イース トリビュート
より 小太刀右京「紅の足跡」
ゲーム×出版×Web 魅惑のトライアングルに、綺羅星の如き豪華執筆陣。ここから、ノベライズの“新たな地平”がはじまるーー。
この世に生きている人間には、希望の総量ってやつが定められている。
英雄になるべき宿命を持って生まれた者もいれば、生まれながらに泥を喰らって生き延びることを宿命づけられた者もいる。それを定めるものが、この世界の神様なのか、もっと他の何かなのかは俺にはわからない。
わかっていることは、俺は英雄になるべき宿命とか、王侯貴族の落としだねとかそういうありがたいものではない、という事実だけだ。
そんな俺にも太陽は昇ってくるし、それだけがこの世界の平等というものだ、と思っていた。
……何もわかっていなかったのだ。
俺にはその時、何もわかっていなかったのだ。
*
アドル・クリスティンの名前が、国王の口から出た時、正直なところ耳を疑った。
そりゃあ、吟遊詩人の間ではおなじみの名前だ。俺も十年前、まだガキだったそのころには、アドルの冒険譚がお気に入りだった。
曰く、天の果ての塔を登って、神々の国へ至った男。
曰く、巨大な樹海の奥底で、世界の秘奥に至った男。
曰く、砂漠の遺跡のその果てで、ひとつの国の終わりに立ち会った男。
曰く……。
まあ、いいだろう。
これを読んでいるような人間なら、アドル・クリスティンの名を知らぬはずはないからだ。
が、その名前が自分の人生に直接的な影響を持つなどと言うことは考えたことがなかった。そういうことは、神の実存と同じようなもので、疑うべくもなく存在しているにせよ実際には人生に影響がないのだ、と考えていた。
しかしながら、宮殿―まあ、砦に毛の生えたようなものだが―に呼びつけられた俺の前に座す若い国王は、確かにアドルの名を出したのだ。
「余はな、我が国の国威を天下に輝かせたいと考えておる!」
王の表情は実にもって無邪気であった。
―愚物、ではない。
先王が巻き狩りの折に猪に突かれて崩御してより即位した若い王は、どこたらいう先進国に留学したことがあるとかで〝外国かぶれ〟と噂されてはいたが、実際にやったことといえば、古くさいいくつかの税金を取りやめ、壊れかかった堤防を直し、六人しかいない近衛兵に〝制服〟とかいうものを作った程度のことで、まあ善政も悪政も、
(たかの知れている……)
男であった。
人口わずか数百人、岩塩坑以外に見るべき産業のない俺の生まれ故郷を統治するには似合いの王様、と言えようか。
初夜権の儀式で、花嫁の尻を模したでかいチーズに槍を突き刺して喜んでいるような、そういう無害な男だった。が、そういう無害な男であればこそ、他者の称賛というものは欲しくなるものらしい。城出入りの吟遊詩人に自分を礼賛させるだけでは飽き足らなくなった、ということだろう。
「そちのな、武勇は我が国に冠たるものじゃ。うむ」
武勇もクソもあるか、と俺は心の中で毒づいた。
隣国との戦は百年も前のことで、それにしてもたかのしれた水争いだ。このあたりの山賊などはのんきなもので、兵隊が来れば逃げ出す程度の、〝どちらかといえば本業は羊飼い〟という奴ら。
そんな脳天気な国で俺の武勇、などと言われているのは、五年ほど前、先王の代に岩塩坑に住み着いた小鬼どもを退治するために民兵隊が組織された時に、俺が小鬼の首を五つもあげた、という話だ。
といっても、俺がそれこそ伝説のアドルのような槍働きを見せたわけじゃない。戦の振る舞い酒をしたたか飲んで強気になったあげくに岩塩坑の縦穴に足を滑らせ、たいまつを片手にさんざん迷って出たところが、たまたま小鬼どもの後ろだった、というだけの話。袋一杯の銀貨を褒賞にもらった覚えもあるが、酒場と女郎宿を行き来するうちに姿を消したはずだ。
だが、そんな話でも、当時この国にいなかった若王には魅力的に思えたらしい。
「そこでそちに命ずる。アドル・クリスティンの冒険譚の足跡を追い、その真偽を余に報告せよ」
しばらくの間、何を言っているのかまるでわからなかった。
アドル・クリスティンといえばこの広大な大陸の端から端まで歩き回ったという男である。
しかもその冒険はまだ続いているのだ。つまり、アドルがどこかの地でおだぶつになるその日まで、俺もまた歩き続けねばならないということなのだ。もし奴が―いや、本当に実在するとしてだが―地獄へ行ったならば、俺も地獄へ行かねばならない、ということなのだ。
狂気の沙汰、としか言いようがない。
が、それはこの王が愚かである、というのとは少し違う。彼はただ、深く考えずに思いつきを口にしているだけなのだ。
そういうものだ。
人間は―俺も含めて、善意で行動しているときにこそ熟慮を欠く。悪意は悪意であるが故にみずからの身を守ろうという思考が働くが、善意は思いつきでも口の端に上らせることができる。
そしてそれが王命、という形を取った時、たとえそれがどのような小国であっても、否、俺のような一般庶民が王の顔まで知っているとおり、国民のほぼ全員が顔見知り、というような小国であればこそ、事態は致命的になり得る。王命に背いて俺が逐電でもすれば、一族郎党、二度とこの国を歩くことは出来まい。
先王のありがたい御政道のおかげで、うちの国民は俺も含めて字が書ける、というのもよくなかった。断わる理由がどこにもない。
だとすれば。
俺の答えはひとつしかなかった。
強盗と国王は怒らせないほうがいい。
何より家を継ぐ見込みのない、しがない農家の次男坊である俺にとって、国王からの支度金は魅力的だった。妹に花嫁衣装を着せてやることもできたし、老いた母親の布団に綿を入れてやることもできた。記録を送る限り、微々たるものとはいえ年金が支払われるとなれば、それを積み立てて弟に畑のひとつも買ってやって分家をさせてやることもできるだろう。
ただひとり―。
俺という人間が、故郷から消える、ただそれだけであがなえるものがあるのならば。
*
それでも、恩賜の―といっても数打ちの―長剣を担ぎ、革鎧を着て涙々の見送りを受けた時には、何か画期的なことが始まるのではないか、俺の無味乾燥な人生に光が差すのではないか、という希望がなかったといえば噓になる。
そんなものがたわごとでしかないことは、すぐにわかった。
農作業で曲がりなりにも鍛え込んだ、という自信は三日もすれば打ち砕かれて、夜露の辛さと屋根のありがたみ、昼の酷暑と砂埃が眼に食い込む痛みを覚えた。山ひとつ越えればそこはもはや異境で、俺のことを戦場漁りか落ち武者のように猜疑心の塊のような顔でにらみつけてくる農夫が、一週間前までの自分にダブって感じられた。
恩賜の佩刀とやらがただの重りに思えるようになるには時間はかからず、逐電しようか、と幾度も考えたことを、否定はしない。
そうして、二週間ばかりが過ぎた。
*
降り続いていた小雨がようやくやんで、街道の脇にあった崩れた寺院の廃墟に転がり込んだ時だ。
戦で焼かれたのか、それとも火事でもあったのかはわからぬが、壮麗だったであろう伽藍は見るも無惨な姿をさらし、骨組みと崩れた彫像だけが建ち並んでいた。それでも雨避けになる程度には天井が残っていたし、風を防いでくれる壁もあった。何より乾いた石畳でも、濡れた地面に外套を敷いて寝るのに比べれば天国だった。
(しかし、これだけ条件のよさそうな場所なら、山賊の住処にでもなっていてもおかしくないが)
その疑問を運がいい、で片付けたのは、今から思えば俺の愚かさだった。
生臭い息が首筋にかかった時に、とっさに身を転がして生き残ることが出来たのは、たき火の明かりがわずかにゆらめいたのに気がつけたからだ。
〝それ〟が何か考えるより先に、切りつけた。
(考えるな。体ごと叩け。斬るつもりで振るな。ぶつかるつもりで斬れ)
俺に剣の稽古をつけてくれた老騎士の口癖を思い出していた。馬鹿力しか取り柄のない百姓のガキに剣を教えるには、正しい心得だった。
どすん、とも、ざすん、ともつかぬ音がして、鋼が肉に食い込むなんとも嫌な感触があった。
温かく、どろりとした緑色の液体が鎧を汚す。
青白い、水死体が歩いているような人型の妖物がそこにいた。その口に並ぶ肉切りナイフのような牙と、牙に付着した布の切れっ端が、こいつが何を常食にしているかを物語っていた。
ノメス、と呼ばれる地下に住まう人食い鬼だと知ったのは、後のことだ。
血がしぶいてもがき暴れるのは奴に刃が届いているということで、届いていれば斬れるのだ、と言い聞かせて、無我夢中で刃を引き抜く。繰り出された爪を半ば転びながら避ける。肩当てが吹き飛んだが、自分の肉体ではないのだから苦しくはなかった。
神の名を唱えようとも思ったがとっさの時に祈りの言葉などは出てこないもので、思い出すのは母の顔ばかり。血が流れているのだから体の仕組みは人間と代わりあるまい、と横構えからのど笛めがけて刃を繰り出した。なにぶん相手はバケモノのこと、籠手や膝が致命傷になるかどうかはわからず、胸や腹を斬って骨にでも引っかかればそのまま奴の夕餉になる。だが、血管の浮いている喉ならば。
果たして、講談ならば奴の首が飛んだところだったろうが、もちろん素人なのでそうはいかなかった。
剣の端が頸動脈にひっかかるようにして切れ、奴も苦しんだが俺も慌てた。
腰を入れたつもりだったが入っていなかったので軸足が泳いだ加減で、首の骨に引っかかった刃が折れた。後になって修理費で大分苦しんだが、のど笛に鋼の塊を置き去りにされた人食い鬼にしてみれば「そんなことは知るか」という気分であったろう。
そこから先のことは、どうも覚えていない。
気がついたら奴の血にまみれて(洗い落とすのにえらく苦労した)、動かなくなった人食い鬼の屍体を見下ろしていた。
俺の中にある殺人を好む第二人格が目覚めたとか、知らぬうちに天より有翼人が降りてきて俺を助けたとかそんな結構な話ではなく、ぶざまにトドメを刺そうと悪戦苦闘しているうちに、頭に血が上って何がなんだかわからなくなっただけであろう。
ともあれ、奴の汚らわしい巣穴には、奴の餌食になった連中のものとおぼしい金がそれなりにたんまりとあって、それから半月は野宿の心配をしなくてよくなったのが、儲け物だった。
*
ノメスの巣穴で稼いだ路銀がちょうどなくなった頃に、俺はエステリア、あるいはイースと呼ばれる土地にやってきた。
なんでもこの土地は、二十年ほど前に、空から降りてきて大地と一体化したのだという。
もはやその時点で眉唾の極みだったが、近在一円、どこの人間に聞いても判で押したように同じ話をするし、その日にちも状況もほぼ同じだったから、これはどうやら事実と考えたほうが妥当だった。
見れば、イースの地は空を飛んでいたというだけのことがあって人々の衣装も周囲の田舎と比べればどこか垢抜けて見えたし、話す言葉にも気品のようなものがあった。いや、思い込みかもしれないが。
だが、もっとも重要なのはここにアドル・クリスティンが訪れた、というその事実、一点につきる。
話者によって語られた内容には細かな違いがあったが、まとめるとこうだ。
忽然とこの地に現われたという少年剣士アドルは、この地を覆っていた恐るべき魔物たちに敢然と立ち向かい、仲間たちとともに古代の謎を解き明かし、ついにイースの地を救ってこの地上へと降ろすに至ったのだという。
もちろん、その冒険そのものに立ち会ったという人々に直接話を聞けたわけではない。だが、アドルに会った、という村人や商人は少なくなく、その誰も彼もが、まるで昨日のことのように彼の英雄譚を語るのが印象的だった。
俺はしばらくの間、ランスという名の村に滞在をして、近在の廃鉱からまだ使えそうな鉱石を掘り出してくるという肉体労働に従事しながら、アドルに関する報告書を書き上げた。いくつか巷間に流布している伝説についての間違いもまとめられたし、自分なりの知見もまとめられた。
おそらく、これで国へ戻っても、王は満足するだろう。
だが、俺はまだ、国に戻る気になれなかった。
理由はひとつ。
ダームの塔、という秘境に心引かれたからだ。
その地より、六冊のイースの書を手にしたアドルは天空に上がったという。子供の頃に聞いた伝説の中で、俺はその話が一番好きだった。このイースの地より、ダームの塔はさほどの距離ではないという。
それだけのことだ。