あきらが

幼馴染の笑顔が、徐々にぼやけていく。整った彼女の輪郭が、少しずつ滲んでいく。タブレットの画面が揺れ、どこからか垂れ落ちた雫に染まる。

どうして会いにいかなかった。どうして助けなかった。その意味すら今は解せぬ言葉が頭に浮かんでは、脳内に響き渡る慟哭に押し流されていく。

写真の幼馴染は笑う。励ますように。嘲るように。

写真のアリスは笑う。包み込むように。詰るように。

いつからか零れていた嗚咽が、狭い室内に木霊する。

写真の二人は、ただただ静かに、笑っている。

少女は幸せだった。

定型句と共に初めて目を開いてからの半年間を回顧しては、本当に尽くすべき人物に巡り合えた幸運を、何度も嚙み締めた。自らと同じように、邸宅から消えていったアリス達が辿ったであろう運命を想起しては、天より舞い降りた僥倖に感謝した。彼女らの分まで、自分は全てを投じて、主に尽くし仕えて生きていこうと心に決めた。そう誓えることが、また途方も無く幸福に思えた。

幸せな日々は、長く続いた。

大人になった少女と、機械の身体を持つ少女。二人の少女が出会ってから、既に2年近くが経過していた。代わり映えのしない、その代わり僅か程も揺らぐことの無い幸福に包まれた、そんな2年間だった。故に、幸せはいつまでも朽ちることなく続いていく、そう思っていた。互いにそう思っていると、心の底から信じきっていた。片方の少女だけが。血潮の代わりにオイルを身体に巡らせる、老いることの無い少女だけが。

朝のことだった。定刻に目覚めた少女は、耳元で響く唸声に気が付いた。状況を認識せぬままに声の元を辿れば、自らの分身たる女性の寝姿に辿り着いた。最愛の友であり、敬愛する主である彼女は、額に大粒の汗を滲ませ、苦悶の表情を浮かべていた。美しい紫黒色の髪は乱れ、色艶の良い唇の端からは唾液が零れていた。

機械の少女は主の肩に触れ、どうしたのかと声を掛けた。呻くばかりで何も答えない主の纏う衣服は、大量の汗でしとどに濡れていた。少女はベッドから下り、タブレットを捜した。救急へと連絡を済ませ、そうして直ぐにまた、主に寄り添った。

主の全身を覆う多量の汗は、彼女が夜中から長い時間苦しみ続けていたことを如実に物語っていた。少女はそれに気付かなかった。気付くことができなかった。スリープダウンしていたが故に、自動で再起動処理の掛かる定刻まで、外部からの情報は一切認識することができなかった。

少女は自身がアリスであることを、心の底から呪った。主に声を掛けながら、救急隊員が到着するまで、気の狂いそうな程の不安に苛まれて過ごした。思考を司る無数のソースコードが紡ぎだすのは、自身に対する呪詛の言葉ばかりだった。

片割れの少女は、病に冒されていた。性風俗を生業にする者の身を蝕んで止まない、ウイルス性疾患だった。

ボニファティウス症候群。向かいあった老齢の医師の口から発せられたその言葉を、少女はメモリに刻み込んだ。

医師は言った。少女の主は、既に病に全身を蝕まれていると。激痛と共に日を掛けて臓器を腐食させるそのウイルスに、既にその身を巣くわれていると。延命治療は可能だが、そこまでだと。口を開くたびに揺れ動く医師の口髭を瞳に仕込まれたレンズの中心に映しこみながら、少女は頷いた。

主に何を告げ、何を隠すか。どのような判断を主に任せ、どのような判断を自らが下すか。最愛の人の消えかけた命の灯火。その行く末は少女に委ねられた。何の権利も力も持たぬ、アリスでしかない少女に。

思い悩む少女は、しかしそのような懊悩が不要であることを直ぐに知った。主は全てを知っていた。自身の身体の不調には、とうの昔に気が付いていた。目の前の幸福を壊してしまうことが、自らに付き従う少女に不安を与えてしまうことが怖くて、気付かない振りをしていただけだった。だから彼女は、こう言った。

ごめんね、ロザ。あなたにはとても、辛い思いをさせてしまったね。

全身に痛み止めを投与した主は、震える唇で呟き、少女の髪を優しくなでた。だから少女は泣いた。主の胸に顔を埋め、長い時間、とても長い時間涙を流した。主は少女を優しく抱きしめ、迷惑を掛けることを何度も詫びた。

病院での生活が始まった。アリスである少女は病院に留まり、主の傍を離れなかった。幸福は既に欠片も無く、未来へと続く道は闇に閉ざされていた。それでも傍に寄り添うことだけが二人の安らぎだった。

美しい主は、昔の話をすることが多くなった。児童養護施設にて過ごした幼き日々のこと。そこで出会った一人の少年のこと。少年に抱いた淡い恋心のこと。ベッドの上で窓の外へ視線を向けながら、あるいは隣に寄り添う少女の瞳を見つめながら、主は懐かしそうにそれらを語った。幸せそうな目をすることも、寂しそうな目をすることもあった。笑い、頷き、手をとって、少女はその話に耳を傾けた。

主は言った。あの人はどうしているのだろう。あの人はどんな毎日を送っているのだろう。幸せなのだろうか。満ち足りているのだろうか。配偶者や、恋人や、好きな人はいるのだろうか。わたしのことを、時々は思い出してくれているのだろうか。

少女は知った。主の話した淡い恋心。それが決して、過去の思い出などではないということを。主が今も、幼い頃の自分を導いた一人の少年に恋をしているということを。

だから少女は言った。会いにきてもらおう。わたしが捜して、ここへ連れてくる。向かいあって、抱きしめてもらって、そうしてちゃんと、気持ちを伝えよう。15年間ずっと好きだったんだって、今でもあなたが好きなんだって、ちゃんとそう言おう。

必死の訴えだった。主が少しでも幸せな気持ちになってくれるのなら、主が少しでも残りの人生を満ち足りたものにできるのなら。そう思い、そう願っての必死の訴えだった。だが主は聞き入れなかった。それは駄目。身も心も汚れ、命さえも失いかけているようなわたしに、あの人の時間を奪う資格はない。あの人の心を惑わせる資格はない。あの人に迷惑は掛けたくない。あの人の重荷にはなりたくない。

少女はまた涙した。自らの何もかもを否定し、死が迫ってもなお、気持ちを殺そうとする主が哀れでならなかった。哀しくてならなかった。だが何度訴えても、主の考えは変わることはなかった。

もって1ヶ月。主の病状は日々深刻さを増し、ついには医師から具体的な刻限が切られた。少女は主のため、懸命に尽くした。自身の全てを、翳りゆく主の命へと捧げた。スリープダウンすることもせず、24時間稼動し続ける生活を何日も続けた。

主は思い悩むことが多くなった。黙って俯き、真っ白な病室のリノリウムの床を見つめていることが多くなった。少女は何も言わなかった。主が何か、決意すべき何かについて考えを巡らせているように見えたからだった。

主の分身たる少女の確信は、さも当然のごとくに的を射ていた。長い時間を掛け、主は心を決めていた。最期の最期にたった一つ、我儘を通そうとしていた。少女の敬愛する主に相応ふさわしい、それはささやかな願いだった。

ある朝のことだった。主は言った。大きな瞳に意思を宿して。やつれた頰を動かして。色艶を失った紫黒色の髪を、窓から流れ込む微風にそよがせて。

ねえロザ、お願いがあるの。

あなたの身体を、わたしに貸してはくれないかな。

ボニファティウス症候群。数日前にロザと連れ立って向かった喫茶店で、俺達の背後の空間に飛び交っていた話題の一部だ。ロザは風俗店の話にあきらの不幸を連想したのだろうと考えたが、どうやらそれだけではなかったようだ。

あきらはこのウイルス性疾病にその身を蝕まれていた。彼女が苦しんでいたその時、白い居室でロザに俺について語っていた時、当の俺は何をしていたのだろう。眼前の端末に向かっていたのだろうか。馬鹿面を晒して横にでもなっていたのだろうか。愚かしい。俺は一体どれ程に愚かしいのだ。

「それから毎日です。あきらちゃんはわたしに、記憶の全てを伝えました。語り、思い出の品を見せ、数はすごく少なかったけど、僅かに残っている子供の頃の写真も見せてくれました。先生と出会う前のこと。養護施設の園庭の隅で、一人本を広げていた毎日。先生と出会った時のこと。出会ってからのこと。記憶と記録にある何もかもを、あきらちゃんはわたしに託しました」

ロザは語る。再び俺の横に腰掛け、背筋を伸ばして、今度は真っ直ぐに前を見つめながら。

「だからわたし、知っています。先生があきらちゃんに、どれだけ優しくしてくれたか。あきらちゃんが先生に、どれだけ憧れていたか。二人がどんな話をして、どんな夢を語ったか。先生が昔どんな髪型をしていて、どんな服を着ていて、どんな顔で笑ったか。わたし、何だって知っています」

アリスは忘れない。一度でも見聞きしたことは、どんな小さなことさえも。だからロザは忘れない。あきらが語り、懐かしんだ過去の日々の、どんな些細な一日さえも。

「伝えられる全てを、記憶に残る全てを伝え、あきらちゃんは息を引き取りました。わたしを一人残していくことを、何度も謝ってくれました。一つの命令だけを残して逝くことを、何度も謝ってくれました。でもわたし、充分だったんです。あきらちゃんはわたしに、沢山幸せな時間をくれたから。あきらちゃんは最期にちゃんと、すべきことを命じてくれたから。わたし大好きです。あきらちゃんのこと。恋しちゃってるんです、あきらちゃんに。あの人のためになら、わたしは何だってやってみせる。それがどんなに難しい、奇矯な行為だったとしても」

ロザが俺を見た。真っ直ぐな大きな瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。意思の光に隠された寂しげな揺らぎに、魅了されてしまいそうになる。ロザは紡ぎ出す。艶めいた唇で、その言葉を。俺がこの数日間探し求めていた、その答えを。

「わたしは、永峰あきらとして、ここへ来ました。彼女の記憶を受け継ぎ、彼女の容姿を形作って、ここへ来ました。昔、先生と共にいた頃の永峰あきらとして、先生と笑いあえていた頃の永峰あきらとして、先生の隣でただ、過ごすために」

ロザは言葉を切り、それから優しく、微笑んでみせた。瞳から意思の光が消え去り、温かみだけが残る。俺は耐え切れず、視線を逸らす。俯いて、少女の言葉を頭の中で何度もなぞった。

ただ共に過ごすため。ロザはそう言った。あきらの容姿を持ち、あきらの記憶をその身に宿した少女が、ただ俺と日々を共にする。そんなことのために、俺の工房を訪れたと言った。その行為に何の意味がある。その毎日に何の価値がある。そうして過ごした時間が、一体後に何を残す。

何が悪意だ。何が疑念だ。悪辣なる意思など、初めからどこにもなかったのだ。少女は何も、本当に何一つ、事を成す気などなかったのだ。爪あとを残す気などなかったのだ。こうべを垂れる俺を哀れむように、優しげな口調でロザは続ける。

「あきらちゃんは言いました。もう一度だけ、冬治と笑いあいたい。もう一度だけ、冬治にわたしを見て欲しい。最期にもう一度だけ、冬治の隣に立ってみたい」

「何て、馬鹿なことを

唇から漏れ出す声が、誰のものなのか分からない。零した言葉が、何を意味するのか分からない。幼馴染の言葉の何を、馬鹿と表したのか分からない。その行為の無意味さだろうか。惚れた男のくだらなさだろうか。最期にアリスに託したその望みの、どうしようもない程の矮小さだろうか。

「馬鹿な考えだと、わたしも思います。でもね、先生。それはあきらちゃんの、精一杯の我儘だったんです。もう一度先生の傍に行きたい。先生と幸せな毎日を過ごしたい。だけど絶対に、先生に迷惑は掛けたくない。先生に負担を掛けたくない。悩んで悩んで、そうして出した結論が、この10日間だったんです。自分と同じ姿をし、自分と同じ記憶を持ったアリスは、自分の写し身。その写し身が、先生の隣で日々を過ごしたのなら、その毎日はきっと、実際に自分が先生と共に過ごすそれと、良く似たものになる。あきらちゃんは、そんな風に思って、わたしに最期の命令を出したんです」

ロザは語る。だが俺にはやはり理解できない。

仮に俺が、ロザとあきらの外貌の相似を偶然のそれとして片付け、何事もなく2週間を経過させたとして、それが何になる。上手く騙しきった俺と共にロザが過ごす日々は、確かに少女の言うように、暖かで落ちついたものになるかもしれない。だがその日々は、その事実は、あきらの許へ帰らない。どんな毎日を過ごしたかあきらが聞くことは既に叶わず、後には、帰る場所を失ったアリスが一体残るだけだ。

いや、そもそもがだ。そうやって過ごす日々においては、あくまでロザはロザでしかないのだ。あきらの容姿と記憶を持っていようが、ロザが自身をロザと名乗っている以上、俺は彼女を調律対象のアリスとしてしか扱わない。二人の間に特別なことなど起こりようもないし、実際に俺が昔あきらに対してとっていた態度と、この10日間ロザに対しとっていたそれとの間には、相応の差異がある。

少女の容姿が幼馴染に似ていたことで、確かに俺はアリサやキリカに対するそれとはやや異なる心持で少女に接したかもしれない。だがそれだけだ。それだけなのだ。

俺の言いたいことを悟ったか、ロザは笑いながら言う。だから、馬鹿な考えだって言ってるじゃないですか。

「でも、あきらちゃんにとってはそれで充分だったんです。自分の写し身が、大好きな先生の隣で2週間を過ごした。自分がその2週間を知ることは叶わないけれど、でも、過ごしたというその事実は、事実として残る。あきらちゃんは、それで充分だったんです」

決意を胸に収めたその時、あきらはもう動くことなど叶わない状態になっていた。だから自分の代わりに、ロザを俺の許へと送ることにした。自らの写し身が、俺と過ごす2週間、その僅かな日々を、世に形作るために。自らがその全容を知ることすら叶わない平穏な日々を、事実として世界に刻み込むために。

小さな笑いが、自身の口から零れた。嘲笑めいたそれだった。

真実は思っていたよりもずっと、愚かしかった。考えていたよりもずっと、矮小なものだった。だが、そんな愚かな希望だけを残して世を去るような状況に彼女を追い込んでしまったのは、俺ではないのだろうか。

彼女が苦しんでいたことにも、彼女がそれ程に自分を想ってくれていたことにも、俺は僅か程にも気付きはしなかった。気付くことができ、救うことができる、そんな機会は、得ようと思えば幾らでも得られたのだ。だが俺はそうしなかった。自身からの唐突な連絡は、彼女にとって迷惑にしかならないと、言い訳じみた気遣いを免罪符に、永峰あきらという存在から目を逸らした。

ロザは先刻、俺があきらを殺したと言った。今、俺に笑みを向ける少女の態度を鑑みるに、あの言葉の通りに事実を認識しているわけではなかろう。あれは、あきらに命じられて構築した計画を俺に壊されたことへの憤怒が生んだ、ただ俺を攻撃することだけを目的とした、意味を持たぬ怨嗟の言葉だろう。ただ、その言葉を咄嗟に吐かせたのは、少女のメモリの奥深くに確かに在る、わだかまりなのではないかと思う。

あきらに対し、俺が何らかのコンタクトを取ろうとしていれば。ただの一度でも、彼女に会いに行こうとしていれば。

そうしていれば、あきらの人生は変わっていたのではないか。あきらの命は、僅か30年程で尽きることなどなかったのではないか。小さな身体を駆け巡る精緻なプログラムは、そんな考えを少女に持たせたのだ。

「ロザ、お前の言う通りだ」

少女の顔を見つめる。幼馴染と同じ、美しい顔を見つめる。

「俺が、あきらを殺したんだな」

仕方ないとは言うまい。助けられるのに助けない。気付けるのに気付こうとしない。その事実と、苦しむあきらを見殺しにするのとに何の違いがある。

「先生

ロザは瞳を伏せ、聞き取れぬ言葉を零す。そんなことはないと、少女は言わない。無論俺も、そんな風に言ってほしくなどない。俺があきらを殺した。俺が助けなかったからあきらは死んだ。それが事実。事実はそれで良い。

あきらはロザに、ただ自分の代わりに俺と過ごしてくるようにと、そう命じた。もう一人の永峰あきらとして、自身にはもう手の届かなくなった願いを叶えてくるようにと、そう頼んだ。それ程までに、こんなにもつまらない男を想ってくれていた。それに対して俺は何をした。彼女に対し、俺はどんな思いを抱いていた。

ロザがこの工房を訪れた10日前を思い出す。開いた鉄扉の向こうに幼馴染の姿を見て、俺はどんな気持ちを抱いたか。それは大きな大きな、喜びだったはずだ。彼女にまた会えた。彼女が元気でいてくれていた。彼女は俺を忘れておらず、それどころか、訪ねてまで来てくれた。俺は彼女に、拒絶されてなどいなかった。

ああ。そうだ。そうだったのだ。思い出し、気付いた。俺は彼女に連絡を取るのが怖かったのだ。会いたいと申し出て、その結果迷惑そうにされるのが怖かったのだ。美しい彼女が、自分など到底敵わないような魅力的な男性と出会い、恋をして、家庭を持ち、子を儲けて。そんな様を見せ付けられ、言葉にして告げられ、自分が置いていかれたことを知ってしまうのが、怖かったのだ。

若かりし頃、日々の多忙さに感け、また彼女の義父を怖れ、俺は幼馴染に連絡を取ることを怠った。少しくらい会わなくても大丈夫。そう言い訳しながら、彼女を知ることを怠った。そうして時間が経ってしまえば、今度は知るのが怖くなった。俺の知る彼女は、俺に笑顔を向けてくれていた彼女はもういないのではないかと、想起される拒絶の言葉に恐怖した。

愚かしい。考えれば考える程に愚かしい。俺は彼女を、今でも好いていたのだ。会いたかったのだ。会って、抱きしめて、昔のように優しい声で、俺の名を呼んで欲しかったのだ。

「馬鹿は俺のほうだ。俺は、あいつを

弁明と畏怖いふに塗れ、自身の気持ちを殺した15年間。そんな時を過ごしたのは、あきらだけではなかった。俺も同じだった。好いたが故に怖れ、誤魔化し、失った。あきらは自らを殺し、俺はあきらを殺した。

ロザの柔らかな頰を、両の手でそっと包む。少女は可愛らしく小首を傾げ、それでも優しげな目を俺に向ける。俺はこの娘を、この顔をした美しいあの人を、ずっとずっと、あの人を。

自身の手が震える。視界がぼやける。少女は暖かな眼差しで、俺を見つめる。

「先生は、泣き虫ですね。わたしと一緒だ」

微笑んだロザの小さな手が、頰を包む俺の手にそっと、触れた。

10

ベッドにて隣り合う少女は、俺の涙を拭った指先をぼんやりと見つめながら、美しい唇を震わせる。

「あきらちゃんが残してくれた幾らかのお金で、わたしは外面改修を受けました。あきらちゃんとわたしは元々良く似ていましたが、完璧ではありませんでしたから。それから偽のオーナーを雇い、先生に調律依頼を取り付けて。先生は調律に掛かる期間で料金を決めていますよね。わたしが指定した2週間という期間は、あきらちゃんの残してくれたお金で依頼できる、精一杯の期間でした」

2週間の期間内で、俺の好きなように調律してくれ。ロザは、偽のオーナーである田宮晴彦を通じて、俺にそんな依頼を寄越した。

具体的な要件を提示しなかった理由を、先刻ロザは謀の準備を行う時間を作るためと言ったが、恐らくは期間の問題もあるのではないか。

依頼された調律要件を元に俺は作業のスケジュールを立て、掛かる日数を算出する。そしてその日数に応じて料金を請求する。当たり前の話だが、少女には分からなかったのだ。俺に2週間という作業日数を算出させるためには、どの程度複雑な要件を出せばよいか。

出した依頼が余りにも複雑すぎれば、俺は2週間を超えるスケジュールを組んでしまう。そうなると必然的に料金も高くなり、少女が支払える範囲に収まらない。逆に依頼が単純に過ぎて数日程度のスケジュールを組まれれば、あきらが俺と過ごす時間が短くなってしまう。故に、期間ありきの調律依頼となったのだ。ロザは続ける。

「先生。わたしね、先生のこと本当に嫌いでした。印象値、低かったでしょう? あきらちゃんは15年間沢山苦しんだのに、そしてそれ故に、命まで落としてしまうのに、先生は気付いてくれなかった。あきらちゃんは先生を思い続けていたのに、先生はあきらちゃんを思い続けてくれなかった。そう思っていたから。もし先生が、あきらちゃんのことを思い出して、捜してくれたら、あきらちゃんは病気になんかならずに済んだかもしれないのにって、助かったかもしれないのにって、どうしてもそう考えてしまったから」

ロザは微笑む。少女のほっそりとした指先が、俺が流した涙で僅かに濡れている。

「でも、違ったんですね。先生は、あきらちゃんと一緒だった。あきらちゃんと同じように、臆病だっただけ。わたしも同じです。あきらちゃんに嫌われてでも、無理やりにでも、本当は先生をあきらちゃんの前に連れて行くべきだった。でもできなかった。やっぱりわたしも、臆病だったんですね」

寂しげに視線を揺らし、少女は細い足を持ち上げた。ベッドの上で膝を抱え、少し俯く。簡素な研究室のベッドが、少し揺れた。

「先生に初めて会った時、先生わたしをあきらちゃんだと思って、抱きしめましたよね。嬉しかったです。先生があきらちゃんを覚えていてくれたことが。あきらちゃんに会えたと思って、涙を流してくれたことが」

「恥ずかしいところを見せちまったな。まあ、今となってはあの程度、恥でも何でもないかもしれないが」

比較にならぬ程の恥を、少女にはもういくつも晒した。ロザは笑い、続ける。

「わたし先生と、沢山楽しいことして過ごすつもりでした。だってわたしが先生と共に過ごす2週間は、あきらちゃんが先生と一緒にいられる最期の2週間だったから。だから一緒に映画へ行った時、アリサちゃんが疎ましかったんです。オーナーもいて、苦しんだり、一人になった経験もないようなアリスが、あきらちゃんと先生との時間に割り込んでくるなって、邪魔するなって、そう思いました。今では、そんな風に考えたこと後悔しています。アリサちゃんは、わたしと一緒だったから。有紗さんの写し身だったから。それにあの子、わたしのこと、友達だって言ってくれた」

そうだ。アリサは確かに、ロザを友達だとそう思っている。先刻アリサと話していた時のロザの寂しそうな顔が思い出される。あれはきっと、アリサを疎んじたことへの罪悪感が原因だったのだろう。だが少女は、そのことを後悔しているとも言った。それで良い。友情はいつだって、そういった感情のうねりの果てに築かれるものだ。

言ってやれば、少女は目を細め、頷いた。それから再び、俺の手を取る。少女は胸に秘めていた全てを、吐き出そうとしている。

「お祭り、沢山我儘言ってごめんなさい。でも、あきらちゃんお祭り行きたかったって言ってた。すごく楽しみだったって言ってた。だから、お祭りだけは、絶対先生に連れて行ってもらおうって決めてたんです。先生わたし、いいえ、あきらちゃんは、綺麗でしたか?」

少女の言葉に俺は頷き、そして回顧する。あの時のロザは、本当に美しかった。あきらを演じる彼女と腕を組んで歩きながら、俺は15年前の幼馴染との日々を思い出し、感傷的な気分に浸っていたはずだ。

夜店で買える食い物の類を、そういえば全部二つ買わされた。余計な一つは、あきらの分だったのだろう。少女は忠実に、俺とあきらとが15年前に心躍らせた祭事の夜を、辿り着くことの叶わなかった灯火の道を、再現してみせたのだ。瑣末なトラブルはあった。だがあの夜は、やはり美しい想い出だ。

「ああ、綺麗だった。お前も、あきらもな」

「良かった。あきらちゃん、喜びます」

珍しくロザが、晴れやかに笑った。いつもの、包み込むような温かな笑みではない。アリサや莉子が見せるそれに近い、楽しげな笑みだった。

「でも、何よりも嬉しかったのは、簪です。本当に、本当に嬉しかった。先生があきらちゃんのために、贈り物を選んでくれた。良く似合ってるって、そう言ってくれた。あきらちゃん、知ったら喜ぶだろうなって、そう考えて、嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。壊れちゃった時はショックだったけど、先生と日比野先生が、綺麗に直してくれましたし。あきらちゃんに、見せてあげたいな」

あの時、俺を驚かせたロザの涙。今ではもう見慣れてしまった、少女の零す美しい雫。俺はあの時、あきらを思いながら簪を選んだように思う。結果的にはそれで良かったのだろう。少女は自身への贈り物など欲してはいなかった。少女が欲したのは、主への、あきらへの俺の気持ちだった。

「わたし、沢山失敗しちゃいました。思っていた通りに、全然ならなかった。余計なことして、余計なこと言って、結局全部、先生にばれちゃった。先生のこと泣かせちゃった。絶対に先生に迷惑かけちゃ駄目って、何度も言われてたのに。あきらちゃんに、合わせる顔がありません」

残念そうに言うロザ。言葉の通り、少女は沢山のミスを犯した。必死だったが故、俺に対し思うものがあったが故だ。

申し訳ないと、そう思う。俺は気付くべきことにはまるで気付かぬくせに、いらぬことには目敏く、賢しいのだ。愚か者とは、得てしてそういうものなのかもしれない。だが、そんな愚かな男にも言ってやれることはある。掛けてやれる言葉はある。

「お前にとってはそうなのかもしれないが、俺はお前に、今は感謝しているよ。お前は俺に気付かせてくれた。俺自身の愚かさと、それから、あきらへの気持ちを。お前の必死さが、心が、俺に気付かせてくれたんだ。あきらだって、お前にはきっと感謝している。お前への感謝の言葉を最期に口にしたその時よりも、今のほうがずっとな」

あきらの気持ちを勝手に口にすることに、躊躇いはある。だが俺には、あきらはきっとそう思っていると、自信を持って断じることができる。幼馴染は、汚れなど僅か程にもその身に寄せ付けぬ、美しい心根の娘なのだから。ロザが俺の顔を見た。

「心か。わたしたちアリスにも、心はあるのかな。ねえ先生。わたしたちにも、心や魂は、あると思いますか?」

少女の表情が少しだけ曇った。細く美しい眉を寄せ、不安げに俺に問うてくる。笑みを返して、答えた。

「お前達アリスは、人間と同じように、喜び、怒り、哀しみ、そして楽しげに笑う。そうさせるのは、確かにプログラムであり、複雑なソースコードの群れであるのかもしれない。でもな、お前達が笑い、泣き、思いを口にするその瞬間には、確かに心が生まれるんじゃないかと、俺は思う。言葉を発する唇に。誰かに触れる指先に。抱き締められた小さな肩に。誰かを思い一歩を踏み出す、その足先に。心は、いつだって生まれているんじゃないかな」

普段なら絶対に口にしない、子供じみた台詞だ。だが今は、気取ったりなどしたくなかった。思ったことの全てを、感じたことの何もかもを、少女に伝えてやりたかった。ロザは頰を染め、小さな胸に両手を押し当てて、頷いた。

「そっか。嬉しいな。本当に、嬉しいな」

その言葉を最後に、室内は沈黙に支配された。あきらの顔を思い出す。記憶にある、まだ幼さの残るあきらの顔を。写真で見た、美しく成長したあきらの顔を。ロザもきっと、同じことをしているのだろう。同じ思いを巡らせているのだろう。

唐突に、しかしゆっくりと、少女が床へと下りる。ベッドがまた少し軋み、揺れる。

俺の前に立ったロザは、右手で頰を搔くようにしながら、優しく言った。随分と遅い時間になってしまいましたね。

「もう眠りましょう先生。お疲れになったでしょうから、ゆっくり身体を休めるんです。明日は雨が降るそうですから、朝はきっと冷えます。暖かくして、眠って、楽しい夢を見るんです」

身を屈めて俺の手をとり、ロザは笑う。整った顔立ちには、晴れやかな表情が戻っている。

「そうだな。雨が降るのなら、明日は二人でゆっくり過ごそうか」

少女の小さな手を握り返し、立ち上がる。一緒に寝るかと声を掛けると、小首を傾げて返された。

「どうしようかな。一緒に寝たいけど、先生はえっちだからなぁ」

「馬鹿。もうそんな気力ねえよ」

少女と手を繫ぎ、研究室を出る。

眠ろう。ほんのひと時、身体を休めよう。少女の顔を眺めて、脳裏に焼き付けて、そうしてあきらの、美しい幼馴染の夢を見よう。あきらと過ごした昔日の想い出を、あきらと過ごす仮初めの未来を、夢の狭間に描き出そう。

あきらは笑ってくれるだろうか。夢幻が創り出すその世界に、彼女の笑顔はあるだろうか。

隣を歩く少女が、小さく何かを呟いた。

寂しげに廊下に揺蕩たゆたうそれは、何かに対する、礼の言葉に聞こえた。

11

ロザが、いなくなった。

降りしきる雨が、工房の窓を、屋根を、強く叩く音が響く朝。寄り添って共に眠ったはずの少女は、夜明けと共に姿を消した。雲に隠れた太陽が、雨の向こうにあってなお存在感を示すように、いなくなった少女の残り香が、工房のいたるところに染み付いているような気がした。

まるで予想していなかったと言えば、噓になる。だが、高をくくってはいた。少女にはもう帰る場所が無い。故に、出て行く先などあるものか。そう考えていた。

荷物は全て、そのままだった。少女が小さな手で引いてきたトランクケースも、稀に弄る姿を見かけたタブレットも、俺を謀るために必死に用意したぬいぐるみも、全て工房に置き去られていた。いや、一つだけ、一つだけなくなっていたものがあった。俺が夜店で買い与えた簪。一度は踏み壊され、孝一の手によって蘇った二匹の蝶を頭上にいだく樹脂細工。あの簪だけが、トランクケースの中から姿を消していた。

自分で珈琲を淹れ、自分で朝食を用意し、居間で一人平らげた。この10日間、楽しそうにその様を眺めていた少女がいない。その事実が思いの外大きな虚無感を齎すことに気が付くまで、時間は掛からなかった。

何かの事情で、工房を一時離れただけかもしれない。そんな風にも考えた。それは推察でも何でもないただの願望に過ぎなかったが、それでも俺は待った。少女の帰りを。少女が工房へ戻り、勝手に出て行ったことを詫びてくれるその時を。だが、願望は所詮願望に過ぎなかった。

ベッドで少し眠り、昼食を食べ、本を読み、今度は夕食を用意し、それから夜になっても、少女は戻らなかった。

これでいい。心の内から響くその声に従うべきか、迷い惑った。仮に少女が出て行くことなく、工房に今もいたのなら、俺は何と声を掛けただろうと、何度も考えた。少女には帰る場所が無い。だが、だからといってこの工房にいつまでも居させるのなら、相応の覚悟が俺にも必要だ。そして俺は、まだそんな覚悟を決めてなどいなかった。

そもそも少女はどうするつもりだったのだろうと、考えるうちに疑問に思った。永峰あきらとして工房へやってきて、予定の通り2週間の時を俺と過ごしたとして、その後少女はどうするつもりだったのだろう。俺はそんなことさえも聞いていなかった。

生きていくための、なにがしかの手段を既に用意していた可能性もある。それならば良い。それならば、わざわざ好きでも何でもない俺の工房に居座る意味も必要性もない。だが本当にそうだろうか。何がとは言えぬが、それはどうにもしっくりとこない。そんな気がした。

翌日になり、俺はアリサと孝一、それから莉子にも連絡を取った。ロザがいなくなったことだけを伝え、もしどこかで見かけたら連絡がほしいと、そう頼んだ。孝一と莉子には応諾され、アリサには酷く叱られた。捜すべきなのかどうか迷っていると口にした俺を少女は詰り、わたしは捜すからと、乱暴に電話を切った。少し趣が違ったのは、孝一から話を聞いたのか、折り返して電話を寄越した美優だった。

あきらさんは、どこに眠っているの?

美優は開口一番、俺にそう尋ねた。その言葉に驚き、だが知らぬと答えた俺は、ここでもまた詰られた。冬治さんの馬鹿。そう言って美優は、俺から事細かに事情を聞きだそうとした。

美優は、孝一の妻たるアリスは、多くのことに気が付いていた。ロザが、永峰あきらの写し身であろうこと。永峰あきらが、既にこの世にいないであろうこと。美優が孝一に連れられてこの工房へ来た時の様子が思い出された。亡くなった美優は、孝一がアリスに自分の姿を重ねたことを喜んでいる。涙ながらにそう口にしたロザに対し、アリスたる美優はこう言った。そうだったのね、と。

俺は解釈を誤っていた。美優はロザの言葉に、命を落とした本当の美優の思いを知り、そう答えたのだと思っていた。違った。美優はこう言いたかったのだ。

そう。あなたも、わたしと同じ大切な人の姿を重ねられたアリスだったのね。

あきらの態度が、あきらの下した命が、少女にあの言葉を口にさせた。ロザは、あきらに望まれて自らに彼女を重ねさせた。それが、同じようにアリスとして世界に再び生を受けた元村有紗や日比野美優との、決定的な違いだ。ロザは、自分がモデルとなった人間の気持ちを知る数少ないアリスだからこそ、美優や孝一に、あんなことを言ったのだ。その言葉が自らの正体を推し量られる契機になってしまう可能性を知りながらも、悩む孝一や美優に、モデルとされる人間の気持ちを伝えてやりたかったのだ。そして美優は、その言葉にロザの正体を知った。故人を再現するためにつくられたアリスという立場にある美優は、気付いてしまったのだ。

俺は美優に、請われるがままに事情を話した。美優の必死な様に折れた部分もあるが、それ以上に、自信がなかったからだった。周囲を取り巻く多くの事象に対して、自身が今どれ程に正確な判断を下せるか、自信が無かったからだった。

美優は黙って俺の話に耳を傾け、それからもう一度、小さな声で馬鹿と言った。

ロザちゃんが何をしようとしているか、もう一度ちゃんと考えてあげて。ロザちゃんの気持ちに、もう一度ちゃんと向き合ってあげて。ロザちゃんには心があるって、魂があるって、冬治さんは言ってあげたんでしょう? その言葉の温かさを、その言葉の残酷さを、もう一度ちゃんと考えてあげて。

電話を切り、俺はソファに座り込んで項垂れた。薄々とは気が付いていた。自分が何を口にしたか、自分が何を言ってしまったか、心のどこかでは気が付いていた。

あきらちゃん、喜ぶだろうな。あきらちゃんに、見せてあげたいな。ロザの言葉が思い出された。少女は確かに、そう言ったのだ。喜んだだろうな、ではなく、見せてあげたかったな、でもなく、そのように言ったのだ。

人には心があり、魂がある。ではその心は、魂は、宿主の死後、一体どこへ行く。アリスには心があり、魂がある。俺はそう言った。ではそれらは、アリスの廃棄後、一体どこへ行く。

立ち上がり、居間を出た。研究室に置きっぱなしになっていたロザのタブレットを取り上げ、画面に触れた。あきらの写真を眺め、そして考えた。幼馴染は一体、どうしたかったのだろうと。ロザに最後の命を下し、俺の許へと寄越させたあきらは、一体どうしたかったのだろうと。

彼女には当然分かっていたはずだ。役目を終えたロザが、行き場をなくすことを。ロザの話を鑑みるに、あきらはロザに、廃棄料も、オーナー登録の変更料も残してはいない。残さなかったのではなく、残せなかったのだろう。ロザを引き取る際に貯金の全てを消費した幼馴染が、その後の2年間で一から貯めなおした金。俺へ支払う調律料や計画に掛かる雑費は賄えても、高額な廃棄料や登録変更料は賄いきれなかった。では彼女は、ロザの行く末をどのように考えていたのだろう。

何の根拠も無い、憶測に過ぎなかった。それを思わせる挿話など、何一つありはしなかった。だが、写真の幼馴染の笑顔を見るうちに、ふと浮かんだその考えは、脳裏でゆっくりと、確信の衣を纏い始めた。徐々に徐々に、真実の皮膜に覆われ始めた。

あきらは、救って欲しかったのではないか。

ロザに下した最後の指示。俺の元へ行き、限られた時を共に過ごしてこいというその命令。幼馴染が少女に託した想いは、確かに本心からのものであっただろう。心からの望みであっただろう。だが本当に、それだけだったのだろうか。

ロザは言っていた。あきらは一度、俺に会いに来ようとしたと。それは純粋に、救いを求めてのことだったのだろう。だが結局、彼女は最後の一歩を踏み出すことができなかった。俺の愚かさも相まって、救われることはなかった。であれば最期にもう一度、救われたいと願ったとて、一体何の不思議があろうか。俺が何もかもをに気付き、自らの写し身たる少女へ救いの手を差し伸べる可能性に賭けたとて、何の不思議があろうか。

ロザは願っている。主の温もりにもう一度包まれるその時が訪れることを。だから、あきらの元へと行こうとしている。自らを廃し、あきらにもう一度会いにいこうとしている。

あきらは願っている。全てを託した少女がもう一度、人の温もりに包まれるその時が訪れることを。だから、俺にそれを期している。俺が全てに気付く可能性を、ただひたすらに期している。

笑みが零れた。乾いた、どうしようもなく自虐的な笑みだった。

まだ間に合うだろうか。夜の帳が下り始めた頃、窓の外を眺めながら、そんな風に考えた。愚かしかった。臆病だった。そして自己愛ばかりに生を委ねた。故に、救えなかった。救わなければならなかった人を、誰よりも大切に思っていたはずの人を、俺は救えなかった。だが幸か不幸か、機は再び訪れた。俺には今一度、大切な人の心を救える、そんな機宜が与えられた。ならば、救いたい。向けられた想いに、俺は報いたい。

工房を出、もうすっかりと漆黒に包まれてしまった空を見上げた。星々の瞬きに、何ら感じ入るものなど無い。そんな場所に、彼女がいるとも思わない。だが、だがそうしていないと、零れてしまうのだ。目尻から溢れ出ようと暴れだす、熱い雫が、零れてしまうのだ。

聞いてくれあきら。俺は、君を救ってやれなかった。苦しみ悶え、それでも気高く生き続けた君を、救ってやれなかった。その事実は、どんなことをしようと消えぬだろう。その罪は、どんな十字架を背負おうとすすがれぬだろう。だから禊などと言うつもりはない。使命だなどとぬかすつもりもない。

ただ、護ろうと思う。君の生きた証を、君が愛した温もりを、護ろうと思う。

思い返した。彼女の笑みを。彼女の言葉を。

思い描いた。彼女がこの世に刻み残した、心の全てを。

心は、少女の形をしていた。

Epilogue

Automatic LivingDoll Common(Custom)Edition。通称ALICE。10年程前に国内最大の精密機器ベンダーであるPhysical Illusion社から発売された女性型アンドロイドだ。15歳程度の思考能力と語彙力を有し、10歳女子程度の運動能力を備えている。極めて精緻な人格プログラムと体表を覆う人工皮膚の恩恵で、外貌と行動だけで見たのなら、人間の少女と僅か程の違いもない。一体1250万円という高額な商品であるにも拘わらず、アリスは発売から僅か1年で100万体を出荷。高性能アンドロイド市場を牽引するPhysical Illusion社の主力製品として、今なおその販売台数を伸ばし続けている。

「子宝に恵まれなかった夫婦の究極的な癒しとして、あるいは、永続的に稼動し続ける最強の家事手伝い、ベビーシッターとして」。Physical Illusion社のALICE開発プロジェクトを特集したドキュメンタリー番組で、以前販売責任者がそのような発言をしていた。だが妄言だ。開発プロジェクトの定義段階でどんな製品構想が説かれたかは知らないが、アリスは断じて、そのような功利的なものではない。

腰掛けていた居間のソファから立ち上がり、足元に置かれていたボストンバッグを取り上げる。愛用のトラッカージャケットの胸ポケットにカードキーがあることを確認し、玄関へ向かった。

重たい鉄製のドアを押し開き、陽光降り注ぐ屋外へと足を踏み出す。そうしてドアの先で俺を待っていた1体のアリスに声を掛けた。春先にしてはやや冷えた朝の空気が、気を沈ませでもしたのだろうか。どこか寂しげにも映る笑みを浮かべ、身に纏った白いダッフルコートの裾を、少女はひらりと中空に揺らした。

「わざわざ来なくてもいいと言ったろう」

鉄扉にロックを掛けながらそう声を掛ければ、アリサは緩く首を振り、小さな胸を少し張ってみせた。

「見送りくらいしか、してあげられないからさ。これも、仕事だよ」

少女が珍しく纏うコートの下は、見慣れた水色のワンピース。無理やりに作ったような笑顔が、酷く痛々しい。

「勤勉だな。随分と」

少女の顔から視線を外し、ボストンバッグを肩へと担ぎ上げる。工房の敷地隅に止められた年季漂うミニバンへと向かい、そのまま運転席へと乗り込んだ。バッグを助手席に放り、それからシートベルトを装着する。閉めたドアの向こうで、アリサが艶やかなグレーブラウンの髪に、そっと手をやるのが見えた。

「次は、月曜日でいいんだよね。ちゃんとそれまでには、帰ってくるんだよ?」

何か言いたげな少女の様子に促されて窓を開ければ、そんな台詞が耳を撫でた。

「ああ。分かってる

保護者じみた少女の言葉に頷いてみせ、メーター横のスリットにキーを滑らせる。エンジン音が響き、車体が小刻みな振動に包まれた。ゆっくりと瞼を閉じ、一つ息を吐く。

ロザが姿を消してから、半年が過ぎた。

工房で日々の調律作業をこなしながら、数日の暇ができる度に、愛用のミニバンを操っては東京を離れる。もう暫く、俺はそんな生活を続けている。

姿を消した少女は、北へ向かった。

半年前、その連絡を寄越したのは莉子だった。情報源はPhysical Illusion社所属の接客用アリスの1体。話によれば、Physical Illusion社が東北に置く販売拠点へ異動となったそのアリスが、莉子へと連絡を寄越してきたらしい。

話を聞き、直ぐに状況を理解した。莉子と落ち合ったPhysical Illusion社の喫茶スペースで、俺にドリンクを持ってきてくれた名無しのアリス。未来を持たぬ哀れな個体。型番は確かL3122だったか。俺がタブレットに表示して見せたあきらの姿。彼女はそれを記憶していた。そして異動となった地にてあきらと同一の容姿を持つロザの姿を見かけ、わざわざ莉子へ連絡をくれた。俺に伝えて欲しいと。一度顔を合わせただけの俺のために、手間を惜しむことなく。

曖昧な情報を頼りに東北へと向かった俺は、数日の後、失望を胸に帰京した。ついて行くと言って聞かなかったアリサを無視し、北の地へと車を走らせ、何をも得ずにこの場所へと戻った。

アリサは何も言わなかった。静かに笑んでみせ、そうしていつかのように、俺をその小さな胸へと抱きとめてくれた。

それから幾度も、俺は同じことを繰り返した。壊れた遊具のように。狂ったままの時計のように。徒爾なる愚行を繰り返した。繰り返して。繰り返して。何度も何度も、繰り返して。もうすっかりと慣れてしまった。北へと車を走らせるその行為にも。一枚の写真を映し出したタブレットを手に、道行く人に声を掛けては首を振られるその落胆にも。刻限に追われ、唇を嚙んで帰路へつく、その虚無感にも。もうすっかりと、慣れてしまった。

「ねえ

言葉と共に、アリサが少し、視線を伏せた。目で続きを求めれば、小さな唇が、眼前で僅かに震える。分かっている。少女が何を言おうとしているのか。少女が何を思い、俺にどうして欲しいのか。

「あんたは、頑張ってるよ。すごくすごく、頑張ってるって、そう思う

表情に、震えを含んだソプラノに、心がざわめく。最初からずっとそうだった。どんな生意気を口にしようが、どんな辛辣な言葉を発しようが、何も変わりはしない。アリサは、優しい娘だ。

「もう半年経った。ロザちゃんがいなくなってから、半年も経ったんだよ? 残酷なことを言うようだけれど、もうきっと

「言うな」

アリサの台詞を遮り、今度は俺が視線を伏せる。両の手で強くハンドルを握り締め、震えだした足先を意味も無く見つめる。

「何も、言わないでくれ」

聞きたくないと、言わないで欲しいと、素直にそう思った。俺はまだ捨てたくない。たとえ真実が、アリサの言葉に寄り添うものであったとしても、俺はまだ。まだ。

返された言葉に切なそうな表情を浮かべた少女は、一言ごめんと呟き、そして押し黙る。

「済まない。お前には、感謝してる

言って、フロントガラスの向こうに視線を遣る。アリサの顔は、もう見なかった。

窓を閉め、アリサが車体から一歩離れるのを横目に確認してから、シフトレバーを握る。少し大きくなったエンジン音に押されるように車を発進させれば、ルームミラーに映った少女の姿が、徐々に小さくなっていく。

アリサは今、俺の工房で働いている。本人曰く助手との事だが、調律作業に於いて彼女の力を借りることは基本的にないため、担当するのは専ら家事雑事だ。

平日は朝から夕刻まで俺の工房で過ごし、夕食の用意を終わらせた後に居宅へと帰る。土日はオーナーである元村と過ごし、工房へは来ない。

工房でのアルバイトは、アリサからの要望だ。自分を購入したことで借金を背負った元村を助けたいとのことだったが、おそらくそれが動機の全てではあるまい。少女はきっと、案じてくれているのだ。ロザの影を追い求め、東北の地を痴呆のように歩き彷徨う、諦めの悪い、間抜けのことを。

「馬鹿な奴だ

呟き、少し笑う。俺の声を聞く者はいない。恐らくは引きつって見えるであろうその顔を、嘲笑する者もいない。怒っているのかなどと、無礼な勘違いをされることもない。全くもって、有り難い限りだ。

アリサの心遣いは、嬉しく思う。心配してくれていることにも、その気持ちから、できるだけ俺の傍にいようとしてくれていることにも、感謝は絶えない。

だが、如何に案じられようとも、誰に止められようとも、この日々を終わらせることは決してできない。できるはずがない。俺はまだ、誰一人救えてはいないのだ。見つけなければ、呼び止めてその手を引かなければ、俺はまた、失うことになる。大切だった彼女を。生きるべきだったあの人を。たとえこの身が朽ちようとも、救わねばならなかった幼馴染の、その心を。

絶対に殺してなるものか。絶対に逝かせてなるものか。絶対に絶対に、二度も死なせてなるものか。

数度ハンドルを切り、国道へ出る。彼方まで続くこの道は、いつか少女と連れ立って向かったあの神社への通り道でもある。フロントガラスの向こうに見えるアスファルトに、何故か回顧させられる。美しくも儚かった、あの夜を。

溢れる人並みを潜り抜けるようにして、多くの屋台を回った。手を繫ぎ、腕を組み、昔日の夢に酔うた。簪を贈り、少女の涙に心揺らされ、それから、それからどうしただろう。もう半年も前のことだ。思い出そうとすればする程、記憶の奥底にしまわれた幼い頃の想い出を掘り起こそうとでもするかのような、そんな気持ちに誘われる。

少女はあきらだった。あきらは少女だった。苦しみ悶えながらも気高く生きた幼馴染は、少女に全てを託し、この世を去った。命の灯火が揺れて消え去るその瞬間まで、少女を想い、愚かな男を想っていた。そしてその想いは、鋼の身体をもつ少女の小さな胸に、今も大切にしまわれている。朽ちることなく、色褪せることなく、少女の胸の奥底に、いつまでも宿り続ける。

俺は思う。アリスは、心なのだと。人間の生活を助けるためのツールなどではなく、俺達調律師の飯の種などではなく、誰かが誰かを想い、何かを想い、そうして世に産み落とされる、心そのものなのだと。その美しい姿は、宿した心を輝かせるためにある。その鋼の身体は、宿した心を護りきるためにある。分かっている。これこそ妄言だ。だがそれでも、俺はそう思いたい。そう思いたいのだ。

灯火に彩られた少女の笑顔が、不意に虚空に浮かんだ気がした。俺の元を去った半年前、少女は一体どんな顔で、工房の門扉を潜ったのだろう。瞳に隠された高精度レンズに何を映し、やがてはどこへ辿りついたのだろう。オイルは足りたのだろうか。あの透き通った涙で頰を濡らしては、衆目を集めたりはしなかっただろうか。心配でならない。あの娘は俺と同じで、泣き虫だから。

とっとと見つけて、叱り飛ばしてやらなくてはならない。手を引き、抱き締め、心配したぞと、囁いてやらなくてはならない。そのために生きているのだ。そのために俺は、愚者の如くに、道化の如くに、今もこうして、生きているのだ。

少女を思う。その笑みを、その声を、その涙の雫の一片を、強く思う。

唇を嚙む。ゆっくりと息を吐き出す。少女の所作の一つ一つが、鮮明に脳裏に描き出される。何一つ欠けることなく。何一つ霞むことなく。僅か程にも、揺らぐことなく。

ハンドルを切る。目を凝らせば、曇天の向こうには鳶色とびいろの社。それは篝火の先に少女と仰いだ、いつかの叙景。

大きく息を吐き出し、足先の震えを必死に払い。

アクセルペダルを強く強く、踏みつけた。