ダイアログ・イン・ザ・ダーク
乙一 Illustration/釣巻 和
父への恨みから、兄弟らしき二人の男に誘拐された「私」。瞳をえぐられ、“光”と“希望”を略奪された「私」は、絶望の淵で「献身」と「暴力」の、二つの狭間で翻弄される——。暗闇の中に芽生えた“真実の愛(ストックホルム症候群)
1
1973年8月、とある町で、強盗犯が銀行を襲い、人質をとって立てこもった。その事件において奇妙な現象が報告されている。
犯人が寝ている間、警察がおかしなうごきをしないようにと、見張りに立っていたのは、捕らわれているはずの人質たちだったというのだ。
事件の起きた町の名前はストックホルム。
犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、好意などの特別な依存感情を抱くことを、ストックホルム症候群と呼ぶようになった由縁である。
私が監禁されていた部屋にはテレビも、ラジオもなく、外から聞こえる鳥のさえずりに耳をすますしか、たのしみがなかった。新聞が机に置かれていたとしても、それを読むことはできなかっただろう。私の両目は、犯人の手によって、くり抜かれていたのだから。
最後に見た光景をおぼえている。そこは暗い森のなかだった。
目隠しを外されると、覆面をした二人の男が、車のヘッドライトのなかに立っていた。
「ね、ねえ、兄さん、やっぱり、やめようよ、こんなこと……」
「わすれたのか、こいつの親父がやったことを」
「でも、この子は、関係ないだろ……」
二人の男はどうやら兄弟らしい。声の印象がよく似ている。覆面は両目と口元が開いているタイプのものだ。弟の方のくちびるの隙間から銀色の金具とワイヤーが見えた。歯並びを矯正する装置である。すすり泣く私に兄の方がちかづいてくる。
「安心しろ。殺しはしねえ。殺したら価値がなくなる。だってそうだろ? 死んだ娘のために、身代金を払う馬鹿がどこにいる?」
彼はナイフを取り出した。
「きれいな目をしてるじゃねえか。その目ん玉が、ポストに入ってたら、親父さんおどろくだろうな。傷口をしらべれば、死体から切られたのか、それとも生きたまま切られたのか、わかるらしいぜ。身代金をよこさなかったら、次は耳か指を削いで送ってやる。そいつらを封筒に入れて切手を貼って郵便ポストに投函するんだ。」
「兄さん!」
歯を矯正中の弟が泣きそうな声をだす。
「おまえは下がってろ!」
兄の方が私をぶった。地面にたおれてぐったりしている私に、彼がおおいかぶさって、ナイフを右の眼窩にねじこんだ。次は左だ。ナイフの先端が眼球と眼窩の隙間に入る。私が生涯で最後に見た景色は、星のきれいな夜空だった。周囲の樹木の枝葉が、黒々としたシルエットの額縁をつくり、そのなかに星空がひろがっていた。新月の晩は夜空が暗いから星がよく見える。えぐり出すようにナイフがうごいて、ぶちんという感触が頭のなかにおこった。星空が暗闇におおわれて、私はさけぶ。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
私は山奥の一軒家に運ばれて、鍵のかかる部屋に閉じこめられた。今でこそあの家が山奥にあることをしっているが、当時は自分がどこにいるのかさえわからない状態だった。
網膜は脳の一部が体の外に突きだしてきた神経だと言われている。目という器官は脳の一部なのだ。それなら、私は脳の一部を彼らによって切除されたというわけだ。消毒のため私の左右の眼窩にテキーラが流し込まれた。ベッドでのたうちまわっている期間、自分がトイレをどうしていたのか、食事をどうしていたのか記憶にのこっていない。
神経が焼き切れるような想像を絶する痛みは、やがて鉛のような鈍痛へと変化し、はげしさを弱めていった。眼球のはまっていた穴を、おそるおそる指でさぐってみた。完全になにもない。左右の目があったところに指先を入れてみると、第一関節くらいまでが顔の中に入っていく。からっぽだ。私の顔にからっぽの穴がふたつひらいている。
一分の隙もない暗闇というものにはじめて出会った。
ベッドからおりて、手探りで暗闇の中をあるいてみる。扉らしきものがあったけれど開かない。
「おねがい、たすけて、おねがい……」
暗闇は沈黙したまま私の言葉にこたえなかった。
2
あらゆる光が私の人生から永久にうばわれたのだ。恐怖と悲しみにおそわれて腕をかきむしった。異様な光景だっただろう。顔にまっ暗な穴をふたつあけている女が、部屋のすみにうずくまり、みだれた髪でふるえていたのだから。
床の軋む気配がちかづいてきた。
扉の開かれる音。
「だ……、だれ……?」
「こわがらないで。シャワーを浴びたほうがいい。立てる? 僕が、案内してあげる。さあ、起きて……」
突然、私の手にひんやりとしたものが触れる。何もないところから急に現れたような唐突さだったので、恐怖の塊となっていた私はおどろいて逃げようとした。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」
「シャワーを浴びに行こう。着替えも買ってきた。消毒液も。今さらだけど、傷口に塗っておこう。この腕も消毒したほうがいいね」
「あなたは、だれなんですか?」
「何も聞いちゃだめだ。しらないほうがいい。僕たちの名前や素性をしってしまったら、兄さんがきみを生きて帰さないだろう。でもだいじょうぶ、身代金を受け取ったら、きみはちゃんと帰れるよ」
「身代金?」
「そう。きみは僕に感謝したほうがいい。お金を手に入れたら、兄さんはきみを殺すつもりだったんだから」
そのときだ。ふと、頭がすっきりするような、さわやかな感覚がある。
柑橘系の香りがただよってくるのだ。
「どうかした?」
「この香り……、柑橘系の……」
「ライムかな?」
「ライム?」
「コロナビール、飲んでたんだ。しってる? 瓶にライムの切れ端を入れるんだよ。においか……。その要素をわすれてた」
彼は私の手をひっぱって立たせると、シャワーのある浴室まで誘導してくれた。
私は彼のことを、ひそかに【ライム】と呼ぶことにした。
ライムと名付けた人物は、ようするに私の世話係だった。
何かしてほしいとき、気兼ねなく呼ぶようにと言われていたが、最初のうちは抵抗があった。ライムはおそろしい誘拐犯の片割れであり犯罪者なのだ。
「おねがい、外に出して。あなたたちのこと、警察にも言わないから」
「だめだ。きみを外に出したら、僕が兄さんに殺されちゃう」
ライムにとって兄の言葉は呪縛だった。兄の言いつけ通り、トイレやシャワーのとき以外に私を部屋から出さないようにしていた。
週に一度の割合で彼のお兄さんは家を訪れた。車の音がして煙草の煙が家の中に充満するから、お兄さんの来訪はすぐにわかった。
「今日の夕飯はイタリア料理にしてみた。きみの口に合うといいけど」
食事は一日に三回、ライムが部屋まではこんでくる。料理はすべてライムの手作りだ。
「僕の好きなメニューを用意してみた。まずは【キリマンジャロ産のミネラルウォーター】。そして【モッツァレッラチーズとトマトのサラダ】に【娼婦風スパゲティー】。メインは【小羊背肉のリンゴソースかけ】。デザートに【プリン】もある」
しかし味を楽しむような余裕が私にはない。料理の大半をのこすとライムが咎めるように言った。
「食べなくちゃだめだ! 体力をつけないと!」
私が病気にならないよう清潔さも保たれていた。一日に一回、浴室まで案内され、シャワーを浴びさせてもらう。目の見えなくなった私は、手探りでお湯を出し、体を洗い、用意された衣類に腕を通す。
私の身につけた服や下着は、ライムが洗濯し、干していたようだ。
「……パンツだけでも、自分で洗います! そうさせてください!」
思い切ってそのような提案をしたのがきっかけとなり、扉越しに私たちはすこしずつ会話をかわすようになった。
「コロナビールって、どうしてライムを入れるんですか?」
「メキシコのビールだからじゃないかな。強い日差しのせいで、変なにおいがつくんだ。それをまぎらわすために、ライムを入れるようになったって聞いたことがある」
「へえ」
「いろんな説があるから、ほんとうかどうかわからないけどね」
かんがえかたをあらためて、積極的に話しかけてみるようつとめた。そこには打算もあった。何かの小説で読んだことがある。恐怖で支配された状況においては、犯人と敵対するよりも、なかよくなるほうが生存確率が高いというのだ。ライムに話しかけるのは、自分が生きのこるための作戦というわけだ。
「小学生のとき、メガネをかけた男の子がクラスにいたんですけど、その子、【ぽんこつメガネ】っていうあだ名だったんです」
「【ぽんこつメガネ】?」
「はい。つるがおれて、こわれてるのに、その部分をテープで補強してつかってたんです」
「あだ名をかんがえた子、天才だな……」
「【ぽんこつメガネ】って、私が、かんがえたんです。馬鹿にしようとおもってつけたんじゃないんですよ。……その子のことが、好きだったんです」
私はできるだけ、自分の子ども時代の話を彼に聞かせた。好きなものや、嫌いなもの、個人的なおもいでを話題にする。私という人間が、物ではなく、過去を持ったひとりの人間であることを意識させるのが目的だ。
「きみは好きな作家とかいる?」
「宮沢賢治とか」
「じゃあ、明日、扉越しに読んであげる」
「朗読ですか?」
「兄さんには内緒だ。僕がきみに感情移入することをおそれてるんだ。リマ症候群ってしってる?」
「リマ……?」
「ストックホルム症候群の逆パターンだ。監禁してる側の人が、されてる側に親近感をもって、攻撃的な態度がやわらぐことをそう呼ぶんだよ。そうならないように、兄さんは僕にこう言うんだ。きみには家畜をあつかうように接しろって」
「じゃあ、家畜にも宮沢賢治を聴かせるんですか?」
「まさか!」
私はライムの朗読をたのしみにしていた。しかしその翌日、結局、朗読を聞くことはなかった。
昼過ぎに車の音がして家の扉がノックされた。
ドンドンドン!
ドンドンドン!
お兄さんが家に入ってしばらくすると、煙草の煙を含んだ空気が扉の隙間から私の監禁されている室内に流れこんでくる。その日、扉のそばで耳をすますと二人の声がかすかに聞こえた。会話の内容まではわからないが交互に言い合いをしているようだった。これまで家を訪ねてきても、お兄さんが私の部屋に来ることはなかった。しかしその日はちがった。
「兄さん!」
喧嘩でもしているのだろうか。騒々しい気配だ。足音がひとつ私のいる部屋にちかづいてきた。扉が開錠され、開かれる音。
「不気味な面してんなあ」
鼻がもげてしまいそうなほどの、強烈な煙草の臭いがただよってくる。
「もったいねえことしたぜ。目ん玉くり抜いて不気味な面になる前に、もっと色々たのしんどくべきだったなあ。おまえが無事かどうかを確認させろってさ。ふざけてるとおもわねえか? 大事な自分の娘が、こういう状況だってのに。まあいい。確認させてやろうぜ。傷口の生活反応を見れば、生きたまま切り取ったってことがわかるはずだ」
「……に、兄さん、……やめてくれ」
部屋の外のずっと向こうからうめくようなライムの声がする。
「もう、やめてくれ……」
「おまえ、こいつに情がうつったんじゃねえだろうなあ!?」
ライムのお兄さんが私の腕を荒々しくつかむ。抵抗すると顔に衝撃が来た。殴られたのだ。うずくまったところを何度も蹴られた。
「前に言ったよな。すこしずつおまえの体を削いで送りつけてやるって」
右手の小指が、強い力でぎりぎりと持ち上げられた。つけねのあたりに冷たい金属の刃のようなものがあてられる。救出された後に私はしったのだが、そのとき用いられた道具は大型のニッパーだったらしい。工具箱のなかに血のついたニッパーが入っていたそうだ。
「さあ、お嬢さん、歯をくいしばりな。ざんねんだがここには麻酔がないもんでね」
小指のつけねを金属の刃がはさみこんで両側から力がくわえられた。それはおもいきりよく一瞬のことで、肉と骨の断たれる音が、パチンと聞こえた。
3
恐怖で支配された状況において、犯人とは敵対するのではなく、信頼関係をむすんだほうが生存確率が高い。ストックホルム症候群とは、人質が自分自身にかける暗示のようなものだ。犯人と信頼関係をむすんで生きのびるため、犯人に好意を抱くよう、自分自身をだましているのだ。
多くの場合、事件解決後、犯人への好意は一転して憎しみに変化するという。
あの家から救出された後、カウンセラーが私に質問した。
「ライムと名付けた人物を、あなたは愛していましたか」と。
パチン。
それから数日間は地獄だった。脂汗と、血が逆流するような痛みと、眼球が無くてもこぼれおちる涙と、悔しさと、暗闇と……。のたうちまわり、嘔吐して、気絶。ライムが止血して、消毒もしてくれたが、市販の鎮痛剤では焼け石に水だ。小指のあったところがマグマのように熱い。大量に薬を飲んで頭が朦朧とする。
「僕は、止めようとしたんだ……。兄さんと口論になって……。ぼこぼこにされて……。こわかったんだ……」
痛みが弱まり、次第に意識がはっきりしてきても、立ち上がる気力は起きなかった。これ以上、苦痛をあたえられるのなら、その前に死んだほうがマシだ。ベッドのシーツを利用して首を吊ることにしよう。それがいい。生きてここを出られたとしても、まともに生活できるはずがない。両目のところが、からっぽの穴になっているのだ。片方の小指もない。みんなには、気味わるくおもわれるだろう。私を愛してくれる人も、きっといない。寝て、起きたら、シーツをねじって、首に巻いて、ぶら下がることに決めた。扉の取っ手にでも引っかけて首吊りをするのだ。
寝るとき、目をつむるひつようがなくなった。私の意識は、夢とも現実ともつかない、あいまいな暗闇のふちをただよう。
ライムの声がした。私は耳をすます。彼はどうやら、本を朗読しているらしい。
俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射した一つの島が見えるのでした。
ライムが読んでいるのは『銀河鉄道の夜』だ。つたない朗読だった。そして、心がこもっていた。色鮮やかな描写が、私の暗闇のなかにうかびあがる。
「さあもう仕度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。
小指の消えた右手を、声がする方にのばした。傷がうずいて私はうめき声をもらす。
「だいじょうぶ?」
「つづけてください……。朗読……」
「……うん」
安心感に包まれ、私はいつのまにか、シーツで首を吊ることもわすれていた。
そのころから、ライムに接するとき、自分のなかにある感情の正体がわからなくなってきた。はたしてこれは生存のための作戦による自己暗示なのか、それとも本心から彼のことを信頼し、親しみを抱いているのか……。
幻肢痛というものになやまされた。もう存在しないはずの指の先端に、万力でつぶされるような痛みが生じて、身をよじってしまうのだ。これには鎮痛剤も効かず、耐えるしかない。この痛みは頭のなかでつくられた幻のようなものだ。世間一般で言うところの、愛というものによく似ている。耐え難い痛み。でも、その部位は、物質的にはどこにも存在しないのだ。
切断された小指はすでに父のもとへ郵送されていた。
「兄さんはどうかしてる。金額をつりあげたんだ。わざとだよ。今の状況をたのしんでるんだ。支払いをできなくさせて、きみの体を送りつけている。そうして兄さんは、きみのお父さんに復讐してるんだ」
今回は小指だけで済んだ。そのうち両手の指が全部なくなれば、耳や鼻を、歯や舌を、封筒に入れて送るつもりだろう。すこしずつナイフで削いで、全部を送り終わったとき、私はこまかくなった状態で家に帰れるというわけだ。
「殺して……」
「え……?」
「私を……、殺してください……」
「……」
「あんなおもいするのは……、もう、たくさんです……」
「いつか、帰れるよ。次に兄さんがひどいことをしようとしたら、僕が止める、今度こそ、絶対に。だから、そんなこと言うのはやめるんだ」
暗闇のなかで、私が完全につぶれてしまわなかったのは、ライムがそばにいたからだ。救出された後も、そのことに疑いはない。
「私のお父さん、あなたたちに、なにをしたんですか?」
「きみのお父さんにだまされて、うちの親が、借金をつくったんだ。毎日、暴力団がとりたてに来た。だから、うちの両親、体中のありとあらゆる臓器を売って、借金を帳消しにしてくれたんだ。僕たちを守るために……。暴力団の人が、山奥で遺体を埋める前に見せてくれた。僕と兄さんに、父さんと、母さんの体を……。からっぽだった。おなかを縦に割かれて……。眼球もなかったんだ。移植用の角膜を抜き取るためだ。両目のところが、からっぽの空洞だったんだ……」
フクロウの鳴く声が、外から聞こえてくると、今が夜なのだとわかる。翼がうごき、滑空し、地上のネズミを狩る音さえわかった。フクロウが闇の奥に飛び去るとき、木の葉をゆらして、しずかな音をのこしていく。ライムは枕元で宮沢賢治の作品をいくつも朗読してくれた。特に『銀河鉄道の夜』はお気に入りで、頼めば何回でも読み返してくれる。ある日、朗読を聞きながらまどろんでいると、文章の合間に洟をすするような音がまじっていることに気づいた。
「泣いてるんですか?」
「風邪気味なんだ。鼻水がさあ、ひどくってさあ」
「うごかないでください」
指先が彼を見つけた。頰に触れてみる。やっぱり噓だった。泣き虫ライム。これからはそう呼ぼうか。
「もしも僕が、もうすでに死んでたら、きみはどうする? たまに、自分はもう、死んでるんじゃないかってかんがえるんだ。兄さんに殴られて、家具で頭を打って、そのまま死んじゃってるんじゃないかって。この本を読んでたら、そういう気がしてきて……」
「こんなこと、かんがえたこと、ありませんか? もしもジョバンニが、カムパネルラの手をとって、銀河鉄道の窓から飛び降りてたら……。物語を最後まで行かずに、途中下車していたら……。カムパネルラは息をふきかえして、たすかったかもしれないって」
「まあ、想像するだけなら、自由だとおもうよ」
「あの……」
「なに?」
「……この家から、二人で、逃げませんか?」
「え?」
「あなたは、お兄さんから、はなれたほうがいいとおもいます。警察もきっと、あなたを責めない……。警察がいやなら、どこかへ逃げたっていい。私がその手助けをします。もしつかまったとしても証言します。あなたは私に良くしてくれたって。お兄さんを、裏切るのが、こわいんですか?」
「僕にとっては、親みたいなもんだった。してほしくないことを、いろいろされたけど、いつも、いっしょだったんだ。でも、僕は……、きみがひどい目にあうのもいやなんだ」
「どうしてです?」
「……さあ、わからない」
がっかりしていると、私の手を、彼がにぎりしめた。まっ暗で、何も見えない状態で、手を包む体温だけがやさしく熱をもっている。
自分のなかにある、相手への愛情が、真実なのか、それとも自己暗示なのか。ストックホルム症候群の大半のケースとおなじで、私のなかにある彼への愛情も、解放後には憎しみへ転じてしまうような、まがいものなのだろうか。
「私は、信じてます。自分の心が、確かなものであることを」
「……じゃあ、僕も信じよう。僕の心が、確かなものであることを」
いつの日か、ライムといっしょにこの家を脱出するのだという希望が心の支えになった。傷がうずいて食欲がわかないときも、無理矢理、食べものを口におしこんだ。
ソファーでならんで腰かけていたとき、距離がちかかったけれど、私たちはキスもしなかった。彼と抱擁し、くちびるをくっつけたのは一回きりで、それが彼とすごした最後の日になった。
4
その日は雨と風のつよい日だった。金属製のバケツが飛ばされて転がるような音が外から聞こえてきた。風の音に耳をすませていると、突然、扉がたたかれた。
「兄さんから電話があった。今から来るって」
私たちが沈黙しているあいだにも雨ははげしさを増していく。
「どう、しますか……?」
「決めた。ここを出よう」
「いいんですか?」
「もっとはやく、そうしておくべきだったんだ」
「ありがとう」
「ほっとするのははやい。心配なことがある。この天気じゃあ、徒歩で町まで行けるかどうか……」
家は山奥に建っているそうだ。麓の町まで行くには車がないとむずかしい。しかし兄弟で所有している車は一台きりで、それをいつもお兄さんが使用しているという。
「だから、こうしよう。兄さんはこの家に車でやってくる。それを奪うんだ。僕たちはそれに乗って麓へ行けばいい」
途中までは、うまくいったかにおもえた。
でも、【彼の計画】は、失敗したのだ。
その日、そのとき、何がおきたのかを、私はくり返し、今でも、おもいだす。
嵐の音にまじって、車の音がちかづいてきた。家のそばでエンジンが切られ、運転席のドアを開閉する音。煙草の臭いをおもいだした。ライムは金槌を持って玄関に待機しているはずだった。私は決して部屋から出ないようにと言われている。
玄関扉が荒々しくたたかれた。ライムが内側から扉の鍵を開けたのか、それともお兄さんが自分の持っている鍵で開けたのか、よくわからないが、扉の開かれる音がする。外の風が家の中に流れこんで、その風圧のせいか、家が軋んだ。扉はすぐに閉じられた。そして……。
「兄さん……」
かすかに、彼の声を聞いた。
鈍い音が一発。だれかが、何かに寄りかかり、何かをたおしながら、床に崩れ落ちる音。二度、三度と、肉を打つ音……。
木々の枝がしなり、風をうけて、悲鳴のような音をだす。
部屋からうごけなかった。ずっと息をとめていた。
暗闇の中で聞く家の軋みは、まるで世界そのものが軋んで音を発しているかのようだった。
足音がちかづいてくる。部屋の扉が開いて、急に手をつかまれた。
「終わったよ。終わった……」
ライムの声だ。心の底から、私は、安堵した。
「……ねえ、これで、よかったんだろうか?」
「え?」
ベッドの軋む音。彼が座ったようだ。
「人質のときは犯人に好意を抱く。でも、解放されたら、その好意が憎しみに転じる。もしもきみがそうなったら……。そうかんがえると、急にこわくなったんだ……。僕は兄さんを裏切った。きみを信じたからね。でも、きみのなかにある、その感情が、たんなる自己暗示だったとしたら、真実のものではなかったとしたら、僕は取り返しのつかないことを……。僕の中にある愛情は……、きみの中にある愛情は……、はたして、ほんとうのものだろうか?」
私は、彼の体に、腕をまわした。暗闇の中に、人の形をした、やさしい熱の塊。それをだきしめることで、自分のあいまいな輪郭も闇の中で定まり、泣きそうになる。不意打ちでくちびるをかさねる。おたがいの歯がぶつかった。風が、低く、心の底を流れていった。どれくらい、そうしていただろう。くちびるをはなして、私は言った。
「心配いりません。私たちはだいじょうぶです。きっと、だいじょうぶ」
「そうかな?」
「そうですよ」
「ほんとうにそうかな?」
「ほんとうにそうですよ」
「じゃあ、よかった」
「トイレに行ってきていいですか? そこで休んでてください。それからすぐに出発しましょう」
私は立ちあがって部屋の入り口にむかう。
「いや、休んでるわけにはいかないよ。準備しないと。それに、兄さんの体を縄でしばっておこう。しばらくは起きれないとおもうけど、念のためにね」
彼の立ち上がる気配がした。私につづいて部屋を出るつもりだろう。
しかし私は、自分が部屋を出たところで、扉を閉めた。鍵の位置や形状はリサーチ済みだったから次の行動も支障なく済ませる。鍵をかけたのだ。そうしてしまうと、もう内側から開かなくなり、彼は室内に閉じこめられた。
救出された後、私は警察に証言した。
【彼の計画】が、失敗したことを。
「あの男は、扉にとびついて、がたがたとゆらしました。私の名前を呼んで【これはどういう冗談なんだ?】と聞いたんです」
その日のことをおもいだしながら私は証言をつづけた。
「なあ……、これは、いったい、どういう冗談なんだ……? ねえ……。……。そこに、いるんだろ……?」
彼が扉をゆらしている。
「開けるんだ。さあ、はやく。兄さんが起きる前に、いっしょにここを出よう。きみひとりじゃあ、車の運転は無理だ」
「……だれ? いったい、だれなんですか?」
「きみは、何を……」
「あなた、私のしってる人じゃあ、ないですよね……? だって、さっき……。ねえ、これって、どういうことですか? あなたは……、もしかして……」
急に扉がしずかになる。時間がとまったように感じられる。
「……」
ドンッ……!
扉が音を発する。おおきな衝撃。体当たりしているようだ。
ドンッ……!
蝶番がいつかは壊れてしまうだろう。彼が部屋から出てきたとき、私はたぶん殺される。彼はライムではない。キスをしたときに違和感があった。ライムだったら、歯が触れあったとき、歯並びを矯正するための金具の感触がなければおかしい。
眼球をくり抜かれた夜、私は見たのだ。でも、その感触がキスのときにはなかったのだ。
ほんとうのライムはどこだろう? 玄関先でお兄さんをおそったとき、返り討ちにあったのではないか。
玄関で四つん這いになり、手探りでライムの体をさがす。
衝撃音と同時に、金属製の部品の壊れる音がする。
扉がやぶられて、ばたんと壁にぶつかり、跳ね返る音が聞こえた。ついに開いたのだ。足音がちかづいてきて、私の背後でとまった。息もできない。
「弟をさがしてるのか?」
彼が言った。
「無駄だ、もう死んでるからな。馬鹿な弟だったよ」
「……噓、ですよね?」
恐怖も消えた。ただ全身が悲しい。
「誤解を、しているようだな。だが、まあいい。おまえ、ほんとうに弟のことを愛してたのか?」
「……」
「夢だと気づかなけりゃあ、それが本人にとっては現実ってことなのに。まさか、キスで夢から覚めるとはな……」
彼が私を殴り、ナイフで突き刺し、肉を削ぐのを待った。しかしいつまでも暴力はふるわれなかった。彼の足音がとおざかって、玄関の扉が開かれた。
雨風の音が爆発的に大きくなり、風が勢いよく吹き込んできて、部屋の中で渦をまく。ほどなくして、車のエンジン音が聞こえ、それも離れていくと、私はひとり、その場に取りのこされた。
5
匿名の電話で警察が駆けつけたとき、すでに雨風は止んでいた。大勢の足音が地響きのように家へなだれこんでくる。私は毛布をかけられ、身体検査のために病院へ緊急搬送された。
ライムの死体が見つかったのは数日後のことだ。彼は家の裏に埋められていた。雨でぬかるんだ地面から、衣類がはみだしていたのを、捜査員が見つけたそうだ。歯の矯正装置から、私の記憶している弟の方の死体でまちがいないだろうと言われた。しかし不可解な点がいくつかあった。
ひとつめは死んだ時期である。彼が埋められたのは、どうやら、私があの家に連れてこられてすぐのことだったらしい。それなら、私をはげまし、いっしょに逃げることを決意してくれた人物はだれだったのだろう?
長期の入院中に、警察やカウンセラーと相談しながら、ライムとは何者であったのかについて話しあった。
彼の死体には、不可解な点がもうひとつあったのだ。検死の結果、生前の彼が、ヘビースモーカーだったらしいと判明したのである。兄の方が煙草好きで、弟の方がコロナビール好き、という私の認識は、どうやら逆だったらしいのだ。私のすぐそばで、いつもライムの香りをただよわせていたのは、兄のほうだったのだ。
はじめて言葉をかわしたとき彼は言った。
「においか……。その要素をわすれてた」と。
彼は弟になりすまして私に話しかけたが、においのことを失念していたのだろう。だから、設定が逆になった。兄として私の前に立つときは、ライムの香りを消すため、煙草の臭いのしみついた弟の服を身につけていたのではないか。
指を切断される際、遠くの方から聞こえたライムの声は、ステレオで再生されたものだったようだ。
また、監禁されていた家からすこしはなれた場所に空き地があり、そこにタイヤの跡がのこっていたという。
弟の方がなぜ死んだのかについては、のこされていた彼の日記が手がかりとなった。私を家につれてきた夜、弟は警察に自首することを決意していたようだ。兄が殺したのか、喧嘩の際の事故だったのかは不明である。
日記によると、監禁されている私が絶望して自殺してしまわないように、できるだけやさしく接するよう、弟は兄に命令されていたらしい。弟がいなくなり、兄はその役目を自ら演じることにした。兄の演じる架空の弟に対し、私は、ライムと名付けたのである。
あれからずいぶん時間が経過した。父との関係は事件以来、破綻したままである。
暗闇にも慣れて一人で散歩もできるようになった。作り物の眼球をはめ、五本指の手袋をして、買い物に出かけたり、カフェに入ったりもする。
カウンセラーが私に質問する。
「あなたは、ライムと名付けた人物を愛してましたか?」と。
イエス、と私はこたえる。
「むこうは、あなたを愛していたとおもいますか?」
私は首を横にふった。……でも、わからない。
ライムなんて人物は最初からいなかったのだ。私はその実在しない人と逃げようとしていたのだ。その果てにどこへ行き着いていたのだろう。サウザンクロスだろうか?
彼の言葉をおもいだす。
夢だと気づかなければ、それは本人にとって現実とおなじ。
私が真実に気づかなければ、彼もまた、いつまでも偽りつづけていたのだろうか。
そして胸の内にある感情を、まがいものではなく、本物にしたのだろうか。
彼に会うことがあれば聞いてみたかった。
どうして私を殺さず、あの家に放置して、警察に匿名の電話をかけたのかと。
ある日、外で友人と待ち合わせをしていると、ライムの香りがただよってきた。ちかくにスーパーがあったので、その店先からだろう。友人が待ち合わせ場所に来ると、不思議なことに、ライムの香りもしなくなった。挨拶をして友人がこんなことを言った。「ねえ、さっきの人、だれ? しりあい? あなたのこと、すぐそばから、じっと見てたけど……」と。
朝も夜もない深遠な闇のなかで私は生活をつづけた。ありもしない幻聴だとわかってはいるけれど、ベッドに横たわり、夢とも現実ともつかない、あいまいな暗闇のふちをただよっているとき、たまに朗読が聞こえてくる。フクロウが狩りをする気配や、闇の奥へ飛び去る音とともに、彼の朗読が……。
了