うみねこのなく頃に 竜騎士07インタビュー

足かけ4年、ついに終わりを迎えた『うみねこのなく頃に』の旅。ラストエピソードとなる Episode 8 を発表直後の竜騎士07に迫る! 『うみねこ』は“何”を僕たちに残したのか?

2011年5月 都内にてインタビュー

竜騎士さん、まずラストエピソードのEP8まで『うみねこのなく頃に』を完走した“たった今”の気持ちをお聞かせください。

竜騎士 そうですね今しか書けないものを書けたのではないか、という達成感がありますね。同じものを書こうとしても、たぶんもう二度とは書けないだろうと。『うみねこ』は若さと無鉄砲さと経験が微妙なバランスで成り立った作品だったと思います。

僕は、EP8をプレイし終えて、己の不明を恥じました。竜騎士さんが作家としての「竜騎士07」をこれほどまでに厳しく追いつめていくとは思いもしなかったんですよ。僕は竜騎士さんの担当編集者として本当に情けない。まず、最初に謝罪をさせてください。

いえいえ(笑)。

EP8のエンディングを迎えて、「おまえは結局、竜騎士07を信じてなかったんじゃないの?」と自問したとき、僕はただうなだれるしかなかった。なぜ、竜騎士さんの「本気」を、最後の最後のEP8になるまで自分はわかってあげられなかったのか。というのは、僕はEP8では「猫箱」を「覗き込む」くらいのことは竜騎士さんはやってくれるだろうと予想していたんですよ。「猫箱」の「解体」は絶対にないだろうけれど、一方向からだけでも「猫箱」の中身を覗かせてくれるぐらいのことはやるでしょう、と。それが、頑ななまでに中身を見せないで、最後は海の底に「猫箱」を置いていくとなったところで「えっ!」って。

そうですね。ユーザーさんに答えを教えることは、簡単と言えば、すごく簡単なんです。ただ、『うみねこ』では、真剣に考察した人たちだけに「ああ、そういうことだったのか」と、言葉では説明できないような概念を感じてもらいたかったんですね。よくテレビ番組なんかで箱の中に得体の知れないものが入っていて、その中に手を突っ込んで手触りだけでそれがなにかを当てる、というクイズがあるじゃないですか。そんな感じで勇気を出して、実際に箱に手を突っ込んで触ってくれた人だけが本当のところをわかってくれる、みたいな感じそれが『うみねこ』なんです。箱を開けて「中身はこれでした」って明らかにしてしまうことは簡単だけれど、ただ、そうすれば、たぶん多くの人は「なあんだ」って気持ちになると思うんです。それに、「あとで箱を開けるんです」とわかっていたら、人はわざわざおっかない思いをして手を突っ込むようなことはしないんですよね。

バランスがね、難しいですね。

『ひぐらし』のときは、あえて箱を開けて「これが答えですよ」というのをぜんぶ見せたんですよ。しかし『うみねこ』の場合では本当に考え抜いた人だけがわかって、わからない人にはわからないという、真の意味でのゲーム性を追求してみたんです。ゲームというのは勝った人と負けた人で差が出なければゲームにならないじゃないですか。でも『ひぐらし』の場合は、考えて楽しむ作品ではあるのだけど、全く考えなくても真相に至るようにできていたわけですよ。しかし『うみねこ』は、至った人と至らなかった人で読後感に差が出るように作ってみたんです。私はそれこそがゲームなのではないか、と思ったんですよね。そういう意味では『うみねこ』は『ひぐらし』と比べるとだいぶ辛口になる。ファンタジー的な演出がある作品なので、一見、子供向けな作品に見えるんですけど、実は『ひぐらし』以上に大人向けに作った作品なのかもしれないです。

竜騎士さんはいつ頃からその決意を固めていたんですか? 「猫箱は絶対に開けないぜ!」みたいな決意を。

EP1や2くらいの頃は、まだ迷ってはいたんですよ。もちろん最初から落としどころを構想してはいるのですが、どこまでを見せるのかについては迷っていて、やはりEP4、前編が終わったあたりで本格的に筆の置き所を考えるようになりましたね。EP5・6・7あたりまではで二つくらいの案が頭のなかでぐるぐる回っていて

それでは、EP7までは迷っていたんですか?

EP7のギリギリまでは実はもう一つアイディアがあって、どちらで見せたほうがより心に残るか、かつ物語が終わったあとにも皆さんが引き続き考察を続けてくれるか、要するに「楽しむ余地を残せることができるか」ということを最後の最後まで考えて、EP8を書きながら最終的に一つの結末に絞ったということになります。

もう一つのアイデアのほうはもう少したとえば、触るだけではなくて、一瞬でも「猫箱」の中身が目で見えたりするようなものだったんでしょうか?

そうですね。もう少し確信的な、明け透けに言ってしまえば「これが答えですよ」というシンプルな、より答えに踏み込んだ内容が書いてあったかもしれないですね(笑)。

ハハハ。EP7とEP8は双子みたいな関係にあるので、この一年で最後の筆の置きどころを決めた、という感じだったんですね。

そうですね。あの島でなにがあったのか、ということは最初から全て決まっていることなんですよ。ただ、それをどこまで見せていくべきか? 私は、「愛ゆえに殺しました」と口で言うほど白々しいことはないと思うんですよ。言葉にならないところで察する。そんなギリギリのところを書きたかったんですよね。

EP8は、正にそんなギリギリの“生々しさ”を感じる手触りでしたよね。「竜騎士07はこういう作家なんだ」ということが手で触ってわかった、という感じ。まるで竜騎士07という作家の心臓をこの手で摑んだかのような

ですから『うみねこ』というのは文字以上に行間を読んでほしい作品、なのかもしれないですね。RPGでも隠された宝箱を頑張っていっぱい見つけた人のほうが、よりたくさんのアイテムを持っているのは当然じゃないですか。そういったスタンスがあったので、真相に至るヒントは、実はくどいくらいに多かったと思うんですよ。

“終わり”を決めるとき

ただ、「あ、ここで終わらせてしまうんだ」という戸惑いは皆さんのあいだには当然、あったと思います。

いや、それは正確に言うと、「ここで終わらせるという決断をできる人だったんだ」という驚きではないでしょうか。竜騎士さんの本来の読者のレベルは相当に高いと思いますよ。

お話の筆の置き所はいつも難しいと思っていて、私はどちらかというと「蛇足」なタイプなんですよね。適当なところで終わらせておけばいいものを、つい書き足しすぎてしまうタイプ。その私が「一歩手前で止めておく」というのは、私にとってはすごい挑戦だったんです。

たいへんに勇気のある挑戦だったと思います。『ファウスト』のインタビューで出てきた竜騎士さんの言葉で、EP3の名キャッチコピーにもなった「アンチミステリー×アンチファンタジー」という言葉を僕は直に伺っていたにもかかわらず、僕は竜騎士さんが本気でここまでアンチミステリー的なアプローチのエンディングを書かれることを信じていなかったくらいです。そもそも、アンチミステリーが好きな方って、本当に数が少ないんですよね。

言葉の定義自体も定まってないですからね。

小説の世界でいうと、僕の感触だと、きっと三千人くらいしかいないんですよ、アンチミステリーをちゃんと楽しめる素養のある人は。ミステリーが大好きで、それでいてミステリーのダメな部分もしっかりわかっている人じゃないと

私は、ミステリーって手品とよく似ていると思うんですよ。手品を「わあ、すごい!」って見せてもらうじゃないですか。でもその後に、「実は同じカードが何枚もあるんですよね」ってタネを見せられたら、「なるほど」と納得する比率が4だとしたら6くらいの割合で「なあんだ」となって、つまらない気持ちにならないですかね? 「今、すごいと思った摩訶不思議な気持ちを感動を返して!」っていう気持ちに(笑)。だから手品でいうと種明かしというのは本来は、無粋なことなんですよね。だから手品をミステリーとして楽しむ場合には、つまり「いや、あれは実はもう一枚カードがあって、引かせたふりをして引かせてないよ」と考察するところまでは楽しい。けれどそれを手品師に向かって「実はそういうトリックなんですよね!」と問い詰めて、手品師が結局タネを明かしてしまうというのは無粋の極みだと思うんです。ところがミステリーではいやいや、いやだなあ、これ以上敵を作るのは。ミステリーの人とはもうケンカしたくないんですよね(笑)。

えっ、本当にそうなんですか?(笑)。

ミステリーっていうのは、手品を見せてもらった後にタネ明かしまでマジシャンに要求する、不思議なジャンルなんです。手品では無粋なのに、ミステリーでは逆で、全部をみせろ、とお客が要求する。世界観としてね。だから手品の無粋さとミステリーの無粋さって真逆の関係なんです。私は手品では、驚かされたい、びっくりさせられたい、という気持ちがあって、それは推理小説に対しても同じで、たとえば「新本格」がそうであるように、「ありえない不可能犯罪」を私は見たいんですよね。「歩道橋から突き落とされて殺された」では、なにかつまらないですよね。

それは『ひぐらし』で提起された「起」が起こらない事件ですね。

そうです。それだったら「密室が五個あって、五個の部屋それぞれにバラバラにされた遺体が閉じこめられていて」というほうが読んでいて「ドキッ」っとするじゃないですか。現実性はないにしてもですよ。手品もそうで、ひとつの輪ゴムがふたつに増える手品よりは、美女が箱の中に閉じこめられてノコギリで切られる! というほうが「ワオー!」ってなる。「そんなバカな、きっとなにかトリックがあるはずなんだ!」という謎に挑みたい気持ちにもかかわらず種明かしをされたときのつまらなさ。私は推理小説の中で、名探偵が優れた推理を見せて答えを暴いていく過程の結果、「あなたが犯人です」って宣言した瞬間にはいつも、言い様のない「ああ、言っちゃった」っていう残念な感じを受けるんです。

僕はそこが、ミステリーが好きっていう人とアンチミステリーが好きっていう人との端的な違いだと感じますね。

推理小説が好きと言っている人には、二種類のタイプがあるんですよ。一つは本当に探偵と一緒に推理をして、自分なりに考察している「純粋な謎解きの人」。もう一つは実は謎解きなんて全くしていない、要は名探偵がいかにこの怪事件に挑むのかというのをただ見ているのがおもしろい人。つまりは「探偵の活躍が見たい、ヒーロー小説が読みたくて読んでいる人」。この二つのタイプが無自覚に混同されて、ミステリー好き、と呼ばれているんですよね。

それはよくわかりますね。後者の読者は、キャラクターとしての探偵だけを欲してしまう人ですよね。

そういう読者の方々は前者の読者みたいに自分では思考をしないんですよ。「わあー、ひどい事件だね。不可能犯罪だね! 我らが名探偵はこれにどう挑むんだろうね! わくわく!!」と、ただ観賞してしまっているだけなんですよね。もちろん、これもエンターテインメントとしてはアリなんですが、本来ミステリーが「作者と読者の一騎打ちだ」と言われてきたような、ノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則みたいにフェアに戦うための十戒、二十則なんてルールがあるミステリーの歴史を踏まえたら、探偵が謎を解くのを傍観するミステリーというのは「ミステリー風ヒーロー小説」でしかないのではないでしょうか。やだなあ、『ファウスト』でこんなこと言ったらまた叩かれるんだろうなあ。『ファウスト』を読んでいる方は厳しい人が多いから。でも、そんなに厳しい方々ならば私のこんな主張をわかってくださってもいいと思うんですが(笑)。

ハハハ、僕もそう思いますよ(笑)。ちょっと悲しい話ですけど、ミステリー小説を読んで、本当に推理を楽しんでいる人って、僕はいいとこ読者の一割くらいだと思いますよ。

そう。実際には相当に少ない。

ある程度以上、頭がよくないとやらないし、できないでしょう? 自分が頭がいいと勘違いしている頭の悪い人はいつも「後だしじゃんけん」しかやらないし。

本当に謎解きが好きな人は推理小説を読み終わった後に、「明智小五郎はこう推理したけど、この解釈でも犯行は可能だよね」とか「えー、その推理でこの人が犯人である可能性は潰せる?」みたいな話をするはずなんですね。これは別に作家を馬鹿にしているわけではなくって、そのミステリー小説をさらに楽しみ尽くしてやろう、という読者側からの努力ですよね。

あるいは、そういう瑕疵の部分があることはわかっているけれども「あ、作家さんはあえてこの筋を通したんだな」というところで納得して、ちゃんと小説を楽しめることができたりとか。

私は今回の『うみねこ』という作品を、その自分で謎を考えて挑戦しているタイプの人たちに対する挑戦状としてつくってみたんです。ところが、そうではないタイプのミステリー好きの人にとっては『うみねこ』はとても邪道な作品に見えると思います。「え? 答え合わせをしてくれないの?  探偵が全てを推理してくれないの?」 いやそんなことはない。ヱリカや戦人が出てきて、真相を分解するところまではやってくれているんですよね。

僕はミステリー小説の編集者の実感として、どのくらいの人数の読者がそういう部分を楽しんでいるかというのはなんとなくわかっているのですがやっぱり日本では三千人程度かな、と。

そんなものですか(さみしそうに)。

そんなものだと思います。しかし『うみねこ』は万単位でユーザーがいるわけです。だから、EP8のラストに関しては、やっぱりものすごいミスマッチが竜騎士さんと読者のあいだに起こったんだろうな、と想像できます。

だから『うみねこ』を理解できた人とできなかった人の違いは本当に明白ですね。中間はいないです。漠然と解っているようないないような灰色の人はほとんどいらっしゃらない。「わかんない」と言っている人々か「わかった」と言っている方々、この二例しか見たことがないですね。

うーん、竜騎士さんは、どうしても挑戦してみたかったんですね。

白と黒がはっきり出るようにしたかったんですね。考えても考えなくても全員が白に辿り着けてしまうようだったら、それは作品としてゲーム性がない。

それは『ひぐらし』の反省なんですか?

私の中では『ひぐらし』の“やや反省”です。『ひぐらし』も考えて楽しむ作品なんですけど、考えても考えなくても同じ解答に行き着いてしまうことが作者として不満だったんですよ。考えていなかった人から「この結末は読めていた」と言われたとき、「本当に考えて当った人の名誉を守る方法がないんだな」と思ってしまったんです。これはずいぶん前からお話していたことだと思うんですよね。ただ、その挑戦は非常に垣根の高いものでした。それは無謀で危険でリスクのある挑戦だったんだな、と。

まさにそうだと思います。

普通に出版社に担当編集を持っている作家だったら再考を求められるべき作品だったのではないかとも思います。

仮に『ひぐらし』が終わった時点で、もし僕が竜騎士さんに「今度こういうことをやろうと思っているんだけど」と聞かれたら、ちょっとだけ再考を促したかもしれないですね。「おもしろいですけど、結構、掛け金が大きいですよ」と。

うーん、たとえば言葉遣いでも、間違って利用されているほうがいつしか主流になってしまったものがありますよね。私はこんなことを言うとまたフルボッコにされるんだけど、ミステリーはややその匂いがあると思っています。そういう意味では、私は古典を堂々と書いたんですよ。しかし、私がそう言うと「竜騎士はいったいどの程度ミステリーを読んだんだ」「おまえの読んだミステリーを言ってみろ」って言われてしまう。

それはジャンル小説のマニアによくいらっしゃる、頭の悪い「お年寄り」たちの戯言ですよ。彼らはいつも事典主義なんです。僕はそういった人たちが「これは○○ではない」というものが好きなんです。応援したいんです。僕はそういうものにしかほとんど興味がなくって。たとえば『ファウスト』に載っているような小説の多くは純文学の人たちからは「これは文学ではない」、ライトノベルの人たちからは「ライトノベルではない」と言われるものなんですよ。

ヘビーノベルですね(笑)。

ハハハ。名前はともかく、純文学らしい純文学ではないのだけど、確実に純文学的なものがあり、ライトノベルらしいライトノベルではないのだけど、確実にライトノベル的なものがある。そんなギリギリの、両方から石を以て追われる危険なラインが僕はやっぱり好きなんです。そこだけを歩いていきたい。かといって僕は僕がマイナーなことをやっている、とは全然思っていなくて、むしろライトノベルよりライトノベル的なことをしっかりやってきたつもりだし、純文学よりも純文学的なことをしっかりやってきたという思いがあります。だから竜騎士さんが言った「古典を書いた」という想いはすごいわかる気がするんですよね。だって、古典っていうのはつまり、まだジャンルとしての前提ができる前のお話なわけじゃないですか。僕が思うに、「これは○○ではない」というものの積み重ねだけが結果的に「○○」の保守本流を作っていくんです。たとえばクリスティが最初に『そして誰もいなくなった』を書いたときに「これはミステリーではない!」と当時の事典主義者たちが口を揃えて言ったわけではないですか。

クリスティは今では「ミステリーの女王」ですけれどね。聖書の次に売れた本、とまで言われているんでしたっけ。

その彼女にしたって、最初は「これはミステリーではない!」と叩かれたことがあるわけなんですよ。「これはアンフェアだ」と。「こんなのはミステリーとして認めては駄目だ」と。でも今や『そして誰もいなくなった』はミステリーの古典中の古典になっているわけで。もちろん「これは○○ではない」と叩かれるようなチャレンジには成功不成功があると思います。でもそこでクリエイターがチャレンジすることに恐れを抱いたり、あるいは編集者がクリエイターのチャレンジを積極的に応援していかないのであったら、「○○」というジャンルは衰退していく一方になってしまうと思うんですよね。「○○」というジャンルをアプリオリに認めてしまうファンばかりになってしまったら、そのジャンルはエントロピー的には「死」に至るだけです。

そうですね。私にとって『うみねこ』という作品は「ミステリーというのは筆者と読者の対決!」という古典の原点に従って書いた作品なんですよね。二十世紀の初頭か十九世紀のイギリスで懸賞金付き推理小説があって、ただそれが意外に簡単な謎だったんで皆が正解してしまったらしくて(苦笑)、賞金で会社が破産してしまった、という話をどこかで読んだことがあるような気がします。これはクロスワードパズルみたいな筆者から読者への挑戦だったんですよね。『うみねこ』は、そういうシンプルなミステリーにしたかったんです。もしも『うみねこ』が斬新な新世代の、つまり理解不能で妙なジャンルに見える人がいたら、そうではないんです。ミステリーの最古典、もっともシンプルな、純粋に筆者がなぞなぞを出して読者がそれを解いて、解けた解けないを問う。なぞなぞとミステリーの境が曖昧だった頃の古典を私は書いたと思うんです。だから、『うみねこ』は近代ミステリーに対して造詣がある人にとっては、かえって理解の難しい作品だったんでしょうね。そういう意味ではミステリーに対して全く考えを持っていない若い方のほうが、「スッ」と読めたみたいですね。

まさにバック・トゥ・ザ・ベーシックだったわけですね。

私自身はそういうつもりなんですよ。そして私は常に、ミステリーというのはそういうものだと思っているんです。だから謎を先に明智小五郎に解かれてしまったら、ある意味自分の負けなんですよ。「あー、そういえば伏線はあったなあ、見過ごしていたなあ」と思わなければいけないんです。「明智小五郎はいつまで出張しているんだよ、早く帰ってきて謎を解けよ」と読者が言っているようでは、それはミステリーの本質として少しおかしいんですよね。それはただのヒーローショーにすぎないんです。

『ひぐらし』と『うみねこ』

僕は『ひぐらし』と『うみねこ』は両方ともすごく好きな作品なんですが、どちらが高度なことをやっているかというと、断然『うみねこ』だと思います。大好きです。

『うみねこ』のほうが挑戦としては難しいですね。ひぐらし』は「読み物」で、『うみねこ』は純粋に読者との「バトル」だったので。

竜騎士さんはこれからも色々なものを書いていくわけじゃないですか。『ひぐらし』はやっぱり処女作だからずーっと残ると思うんですけど、『うみねこ』は、たぶん、ベストワン作品になっていくような気がしています。

ご理解いただくのは相当長い時間が必要だとは思いますが(笑)。

「竜騎士さんはなかなか『うみねこ』を超えられないね」という感じで苦しむような作品を書いたのではないかと思っています。

そうですね。ですから次に書く作品は、しばらく「なく頃に」の世界から離れたいと思います。どうしても「なく頃に」のタイトルを出したら『ひぐらし』や『うみねこ』の影響がすぐに出てしまって、たとえどんな世界観にしたとしても皆さんが引きずられた見方をしてしまうと思ったことと、私も「なく頃に」というタイトルにはただならぬ思い入れがあるので、「少し冷却期間を空けたほうが良いな」と思いまして、しばらく「なく頃に」は筆を置こうかな、と考えています。その間に、『ひぐらし』や『うみねこ』に続く舞台をゆっくり考えればと。あと、単純に次の「なく頃に」のネタが思いつかないというのもありますけどね(苦笑)。

いやいや、実はもうすでに次のスープを仕込んでいるんじゃないですか?

やりたいことはあるんですけどね。ただ皆さんが『ひぐらし』や『うみねこ』という戦場をくぐって勘が良くなられてきているから、並大抵の品では見切られてしまう。

百戦錬磨ですからね。

それだけに楽しい。頼もしい。

ただ、きっと今は読者が二つに別れているんですよね。『ひぐらし』は大衆にも受けて、ゼロ年代の総決算的な作品だったと思うんです。だからこそこういうとあれだなまた色々と突っ込まれそうですが「竜騎士さんに選ばれていない読者の人」が増えてしまったと思うんですよ。

ハハハ(笑)。

竜騎士さんはカジュアル化する読者の危険性っていう地雷を踏んでしまった。それは成功してマジョリティになったからこその不可避の失敗なのですが

そうですね。『うみねこ』は『ひぐらし』と比べるとライトではない。誰でも気軽に読める作品ではないですね。「挑めよ!」という作品です。

「ライトな読者が増えたところで、ライトな人には全く合わない作品を出してしまった」ということです。逆ならわかるんですよ。『うみねこ』が最初の話でその後に『ひぐらし』という。

より大衆向けにしていく、という方向性。

それならばすごく良くわかるんですよ。最初はとてもコアなものを書いておいてから、「最近はカジュアルなファンも増えてきたから、ここで一発ドカンと当たるものを書こう」という、ね。これをあえて逆にした、というところが竜騎士さんらしい非凡さなんです。

『ひぐらし』はカジュアルな作品でしたが、しかしその中に一部尖った読者の方がいて、その尖った読者の方に挑戦してみたくなって私は『うみねこ』を作ったんですね。『うみねこ』は、プロットの段階から『ひぐらし』が十だとしたら、一から二しかいない層を狙って撃っていったそんな尖った作品を作れたのも、あの頃の私が、気力とモチベーションと若さがあったからでしょうね。『うみねこ』は私が『ひぐらし』を書ききって、高いご評価をいただいて、私の気力が充実していて、それでいて尖っているという状況下だからこそ作れた作品 です。

僕はこれからずっと竜騎士さんの作品をやり続けていくと思うのですが、果たして『うみねこ』を超えるような衝撃があるのだろうか、と思うくらいに『うみねこ』が好きなんですよね。

ありがとうございます。次の作品が「なく頃に」シリーズではない最大の理由は、私にとっては『うみねこ』という作品が『ひぐらし』以上の大きな壁だという自覚があるからです。

歴史の評価というのは必ずきちんと定まるので、たぶん今、この場で僕が話しているようなことが皆のコンセンサスになっていく気がしますけどね。

そうだと良いんですけどね。わからないですね。今はコンテンツが飽和している時代なので、次々とおもしろいコンテンツが現れますからね。

僕にとっては「クリエイターの身の振り方」とう問題において、こういうふうに身を振れる人がいたんだということがとても新鮮だったんですね。僕が好きなのは「自分の秤を壊してくれる人」。編集者っていやなもので、付き合っている作家さんや読んでいる作品に対して「きっとこのくらいでしょう」という目分量を付けて付き合ったり読んだりしてしまうんです(苦笑)。で、僭越ですが、その読みは大概は正しいんですよ。ところが『うみねこ』は最後の最後のところで、まさに秤がひっくり返っちゃったんです。それはまさに僕の人生に確実に残る衝撃だった。

ありがとうございます。そこまで読んでもらえたならば、何も言うことはございません。

ただやっぱり、読者のカジュアル化という危険な地雷があったのは事実だろうな、という気はしますね。

今、私の代表作は『ひぐらし』と『うみねこ』の二つしかないわけで、角度が二つしかないから、こっちが的の真ん中に当たったらこっちは逸れた、みたいなことがあるかもしれない。だけど私はこれからも筆を止めることなく書いていきますし、今から十年二十年経ってから見てもらえば、竜騎士というのは色々な方向性の作品を持っているんだな、という楽しみ方をしてもらえるようになると思います。私が常に脅えているのが「竜騎士というのはこういう作品が得意な作家なんでしょう?」と事前に読者に思われてしまうことで、それは私が相方のBTさんといつも「カレー屋理論」と言って話していたことなんですよ。

カレー屋理論?

カレー屋と書いてある店には、皆カレーを食べにくる。なのにそこのお勧めが冷やし中華だったら、お客さんは果たして喜ぶのだろうか、と。でもそこがカレー屋じゃなくって、大衆食堂のようなお店で今日のお勧めは冷やし中華、と言われたら、「ああ、もう冷やし中華の季節なんだ」と思って喜んで食べると思うんですよ。だから私は『ひぐらし』を書いている頃は、「作家としての色を狭く思われたくないな、カレー屋さんにはなりたくないな」と常々思っていたんですよ。

ああ、とくに後半の展開はそうですよね。

そうなんです。『ひぐらし』というのは「○○編」ごとに空気感が違う。アクションものにしてみたり、ホラー寄りにしてみたり、ミステリー用にしてみたりと、毎話ごとに気をつかったんですよ。

わかります。

『うみねこ』は全話通じてのテーマが「アンチミステリー対アンチファンタジー」と決まっていたのですが、本当はもっとコンスタントに色々な角度のものを出していって「竜騎士の今日のお勧めはこれでございます」「へえ、こんなものも出てくるんだ」と読者に思われるのがベターなんですよ。

わかります。『ひぐらし』の後半の部分はちょっと貴志祐介さんのアプローチに似ていますよ。貴志さんはミステリーをやってみたり、大スペクタクルをやってみたり、ホラーをやってみたりというところがあって。ああ、「竜騎士さん=貴志さん」というのは面白い論なのかもしれないなあ。

そんな感じで「次は何かな」という楽しみがああ、宮崎駿監督なんかがそうですよね。冒険ものを出してみたりとか、子供の童話向け作品を出してみたりとか、一方で『ナウシカ』のようなハードSFもあったりするわけで。

でもそれをぜんぶ合わせて「宮崎駿」なんですよね。

そう、全部合わせて「宮崎ワールド」なんですよ。ところが『ラピュタ』と『ナウシカ』しか見ていない人が『トトロ』を見たら「えっ」と思ってしまう。でも「宮崎ワールド」があると知っている人が『トトロ』を見たら「これもまた宮崎駿の引き出しの中の一つなんだな」と思う。私の場合はまだまだ、宮崎監督に例えるのは失礼なのですが、やっと『ナウシカ』と『ラピュタ』を出したところで止まっているんですよ。だからもっともっと色々な作品を出していって、もっと色々な引き出しを見せていきたい。そうすることで「ああ、『うみねこ』というのは「竜騎士ワールド」の中のこっち側に尖った作品なんだな」と思っていただける感じにいけたら良いな、と思っています。

これからはそういう感じで行く、と。

現在は短編を書いていますけれども、それは今度は「短編」という新しい挑戦をしたいと思っているからですね。

すでに相当に大きな読者を竜騎士さんは持たれているわけですが、それに振り回されないというのはクリエイターとしてすごく正しい態度だなという気がします。

CLAMPの大川先生に聞かせてもらった「前の作品の読者は、別れてしまった恋人だと思え、思い出は大事だけれど、新しい彼女、つまり新しい作品のファンに全力を尽くせ」という話ファンを大事にしつつも、ファンを大事にしすぎるあまり、新しい作品への冒険心が削がれてはならないんです。

超一流である人って皆同じことを言うんです。僕はマイルス・デイヴィスが好きなのですが、彼も同じことを言っています、「オレはいつまでも『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を演っているわけにはいかない」と。「皆が昔みたいにバラードを吹いてくれ、というけれど、もう自分はそこにはいない。バラードを期待するやつらが自分が今いるところまで来るのを待っていたら、オレの一生があっというまに終わってしまう」、と。編集者だってそうなんですよ。太田の活動で「〜が好き」「こういうときの太田は良かった」という声は読者の側にやっぱりあるし、「ずっとそれをやってくれれば良いのに」という声も、もちろんある。

ハハハ。熱心なファンはどうしてもそういうふうになってしまうんですよ。自分のファンを大事にするということはモチベーションを維持するのに役立つことなのですが、今あるファンを大事にするあまりに未来のファンに立ち向かう冒険心を失ってしまうというのも、クリエイターとしてはもったいないな、と思います。

僕も、今、ものを作ったり受け取ったりする人の環境が劇的に変わっているわけだから、編集の環境も変えていかなければいけないだろう、と思っています。この『ファウスト』にピリオドを打つことを決意したのも、これだけデジタル・デバイスが世の中に氾濫している時代に今日ここに来る電車の中でも、本を読んでいる人というのは一車両につき一人くらいなんですよ。あとの皆は電波も通じないのに携帯を見ていたりとか。

ハハハ。そういう時代ですよね。

そういう時代になったと思ったときに、やはり編集のフィールドを電子のほうへグッと変えていかないとおもしろいことができないな、という判断がある。だから星海社を始めている。

色々なことを挑戦していきたいですね。私の場合、自分の内面世界を発表するにはノベルゲームが一番性に合っているけれど、本当はそれにさえ固執しないほうがいいのかもしれない。今、私は格闘ゲームなんかを作ったりもしていますが、それも私の中の内面世界をどうやったら出していけるのかという挑戦の一つでしたね。だから本当はもっと映画だの漫画だの色々と挑戦したい気持ちはあるのですが、それは結構大変ですからね

いやいや、ガンガンやりましょうよ!

百万対一の頭脳戦

さて、今回の『うみねこ』は、竜騎士さんとKEIYAさんとのお話で出てきてとても良い言葉だと思ったのですが「インターネット時代の連載推理小説」という可能性に、より大きく踏み込んだ試みだったと思います。今、世界中で一番、「インターネット時代の連載推理小説」しているのは竜騎士さんですよ。他の人はやっていないですからね。

たぶん、あったとしてもそれは読切でしかないんです。

それに、残念なことだけれど世にある小説雑誌はまず多くの読者に読まれてはいないので(苦笑)、そこで「連載をしています」と言ったところで、それは単に連続して載っている小説というだけのことであって、連載推理小説にはなっていない。そんな世界の中で、ただ一人竜騎士さんだけが連載で推理小説の世界に挑戦しているように僕には思えます。『ひぐらし』のときもそうでしたが、今回の『うみねこ』はまさに王道の推理小説、探偵小説じゃないですか。どんなおもしろさと困難さがありましたか?

「インターネット時代の連載推理小説」は著者と読者が一対一でする対決ではないじゃないですか。ありとあらゆる専門知識を持った読者がそれぞれに意見を出し合って、それを共有し合って著者が投げかけた謎に挑んでくる、集合知の世界なんです。昔のミステリーは、ある専門知識がなければ解けない、というトリックが多かったと思います。たとえば「水は氷の状態では木材よりも頑丈になり、車さえ通れるようになる! なんだって!? 水を凍らせて車が通れるようになるなんて!!」というトリックがあったとする。昔ならばそれは通用したんですよ。ところが現代では、そんなトリックを出したところで北国出身の方が「いや、普通に通れるよ。俺たちのところでは普通だよ」とネットで書いたら「あ、そうなんだ。氷で渡ったんだ。氷、氷」と一瞬で読者に情報が共有されてしまう。

紙の世界しか知らない人たちは「ベストセラー作家の小説は百万部売れているんだから、百万人の人間が推理をしているではないか」と突っ込んでくると思うんですけども、それらは、一対一の関係性の繰り返しなだけなんですよね。一対一の勝負を百万回繰り返してやっているだけ。

読切ならば、彼ら読者は連携しないんです。ネットではない紙媒体で読切の作品ならば。ところがネット媒体で連載だと百万人が連携してやってくる。これは恐ろしい(笑)。かつてなら電車のダイヤを使ったトリックを使ったとき、電車のダイヤをご存知ない人ならば「ああ、こんな盲点があったんだ!」と感動してくれると思うんですが、今それをネットで連載するとなると、あっさりと時刻表にリンクを貼られて、「ここに載っている、これでしょう?」って指摘されて、たぶんスレがいくつも伸びないうちに「終了」。「ニュー速探偵部すごいな、もう特定したのかー」そんな感じで終わってしまうと思います(笑)。となると、あとはロジックで戦うしかない。しかしロジックで戦うにしても大勢の人が提出してくる無数の仮説と戦わねばならないから大変です。たとえば『うみねこ』の中では台湾の地名を知らなければ解けない謎があったんですが、私、あの謎が解かれてしまった瞬間に、ダイレクトに2ちゃんねるを見ていたんですよ。「俺、台湾に留学しているんだけど、○○っていう地名があるんだぜ」という書き込みがあって「ひゃー、ついにバレたか!」と。

ドキドキですね!! あのときは台湾と金蔵の関係が明らかになった後でしたっけ?

いえ、まだ伏線しか出ていなかった。作中には台湾という文字さえ出ていなかった。どうも金蔵は戦時中にここではないどこかに住んでいて、というところ。

その段階で台湾、というのがわかるのはすごいですね。

「やられた!」と思いました。なぜなら、例の台湾の地名は日本語の常用漢字ではないんですね。なので軽くググっても出ない。それが実は私の中での最大の仕掛け、というか謎だったですよ。

なるほど! グーグル先生の無力化を狙ったわけですね(笑)!

そう、日本語でググっても調べられない、これがポイントだったんです。しかも日本人は台湾のレアな地名は知らないだろう、と嵩をくくっていたら台湾に留学していた人が暴いてきた。これは「やられた!」と。

ネット時代ならではの現象ですね。

ただ、「やられた!」と思う反面、正解者がいなかったらクイズとして成立しないのだから、これは「やられた!」というよりも「お見事! よくこんなことを知っていたね」とも感じましたね。

あの後、僕がすごくおもしろいなと思ったのが、正解が出たのにもかかわらず、その正解が他の推理に埋もれていったことです。読者が連携したことによって、せっかくの正解がその連携で潰されていくというおもしろさ

もっともらしい間違った推理が、正しい答えを駆逐してしまう恐れがネット時代には常にあるんです。ただ、誰も正解できないよりは、正解者が少しでもいてくれた方が、私としては嬉しい。『笑っていいとも』で一〇〇分の一を出すアンケートって知ってます? ゲストのお客さんが一〇〇人いて、全員にアンケートを出すんですね。たとえば「今日の朝、カレーを食べた人」と伝えて、会場の一〇〇人がスイッチを押すんですよ。それで一人だけがスイッチを押してくれたら勝ち。だから一〇〇人の中に一人しかいない質問を考えなければならないんです。

難しいですね。そんなのあるんだ。

下手に難解な質問を考えると0人になってしまうんですよ。「今日ここに来るまでに告白された人」なんて言われても、たいていは0人なんですよね。かと言って「今日の朝食がサンドイッチだった人」と言ってしまうと十人くらいになってしまうんです。推理小説の落とし所というのは、まさにこれと同じで一人しかいないように狙いたい。あんまり多いと駄目。0人だとこれはこれで駄目なんですよ。そういう意味ではこの台湾の地名の謎はかなりうまくいったと思いますね。

竜騎士さんは読者がどの程度まで理解をしているのだろう、というところはどうやって考えてどのあたりのレベルに物語を設定しようとしているのですか?

それこそまさにインターネットで色々な人の感想を読んで、どんなふうに理解しているかを調べますね。EP1が終わったときはこういう推理が多かった、とか。公式サイトで「誰が犯人でしょうか?」とアンケートを取ったという事例もありますね。インターネット時代だからこそ、読者のレベルを見極めやすかった、難易度調整をしやすかった、というのは間違いなくありますね。雑誌のアンケートよりも生きた意見が聞けたと思います。雑誌のアンケートだと、送ってきてくれる人たちというのは、どうしても熱心な方々だけになるので。

ネット時代にはネットリテラシーが書き手側にも必要になってくるということですね。

その通りです。だからネット時代の連載推理というのは、本当に愉しいし、難しい。紙の世界の推理小説だって、携帯電話の登場で大きくトリックを変えたと思うんですよ。

密室に閉じこめられてどうしよう、となったときには、今ならば脱出方法をググれてしまいます。なんなら、発言小町で質問したっていい(笑)。

そうなんですよね。2ちゃんねるなら、「ちょ、オマエら部屋から出られなくなったわけだが」とスレを立ててしまったりね(笑)。

ネット社会の集合知

竜騎士さんは間違いなく新しい時代の書き手なんです。世界史に名前が残ってもおかしくないくらいの。わかる人にはわかると思うけれど、こんなに最前線なことをしている人は誰もいないんですよ。いずれ、紙の、ブックというハードの中だけで物語が生産され再生されるという時代から世界はどんどん離れていって、より『ひぐらし』『うみねこ』的な世界の中で物語を紡いでいかない世界に必ずなっていく。「その最初が誰だったの?」となったときに「竜騎士07」以外には誰もいないんです。僕はだから竜騎士さんに全額を賭けているんですよ。

ありがとうございます(笑)。仰るとおり、読み物とインターネットの融合というのはまだそれほど進んでいないですよね。あっても、それはたんに書籍を電子化しただけで、インターネットで読んでもらうことを前提とした読み物というのは、まだそんなに見ないですよね。

ノベルゲームはあるけれども、やっぱり作者と読者が一対一の関係から大きく外れているものではないんです。どうしても小説的なんですよね。

スタンドアローンで完結してしまっては、読み手がネット上で議論する余地がないですからね。また、読切の作品だと、その作品の中に答えがきちんと含まれてしまっているので、コミニュティの中には既に答えが溢れている。その結果、「○○の過去には何があったんだろう?」と疑問に思ったところで、「最後まで読め。バカ」になってしまって、議論にならない

あるいは「ググれ、カス」って感じ。それだと、暗記上手の事典主義者には敵わない。

となると「良かったねー」とか「萌えました」みたいな、ファンサイトによくある感想以上の議論が出づらくなってしまう。だからネット社会で集合知と戦いたい、ネットの世界と真正面から向かい合ったものを書きたいとなったとき、インターネットで連載する作品に挑戦する以外の選択肢はありえないんですよ。

うーん、残念だけど、今の星海社の『最前線』はそこまでは来てはいないな。やっぱり竜騎士さんと一緒に、全力で何かをやりたいです!

新しい“読者”の誕生

さて、今回のインタビューで確信したのですが、竜騎士さんは確実に新しい時代の読み手を作っていると思います。

新しい時代の読者かどうかはわかりませんが、「皆で議論してみて。自分にない意見を人が持っているかもしれないから議論してごらん、あなたの意見も恥ずかしがらずに言ってごらん、思わぬ着想があってみんなから褒められるかもしれないよ」という読者を『ひぐらし』と『うみねこ』二作で八年かけて育ててきたとは言えると思います。

そう。すごいことなんですよ、それは。

普通は読み物を読んだら、ただの感想で終わってしまって、「おもしろかった」「つまらなかった」の採点大会か、さもなくばキャラ萌え的なファンコミニュティしかできないと思うんです。私の作品では、それだけではなくて、ネット上で議論してゲームを楽しんで欲しいということを八年かけてやってきたので、正直、私の作品の楽しみ方を身に付けた読者というのは他のメディアに行っても、手強く、楽しみ方を心得たすごく上質ななんでしょう、ものを送る人のことを総じてクリエイターと呼ぶけれど、ものを受け取る人のことはなんと呼べばいいんでしょうね? 読者と言うと本に限ってしまうし、プレイヤーというとゲームに限ってしまう。クリエイターの対義語ってないのですかね?

まさにそういう新しい時代を生きていく人を、竜騎士さんは今、つくっていると思いますよ。優秀なそういう人たちあえて今はプレイヤーと呼びますが、優秀なプレイヤーは優秀なクリエイターの予備軍だと思うんですよね。

そのとおりですね。優れた受け手の人たちがどういう人たちかというと、ものの楽しみ方を知っている人なんですね。推理小説を読み終わったあとに「他の方法でも犯行は可能なのではないか?」と、つまり作者が想定していない方法でまで率先して楽しみはじめる人たち。私が一番つまらないと思うのは、奴隷化された読者なんです。与えられた楽しみを与えられたとおりに遊んで与えられたとおりに退場する人。私はもっと色々遊んでみよう、創意工夫してみようという読者と戦ってみたい。たとえば積み木がそうではないですか。積み木はただあるだけでは、何もゲーム性がない。そこで城を作ってみようとか、全部のパーツを使って立方体に整えてみようとアイデアを出すから、愉しく遊べるわけではないですか。

竜騎士さんの読者の少なくとも一部は、作り手たる竜騎士さんにまでガンガン影響を与えるところまで来ているんですよね。そこがやはりすごいな、と。最初の話にまた戻ってしまうんですけど、竜騎士さんがああいう決断をEP8でなさったというのは、きっと竜騎士さん一人だけの決断だと、さすがにこれはできないと思うんですよ。やはり、少ないかもしれないけれど、竜騎士さんのやることを心底からわかってくれている読者に対する愛とか信頼がないと、やっぱりEP8は書けなかったと思います。

EP8に来るまでの四年間についてこれている読者は確かにいた。その人たちは納得してもらえる点に来たと。私は読者の「咀嚼力」、「顎の力」を信じなければ、あれだけ歯応えのある作品は作れなかったですね。もしも読者を見下していたら、ぐちゃぐちゃに崩しておかゆにしていたでしょうね。

そこで竜騎士さんは読者を裏切らなかったんですよね。一部の読者も竜騎士さんを裏切らなかった。

私は、『うみねこ』という作品の歯応えを理解している読者を理解できたんです。私の読者に対する信頼こそがあの終り方なんですよね。もしも私が「答えはこれです」と明白に書いていたら、私が読者を信頼していなかった証なんですよ。「どうせ答えに至れなかったでしょ? だから答えを書いたよ」と言っているのも同然です。多くの方が、答えを明かさないミステリーはミステリーではない、という考え方をしているようですが、私からしてみればそれは逆なのです。読者の方は必ず理解できたはずだ、と。私が「私の読者は手強い読者だ」と信頼しているからこそ、この歯応えでいけるのですよ。

よくネットでは竜騎士さんが、クリエイターの独りよがりでオナニー的にああいうことをしたのではないか、と書かれていて、それは僕は違うのではないかとずっと思っていたのですが、今日、インタビューしていて納得できました。

私の作品を親しんでくれた、顎の力の鍛えられたクリエイターの対義語たる受け手はすばらしい楽しみ方をしている、すなわちどんな食材も嚙み砕ける、舌の力の肥えた受け手だと思いますので、彼らはこれからも色々なジャンルで、色々な食材や素材を楽しんでくれると信じています。

正に新しい時代の読み手ですね。その中から、新しい時代のクリエイターが、僕はそろそろ竜騎士さんに影響されて出てくると思いますよ。もしかしたらそれは演劇であったり絵描きであったりするかも知れないけれど、インターネット時代の○○、というムーブメントを始める人たちがきっと出てくると思います。そこが竜騎士07というクリエイターがこの八年間かけてやってきたことの中で最大の収穫ではないかと思いますね。

そういう意味では、この八年間、私は本当に素晴らしい読者に出会えたと思うし、皆さんがすごい信頼できる読者に成長してくれたというのもおこがましい言い方ですが、成長してくれたと確信しています。

“女性”について

そうそう、今、僕がすごくやりたいなと思っていることの一つに、演劇があるんですよ。劇団をやろうと。星海社で。

へえー!?

一人、すごく才能のある女の子見つけたんです。彼女、今、十八歳なんですよ。その子の最新作には、それこそ『ひぐらし』っぽいものがあって。脚本の最終バージョンの最後に「解」と書いてあるから「この「解」って何?」と聞いたら「『ひぐらし』的な、ファイナルバージョンということで付けました」と。ああ、そういう感覚の人なんだなと。聞いてみたら小学生の頃に『クビキリサイクル』を読んでいて、『ファウスト』も本屋で立ち読みをしていたらしいんですよ。

ハードな小学生ですね(笑)。

それがもう十八歳になってしまうんだ、と。その時思ったんですよ。『ひぐらし』や『うみねこ』の読者は、それこそテレビをも巻き込んで大きな読者をつくってきたので、そこからきっと新しい何か出てくると思うし、出てこさせたいですよね。

私の作品に影響を受けた方々は、多くの人が作品のホラー的なエンターテインメントの側面を参考にする方もいるのですが、せっかくならば、歯応えのある、読んで議論を楽しみたくなる余地のある作品がいいですよね。私は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』という映画が今、上陸してくれたら私の読者は大いに楽しんでくれるのではないかと思いますね。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が日本に輸入されたときには、そういうものを楽しめる咀嚼力のある人間が日本にはなかなかいなかった。だから「何、この映画。よくわからない」となってしまった。

竜騎士さんが『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような映画を撮ればいいんですよ!

いやいやいや(笑)、難しい。どうしても三番煎じになってしまうでしょう。

僕も去年実際に行ってみたんですけど、今流行りの「脱出ゲーム」みたいなものの盛り上がりなんかも、新しい読者というのか、なんというか、名称が出てこないんですけど、その出現を予感しますね。

作品を見ているだけでなくて、見ながら一緒に考える作品、デスゲーム系の作品なんかでも、登場人物達の知恵に感嘆しつつも、「でも、最初からこうしていれば、誰も死ななかったのではないか?」ということなどを同時に考えているのもおもしろいですよね。

そういう仕掛けが出てくるクリエイターは、今までは竜騎士さんぐらいだったのですが、これからはどんどん出てきて欲しいし、出てくるのではないかと思います。

とりあえず「なく頃に」シリーズの楽しみ方を覚えたファンたちが他のコンテンツなんでもいいです、映画でも漫画でもそういうものをより深く楽しんでくれれば、日本のコンテンツの未来は必ずやおもしろくなるのではないか、と期待しています。本当はコンテンツというものは皆おもしろいものなんですよ。おもしろいかつまらないかは送り手の問題ではなく、受け手の問題なんです。私は常にそう思っています。ただ、クリエイターの立場でそれを言ってしまうと、なぜかフルボッコにされるという不思議な習慣が日本にはありまして

京極(夏彦)さんも竜騎士さんと同じことを仰っていますよ。「おもしろくない小説などない」と。僕も、それが作品として書かれている以上、少なくとも書いている本人はおもしろいと思っているから書いているわけでしょう。だから「世の中にはつまらない小説は、実は一本もないんだ」と思っていますね。

「この作品のおもしろさはいったいなんなんだ」と探せるようになったら、苦手だったピーマンもナスもおいしく食べられるようになって、やっとキッズタウンを卒業できるようになるんですよ。あー、過激なことばかり言ってるなあ。カットしまくろう!(笑)。

さて、『うみねこ』のテーマ一言で言うとこんなにまで「愛」について真正面から四年間かけて竜騎士さんが書き続けてきたんだ、ということにEP8で改めて気がつきました。愛って、家族愛であったり、友愛であったり、男女の関係であったり色々あるんですけど、『うみねこ』はその愛という不可解なものについて四年間かけて色々な切り口で書いてきた作品なんだな、と。「赤字」や「青字」、「黄金の文字」EP1からEP8までの色々な仕掛けのすべてがただ愛のために奉仕された作品だった、と思いました。

前のインタビューで『里見八犬伝』を例に挙げたのですが、あの中には「愛」が入っていない、と後から聞いて「あーっ!」と思ってしまって、「間違えた!」と(苦笑)。

そうだったんですか!(笑)。愛はキリスト教的な概念だから、八犬伝には存在しなかったんですね。

そう、『うみねこ』は恋ではなくて愛の話なんです。

なんでそうなったんですか?

「動機をテーマに犯人の心を探って欲しかった、犯人の心を考えて欲しかった」というテーマを描くにあたって、その心の中の一つの形態として愛があって、「心を理解しないと動機を察することができない」という作品に『うみねこ』をしたかったんですよ。だから読者の方が今までどれだけ真剣に恋愛のことを考えてきたか、ということがそのまま犯人の心境・心情を理解できるか否かに直結してしまうと思います。だから有り体に言ってしまうと、この作品は圧倒的に女性の方が真相に辿り着いた確率が高いですね。ほとんどが女性じゃないかな。男性で辿り着いた人はKEIYAさんを含めて非常に稀ですね。いや、KEIYAさんの場合は「理詰めで愛を分解した」に近いかな。

ハハハ。

「KEIYAさんが愛を知らない」って言っているわけではないですよ(笑)。KEIYAさんは考察に考察を重ねて新たに愛を理解した、みたいな深いレベルですね。

KEIYA さんの場合はこれだけ理解不能なものはもう愛として名付けるしかない、と理解するみたいな感じですかね。

愛についてどれだけ深く考えているか、いないか。憧れでもいいんです。どれだけ正面から受け止めてきたか。それが問題なんです。

こんな愛をしたいな、というような想いでもいいんですか?

そう。だから謎を推理するにあたって愛という考えがなくて、単なる理詰めで、単純に勧善懲悪、損得関係だけでものを考えたらとても『うみねこ』は理解できないと思います。

竜騎士さんが「『ひぐらし』『うみねこ』というのは、推理をした文字数のぶんだけ楽しめる」と仰っていましたが、愛について考えた時間の数だけ真相がわかる作品になっているような気がしますね。

そうなんですよ! 人を恋するという気持ちはいつも一方通行なんですよ。逆に、人を愛する気持ちというのは、自分がそうだから相手もそうであって欲しいという恋が片道の矢印「→」だとすると、愛というのは双方に向いている矢印「⇔」なんです。その人と一緒にいたい、添い遂げたい、という気持ちごめんなさい、私もうまく言葉には表せないので今の発言は無しにしてくれてもいいです。とにかく愛についてどれだけしっかり考えたかを大事にしたかった。うーん、恥ずかしいな(笑)。

いいじゃないですか(笑)。

犯人の動機さえ理解できれば、犯人がどういう考えに基づいて何をしたのか、ということが解るので、あとは芋づる式にトリックだの何だの、というところは想像がついてくる。逆に犯人が特定できない人はトリックも全く想像できないでしょうし。トリックなんて私は大して難しいことしてないですからね。

過去の作品から出てくるものの掛け合わせ、と。

そう、超有名作品に出てくる、もう古典も古典、何十年も前のレベルのトリックを掛け合わせてやっているだけなので。斬新なトリックは全く出てきません。ただ、犯人の動機についてだけはしっかり考えないと駄目ですね。動機さえ解れば、犯人が特定できる。KEIYAさんの凄いところは、それを全部理詰めで分解して考えたことで、あれはお見事、と言うしかないですね。男性的ですよね。文字で書いて理詰めで理解すると、いうのは。

女性は肌感覚で理解できる、という感じなのですか?

女性は文字では説明できない、抽象的な感覚、男に無い感覚で理解するんです。そういう人たちにとってはこの物語はふわっと理解できるんけど言葉で説明できない、でも私はわかっているよ、という考えになるんでしょう。男は五感しかないけれど、女は六感があるんじゃないかな。

ベアトリーチェが最後で海の中に沈むことを選ぶではないですか。あれも女性のほうがよくわかるわけですか?

私が今まで見てきた感想からは、明らかに、真相に至ったなと私が思った感想文のほとんどは女性ですね。女性にだけわかるように書いたつもりはないのですが、こうして物語を終えて、考えてみたら「女性のほうが愛というものに対して深く考えているんだな」と感じました。

僕はどうしても男の目線で読んでしまうから、あそこはちょっとだけ納得いかなかったんですよね。すごく綺麗なラストシーンなのだけれど「何で一緒についてきてくれないの?」と。

どうしても男は損得関係になってしまいますからね(笑)。

僕としてはベアトリーチェにはついてきて欲しい。ついてきてくれるはずではないですか。あそこまで戦人が筋を通しているのだから。ベアトリーチェのほうからすると、自分の罪を許せる相手は許せない、というところがあったんですかね?

うーん。答えになってしまうのであまり言いたくないのだけど、「ベアトリーチェと戦人が添い遂げられてしまう」というのは「紗音と譲治、朱志香と嘉音が添い遂げられない」ということを確定させることでもあるんですよね。三組の恋がそれぞれ成就されるためには、実は誰も成就してはいけないんですよね。

なるほど!

だからベアトリーチェは戦人が「島を出ようぜ」と連れ出してくれた時点で彼女の戦人に対する想いは、一つ成就を迎えたのですよ。魂の絆を迎えたわけですよ。ただ、男はそのときに「死ぬまで一緒にいようね」と求めてしまう。

わかります。

でも女性的な立場から言うと「一緒にいようね」という約束をもらえただけで彼女の魂はゴールを迎えたわけですよ。

悲しいなあ。それ以上やってしまうとということですよね。

実際に島から出ていって「添い遂げられました」という事実が確定するとベアトリーチェの中では残り二組の恋愛を否定することにつながってしまう。残り二組も幸せでいるためにはベアトという猫箱は伏せたまま、閉められたままでなければならないんですよ。でもそのまま戦人に島から連れ出されたら猫箱が開いてしまううーん、ここはお茶を濁したいな。

ゲラで直してください(笑)。

太田さんと二人で話しているただの雑談であったら話せるんですけど、こういうことを本当は活字に残したくないんですよね。

わかります。でもおかげで、深いレベルで理解ができたような気がします。島からは絶対に出れないんですよね、彼女の想いが、愛がある以上は。

戦人が「島から出ようぜ」と船に連れ出してくれた時点で、ベアトの中ではもうゴールしているのですよ。

ベアトリーチェというのはやはり六軒島だけで生きられる魔女なんですね。他では魔力が発現できない。最後のキスシーンが彼女の最後の魔法だったのですね。

そう、やはりそういうことなんですよね。あの時点で愛はもう完成されたのですよ。だからベアトリーチェは「ああ、ベアトリーチェという人は戦人と添い遂げることができた」と覚醒できた。だからそこでもう充分。そしてそれ以上先は開けてはいけない猫箱を開いてしまうことになりかねないので、美しい思い出のまま、フェードアウトしたほうがよかったんですよ。

あのシーンは竜騎士さんが今まで書いてきたあらゆるシーンの中でも最も美しいシーンの一つだったと思っています。

そこで「ベアトリーチェがどうして海に飛び込んだのか」というのがわかるかわからないかで、あのシーンに感じる印象は全く変わってきます。そういう意味ではあのシーンの意味がわからない方は、きっと『うみねこ』という物語がわからなかったと思います。

僕は男だからあそこはやはりわかりたくないんですよ。彼女の気持ちがわかるがゆえにわかりたくない。その想いもまとめて飲み込んで黙って俺についてきてほしかった。

男はどうしても気質的なんですよね。男は「魂が結ばれたんだから身体はいらない」と納得できないのですよ。

納得できないですね(笑)。

男は子孫を残す為に生きるので、女性の身体・肉体がないと困る。だけど女性にとっては肉体は魂の付属物でしかないんで、魂が結ばれれば、究極的には肉体が離れ離れになっても、お互いが結ばれたのだから良いではないか、と思っています。それはただ私が女性を神格化しすぎているのかもしれないけど、あの世界の価値観ではそうなっている。戦人にそれが理解できたかできなかったかはわからない。その結果、戦人は海に飛び込んだ。数年後、海から引き上げられたら彼は記憶を失って八城十八になった。彼の身体は戦人だったけど心は抜けていた、というあたりにいかにベアトリーチェが魂の結びつきを大事にしたか、ということが物語られているのかもしれない。彼が自身のことを戦人と認めないことが、ベアトリーチェに向けた手向けなのかもしれないですし。そこは読者に考察して欲しいところなのですよ、私が言うところではないし、私が言ったことがファイナルアンサーだとも思って欲しくない。

答えは「生き方」が問われるんですね。読み手の。

そうなんです。

となると、どれも正解だと思うんです。それこそこういう人が居ても良いと思いますね。「あそこでついてこないベアトリーチェって、本当にひどい」と(笑)。

ハハハ。ベアトリーチェという奇特な考え方をする人の考えがどれだけ四年間の連載の過程で理解できたかが、最後のシーンで泣けたか泣けないかの差になってくるのではと思います。

やはりあそこでベアトリーチェは完璧に完成したのですね。

彼女の中の世界があの時点で完成したのです。戦人には申し訳ないけれど。

だとすると、戦人も「わかってはいるのだけど」という感じですよね、きっと

海の中に飛び込んだベアトリーチェを戦人が追ってきてくれたことはベアトリーチェにとっては望外の喜びだったのでしょうね。だからベアトリーチェにとってあそこは死ぬほど嬉しいシーンなんですよね。

蛇足だけどすてきな蛇足。

私は死にたいけど、あなたには生き残って欲しいという気持ちもあっただろうし私からはなんとも言えない。その辺の心の機微をぜひ、楽しんで欲しいシーンなんです。そういう意味では私にとってあの作品はかなりの恋愛作品、ラブストーリーそのものなんです。世間で一般的に認識されている恋愛作品とは全く異なるものだけれど。

いやいやいや。本当に愛の作品ですよ。最後のあのシーンで本当によくわかりました。そして、竜騎士さんにもう一つ聞きたいことがあって、実はあそこで終わってもよかった話ですよね?

そうですね、終わっても全く問題はなかった。

愛によって深い傷を負った人が、そのあとどういうふうに生きていけばよいのか、いかにして回復していくのかというのがその後の真の終りのエピソードになっていきました。いわば愛の解毒剤的なエピソードだったと僕は捉えています。

そうですね。そこは読者に委ねたい。よく「宇宙は二人いないと生み出せない」と言いますし、「宇宙って何? 世界って何? 世界が満たされたらそれで完成なの?」という、あの世界独特の哲学があるのでそこのところを感じ取ってほしいな、と思いますね。もちろん、私は普通の男で生身の人間なので、大好きな人間が海に飛び込んでしまったら、「ふざけるな」と思いますし、「釣り上げたい!」と思う人間の一人ですし。

そうそう(笑)。

子供も作りたいと思うし、遊びに行きたいとも思うし、私個人はベアトリーチェの恋愛観とは相容れないけれども、ただ、そんな彼女の恋愛観を理解するのはおもしろいですよね、と。だって自分と違う思想を楽しむことが読み物の醍醐味ではないですか。そんな中で、ミステリーの中に恋愛についてのテーマ、エッセンスが入ったらおもしろいな、と。それで見てみたらヴァン・ダインの二十則の中には「恋愛を禁ずる」なんか書いてあったりして、これはおもしろいなと。(笑)

ああ、やっぱり! 竜騎士さんはどれくらいヴァン・ダインの二十則を意識されました? 要は今回、竜騎士さんは二十則に書いてあることのすべてをアンチでやっているわけではないですか。それは最初から構想があったのですか?

そうですね。『ひぐらし』の頃からノックスの十戒の話は伺っていたので調べてみたらヴァン・ダインの二十則みたいなものもあって、とてもおもしろいな、と。「えーっ、古今東西、恋愛でどれだけ殺人が起こっていると思ってるんだ!」と、「恋愛禁止」というルールを知ったときに思いましたね。その頃からミステリーと恋愛というミステリー上ではあり得ない組み合わせを考え始めたんです。水と油をうまく混ぜ合わせることはできないかな、と。

使用人が出てきたり、中国人も台湾の存在は、ある種そうですしね(笑)。

そうですね(笑)。

ヴァン・ダインの二十則にすべて反しても、きちんと物語が本格ミステリーとして成立する、ということを今回竜騎士さんが律儀に証明したのだな、と言う気がします。

そんなふうに言われると、恥ずかしくなってしまいますね(笑)。ミステリーなんて所詮、エンターテインメントの一部なのですよ。だから、これはミステリーだ、これはミステリーではない、みたいな、歌舞伎の審査みたいな堅苦しいものではないはずです。楽しんでもらえればいいんです。

それでわかった! 竜騎士さんは今回の『うみねこ』でノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則が出てくる以前のミステリーが書きたかったわけですね?

そうなんです。ノックスの十戒とかが出てきてから、ミステリーが「あらねばならぬ、あらねばならぬ」という堅苦しいものになっていったのではないか。日本人って規則が大好きじゃないですか。それに沿う沿わないということを、規則を重視するあまり、必要以上に気にするようになってしまったんじゃないかな。

『虚無への供物』でも「このトリックはノックス的に駄目だから、実際に起きてはいけないものです」とミステリーマニアがトリックを断罪するシーンがあったりして(笑)。

笑ってしまいますよね。もちろん、そこは笑うべきシーンなんです。

僕は今回の『うみねこ』は『虚無への供物』のテーマを一歩先に進めたところがあると思っているんですね。あの作品はミステリーの登場人物が現実の世界に対して「あなたたちのそんな気持ちこそがミステリーにおける犯人そのものなのですよ」と突きつける話ではないですか。ところが『うみねこ』は、ミステリーの登場人物から「どうか僕たちをそっとしておいてほしい」とお願いされてしまう。これは明らかに『虚無への供物』より一歩先にあるシチュエーションなんですよね。

作中にもウィッチハンターと呼ばれている迷惑な人たちが出てきて勝手な考察をしていますしね(笑)。

EP5かな? 縁寿がラストで「赤文字」で叫ぶじゃないですか。あそこのシーンは異様な感動があったんですよね。虚構の世界のキャラクターからの「真実」の発言で現実の世界の自分がかく乱される、という凄まじいフィクションだった。そして、ああいったふうに『うみねこ』のルールに乗っ取った発言で現実の世界の自分が揺らぐような感動を感じてしまった以上、EP8のラストで、そのキャラクターたちから心からお願いをされたときに、それを真摯に聞いてあげる気に僕はなったんですよね。こういう不思議な感じを味わったのは『虚無への供物』以来でした。

珍しいジャンルの話を書いてしまった、と思いますね。

だから最初の話に戻るわけですが、これを真の意味でわかるのはきっと三千人くらいだと思いますね。

太田さんがそんなことを言うと皆がびっくりして読んでくれなくなってしまうのでエンターテインメントとして読んでください(笑)。

たとえば奈須(きのこ)さんはきっと本当に好きになると思いますよ、『うみねこ』を。ミステリーが大好きで、本当に意味で頭の良い少年、というのがアンチミステリーの良き読者の資格を持っている人ですから。KEIYAさんはそうではないですか。

「重い選択肢」

さて、最後に近い質問です。縁寿が長い長い物語の最後になって初めて得た選択肢猫箱を見るほうを選ぶのか、見ないほうを選ぶのか、というシーンですが、最後には人間の自由な意思をいかに尊重していくかというところに物語が回収されていきますよね。そこで質問なのですが、竜騎士さんにとっての自由な意思とは何か、意思を持って人生を開いていく、ということがどういう意味を持っているのかお伺いしたいのですが。

難しいな。『ひぐらし』のときにも言ったのですが、「選択肢」というのは選ぶ甲斐のある選択肢であるべきで、選ばされる選択肢というのは選択肢ではないと思っています。重みのある選択肢でなければ選択肢ではない。たとえば「目の前に困ったおばあさんがいる、助けますか、素通りしますか」という選択肢があったら助けるに決まってるじゃないですか。もう少し負荷がかかってきて「そのときあなたはどうしても遅刻できない商談があって、しかもまさに遅刻寸前です」という選択肢であれば、ここで初めて「正義」を優先するか「仕事」を優先するかという選択肢の重みが出てくる。私は「選択する意味のない選択」は好きではないんですよ。あるいは前情報もなく「右によける、左によける」という選択肢で片方を選んだら矢が当たって死にました、というのはひどい選択だと思う。だから悩むべき選択が真の選択だと思っていて、私はあそこでベアトリーチェの心を理解できたかどうか、理解できてなおそちらを選ぶかという、つまり読者に対して物語の理解度を問う質問なのですよね。まあ、どちらを選んで欲しいという意思はある程度見え見えではあるのですが。

片方は修羅の道ですからね。カッコいいですけど(笑)。

私も個人的には好きなのですが(笑)。まあ、ですので、最後の手品か魔法か、という縁寿の選択肢は、「あなたはこの物語を理解できましたか?」という質問みたいなものなんです。

なるほど。ところでエピローグのシーンではなぜあんなにも年月が経つことが必要だったのですか? さきほどの自由意思のお話で、重みのある選択のした後の答えが出るまでにやはりこれくらいの時間がかかるという人生観の表れですか?

なんとも言えないですね。ただ、私の中ではともかく、あの事件の終わったすぐ後では、事件に影響を受けすぎていると思うんです、心が。だから、長い充分な空冷期間が必要だと思う。私の中における、事件が完全に心の中に置かれて、あれだけ大勢の人が死んだ悲しみが癒える空冷期間が、あの物語の中では十数年、二十数年、必要だと私の中ではカウントされているみたいですね。私も相方のBTさんを失ってもうすぐ二年経ちますが、一年二年経ってだいぶ落ち着いたな、と思う反面、一年二年経っても、やはり今でもというのは正直、ある。だから十年、二十年は欲しいなという私の気持ちが込められているのかもしれない。全部物語のことをリセットして完全にエピローグの状態にするには、それぐらいの長い時間が必要だと私は思ったんですよ。

ああ、とても納得がいった気がします。「エピローグまでの時間」。いい言葉だなあ。

物語とエピローグの間の空白はどのくらいが必要なのか。彼女がメタ世界というかファンタジーの世界を冒険してきた末に至った最終局面だとするならば、あれくらいの時間がなければ。

彼女は何度も死んでいますからね。

何度も死んだり、ひどい目にあったりしながらですからね。だからあれぐらいの空白が必要だと、当時の私は思っていました。

それは竜騎士さんの実体験からくるものだったんですね

心の整理ってね、おいそれとはつかないですよ。ただ、時間があれば必ず心は治ってくる。ある種の諦めというか落ち着きがついてくるのでね。もしも私が縁寿ならば、ほんの数年では心の準備がつかない、と思いました。

選択肢を選ぶのは一瞬だけれども、その選択にその後の人生の時間で重みをかけていくべきなんでしょうね。

『ひぐらし』の頃から、「重い選択肢を作りたい」と考えてきました。それが「選択肢がない」ノベルゲームなんて呼ばれるうちの一つのアンサーなんですけどね。

やはり重みのある選択って、それまでの人生の時間が全部かかるものだし、それを踏まえて選択する以上、結果が出るのも同じくらい時間がかかるものなのだ、という感じがします。

私もまだ、エピローグの縁寿の年齢に達していないのでわかりかねますけどね。

僕はそこが少しおもしろかったんですよ。ある種の竜騎士さんの希望が投影されているような気がして。

そうです。私だったらこれくらいかかるだろうという当時の想像ですね。ですから、もしかすると私がその年齢に実際に差し掛かったら「そんなにいらないよ、5年もあれば達観するよ」とケロッとしているかもしれない(笑)。

逆に、その頃にはそうなっていてほしい、という夢や希望みたいなところが仮託されているようにも、今日の竜騎士さんのお話を聞いていると思いましたね。

書き手としての理想と想像ですね。

きっと叶えられるのではないか、と思います。

そのことも全部ひっくるめて『うみねこ』は二〇〇八年頃の私でなければ書けなかった作品だと思います。今だと四年経っている分、四年分人生経験があってストイックな話になっているかもしれない。だから五年ぐらい経って自分で『うみねこ』を読み直したら「今の自分では到底書けない作品だな」って驚くかもしれない。今の私が『ひぐらし』を読んで、今の自分には到底書けない、と思うように。

愛に対する渇望と、恐れ。両方が『うみねこ』にはある。KEIYAさんが考察していた「左の薬指の傷」に象徴されるように、愛を求めているにもかかわらず、不信感があるんですよね、竜騎士さんには。

怯えですね。生活が大きく激変してしまうのではないか、という怯えと期待。彼女にとっては譲治に婚約を求められたというのは、一つ世界が大きく滅びる、彼女の中でモラトリアム的に完成された世界が崩壊するわけだったんです。

あと、譲治が良い奴ではなかったら、真面目に将来を考える必要がない駄目な奴だったら、あんなことにならなかったはずなんですよね。

『うみねこ』はそういうややこしい物語です。それをどこまで読み取ってもらえたか、ということなんです。

『彼岸花の咲く夜に』

それでは最後の質問です! 竜騎士さんの次回作について伺いたいと思います。

今のところ『彼岸花の咲く夜に』というホラーよりの短編集をするつもりです。これは私がずーっと長編ばかり書いてきたので、短編を勉強したいというのが一番の気持ちだったんです。長編は悪く言うと悠長に物語が動くので、短編のスピード感を勉強してみたかった。なので短編をとりあえず今年一年勉強してみて、それからもう一回「なく頃に」ではないものに挑戦してみて、その間にゆっくりじっくり考えて、次の「なく頃に」に挑戦したいですね。とにかく色々ものに挑戦してみたい、と。

『彼岸花』はどんなお話になるんでしょう?

今のところ、毎話ごと完結する話になっています。といってもまだ三話目までしか終わっていないザマですが。

全部で何話の構成なのでしょうか?

六から七話ぐらいしたいと思っているのですが、今、ちょうど絵を描いているところですね。

そうか、新しく全キャラ描かなくてはいけないんだ。

そうなんですよ。まあそんな感じで今、水面下でちょっとずつ進んでいます。

(キャラクターのイラストを見て)あ、これはかなりホラーですね。

学校の怪談に類するものですね。『ひぐらし』の頃のホラー感が好きな人には楽しんでもらえるかな、と。ヘビーなテーマや社会的なテーマが、まあ読み取れれば読み取ってくれればいいのですが、読んだ後に喧々諤々議論するような系統の作品でもないので、よりライトに楽しんでもらえる作品だと思います。「なく頃に」というタイトルは考えて楽しむ作品で、「なく頃に」が付いていない作品は普通にエンターテインメントとして楽しむ作品、という位置づけですかね。

今年の夏を今から楽しみにしています! 竜騎士さん、ありがとうございました!