くくるの異常な空想――または私は如何にしてリア充するのを止めて演劇を愛するようになったか――
演劇少女・原くくる 1stインタビュー 後編
都大会優勝、関東大会優秀賞受賞と、2010年度の高校演劇界を文字どおり震撼させた都立六本木高校演劇部による『六本木少女地獄』。脚本、演出、出演のすべてを務めた18歳の女子高校生演劇家・原くくるはいかに生まれ、どこに旅立っていくのか――!? 『最前線』が迫る1stインタビュー!! 聞き手:さやわか・太田克史(『最前線』編集長)、構成:さやわか、撮影:青山裕企
さやわか でもちょっと意外ですね。アニメやマンガのような表現も使っているけど、今どきの高校生が作品にそれを導入するのとはちょっと違った考えを持っているというか。
原 実は私、オタク文化のことが全然わからないんですよ。例えば女の子たちがみんなきれいなのが不思議で仕方がないんです。おじさんとかでもきれいだったりするじゃないですか。めっちゃ眼が輝いている老人が出てきたり(笑)。それがよくわからなくて。人間は人間のままでいいのに、どうして皺を消したりするんだ、と。
太田 ハハハ。
さやわか なるほど。たしかにそれは変ですよね。僕も『ファイナルファンタジー』とかをやるたびに思います(笑)。つまり原さんは、ありのままの人間が描きたいんですかね?
原 人間が好きです。私自身も人間だから、心が狭い部分もある、自分に似ている人間を好きになりますね。そうなると「愛と勇気」みたいな「自分の生き方」を真面目に生きている人間が好きなんです。正しいとか間違いなんてなくて、でもそのなかで自分の心にだけは逆らわず生きていく、という人が好きなんです。だからそうでない人はあまり芝居には出したくありません。
さやわか すべてが構造にすぎなくて虚しいことを受け入れながら、自分なりに生きている人間がいいんですか?
原 虚しいことに自覚的でなくてもいいです。気付かないのなら気付かなくていいと思うし。
さやわか 気付いちゃったら、大変な人生ですもんね。
原 というか「生きていけるか?」って思っちゃいます。だからブッダとか出家したんでしょうね。キリストが磔になったときも、キリストはたぶん悲しくなかったんじゃないかなと思ってます。
さやわか そういう思想は、原さんの中で固まってるんですか?
原 変わり続けると思います。きっと今の私が思ってもみなかった角度から、その思想すら揺るがすものが来るかもしれないですし……。まだ変わる、変えられる、可変性はあると思います。
さやわか 左翼的な思想を持ちながら、自分を変えていこうと思っているのはちょっとおもしろいかもしれないですね。
原 そうなんですかね。じゃあ、左翼じゃないのかもしれませんね。
太田 ……いや、左翼ですよ(笑)。
さやわか 言ってることは、とても左翼的ですよ(笑)。
原 断言された!
太田 原さんとは最初に会ったときからそんな感じがすごくしていて、そこは絶対に僕と合わないと思った。
さやわか 合わないですね。でもコマーシャリズムに打って出ることも重要みたいなことも原さんは言うじゃないですか。
太田 そう、そこは僕と合うんですよ。大きな目的に関しては、僕も原さんも目指しているものは怖いくらい同じなんですけど、そこへのアプローチの仕方が全然違うんですよね。例えば物事のクオリティを上げていくというときに僕は「ジャンルとしてのライトノベルのクオリティを上げていこう」とか「今そこにあるもののクオリティを上げていこう」って考えるんです。今、すごく駄目と思われているものでも、10年間、最底辺の境地から地道に、真面目にクオリティの追求をしていく。でも原さんの言ってることはそういうことではないんだよね。
原 そうですね。
太田 以前は、原さんは僕が今まで付き合った作家のなかでは佐藤友哉さんに似てるかなと思ってたんですよ。でも今日のインタビューを聞くと、ちょっと違うな、と。
さやわか 実は僕も全く同じことを思っていました! 佐藤さんと似てるようで違うんですよね。さっき、「なぜアニメやマンガのような表現をやるのですか」と聞いたのは、原さんが佐藤友哉さんに似ているのかもしれないと思ったからなんですよ。彼は『ナイン・ストーリーズ』とかがすごい好きで、そういう文学性を求めている。でも自分が書くと、マンガとかアニメの想像力を使ったものになってしまう。そういうところが似ているのかと思ったら、違った。
原 違いますねー。私の場合、それは道具ですね。
太田 昔、東浩紀さんが言っていたことなんだけど、佐藤さんは端的に文学がやりたいんだと。だけど、彼が文学をやろうとするときに、残念だけど彼の中にはマンガとかアニメとかゲームみたいなジャンクなものしか材料がない。それを無理矢理使って、ぐちゃぐちゃにして、それでも力技で「文学」にしてしまうのが(デビュー当時の)佐藤友哉。だけど原さんの場合はわりとそこがドライなんだよね。かつての佐藤さんみたいに「バリバリの芸術をするんだ!」って原さんは言っているわけなんだけど、「でも今、バリバリ純度100パーセントの芸術をやっていてもウケないから、いろんなキャッチーなラベルとかを貼ってみたらいいんじゃないかな、あ、『六本木』とか貼ったらウケるんじゃない?」っていう感じ。
さやわか 「必殺技とか出てきたらいいんじゃない?」みたいな。佐藤さんの創作に迷う感じとは全然違いますよね。
太田 そこが「コマーシャリズム」なんだよね。佐藤さんが持っている、なんというか……サブカルチャーに対するぎりぎりの誠実さや切実さというものは原さんには感じられないね。佐藤友哉はすごくコマーシャルな題材を使っているんだけど、最後の最後で文学にしちゃう。原さんの場合はすごい芸術を目指しているんだけど、だからこそ最後に一点、何かコマーシャルな要素を入れてしまう。入れるのを辞さない、というべきか。だから佐藤さんと原さんが似ているようで違うというのは陰陽図みたいな関係なのかもしれない。
さやわか 佐藤さんの作品は、アニメやマンガのリアリズムに対する拘泥みたいなものすら匂ってくるような作品に結局なってしまう。でも原さんはそこに対する重みがないのがおもしろいというか、今日的な感じがしますよね。
太田 重みはないね。アニメやマンガみたいなものは、今のところの原くくる作品ではほんとにただのラベルなんだよね。
原 なんででしょうね……。でも大友克洋さんとかリスペクトしてますけど……。
太田 そう、そこだよそこ(笑)。その「リスペクト」ってところが、たぶん違うんだろうね。切実さがない。
原 そうですね。「なんか好き」みたいな……。
さやわか 「カッケー!」くらいのリスペクトで。でも、やりたいことの順路は大塚英志さんにも似ていると思いますけど。左翼的な思想を持ちながら、コマーシャルな方に傾けて。
太田 ああ、似てるなあ。言われてみると。そうだ、今やちょっとした伝説になってしまった新宿タイニイアリスでの原さんの高校生活最後の公演に僕は最初、大塚さんを連れて行こうとしたんだった。ただ、ゴールデンウイークだったので都合が合わなかったんだよね。でも今日の話を聞いたら、乙一さんとは話が合うかな、とも思ったね。
太田 さて今回、なぜ僕が演劇という表現に注目してみたかと言うと、今後の出版活動の流れがデジタルに向かうことはもう誰にも止められないのが明白だから星海社はウェブで『最前線』をやっているわけですよね。もちろんそれはガンガンやっていく。ただ、それと同時に「何かが遠くになければならない」と感じていたんです。その「遠くにあるもの」を近くに引っ張ってくるからこそ、編集はおもしろい。僕は本質的にはミステリーや文芸の編集者だけど、10年前、当時は遠くにあった「ライトノベル的なもの」「美少女ゲーム的なもの」をミステリーや文芸に近づけようと思ってこの10年、編集者をやってきました。でも10年経ったら、もう確実にそれらは「ここにある」ものなんですよね。ライトノベル的な想像力、美少女ゲーム的な想像力がなければ何もできないほどの状況になった。
さやわか それこそ女子高校生がつくる演劇に、そういうものが「ユーモアとしてのラベル」で貼られている、という程度にまでなったわけですね。
太田 そうですね。で、今「遠くにあるもの」は何か、と考えたときに、「演劇があるじゃない?」と閃いたんです。言ってはなんですけど、今どきありえないくらいプリミティブなものじゃないですか、演劇って。身体性のあるものなのでコピーできないし。今後、世の中のデジタル化は急速に進んでいって、何でもコピーできるものが中心になっていくのだから、その逆で、絶対にコピーできないもので文芸をやるんだ、と考えたときに、自然に「演劇」という答えが出てくるんです。同じ考え方で去年は「朗読」を閃いて、坂本真綾さんと一緒に『最前線』で『満月朗読館』をやってみたんだけど、そういうふうに身体的なもの、というのがこれから再発見されていくし、そういうところに才能が集まってくるんじゃないかと直感しているんです。
さやわか それは、間違いなくその通りでしょうね。ただ、演劇の人たちはこれだけパフォーマンスアートに関心が高まっているにもかかわらず、かなり閉鎖的な環境にいるので、もったいないなとは思います。太田さんが言われた「朗読」や、あと僕の中では歌を歌う「アイドル」とかもパフォーマンスアートだと僕は思っていて、それがどういうものなのか説明するための「核」の部分を演劇は最もわかりやすく持っているんですよね。それなのに演劇に一般的な注目が集まっていかないのはすごく残念に思います。
原 そうですね。……なんででしょうね?
太田 僕に聞かれてもわからないよ(笑)。
さやわか 演劇は最も身体的なものだからこそ、その場で演じられることだけが大事にされているんでしょうかね。
原 あと、演劇はなんか「わかってもらえない」ということを逆にアイデンティティにしちゃっているという部分があるので。
太田 そうそう。そういうムードはオタク文化にも濃厚にあるんだけどさ。まあ、このあたりの話はうかつにやっていると原理主義者の方々から脊髄反射で叩かれかねないから止めておきましょう。えー、ところで原さんはこうして自分の戯曲集が出版されることについてはどう思われてますか?
原 うーん……。まあ、それもアリかな、と。
太田 (机をドンと叩いて)いや、もうちょっと何かないの!?
さやわか 自分自身は、戯曲を本で読む機会は多いんですか?
原 読みますが、勉強として、ですね。娯楽としては読みません。
さやわか 自分の戯曲が何千部と刷られて、世の中の人に読まれることはどう感じますか?
原 うーん……「読んでください!」って感じです。
さやわか あんまりピンとこないですか?
原 そうですね……。
太田 それはおそらく戯曲が受け手と「ちょっと距離がある」表現だからだよね。小説はそれ単体で作品として成り立つけど、戯曲はあくまでも演劇の「設計図」。フェラーリの設計図を見るのは楽しいんですよ。あ、ボディはこんな曲線を描いてるんだ、とか、こういう構造のエンジンなんだ、とか。でもそれはフェラーリを運転することとは違っている。それと同じように、戯曲集を読むのと、生で演劇を観ることは違う。
原 そうですね。ただ、野田秀樹さんの脚本とかは、読んでいるとその状況が頭に鮮明に浮かんだりするので、やはり技術が違うな、すごいな、と思います。
さやわか 自分の本を読んでほしい、という気持ちはあるんですか?
原 あります。……皆さん、買ってください!
さやわか それは、自分の作品のなかに描かれている思想をわかってほしい、ということですか?
原 そうですね。まあ、また左翼思想になってしまうのですが(笑)、私は高校演劇の既存の体系には、わりと打撃を与えたのではないか、と思ってるんですよね。それはまだささやかな力ですけど、少しは誇りに思っているので、それを皆さんに知ってもらえるのはうれしいです。
太田 次回作はどんな話になるんですか?
原 ……私の心の奥底にある鬱屈のせいで(笑)、最近お芝居を観ていて人があまりにも強く何かを訴えすぎていると思ってしまって、「人間だけがつらいんじゃなくて森の動物たちもつらいんだから、そんなに訴えるな!」とか思ったりすることがあるんです。だから自然と人間の関係の劇をやりたいと思ってます。だけど旗揚げ公演でそれをやると、あまりにも「自然」に対するイメージがつきすぎてしまうのではないか、とも思っていて……。
太田 「エコ最高!」みたいな。
原 ですね。なのでちょっと考え中です。だけどもうラストシーンは考えつきました。あと、何かの本で「対象性」という話を読んだんです。知的障害を持っている人がどんな状態なのか、ということが述べられていたんですけど、その本では「自分がものを見ている」ではなくて「ものが見ている自分」を基準に物事を認識しているらしいというんですよね。それと「ベテルギウスが爆発しそう」という話を聞いて……。
太田 もう爆発してるかもしれないんだよね、ひょっとしたら。何万光年も離れているから。
原 そうなんです。それも「おもしろい!」と思って、その二つも新しい劇に加わってくるかもしれないです。
太田 聞いても、どんな内容なのかよくわからないね(笑)。「だが、それがいい!」って、思います。一寸先はいつも闇、のほうが創作はおもしろいよ。あと、原さんは実は今はけっこう大きな手術を控えているんですよね。このインタビューが掲載される頃には終わっていますけど。病気に気付いたのはいつですか?
原 昨年末くらいですね。関東大会の直前くらいだったかな。何かスーパーボールみたいなものがお腹にできていて、腫れていたんです。どうしようかと思ったんですけど、「まあ、体質だろう」と軽く考えていて(笑)。強烈な痛みとかが襲って来たけど、一瞬で済んだし、そのときはいろいろとたて込んでいたので放置してたんですよ。それで今年の5月に、ゴールデンウイークの最後の公演が終わった後で近所のお医者さんに診てもらったら「すぐに大きな病院で検査してください」と言われて……。その公演中もなんだか調子がおかしくて、お腹がへこまなくて、声がうまく出なくて、裏返ったりしていたんです。で、大きな病院でMRIとCTをとったら、お医者さんに「類皮囊腫です」と言われて。
さやわか 類皮囊腫?
原 勝手に胚細胞がいっぱい分裂しちゃうんですけど、レントゲンに歯が写ってたんです。
さやわか 「歯」!? 何かがいるんですか! 育ってるんですか!?
原 いや、モンスターとかがいるわけじゃなくて(笑)。
太田 遺伝子のミスコピーみたいな感じの病気なんだよね。
原 はい。勝手に分裂して髪の毛だったり爪だったり皮膚だったり、人の身体をつくるんです。私の場合は歯でしたけど。
太田 たしか目玉とかもつくるんだよね。昔、仕事で調べたことがあるけど。
さやわか 完全に『ブラック・ジャック』のピノコですね……。
原 最近は四六時中眠いんです。妊婦さんみたいに。
さやわか それ、大丈夫なんですか……。
原 7月7日、七夕の日に手術します!
太田 その日は星海社の設立記念日でもあるんだよね、美しいなあ。『六本木少女地獄』では想像妊娠しちゃう人物が出てくるけど、原さんがまさにそれを創作しているときに、その腫瘍ができた、ってことだよね……。
原 さっきも『六本木少女地獄』のゲラをチェックしているときに台詞とかを読んでいたらなんだか身につまされる気がして。
太田 暗示的な話だ。「ニワトリが先か、卵が先か」という感じだ……。いやあ、君は「持ってる」ね! 人生大変ですが、なかなかない話です。すばらしい。
原 そうですねー。この腫瘍がなくなれば、左翼思想もなくなりますかね?(笑)
太田 いや、それはなくならないと思うよ(断言&笑)。
さやわか 演劇理論についてはどう考えていますか? たとえばいま若手の演劇人がやるものは、むしろ原さんが学校でなじめなかった「役者は脚本通りに動いて、演出家のコントロールに全てを委ねる」という理論、ぶっちゃけて言うと平田オリザさんの現代口語演劇理論などから派生したものも多いですよね。そういうものに興味を持たないのは、中学時代にやった演劇の影響が強いからですか?
原 私の性格のせいじゃないですかね(笑)。もっと楽しさというか「色味」が欲しいな、という。ただ、私は未熟ですのでオリザさんに反論する手立てはまだないですね。
さやわか それでも、やはり現代口語演劇に興味があるわけではない。
原 ないですね。平田さんの意見とは異なると思うのですが、現代口語演劇から派生した人達の作品って、いかに現代を批判するかというのがあると思うんですよ。現代の虚しさとか。私は「虚しいのは当たり前じゃないのか」と思ってしまって。「虚しいのも、人間関係がうまくいかないのも、当たり前」というか。「リンゴが赤いことを、リンゴがいかに赤いかって芝居にする必要はないんじゃないか」と。ただ、それはそれで現代人の心にリンクしている部分があるから認められているんでしょうし、私も手法はとてもおもしろいと思ってます。
さやわか 現代口語演劇が必ずしもそういうテーマ性を持っているわけではないと思いますけど、しかし演劇が何を扱うべきなのか、ということについての原さんの考え方はわかりました。たとえば感動みたいなものを与えなければならないのか、それともリアルな日常性を切り取ることが大事なのか、となったときに、原さんの場合はどちらかというと、ドラマティックに感動を与える方なんですよね?
原 そうです。私の根本にあるのが、射手座のせいなのか、「魂」とかそういうものを信じてしまうタイプなんですね。「魂」とか熱いものの存在を信じているので、そういうものをなるべく芝居の中に採り入れていきたいです。あと、私はあまり現代演劇は詳しくないんですよ。ひたすら西洋映画ばかりを観てきてしまったので、西洋映画のほうが現代演劇よりも身近に感じていたんですね。
さやわか なるほど。それで若手の中でも異質なものをつくることになっているのかもしれないですね。
原 でも、ここまで発展している経済大国日本において、高校生の演劇の大会がこれでいいのか、とも思っているんです。「こんなものなのか?」って。もっとみんな思想をバンバン出して争うのかと思いきや、全然そうではないんですよね。「私は私の演劇を目指したけれど、あなたたちはあなたたちの演劇を目指しているの?」と聞いたときに、本当に「うん」と言ってくれるかは不安です。
さやわか みんな、ぼんやりつくっている、と?
原 それと、できることに気付いていない。これが駄目だ、あれが駄目だ、というものは世の中にあるんですけど、それがなぜ駄目なのかを深くまで掘り下げている人なんて、実は世の中にほとんどいないんじゃないか、ましてや高校生だったらもっといないと思うんです。私、都大会のときに、すごく怖かったんです。女の子が強姦されてしまう芝居を書いて、講評でものすごく怒られるんじゃないか、観客の皆さんがドン引きするんじゃないか、と思って。だけど実際は受け入れて頂けたんです。それは平田オリザさんのところで働いてらした青年団の演出家の方(林成彦さん)だから、というのはあるかもしれないのですが……。でも私なんてニートをしてた人間なんだから、他の人はもっとちゃんとしたことができるんだと思っていたら、なぜか私が優勝してしまったので。
さやわか 普通の高校演劇には思想がないということですか? その物語がなぜそう描かれるのか、というような。
原 そうですね。既存のハッピーエンド、もしくはバッドエンドに向かっているだけで、自分たちの思想がない……のかな。
さやわか なるほど。ではなぜ思想性が必要なんですか?
原 それが社会の創造だから、です。
太田 演劇って身体表現じゃないですか。それをする人たちの根っこに思いや想いが何もない状態でする演劇はどうなんだ……? という感想は正直、ありますよね。僕も原さんと仕事をするにあたって、多少、高校の演劇シーンを調べてみたんだけど、そもそも生徒脚本の作品ってあんまりないんですよね。
原 ないですね。既存のものや、顧問の方が書いたものがほとんどです。
さやわか 生徒による演出はどうですか?
原 それは、たまにですね。
さやわか なら、高校演劇をやる人の大部分は役者を目指しているわけですね。
原 そうですね。役者に徹しています。
太田 そういう意味では、原さんの言う「今の現代日本社会を生きる高校生が何を考えているか」というのは、高校演劇を観てもわからないんですよ。残念ながら。
原 「それを一番考えるべきは高校生なのに、どうしてみんな考えないんだろう」って、都大会で優勝したときに一番に思ってしまったんですね。もし考えていても、それがヨーロッパ的思想であったりして……。
さやわか (笑)。
原 高校生には……自分の存在にもっと疑問を持ってほしいな、という思いがあります。私自身もミヒャエル・ハネケの映画とかを観てそう思ったので。痛みを知らないと痛みはわからないと思うんです。
さやわか なるほど。しかし演劇って今の若い人の間でさほどに人気があるものではないと思うんですけど、そういう人たちが演劇に関心を持つようなものをつくろう、という気持ちはあるんですか。
原 それは超あります。すごく思います。
さやわか 演劇を観に来る人たちを増やしたいですか。
原 本っ当にそう思います! というか「ブルジョワジーは去れ!」みたいな(笑)。
さやわか また左翼的発言ですね(笑)。演劇にブルジョワジーがいるんですか?
原 チケットが高いじゃないですか。『レ・ミゼラブル』とか、旦那さんを働かせてたり、親の遺産でお金に困っていないおばさんとかしか観に来ないじゃないですか。
さやわか 貧困のせいでパンを盗む物語なんですけどね(笑)。
原 そういう状況を見ると、もっと子供とか中学生に観てほしい! と思います。これは私の夢なんですけど、もし私が劇場を持っていたら、観客がホームレス専用の日、とかをつくりたいです。あとニート専用、とか。
さやわか それは、なぜなんでしょう? 演劇だけでなく、小説家なりマンガ家なりでもそうですが、書き手によっては自分の思想なり表現なりを深めていけばそれでいい、という人もいると思うんですよ。そうではなくて演劇というジャンルを広めたい、観てほしい、という思いがあるんですか?
原 「芸術性を貫けばいい」というのは、たぶん一世代前の私が考えてたことなんですよ。以前は芸術性をひたすら追求していくのが好きで、勉強していました。ただ、そこで論に論を重ねていくことが虚しくなっちゃったんですよね。しょせん構造にすぎないから。自分自身が信じた実存とかが存在しないことに気付いたからこそ、そういう世界の中でも生きている人たちが好きで、だからこそホームレスとかニートの人に観てほしい。あと私は左翼なので(笑)。それに、芸術をつくるということは「芸術しかない空間が生まれた」ということなのに、その最上位に他の精神論を持ってきて、芸術をないがしろにするってどういうこと? って思っちゃうんです。
さやわか 演劇を解放したいんですね。
原 今の日本を形作っている思想が嫌いだから、そういうものが足枷になって、心を痛めている人たちに「そんなことはないよ」って言いたいんですね。「奇跡も、魔法も、あるんだよ」「独りぼっちは、寂しいもんな」って(笑)。中学時代の私は演劇こそが至高で、それ以外はどうでもいい、代官山をジャージで歩いても全然平気という感じだったんですけど、そこからは若干変わってきて、もっと大きな視点で物事を見ようと思ってます。
さやわか それで、もっとエンターテインメントとして演劇に人を呼び込みたい、と。
原 そうですね。まずは、日本の文化を向上させたい、という思いがあります。
さやわか 今の日本の文化にはがっかりしてるんですか?
原 演劇の料金自体が、がっかりです。だから私は野田秀樹さんの高校生はチケットを1000円にする活動とかは、すごく支援したいと思ってます。それでもまだみんな観ないんですが……。劇場側が「観せてやるよ」っていう態度をとっているのがすごく嫌なんです。観客全員が思想を分かち合って対等の立場にいられる芸術、「友好関係が築ける芸術」にするのが、今のところは私の理想です。美術館とかもそうじゃないですか。もともとはブルジョワジーだけのものだったのが市民革命とかによって民衆にも開かれた。って言うと、なんかまた左翼っぽいですけど(笑)。
さやわか 左翼的な言説は演劇界にはしばしばあると思うんですが、今の演劇界自体に変わってほしいと思っている、ということですかね。
原 そうですね。
さやわか どうなんでしょう。やっぱり西洋思想がダメなんですかね?(笑)
原 いえ、ヨーロッパ的な思想を単に嫌いなだけだったら、私もギャスパー・ノエとか観ないんです。でも、現代人って自分たちがそういうものを受け入れて生きていることすら気付いてないじゃないですか。西洋的な思想が世界を形作っているのを「一匹の亀の上に象がいて、その上にいまのこの国があるんだよ」みたいにそのまま受け入れてる感じじゃないですか。それは違うぞ、と。地球は丸いぞ、青いぞ、と。そういう思想が世界を作っているならそれをもっと取り上げるべきなのに、その土壌でこれだけ経済的にも発展している日本、ジパングがその真理に全く気付いていないという状況はまずいと思ってるんです。アメリカのために経済が回ってるようなものじゃないですか?
さやわか うお、反米だ!
原 私は宗教が好きなんですよ。軸のある人が好きなんです。だからキリスト教でもイスラム教でもそれがその人の軸になっていれば好きなんですよ。
さやわか まあ西洋思想だって科学だって資本主義だって宗教ですよね。それに対して無自覚になっているのがよくない、ということですかね。
原 そうです。思想がない。今は世論とか政府、マスコミ、クラスのみんな、とかそういう思想・宗教に何となく縛られているじゃないですか。それが嫌なんです。
さやわか もっと自覚的に、宗教というか、大きな思想的枠組みを持っていてほしいということですか?
原 はい。まあ、あんまりカルト過ぎてもちょっと……というところはありますけど(笑)。みんな基本はいい人で、「愛と勇気」であってほしいんですけど。あの、こないだ渋谷のイメージフォーラムに行ったんですよ。ヘルツォークのモノクロ映画を観に行ったんですけど、私が最年少だったんです。周りは高齢な人たちばかりで、どうしてこの場に高校生がいないんだ、ってものすごく疑問に思って……。こいつはまずい、高校生がこういう文化を知らないんだ、って思いました。他国の高校生の状況とかは知らないんですが、日本の高校生は自由がない、というか情報が制限されている、と私は思うんです。
さやわか その状況を演劇で変えることは可能なんですか?
原 可能なんじゃないですか? 私の芸術のクオリティが高ければ、変えることは、可能です。そのクオリティの高さがなぜ高いのか、ということに気付いてもらえれば可能だと思います。唐十郎も寺山修司もゴダールも、いろいろなことをやってたじゃないですか。だから可能ですよ、きっと。だからがんばります!