イース トリビュート
より 海法紀光「此処より彼方へ、彼方より此処へ」
ゲーム×出版×Web 魅惑のトライアングルに、綺羅星の如き豪華執筆陣。ここから、ノベライズの“新たな地平”がはじまるーー。
注意
以下は、あるラテン語文献の試訳である。
十八世紀欧州で書かれたとおぼしいが、後述する理由により、由来の正当性および内容の信頼性については保証しない。
文献の詳細については訳者あとがきおよび注を参照のこと。
1名を秘する著者のささやかなる悪徳について
研究を記す書において、著者の名が必要かはたびたび議論に上るものである。無名であれ有名であれ、そうした名は書かれた研究の内容に真摯に向かい合うことを邪魔するものである、とする立場にも一理ある。
しかしながら、神ならぬ人の身にて神の御業を知ろうとする以上、いかなる研究にも間違いはつきものである。そして人の間違いは、しばしばその育ちに依存する。人となりを知っておいたほうが、間違いを見抜きやすいというのも、また一理ある。
故に、この書には著者の名は残さず、その略歴のみを記すこととしよう。
かの七つの大罪の一つに数えられる虚栄の(注2)悪徳に陥らぬためにも、その記述は短くすませることを約束しよう。
この著者は初老の司書である。孤児として僧院に預けられて以来、書の整理を通じての主への感謝と祈りに身を捧げてきた。
この身は神の恩寵満ちる僧院の中にあったとはいえ、数々の書を通じて様々な異国の伝承に触れることができた(そこにおいて聖なる職務の範疇を越えた退廃的な文または絵への耽溺がなかったと断言することはできない。神よお許しあれ)。
中でも著者の心を捉えたのは、世界初の「冒険家」であり、海を越え、遠い異国より昼のなき北の果てまで踏破したとされる赤髪の剣士にまつわる伝承であった。
かの剣士については近年、碩学による研究が積み重なり、本来であれば浅学非才の司書風情が筆を挟めるものではない。
この書においては著者が発見した極東における興味深い伝承について記すが、その当否は碩学の英知に委ねんとするものである。
2ヤーパンとマレビト(注3)
ここで言う極東とは、かの東方の島国、ヤーパン、ジェイファン、ジーバッガ等々、様々な名で呼ばれる辺境の地、男も髪を蛇のように細く巻いて頭に載せ、謝罪のために腹を割り内臓をさらすというかの国である(もっとも最後のものについては著者も怪しいと思っている。思うに、腹部に鮮やかな刺青をする習慣があり、服をはだけて刺青をさらした様子を旅行者が見誤ったのではないか)。
かの地の人々は、八百万の神々を信仰するとされ(かのロムン帝国で古代に信仰されていた神々が多いとはいえ百さえ超えないことを考えれば、これも眉唾ものである。そもそも小さな島国に八百万もの神殿を建てる余地がないことは明らかであり、おそらくは単純な翻訳間違いではないか)、その中には、マレビトと呼ばれる神々がある。
このマレビトなるものは、正体不明の旅人が通りがかり、去った後に神あるいは神の使いとしれるものであり、本邦における聖人の説話、民話に近い。
著者は、ヤーパンに伝わる様々なマレビトの伝承の中に興味深い一致を発見した。
それは、赤髪の異人(ヤーパンの住民は肌が黄色く頭髪と瞳が黒く、髪以外の体毛はないという)の伝承にまつわるものである。
3シンジェン、ノーバッガ、イヤーズ(注5)
ヤーパンについては一万年も続く皇帝による統一王朝を戴く平和と瞑想の国であるとされる一方で、様々な戦乱と王朝交代の伝承が存在する。
記述の量としては、皇帝の逸話よりも戦乱の伝承のほうが多いため、前者については、おそらくは未開の文明によくある祖霊信仰を、あやまって解釈したものであろう。実際のヤーパンは戦乱が絶えない島であると考えられる。
シンジェン、ノーバッガ、イヤーズは、いずれもそうした戦乱の覇王の一人であり、それぞれが短くも一時代を築いたとされる。
これらの戦国覇王にまつわる伝承を蒐集、整理していた時が、著者が赤髪のマレビトを発見した時であった。
4シンジェン王朝の終焉(注6)
東洋では王が死ぬ時は対応する天変地異があるとされる。シンジェンも王である以上、その死には異変がついてまわった。
シンジェンの死をもたらしたのは、赤髪のマレビトであったという。
この赤髪のマレビトは、戦乱のさなかに海岸に漂着したとされ、村人に助けられた。
戦乱の世であったヤーパンは海外の進んだ技術を珍重しており、王たちも、異人を見つけたら差し出すようにと触れを回していた。
そのため村人はマレビトを献身的に介護した。マレビトは最初は言葉もしゃべれなかったが、すぐに覚え、自在に話すようになった。それによれば、自分は海の彼方の国から来たが、溺れて頭を打った拍子に何もかも忘れてしまったとのこと。
それを聞いた村人は、王からの褒美のあてがはずれてがっかりし、マレビトを村から追い出そうとしたが、一人の村娘がマレビトをかくまい、かいがいしく世話したという。
ある日、日々の食事が途絶えたので、マレビトが村娘に何があったかと尋ねた。すると村娘は、山賊に村の食料を奪われて食べるものもなく、前夜、マレビトに出したのが最後の食事であったと告げた。
村娘が自分の食事をも抜いていたことに気づいたマレビトは、声をあげて泣くと刀を求めた。
村娘が一本の刀をマレビトに渡すと、マレビトは弓から放たれた矢のように村を出た。
マレビトは秘密の呪文で姿を消すと、山賊を倒し、村中に行き渡る食料を持ち帰り、また山賊に襲われて怪我したものには薬草を渡してこれを癒したという。
山賊を倒したマレビトは村に歓迎されたが、それから数日して、また村娘が泣いていることに気づく。マレビトがその涙の理由を聞くと、シンジェンの軍勢が攻め寄せており、明日にもこの村ごと押しつぶされそうだとのこと。
マレビトは、旅の僧侶から魔法の札を授かり、姿を消してシンジェンの城に忍び込むと、シンジェンと一騎打ちをした。
マレビトが魔法の札を見せると、シンジェンは悪霊の本性を現し、空を飛び火の玉を放ち応戦した。
苦戦したマレビトは、シンジェンに、なぜ人の身で空を飛び、火の玉を放つのかを問うた。シンジェンが自分は悪霊エイシュラであり、シンジェンに取り憑いているのだと答えた。悪霊の名を聞いたマレビトはたちまち神の正体を現し、悪霊を捕らえたという。
村から去ろうとするマレビトを、村人たちは必死で引き留めたが、神であることを思い出した以上、地上にはいられないとマレビトは言い残し、海へ消えた。
シンジェンは、ほどなくしてノーバッガに討たれた。
一方、村娘は悲しみのあまり川に身を投げると、その身を魚に変じて海にマレビトを追った。
残された村人はマレビトを剣の神として祀る祠を建てたという。
東洋的で美しい物語だが、無粋な分析をするのであれば、これは政権交代の正当性を示す逸話であろう。シンジェンが悪霊であったことをもって、それを討ったノーバッガは善なる王だというわけだ。
シンジェン自身を悪とするのではなく、悪霊に憑かれたとして、その名誉や親族の救済を計るのは、東洋の知恵といえるかもしれない。
5ノーバッガと死神
面白いことにノーバッガ王朝の終焉においても、この赤髪のマレビトが登場している。
話の大筋は、シンジェン王朝のものと変わりはない。漂着と記憶喪失、村娘に助けられるといった点は全く同一である。
興味深い点と言えば、旅の僧侶がカルロスという宣教師に変わっている点だ。史実のノーバッガ王も、数多くの宣教師を受け入れたとされるので、そこが反映されているのだろう。
ここではノーバッガ王と、それを討ったミチーダなる逆賊の両方が悪霊に取り憑かれていたとされる。
赤髪のマレビトは、風と雷を操る悪霊に苦しめられたが、修行の末に聖なる玉の力も借りて、これを討ったという。
この二つの逸話に共通するのは、赤髪のマレビトは王朝の終わりを看取る死神の如き存在である点である。
6イヤーズ王朝の発展
ところが、そう思っていた著者は、イヤーズ王朝の始祖にも同様の伝承があることを知って驚く。
ここでは赤髪のマレビトは例によって記憶喪失と、真紅の名を持つ女性の忍者(ヤーパンの国を影より支配する恐るべき暗殺者)の介抱を経て、ムラサメブレード(注7)を授かり、五行詩(注8)の謎を解いてイヤーズに取り憑いた悪霊ジアキを討った。悪霊を討たれたイヤーズは、ほどなくして死んだという。
興味深い点として、この伝承ではマレビトが自身の故郷は「ぺんたうぁ」であると村人に告げている。
先にも述べた通り、イヤーズ一世はイヤーズ王朝の始祖であり未だ存続中の大王朝(著者の知る限り十代(注9))である。
赤髪のマレビトが、王朝交代の死神でないなら、いったい何を表すのか?
その前に、赤髪のマレビトと、かの赤髪の冒険家について、しばらく整理してみよう。
- 注1原文はラテン語である。
- 注2七つの大罪の一つに数えられる虚栄:虚栄は原語では、vānitās。キリスト教会では「虚栄」は七つの大罪には含まれない。当初は虚栄を含めて八つの大罪であったが、後に虚栄は傲慢に収斂した。いずれにせよ僧院の司書が間違えるとは思えない。
- 注3マレビト:原語はhomo errabundus。
- 注4日本における無数の伝承を関連づけ、マレビト信仰という概念を提唱したのは民俗学者折口信夫であり、つまりは近年の出来事である。この十八世紀の司書によるものとされる文書では、それと同様の概念が記されていることとなる。
- 注5シンジェン、ノーバッガ、イヤーズ:武田信玄、織田信長、徳川家康のことか。
- 注6シンジェン王朝の終焉:信長はまだしも、武田信玄が「王朝」を開いたとはいえない。
- 注7ムラサメブレード:村雨の太刀は、滝沢馬琴による『南総里見八犬伝』(1814〜1842)に登場する架空の太刀である。もっともこうした読本の内容が、後に実在の伝承に混ざってゆくことは、よく見られるため、矛盾とはいえないかもしれない。ただし著者の発言によれば、本書が書かれたのは十八世紀であり、『南総里見八犬伝』成立以前である。あるいは村雨の太刀に先行する文献があるか。
- 注8五行詩:おそらくは短歌。
- 注9著者の知る限り十代:十代将軍家治とすると、この本の成立年代は十八世紀後半と考えられる。